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ビデオ収録前日に徹夜で書いた原稿は、ここまでで途切れていた。
スクリーンのなかの私が不自然に顔をあげ、こちらをまともに見つめながら講演の最終部分へと話をつなげていく。この作品が一篇の寓話ならばこそ、自分は作家クルマにたいする第二の裏切りとして、五十ページにおよぶ訳者解題を書いたのだと、そう語りはじめる。さもなくば日本の読者は、良質のルポルタージュとも見まごう本作にふれることで、西アフリカの〈現実の内戦を知りえた〉ように錯覚してしまうかもしれない。しかしそうした読みとは正反対に、むしろ作家クルマが私たちにのこした最大の贈りものとは、現実の戦場に立ってもいない者が〈戦争を知っている〉などとはけっして語りえぬこと、戦争はいかにしても〈知りえぬ〉こと、つまりは現実の戦争にひそむ闇の深さをただ想像してみる自由しかひとには許されていないこと、そうした仮借なき真理を読者に気づかせていく寓話のしかけだったのではないか。スクリーンのなかの私はそのように語りながら、翻訳者としてのみずからが犯した裏切りの意味、裏切りとしてのみずからの弔意を、ぎこちなくも張りつめた面持で伝えようとしていた。
モリの予想どおり、おのれの衷情を聴衆へ、というよりビデオカメラのレンズへ放つことばかりに神経をあつめてきたスクリーンのなかの 東洋人は、用意した原稿が途切れたあたりからしだいに憔悴の色を濃くしていた。語調もあきらかに乱れ、それまでおさえていた感情の澱が少しづつ表情に、身ぶりに、浮かびでてくる。
「いまの私が切にねがっておりますのは、この場に来臨されているにちがいない作家の霊が、私にこのような言葉をかけてくれることであります。〈我がおさなき孫よ、おまえはよくもこの私を裏切ってくれたな。ただ、ともかくも悪いことをしたわけではない。おまえはよくやってくれたよ〉。故人にそう言っていただけることだけが、いまの私にとり、唯一無二の望みなのであります」。
「最後になりますが、みなさまへの感謝と祝福の言葉を、ダン語で述べさせていただきたく存じます。すべてのイヴォワール人、ならびに尊敬すべきみなさまの祖国コートディヴォワール共和国とのあいだで、私がこの十五年をかけて培いえた友愛の真の証として、この場を借り何ほどか申しあげることを、どうかみなさま、お許しください」。
スクリーンのなかの私は、ここで立ちあがる気になっている。おもむろに椅子をひき、緊張のあまり体を妙なぐあいにかしげながら起立しようとする男の所作にあわせて、撮影レンズが広角へと切りかわっていく。「いますぐ、私は村へ行きます」−その時そうつぶやいたはずのフランス語は、小声すぎて追悼会場のスピーカーからは聞こえてこない。(次へ)
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「さあみんな、耳をとどめてくれ。私に耳をとどめてくれ。イヴォワールの男たちよ、イヴォワールの女たちよ。みんなありがとう。どうもありがとう。みんなほんとうにありがとう。そういうわけだから、どうかわたしにこう言わせてくれ。神があなたがたの 頭(こうべ)にいつまでもとどまるように。いつまでもとどまるようにと。あなたがたが、いつまでも息災でいられるように。いつまでも息災でいられるようにと」。
スクリーンの向こう側からさしむけられた感謝と祝別の辞にたいし、会衆のなかにまじるダン族出身者たちが、なかば反射的に「アーオー」、「アーオー」とダン語で逐一返事をかえす声が、スクリーンをながめる私の耳にまでとどいてきた。西アフリカ屈指の大都市にいながらも、森にかこまれたダナネの村に帰っているような錯覚を一瞬おぼえた。
スクリーンのなかの私は、立ちすくんだまま、ここで数秒だまりこむ。それから上半身をややのけぞらせて、息をふかくすいこむ。
「おーい、アマドゥ・クルマよ。おーい、アマドゥ・クルマよ。あなたはよくやった。みごとだった。アーッ! ほんとうにあなたは立派だった。あなたこそ、土地の主(ぬし)だった。土地の主だった。あなたこそ、真の語り部だった。そこにいるあなたこそ、まごうかたなき正真正銘の語り部だったのだ」。
