書名:残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間 著者:
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 定価:10290円
(本体価格9800円+税490円) |
目次 |
T 幽霊としてのイメージ 形態の残存と時間の不純
芸術は死ぬ、芸術は再生する――歴史は再開する(
ヴァザーリからヴィンケルマンへ)/ヴァールブルク、われわれの幽霊/形態は残存する――歴史は開かれる/〈残存〉、あるいは時間の人類学――タイラーとヴァールブルク/進化論の運命、異時性(ヘテロクロニー)/ルネサンスと時間の不純――ブルクハルトとヴァールブルク/〈生きた残存〉――残存は歴史をアナクロニスム化する/〈残存〉の悪魔祓い――ゴンプリッチとパノフスキー/〈歴史の生〉――時間の形態、力、無意識
U 情念としてのイメージ 断層線と強度の定型表現
運動する時間の地震計/〈時間線〉――歴史家は深淵の縁を歩む/文化の悲劇――ニーチェとヴァールブルク/生成の可塑性と歴史のなかの断層/〈力動図〉、あるいは突発の循環/残存する運動の場とベクトル――〈情念定型〉/原定型を求めて/置き換えられる反転性の記憶の身ぶり――ダーウィンとヴァールブルク/強度のコレオグラフィー――ニンフ、欲望、葛藤
V 症状としてのイメージ 運動する化石と記憶のモンタージュ
症状という視点――フロイトに接近するヴァールブルク/〈怪物の弁証法〉、あるいはモデルとしての捻曲/イメージもまた過去の記憶に苦しむ/渦流、反復、抑圧、事後性/〈示導化石〉、あるいは埋もれた時間の舞踏/ビンスワンガーのもとでのヴァールブルク――狂気における構築/〈残存=感情移入〉、あるいは一体化による認識/感情移入から象徴へ――フィッシャー、カーライル
、ヴィニョーリ/症状の力と象徴形式――カッシーラーとヴァールブルク/モンタージュ『ムネモシュネ』――タブロー、火箭、細部、間隔/真珠
とりのエピローグ
原注/訳注/書誌的ノート/訳者あとがき
解説 美術史を開く〈田中純〉
参考文献一覧/主要人名索引
著者・内容紹介 |
Georges Didi-Huberman (ジョルジュ・ディディ= ユベルマン)
1953年フランス中部リヨン近郊サン= テティエンヌ生。リヨン大学で美術史と哲学を修めたのち、パリ社会科学高等研究院(EHESS)に移る。1984年からはイタリヤやアメリカで海外研修を行い、パリ第7大学勤務を経て、1990年よりパリ社会科学高等研究院助教授。『アウラ・ヒステリカ』(1982〔リブロポート,1990〕)、『フラ・アンジェリコ――神秘神学と絵画表現』(1990〔平凡社,2001〕)、『イメージの前で』(1990)、『ジャコメッティ――キューブと顔』(1992〔PARCO出版,1995)、『ヴィーナスを開く』(1999〔白水社,2002〕)、『時間の前で』(2000)、『ニンファ・モデルナ』(2002)、『イメージ,是が非でも』(2004〔平凡社,近刊〕)など。著書はすでに20冊を超える。旺盛な執筆活動に加え、国際学会、シンポジウムなどの発表や展覧会企画なども精力的に行っている。
イコノロジーの創始者として美術史学の始まりを告げたヴァールブルクだが、学そのものの基盤を内破させかねない独特の時間=歴史モデルゆえ、不当にもパノフスキーやゴンブリッチなどの次世代により闇に葬り去られた。しかし現在、カルチュラル・スタディーズや視覚文化論など隣接諸学の侵食により学の基盤そのものの危機が強く意識されるにつれ、悪魔祓いされた美術史の祖が再び召喚されている。ベンヤミンに通じるアナクロニズムの歴史観に大きな可能性を見るこの再評価の動きは、さながらヴァールブルク・ルネサンスの活況をていしているが、思想史家の俊英(邦訳に『ヴィーナスを開く』白水社など)による本書は、なかでも最良の成果である。大文字の思想家(タイラー、ブルクハルト、ニーチェ、カッシーラー、ビンスワンガー、フロイト……)との対比のなかで、ヴァールブルクが、そして新しい歴史学が浮彫にされる。美術史のみならず、歴史学、思想史など人文諸学の基本文献。
パトスの知、ニーチェ的な「悦ばしき知」の力強いマニフェストである本書の中で、美術史はイメージの時間へと開かれ、その名を忘れ去っていく。それは美術史が廃墟となって「幽霊たちの時間」へと入り込む過程とでも呼べばよいだろうか。ジャックデリダはかつて廃墟の愛をめぐって、われわれが制度を愛することができるのは、そのもろさを通して、つまり、「その廃墟に宿る幽霊またはその廃墟から浮き出すシルエットを透かして見ることによって」であると語っていた。そして、「それの廃墟とはつまり、私の廃墟である」がゆえに「われわれは、幽霊や廃墟を避けて通ることはできない」。すなわち、私がすでに幽霊であるがゆえの、自画像としての廃墟への愛。幽霊ヴァールブルクのために書かれたこの大著の底に流れるのは、美術史の廃墟――その名の廃墟――へと向けられた、そんな愛であるように思われる。
(田中純「解説 美術史を開く」より)