書名:「負け組」の哲学

著者:小泉義之

定価:1680円 (本体価格1600円+税80円)
サイズ:四六判並製 200
ページ 刊行日2006年7月 
ISBN4-409-04079-0(教養書/現代思想)

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目次


I 八月テーゼ――弱さと強さ
II 配分的正義を――死の配分と財の配分
III 無力な者に(代わって)訴える
IV 残された者
――民主制の内包と外延
V 自爆する子の前で哲学は可能か――あるいは、デリダの哲学は可能か?
VI 贖罪の時
VII 知から信へ
VIII 不自由を解消しない自由
IX 無神論者の宗教性:
働かずに食べる?/薬をめぐる争い/飢える自由? 窒息する自由? /愛する人が甦ったら/何のための改革?/セカイ系とグローバリゼーション/クールダウン/汝の敵を愛せ、なぜなら/枯れ木に水を/ポストとプレ/わたしが必要だと思う運動
終章 資本のコミュニズム

あとがきにかえて――アンダークラスのエクリチュール
初出一覧


著者・内容紹介

小泉義之 こいずみ・よしゆき
1954年、札幌市生れ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授(哲学・倫理学)。
著書:『病いの哲学』(ちくま新書、2006年)、『生命の臨界』(共編、人文書院、2005年)、『生殖の哲学』(河出書房新社、2003年)、『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版、2003年)、『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために」(講談社現代新書、2000年)、『なぜ人を殺してはいけないのか?』(共著、河出書房新社、1998年)、『弔いの哲学』(河出書房新社、1997年)、『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996年)、『兵士デカルト 戦いから祈りへ』(勁草書房、1995年)など。
訳書:ドゥルーズ『無人島1969−1974』(監訳、河出書房新社、2003年)など。


いま全力で考えるべきことのすべて。無力な者に(代わって)訴える!

「八月テーゼ」「無力な者に(代わって)訴える」「自爆する子の前で哲学は可能か」など大きな反響を呼んだ激烈な政治経済学批判を集成、新たな書き下ろしを付す。この愚劣な現状を唾棄するための、比肩するものなき強靭でラディカルな思考の書。「本書の文章に共通しているものがあるとするなら、愚劣なものに対する憤りであるが、それ以上に、外部の他者に対する信頼であると言っておきたい。どんな名前で呼ばれようが、そもそも呼ばれるか否かにかかわらず、支援や援助があろうがなかろうが、外部の他者たちは現に生きている。苦しいのは誰でも知っているが、それでも現に生きのびている。そんな外部の他者たちが相互に取り交わしている絆、それを信頼し、それに学び、それを守り広げることだけが、われわれに課されていることである。われわれが、外部の他者を解放するのではない。外部の他者こそが、われわれを解放するのである。」(序より)