スクリーンのなかの 私が闇へと放ったダン語クーランレ方言の幻は、とどまることなくふたたび闇へと吸いこまれていった。スクリーンのなかに、もうひとの声はない。虫の音だけが響く。しかしそれはスクリーンのなかの夜に封じこめられた虫の音だ。いま、この追悼会場に虫の音は響かない。響くのは、鳴り響いてほしいのは、弔鐘でしかない。スクリーンから最後の光が消えた。会場は一瞬くらやみに包まれ、それから明るくなった。(次へ)
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裏切りの告白としての追悼−たがいに背きあうかのような言葉の繋がりにこそ意を込めた翻訳者の弔意にたいし、その後みずから発言を求めてマイクを手にした方々は、一様にあたたかい賛辞の言葉を手向けてくださった。講演タイトルからおそらくは「日出国、日本」のイマージュをたぐりよせたのか、アブバカル・トゥーレは取材におとずれた報道陣にたいし、追悼会場で次のようなコメントを残している。「クルマは人生の夜を迎え、たしかに没しました。しかし屈したわけではありません。いわばクルマは、屈することなく没したのです。太陽というものはけっして死ぬことがない。太陽が没したのは、東洋の地でふたたび出ずるためだったのです」。
あれは作家の姪にあたるコネ夫人そのひとだったのだろうか。記憶はおぼろながらも、後半の質疑応答でしずかにマイクへと近づいてこられたひとりのイヴォワール人女性がいた。
「あなたはクルマの小説の日本語版に何十ページもの訳者註記と解題文を添えられた、それが原作者への裏切りにほかならないと、そうおっしゃったわけですね」。
「はい、その通りでございます」。
「よろしい。さて、『アラーの神にもいわれはない』はフランスのスイユ社が版元のはずですが、きょうのこの場でそのように告白されたあなたは、小説の日本語版に訳者註記と解題文を添えたことを、いったいスイユ社の編集担当にも報告されているのですか」。
私はとっさに、これはお叱りの言葉にちがいないと直感した。しかし事実をねじ曲げるわけにはいかない。
「いえ、スイユ社にたいしては、その旨報告しておりません」。
「私がこのように尋ねましたのも、あなたがお書きになった註記と解題の存在を、スイユ社も、そしてフランス人も知っておくべきだろうということなのです。お書きになった註記は西アフリカの現代史にかかわるもので、解題文はクルマの小説が寓話としての力を帯びていることをご指摘されたものだと先刻うかがいました。じつに貴重なお仕事だと思うのです。ですから、ぜひともその文章の存在をスイユ社に知らしめたうえで、フランス語の原書の方にもそれを掲載してもらうよう、話を進められてみたらいかがでしょう」。
それは裏切りではない。むしろあなたは、それを裏切りなどと断じて呼ぶべきではなかったのだ−私の考えに同意しきれぬなにかがあるとすれば、彼女にとりそれは裏切りの内容にではなく、当の内容を軽率にも「裏切り」と名づけたまま死者への感傷のうちに逃避し、生者だけからなるこの世界にむけて何も働きかけようとしない私の姿勢にあったといえばよいだろうか。終始毅然とした物言いが清く感じられるこの女性に、私はそのとき、マイクを介し簡略に謝意を表することしかできなかった。しかし聴衆のひとりへと還っていくそのひとの後ろ姿を追いながら、たとえ独りよがりでもよい、追悼の旅はついにいまこうして報われたのではないかと、私はそう思いたい気持にかられていた。(次へ)
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しかしテクストの作者は、生前のアマドゥ・クルマそのひとは、拙訳による日本語版を、はたしてどのように受けとめていたのだろう。生者だけからなるこの世界を、いまだ生きていたころのあのひとは。
「よかったわねえ。まじまさん」−アビジャン滞在中に、モリかずこからそう言葉をかけられ聞き知ったふたつの挿話もまた、きたるべき時の訪れをむかえつつあった老作家の晩年を察するには、あまりに頼りなげな生の細片にすぎないのかもしれない。ただ、いずれよるべもなき異郷の追悼者にとり、それは故人の身近にいたひとびとから贈りとどけられた、どれほどまでに貴重な記憶の襞と感じられたことか。
