書名:
闘争の最小回路
    南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン

著者:廣瀬 純

定価:1890円 (本体価格1800円+税90円)
サイズ:46判並製 248
ページ 刊行日2006年11月 
ISBN4-409-24076-5(教養書/社会・政治思想)

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目次

まえがき
T
0 新たなジャーナリズムにむけて  Hacia un nuevo periodismo

1 米州サミットと民衆サミット、そして、そこから溢れ出すもの
  Más allá del antagonismo entre la Cumbre de las Américas y la Cumbre de los Pueblos
米州サミットと民衆サミット(二○○五年一一月・アルゼンチン、ALCA/FTAA、メルコスル、チャベス,二一世紀の社会主義、ALBA、マラドーナの左傾化)/二つのサミットから溢れ出す「過剰な力」(横断的キルシネル派、ペロニスタ左派、「みんな出ていけ、ひとりも残るな」、二○○一年一二月民衆蜂起、自律的な政治経済空間の構築)/ブッシュとネグリのラテンアメリカ
2 「潜勢力への道」と政治的代表制――メキシコ、スペイン、そしてボリビア
  “Rutas de la potencia” y representación política: México, España y Bolivia
「investigación militante」とは何か(Colectivo Situaciones、オルターグローバライゼイション、政府のディスクールと運動のプロセス)/「進歩派政府」と「吸収」(タバレ・バスケス、ロペス・オブラドル、マドリッド列車爆破事件とスペイン大統領選、サパテロ政権と運動、やつらは私たちを代表していない!)/メキシコ||「政治家たちと話していても埒があかない」(サパティスタ民族解放軍のラカンドン密林第六宣言、メキシコ大統領選キャンペーンとサパティスタによるもうひとつのキャンペーン、サン・アンドレス合意のユニラテラルな履行)/ボリビア ――「戦争」という表象の彼方へ(ボリビア大統領選、エボ・モラレス、水戦争とガス戦争、新たな社会運動と進歩派政府)
3 チリ――修正主義的ネオリベラリズムとふたつのラディカルな社会運動
  Chile: neoliberalismo reformista y movimientos sociales
コンセルタシオン諸政権と修正主義的ネオリベラリズム(チリ大統領選挙、ミチェル・バチェレ、アジェンデの革命とピノチェの反革命、ネオリベラリズムの実験室、コンセルタシオン政権とネオリベラリズム)/ポブラドーレス運動とその「吸収」(チリにおけるラディカルな住民自治運動と民政移管)/マプーチェの人々による闘争(チリにおける先住民運動とネオリベラル的グローバル化、マプーチェ運動に対するコンセルタシオン政権の弾圧、反テロ法、アジェンデの歴史的遺産を取り戻す?)
4 マイケル・ハート・インタヴュー 
  「自律性は反帝国主義よりも強力な武器だ。」
  Entrevista con Michael Hardt: “La autonomía es una arma más fuerte que el antiimperialismo.”
5 「マグナ・カルタ」と「ニュー・ディール」――ネグリとコッコとによる現代ラテンアメリカ論  
   “Magna Carta” y “New Deal”: GlobAL de Negri y Cocco
ネグリ=コッコによる批判的開発論(開発主義への逆戻りかネオリベラリズムか、九○年代の諸運動、構造学派・従属論への批判、国家開発主義への批判、民政移管とネオリベラリズム、リベラリズムの肯定的側面)/新たな同盟(1)――「ニュー・ディール」(政府と諸運動とのあいだの新たな同盟、ネグリ=コッコのニュー・ディール論に対する私たちの立場、ベイシック・インカム、キルシネル政権による国民国家のポピュリスト的再建、代表的政治システムと資本制経済システムへの諸運動の回収、闘争=生産)/新たな同盟(2)――「マグナ・カルタ」(従属から相互従属へ、déconnexionの不可能性,帝国的貴族と帝国的君主との新たな同盟、進歩派諸政権の中心的役割、ネグリ=コッコのマグナ・カルタ論に対する私たちの立場)