序全文
 ゲームに負けないための手の一つは、ゲームに参加しないことである。勝つこともなくなるが、負けることもなくなる。ただし、状況はそれほど簡単ではない。
 ゲームは、人びとを、勝ち組と負け組に分ける。得失を分配して上-中-下に分ける。ゲームが、不平等と格差を作り出す。
 ゲームに参加しないことやゲームから降りることは、勝ち組と負け組の外、上-中-下の外に立つことである。ゲームの他者になることである。しかし、この戦略はうまくいかない。何故か。
 一つには、ゲームの外で生き抜くのは労苦をともなうからである。こうして、僅(わず)かな分け前のために、ゲームに参加することを強いられる。
 二つには、ゲームの外に別のゲームが用意されていないからである。こうして、人生全体を通して、たった一つのゲームに参加することを強いられる。
 こんな状況を腑分けしてみよう。
 @ゲームの参加者は、ゲームに参加しない者のことを、ゲームの外や他と見なすのではなく、上-中-下のさらに下、すなわち、下の下と見なしている。ただの負け組と見なすのではなく、参戦する前から負けている者、敗北を宿命づけられた者、敗者の名誉にも値しない者と見なしている。それだけではない。ゲームの参加者は、ゲームに参加しない者のことを、負けを認めたくないばかりに達観を装う欺瞞的で下劣な人間と見なしている。だから、ゲームの参加者は、働けるのに働こうともしない連中、動けるのに怠惰を決め込む連中に我慢がならない。
 Aゲームの参加者のこんな価値観は、ゲームに参加しない者にも感染する。ゲームに参加しない者も、自分のことを、外や他と見なすのではなく、下の下と見なしている。その立ち位置はゲームの外にあるのに、自分のことを、敗残者と見なしている。だから、ゲームに参加しない者は、怨恨や嫉妬などの暗い感情にとらわれる。
 Bこうして、いたるところで、「バスに乗り遅れるな」が標語となる。就活で出遅れたら、年金を払わなければ、一生にわたって敗者復活戦はないと急き立てられる。人道的介入に参加しなければ、テロを容認したことになると後ろ指をさされる。グローバリゼーションに参入しなければ、一方的にむしり取られるだけになると煽(あお)られる。
 Cそれでも、上-中は、不安を解消すべく、セキュリティのためにセーフティ・ネットを張って、そこそこやっていけるかもしれない。下は、誇りと屈辱が入り混じった感情をいだきながらも、たくましくやっていけるかもしれない。ところで、上-中は、下の下に対しては、承認の政治と分配の政治を説教する。上-中は、下の下に対して、外や他そのものの価値を突き出すことを許しはしない。そうではなくて、下の下にもそれなりに良いところがあると認めてやり、それを根拠として、下の下にもそれなりの分け前を与えてやる。こうして、下の下は、承認と分配を自ら乞うようになる。卑屈になることを強いられるのだ。
 D上-中は、道徳的粉飾を凝らして、下の下に対して、こう述べる。あなた方を社会的に排除して申し訳ない。だから、他者に対する責任を負うことにしよう。構造的他者であるあなた方を、社会的に包摂してあげて、社会的な連帯を構築しよう。そのためにも、あなた方は、怠惰な姿勢を捨て、正業に就くことを目ざして自らを教育してもらいたい。また、陰気な性格を矯正し、公民的徳性と市民的資質を身につけて、社会的に有意義な活動を行なってもらいたい。公園の掃除、空き缶収集、地域警護、駐車違反通報、犯罪予防活動、介護、施設訪問など、いくらでも公共性や共同性に貢献する活動はある。上-中の私たちは、持続可能な経済成長のためにほとんどの時間を取られているから、そんな有意義な市民活動を行なう余裕を残念ながら持ち合わせていない。あなた方は、幸いにも暇なのだから、上-中の私たちに代わって有益な活動をしてくれるなら、私たちの所得から再分配してあげよう。あなた方を貧民や窮民と捉える公的扶助を手直しして、新しい福祉社会、活力ある社会を共に目指そう。あなた方がそうしてくれるなら、公的扶助や失業保険の名目ではなく、市民労働に対する参加所得・市民所得の名目で、私たちの納税分を分けてあげよう。これが、分け前なき外部の他者への分け前の条件である。
 E上-中のこんな説法に、下の下は丸め込まれかけている。ゲームの外と他はかき消され、上-中と下の下は、おおむね共感と友愛で化粧された関係を保っている。下はといえば、日々をやり過ごすのに精一杯で鬱屈するばかりだ。こんな出来ゲームを切り裂くのは、ときおり噴き出す下の狂暴性と下の下の情念だけのように見えるのだ。
 こんな状況を唾棄すること。こんな状況を何とかすること。
 実は、ゲームに負けないための手は、もう一つある。ゲームを変えることである。ただし、トランプの大貧民(大富豪)のように勝ち組と負け組を逆転させることではない。上-中-下の席替えをすることではない。そうではなくて、勝ち負けの無いゲーム、得失の分配の無いゲームに変えることである。
 本書は、そのための理論的で実践的な闘争を準備するものである。本書に所収した文書は、この数年(一本だけは一九八九年)に書かれたものを、人文書院の松岡隆浩氏が拾い上げて取り集めてくれたものである。
 本書の文章に共通しているものがあるとするなら、愚劣なものに対する憤りであるが、それ以上に、外部の他者に対する信頼であると言っておきたい。どんな名前で呼ばれようが、そもそも呼ばれるか否かにかかわらず、支援や援助があろうがなかろうが、外部の他者たちは現に生きている。苦しいのは誰でも知っているが、それでも現に生きのびている。そんな外部の他者たちが相互に取り交わしている絆、それを信頼し、それに学び、それを守り広げることだけが、われわれに課されていることである。われわれが、外部の他者を解放するのではない。外部の他者こそが、われわれを解放するのである。
 私は、ようやく最近になって、この愚劣な状況を作り出しているものの正体が見えかけてきた。また、それを追い払うための道も見えかけてきた。だから、以前にもまして、リレーする人、併走する人、先行する人が、もっと多くなることを期待している。


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