書名:日本のマラーノ文学 ―ドゥルシネーア赤 著者:四方田犬彦 定価:2100円
(本体価格2000円+税100円)
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目次 |
李香蘭の喪われた家/立原正秋という問題/寺山修司
朝鮮人のふりをすること/中上健次の詩/中上健次 路地の映像/劇作家としての松田優作/帷子耀
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著者・内容紹介 |
四方田 犬彦 よもた いぬひこ
1953年生。東京大学で宗教学を、同大学院で比較文化を学ぶ。韓国の建国大学校、中央大学校、テルアヴィヴ大学などで客員教師を勤める。現在は明治学院大学教授として映画史を講じる。映画と文学を中心、音楽、漫画、料理、都市論と多様な分野で批評活動を行なう。著書に本書の姉妹書『日本のマラーノ文学』のほか、『先生とわたし』、『摩滅の賦』、『見ることの塩』、『日本映画史百年』、『モロッコ流謫』(伊藤整文学賞)、『映画史への招待』(サントリー学芸賞)、『ソウルの風景』(日本エッセイストクラブ賞)など多数。詩集に『人生の乞食』、訳書にサイード『パレスチナに帰る』、ダルウィーシュ『壁に描く』などがある。
「豚」は文学的観念たりうるか ―出自を偽ること―
十五世紀以降のスペインでは、ユダヤ教徒やイスラーム教徒が異端として激しい迫害に晒され、改宗や離散を強いられた。マラーノ=豚とはこの故郷を追われたユダヤ人のこと。文学の重要な契機を他者性と見るならば、出自を偽り、他者に身を窶す行為はその最たるものとなるだろう。それを「マラーノ性」という概念を提出し、在日朝鮮・韓国人、被差別部落出身者、さらにはホモセクシュアリティといったマイノリティ等々をあえてマラーノと呼ぶことで、ありえぬ想像上の自我のもとに説話の主体を引き受けるという、文学の本質に横たわる核心が浮かび上がってくる。李香蘭、立原正秋、中上健次、松田優作、帷子燿(かたびらあき)、はてまたプルースト、パゾリーニ、「パッチギ」等をマラーノ性から縦横に論じ、新ジャンルを提唱する超意欲作。