書名:
映画学的想像力 シネマ・スタディーズの冒険

者:加藤幹郎

定価:2730円 (本体価格2600円+税130円)
サイズ:A5判上製 
240ページ 刊行日2006年5月 
ISBN4-409-10021-1(専門書/映画史、カルチュラル・スタディーズ)

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目次

第一部 都市と映画の相関文化史
第1章 映画都市京都――映画館と観客の歴史   加藤幹郎/第2章 近代化する都市の映画観客――ニュース映画館の形態と機能    藤岡篤弘

第二部 初期映画とアニメーション映画
第3章 描く身体から描かれる身体へ――初期アニメーション映画研究   今井隆介/第4章 漫画映画の時代――トーキー移行期から大戦期における日本アニメーション  佐野明子

第三部 ナショナル・シネマの諸相
第5章 アイヌ表象と時代劇映画――ナショナリズムとレイシズム   板倉史明/第6章 バベルの映画――スイスにおける多言語映画製作     北田理惠/第7章 戦火のユートピア――イーリング・コメディの系譜と現代イギリス映画の可能性   松田英男

第四部 教育と映画
第8章 映画教育運動成立史――年少観客の出現とその囲いこみ   大澤 浄

あとがき/執筆者紹介


編者・内容紹介

加藤幹郎 かとう みきろう
1957年生まれ。映画批評家。映画学者。京都大学大学院人間環境学研究科教授。京都大学博士(人間環境学)。2002-03年および1990-92年,カリフォルニア大学ロサンジェルス校,カリフォルニア大学バークリー校,ニューヨーク大学,ハワイ大学マノア校フルブライト客員研究員。1999年,ミシガン大学客員教授。著書に『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(みすず書房,2005),『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房,2005),『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房,2004),『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社,2002),『映画とは何か』(みすず書房,2001,第11回吉田秀和賞),『映画ジャンル論』(平凡社,1996),『映画 視線のポリティクス』(筑摩書房,1996),『鏡の迷路 映画分類学序説』(みすず書房,1993),『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社,1988)など。共編著に『時代劇映画とはなにか』(人文書院,1997)など。共訳書に『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房,2002),『幻想文学大事典』(国書刊行会,1999),『知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム』(青土社,1992),『セクシュアリティ』(勁草書房,1988)などがある。


フィルム分析にとどまらない、映画史の新たなる研究

映画館、都市、ニュース映画、ナショナル・シネマ、教育映画などをテーマに8本の論考を収める。「本書は旧来の問題機制から漏れていた映画史の諸局面に光をあてる試みである。その意味で本書を映画史の冒険の書と呼んでもいいだろう。」「本書におさめられた論考のうち、もっとも微視的な分析においてすら、映画史はその新しい文脈を垣間見せてくれるにちがいない。本書の映画学的冒険は旧来の人文社会諸科学の成果を刷新してくれることだろう。」


編者あとがき

 世界最初の映画が撮影されたのは、たかだか一二○年ほど前のことにすぎない。にもかかわらず映画史はさまざまなミッシング・リンクをかかえるはめになってしまった。たとえばひとつの古都が映画都市として自己定立するには、いかなる要件を満たさねばならなかったのか。ひとつの都市が「想像の共同体」として映画的に機能しはじめるのに、いかなる文脈が形成される必要があったのか。本書はそうした旧来の問題機制から漏れていた映画史の諸局面に光をあてる試みである。その意味で本書を映画史の冒険の書と呼んでもいいだろう。冒険とは、既成の説明によって宥められることのない問題意識の探求である。

 従来の映画史が多かれ少なかれ映画作品中心主義にひたされていたとすれば、本書で記述の対象となるのは映画作品そのものではなく、それを上映していた映画館のほうとなる。そして映画館がもっぱら都市に立地していた以上、ひとが映画館のなかで観客になるとき、彼あるいは彼女はみずからの起居する都市とどのような映画的関係をむすぶことになるのかが論証される。都市と映画はその密接な連関性において、映画史上の新しいトポスとなるだろう。

 むろん本書でも映画作品が論じられはするが、そのさい、それは作品の自律的側面と他律的側面との切り離すことのできない諸項の連鎖において論じられることになるだろう。かつて映画作品の製作/受容は年代記的に記述されることが多かった。しかるに本書は映画作品がなんらかの時代精神に従属することからは距離をおこうとしている。

 そうした方法論的スプリングボードによって、たとえばアニメーション映画が論じられるとき、ディズニー作品やフライシャー兄弟作品を踏まえながらも、それらの諸作品に共通して認められるある不可思議な映画的謎を解明するために、ジャンルの枠組みも時代の画定もはるかに跳び越えて映画史最初期へと、さらに映画前史のヴォードヴィル期へと臍の緒をたどることなる。ただし臍の緒といっても、それは失われた起源への直線的遡行を意味するのではかならずしもない。臍の緒というものがしばしばねじれているように、その探索行はねじれたミッシング・リンクの解きほぐしとならざるをえない。

 サイレント末期の映画が映像言語の成熟に達したとき普遍芸術と評されたのは映画史の常識であるが、それでは映画史がトーキー期に移行し終えたとき、スイスのような四つの国語、三つの公用語がつかわれる国家において、トーキー映画はどのような政治的、文化的文脈を生きなければならなかったのだろうか。それは映画が最初期(リュミエール兄弟のとき)からインターナショナルな政治的、文化的商品であったことを勘案すれば、当然問われねばならないナショナルな問題である。じっさい本書はナショナル・シネマの諸相について三つの論考を提供するが、いずれも新しいパラミーターのもとに新しい局面打開にあたるだろう。そのほか教育と映画、年少観客と検閲の問題を論じるチャプターがある。

 要するに本書は、映画が多次元的媒介作用のもとで新しい相貌を呈する、その瞬間をとらえたいと願っている。本書におさめられた論考のうち、もっとも微視的な分析においてすら、映画史はその新しい文脈を垣間見せてくれるにちがいない。その延長線上で本書の映画学的冒険は旧来の人文社会諸科学の成果を刷新してくれることだろう。


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