アビジャンの高等師範で教鞭をとるヤクバ・コナテは、作家クルマの旧友である。アドルノ=ホルクハイマー研究からアフリカ芸術論へと思索の翼を自在に広げてきたこの哲学者と、私は一昨年の冬にアビジャンで出会っていた。先駆的なアルファ・ブロンディ論で早くから名前だけは存じあげていたコナテ教授にこのとき初めて会えたのも、やはりモリの引き合わせによるものである。私がダン社会を研究する日本の民族学者でありながら、目下クルマの翻訳も手がけていることなどを伝えると、コナテ教授がすかさずにやりと笑顔を返し、激励してくれたことを記憶している。はたしてその翌年、日本語版『アラーの神にもいわれはない』は刊行された。モリかずこが教授から聞いた話によれば、クルマはただちに訳書の見本一部を、リヨンの自宅からアビジャンのコナテ宛に送りつけてきた。アマドゥ・クルマという作家は、人柄としてたいへんに豪放磊落な一面をもつ半面、こと文学については他人の仕事にたいし峻厳このうえない態度をとることがあると、そのとき教授は言い添えたそうである。たとえば同じ作品の英語版がアメリカで刊行されたとき、くわしい理由はさだかならずもクルマの憤慨ぶりには、近くで見ていてたいへんなものがあった。それにくらべ、今回の日本語訳が出版後さほど時をおかずしてこの私にまで郵送されてきたということは、クルマもマジマの仕事には少なからず満足していたにちがいないと、そのときヤクバ・コナテは語っていたらしい。
この話をおそわったとき、私はとっさに照れかくしの冗談を口にしていた。「英訳だからクルマさんも細かく文句が言えたのだろうけど、さすがに日本語の訳書には、文句をつけようにもできなかったのかもしれませんね」。
とはいえ内心、私はヤクバ・コナテにとどけられた一冊の訳書の意味を、別のしかたでうけとめていた。訳のつたなさゆえに原作者から難じられるのなら、それはそれで致し方のないことである。それが訳者の能力の限界だったというだけの話なのだから。ただし今回の翻訳で生じた問題とは、達意の訳文が練りあげられたかどうかという点にはなく、むしろ裏切りに、すなわち原作者の警告を振りきったかたちで私が小説の日本語版に尋常ならざる分量の訳註と解題文を添えた点にこそあったからだ。
その点、ひとたび自分なりの態度をかためたあとは、もはや私にも臆するところはなかったようにおもう。訳註についていえば、私は註記項目の見出しすべてに原文の対応箇所を転写し、日本語を解さぬクルマであれ、訳書末尾の数十ページはどこを開いても註記が連綿とつづいていることがあえて判然となるよう作成していた。のみならず、訳書を手にとったときに最も目につく場所、すなわち表紙を開いてすぐの見返しの前に、二ツ折りの西アフリカの地図まで挿入する念の入れようだった。みずからの警告にたいする「裏切り」−なおもこの形容を用いるなら−に、峻厳さで知られるあの作家がよもや気づかなかったとは想像しがたい。そしてまた、翻訳者によるそうした所業のいっさいを否定し去りたいのなら、忍従したまま沈黙にあまんずる作家クルマでもなかったはずである。ならば生前のクルマは、いかに漠然としたしかたであれ、ついに一度も対面することのなかった日本人訳者の真意を、彼なりの寛容とともに推しはかり、汲みとってくれたのだろうか。(次へ)
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作家みずからの手で、訳書見本はべつの人物にも贈られていた。死の直前の作家をめぐる第二の挿話も、コネ夫人からの伝聞としてモリかずこが私に教えてくれたものである。
それはコネ夫人が叔父クルマの葬儀に参列する前後のことだった。クルマ夫人とでも連れだって出かけたのだろうか、生前のアマドゥ叔父が贔屓にしていたというリヨン市内のフランス料理店で、コネ夫人はいちど会食をする機会をえたそうである。客をむかえる店の扉。内装。照明。椅子とテーブル。メニュー。食器。そして料理。自分が目にするそうした事物のなにもかもに、亡き叔父のまぼろしを彼女はそのとき懸命にさぐりあてようとしていたのかもしれない。店内には、むろん給仕をあずかる従業員もいた。何人いたかはわからないが、そのなかにはアジア系の男性従業員もいた。コネ夫人が声をかけてみると、日本人の方だったそうである。はたして彼は、常連客のひとりアマドゥ・クルマのことをよく知っていた。クルマはこの店も、この店で働く自分のことも、つねづね愛してくれていると夫人に告げたらしい。しかし、その客がもう二度と店には来られなくなったこと、永久に旅立ってしまったことまでは、彼も知らされてはいなかった。悲報をはじめて耳にするや、その方は、コネ夫人の目のまえで号泣されたそうである。