U
現実主義的革命家とマルチチュード――ネグリのヨーロッパ論 
ヨーロッパ憲法条約とマルチチュード(「賛成、国民国家というあのクソを消滅させるために」、マルチチュードの闘争空間としてのヨーロッパ、ヨーロッパの新たなプロレタリアート、ネグリのレーニン主義、技術的構成から政治的構成へ、USA政府に抗する反権力としてのヨーロッパ、ブッシュのブリュメール一八日、マルチレヴェル的政治決定プロセス、ネグリのdovere、バリバールのヨーロッパ論、vanishing mediator、コンディ・ライスのヨーロッパ)/マルチチュードによる「政治」の奪還(ポストフォーディズム的マルチチュード、プロレタリアートの夜、政治経済エリートはマルチチュードを労働させると同時に脱政治化させる、シラクと小泉、ジジェクのヨーロッパ論、エキスパートと素人、脱政治化されたマルチチュードによる政治の奪還、闘争の最小回路)
共同体メディア運動と「ボリーバル革命」――「Telesur」開局に際して 
América invertida――アメリカ大陸を逆さまにする(Telesurの開局、nuestro Norte es el Sur、USA政府の対応、Vive TVからTelesurへ)/Manicomio politizado――狂騒の政治闘争(ベネスエラの共同体メディア運動、バリオのシネクラブ、カラカソ、自分自身のイメージを取り戻す、力のクリスタル)/Estado, revolución y machine de guerre ―― 革命政府による戦争機械の捕獲(シネクラブ運動から共同体メディア運動へ、ベネスエラ・ボリーバル共和国の誕生、基本的人権としてのコミュニケーション・メディア、民営マス・メディアの政党化、民営マス・メディアと経営者団体によるクーデタ、民衆による対抗的情報ネットワークの形成、共同体メディア運動の弾圧、VTVとVive TV、脱コード化・超コード化・ボリーバル革命)
彼らは「何人かの野蛮なインディアンに過ぎない」のか?――ボリビアにおける「新たな社会運動」について
モラレス政権の誕生(進歩派政権とオルターグローバライゼーション、モラレスの勝利は新たな社会運動の勝利なのか)/ふたつの「自律性」(水を守るためのコーディネイト組織、運動の自律性と主権国家、アルバロ・ガルシア・リネラ、近代・プレ近代・ポスト近代)/複製技術時代の民衆闘争(ポスト近代都市,極小規模家族経営と近隣住民共同体,都市型《ayllu》,アフェクティヴな人間関係の潜勢力,「遠い記憶」,「近い記憶」,国家に抗する社会,《common》化された自律性構築技術)

あとがきにかえて 存在の狼煙――フランスでの暴動について 
 


著者・内容紹介

廣瀬 純 ひろせ・じゅん
1971年、東京生れ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程(芸術学)修了。パリ第3大学映画視聴覚研究科DEA課
程修了(フランス政府給費留学生)。現在、龍谷大学経営学部専任講師。
映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」(勁草書房)元編集委員。仏・映画研究誌「VERTIGO」(Capricci Éditions)編集委員。
著書:『美味しい料理の哲学』(河出書房新社、2005年)
訳書:パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』(月曜社、2004年)、ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制1983−1995』(共訳、河出書房新社、2004年)、ロベルト・デ・ガ エターノ編『ドゥルーズ、映画を思考する』(共訳、勁草書房、2000年)など
共著:『思想読本1968』(絓 秀実編、作品社、2005年)、『市民のアソシエーション』(コリン・コバヤシ編、太田出版、2003年)、『カンヌ映画祭の50年』(樋 口泰人編、アスペクト、1998年)など。

hp   http://www.geocities.jp/mqytp272


面白いのはチャベスだけじゃない!
     運動≠政権
反米左派政権の枠組みからも溢れ出す脱領土的欲望、ラテンアメリカ社会運動の最前線

ブラジル、ベネスエラ、ボリビアなど近年、各国で左派政権が誕生し、新自由主義により壊滅した後の国家・経済再生とともに、オルターナティヴな世界の構築を目指すラテンアメリカ。世界から注目されるこの地域においては、しかしいまこの瞬間にも、左派政権とも距離を置く、多様で起伏に満ちた社会運動が行われ、日本では想像もつかないほど豊穣な政治空間が開かれている。 いまだ知られざる、その政治空間と社会運動のダイナミズムを魅力的に伝え、ひとりひとりの内ある「政治」を可能にするパワー、行為と力のクリスタル=闘争の最小回路に呼びかけ ること、これが本書の唯一の目的である。
 (本書は、小社HPに連載された論文をもとに、その他の既発表論文、書き下ろし論文を付加してまとめたものです。)

* 12月3日、京都の〈ほんやら洞2F〉にて刊行記念トークセッションがあります。〈詳細案内書〉

(本書より)
新たなジャーナリズムにむけて
 「闘争の最小回路」と題して人文書院のウェブサイトにて連載を始めることにしました。基本的には、少なくとも毎月一回のペースで更新していくつもりですが、時間が許すようであれば、必要に応じて臨時に書く場合もあるかも知れません。
 この連載の目的は、何よりもまず、現在の日本のマス・メディアを補完することにあります。海外のいわゆる「クオリティ・ペイパー」と呼ばれるような各紙では大きく紙面を割いて報じられる出来事が、日本のマス・メディアではほとんど取り上げられない、そのようなことが頻繁にあるように思えます。あるいは、たとえ取り上げられたにしても、海外の通信社が配信する情報を適当に切り貼りして「対岸の火事」のように伝え、お茶を濁すという場合もよく見かけます。重要であるように思われるにもかかわらず、日本のマス・メディアではあまり報じられていないような出来事を、何はともあれ、日本語環境に導入するということ、これがこの連載の一番の目的です。
 ぼくがここで問題にしているのは、とりわけ、政治的な出来事のことです。政治的な出来事というものは、ふたつの異質な要素が出会うときに生起します。ただし、ここで重要なことは、そうしたふたつの異質な要素というものが、例えばふたつの異なる国家の政府というような、政治エリートたちのふたつのグループのことではないという点です。そうではなく、政治的な出来事というものは、つねに、エリートたちとそうでない者たちとのあいだのコンフリクトとして生起するのです。ふたつの異質な要素の出会いとは、この意味で、ふたつの大きさの異なる実在のあいだの出会いだと言い換えることもできるでしょう。
 国内・海外を問わず政治的な出来事を報道する際に、マス・メディア――とりわけ、日本のマス・メディア――が無視するのは、まさにこのことです。例えば、靖国神社をめぐる問題にしても、あたかも、中国政府及び韓国政府と日本政府とのあいだのコンフリクトであるかのように報じられていますが、この問題をめぐる真のコンフリクトは、あくまでも、そうした政治エリートたちとそうでない者たち――すなわち、ぼくたちひとりひとり――とのあいだにあるのであって、それ以外の場所にはありません。マス・メディアは、真のコンフリクトを偽のコンフリクトに置き換えることによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場に押しやりつつ、日本国内で起きた出来事すらも「対岸の火事」のように提示し続けているのです。
 マス・メディアが、すべての政治的な出来事をエリートたちのあいだのコンフリクトという偽の表象のもとに語り伝え、また、それによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場へと押しやろうとすることは、実のところ、当のエリートたちがまさに望んでいることそのものです。エリートたちの賭け金は、つねに、自分たちだけで「政治の舞台」を独占し、他の者たちをできるだけ「観客席」に留まらせることにあります。対立を演じるふたつのエリート・グループは、ぼくたちを「観客席」に留まらせ、自分たちだけが「舞台」上のアクターであるかのように見せかけるために、互いに相手のグループを必要としているのであり、この意味で、どんなに激しく対立しているように見えたとしても、両者のあいだにはより深いレヴェルにおいてひとつの密やかな合意があると言えるのです。
 例えば、ビン・ラディン陣営とブッシュ陣営というふたつのエリート・グループは、互いに対立し合っているかのように装うことで、それぞれのグループがそれぞれの「劇場」での「舞台」の独占プロジェクトを押し進めています。すなわち、アラブ世界の「政治の舞台」を独占しようとするエリート・グループと、非アラブ世界の「政治の舞台」を独占しようするエリート・グループとのあいだには、彼ら以外の人々を「観客席」に縛り付けておこうという点においては、揺るぎない合意があるということです。
 エリートたちが独占しようとしている政治をぼくたちのもとに取り戻すこと。そのためには、そうしたエリートたちの独占を利するような報道を続けているマス・メディアに代わるような、新たなジャーナリズムを創造することがとても重要であるように思われます。あらゆる政治的な出来事は、つねに、政治を独占しようとするエリートたちと、それによって脱政治化させられつつあるその他の人々とのあいだのコンフリクトとして、すなわち、政治の領有化そのものをめぐるコンフリクトとして起きているのです。ミシェル・フーコーというフランスの現代哲学者は、ぼくたちひとりひとりが「経験的-超越論的存在」であると言っています。これは、ぼくたちひとりひとりが、行動する存在(「経験的存在」)であると同時に、行動する自分自身をつねに見ている存在(「超越論的存在」)でもあるということです。別の言い方をすると、ぼくたちひとりひとりは、「アクター」(行動者=俳優)であると同時に、自分自身の「観客」でもあるということです。ぼくたちひとりひとりは、このようにして「アクター」的アスペクトと「観客」的アスペクトとが織りなす小さな回路,小さなクリスタルとして、存在しているのです。
 エリートによる「政治の舞台」の独占と、それを助長するようなマス・メディアの報道は、ぼくたちひとりひとりにおける、この「最小回路」を破壊しようとするものです。エリートたちとマス・メディアとの同盟は、ぼくたちひとりひとりの「観客」的アスペクトを「アクター」的アスペクトから切断し、「観客」的アスペクトのほうだけを政治に結び付けようとしているのです(反対に、「観客」的アスペクトから切断された「アクター」的アスペクトのほうは、純粋に、資本のもとでの労働に結び付けられていきます)。したがって、エリートたちから政治を取り戻すということ、つまり、政治を再領有化するということは、ぼくたちひとりひとりがこの「最小回路」を再び接続し直すということでもあるのです。
 ひとつの大きな「劇場」(例えば「小泉劇場」)があって、エリートたちがその「舞台」の上で彼らのあいだの対立を演じ、その他の人々が「観客席」でそれを見ているというのは、エリートたちが、マス・メディアと結託して、ぼくたちに押し付けようとしている偽の表象に他なりません。そうではなく、もしも「劇場」というものがあるとすれば、それは「最小回路」というかたちでぼくたちひとりひとりのなかにあるものなのです。「観客席」と「舞台」とのあいだに無理矢理引かれている偽の境界線を無効にし、そこから無数の「劇場」を解き放つようなやり方で、まさに「劇場占拠事件」を絶えず起こさなければならないのです。
 この連載は、そのような無数の「劇場」、無数の「最小回路」に呼びかけるためのものです。
 


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