死の半年ほど前のことにちがいない、行きつけの料理屋で気持ちよく働くこの日本人男性に、クルマは人文書院版『アラーの神にもいわれはない』を、友愛の証として手ずから一部贈呈していた。訳書を手わたされたその方は、自国語に訳されたクルマの小説を一読し、物語の展開に少なからず興味をもたれたようである。日本の見知らぬ同胞があえて訳書に書き添えたあの註記と解題文が、ビライマ少年兵の物語を読みすすめるうえでは役に立った、それはけっしてよけいな書き物ではなかったと、もしその方が作家クルマに直接おっしゃってくださっていたなら…。だが、リヨンの街に暮らす東アジアの知己にたいし、老作家が訳書のできばえについて何ごとかを尋ねたのかどうか、その点について、挿話は語ることもなく置かれている。もしもかなうことならば、私はその方に直接お会いしてたずねてみたい。クルマさんはこの店の料理とおなじくらい、そしてあなたの姿を店でみかけるのとおなじくらい、私の訳書についても、あの大きなお顔をほころばせていましたかと。(次へ)
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クルマ追悼集会の模様は、国営テレビのニュース番組で翌日大きくとりあげられた。アビジャンを二日後に発つ予定でいた私のもとにも、新聞各紙からの取材があいついだ。追悼集会を報ずる日刊紙の記事は、私の帰国後に出たものもふくめ、かなりの数にのぼった。その論調はおおむね、「昨年死没した巨匠アマドゥ・クルマの作品が東洋で不死の生を授かった」ことに賛辞をよせるものだった。「死者はけっして旅立ってなどいない」−ネグリチュード期のセネガル詩人、ビラゴ・ジョプのあの有名な詩文までもがそこには引用されていた。ただしそれら一連の報道には、同時にある微妙なニュアンスがほの見えているようにも感じられたのは、はたしてこの私においてだけだったろうか。「〈われわれのクルマ〉の追悼がなぜまた、きょうまで先延ばしにされてきたのか」という、一種自戒にもひとしい陰鬱なる悔悟の含意。一個人の死、とりわけ幾多の艱難に翻弄されつつこの国の歴史を生きぬいた作家の死を、内戦下のけがれた政治のレッテルで忘却の波にそそぐことなど断じて赦されはしない。本来は自明であるべきそうしたエチカの再認こそ、今回の追悼集会がひとびとにむけ、静かに突きつけてみせた明細書の中身ではなかっただろうか。CARASによるささやかなムーヴマンをきっかけに、この国では何かが変わろうとしていた。たしかに何かがいま、動きはじめようとしていた。(次へ)
追悼集会翌日の談笑風景(左からイドリス・ジャバテ、シャルル・ノカン、モリ・トラオレ)
追悼集会翌日の食事会にて(左からモリかずこ、ドゥニーズ・ウェザン=クリバリ、コネ・サリマタ・イヴェット、真島一郎、アンジェル・ニェンソア
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集会の翌日、空にはやわらかな羽根雲がながれている。午後の陽光照りつけるココディの住宅街を、私は何することもなく歩いている。あちらでは、木陰に据えられた長いベンチに腰かけ、幾人かの女子高生がたがいの髪の毛を指でいじくりながら、おしゃべりに興じている。その脇を通りすぎようとしたとき、ひとりの娘がたちあがって私に声をかけた。「エイ! ムッシュー!」。アビジャンの街なかで、たとえ若い娘であれ見知らぬ人間からふいに声をかけられるときは、たいていろくなことがない。案の定、じつにぞんざいな口ぶりで、しかし娘はこういった。「ゆうべあそこの中庭でクルマのことビデオで話してたの、あんたでしょ。あたし聞いてた。クルマのことをなんだかんだ言ってたけど、話してることはそれでもまあ、けっこう良かったよ」。それだけ言うと、まるで私がいけないことでもしたひとみたいに、ふくれっ面をこさえて友だちのところに悠然ともどっていった。
あれはその翌日、深夜のパリ便に搭乗するまぎわのアビジャン空港でのことだ。モリ夫妻をはじめこの一週間の多事多端をともにしたCARASの方々にひとときの別れを告げたのち、私はひとり搭乗手続をすませてカウンターを離れた。人混みをぬってごろごろと転がし歩くキャリングバッグには、集会で上映された講演ビデオの大切なコピーテープ、それに市内の書店で買い求めた専門書が何冊も詰めこまれている。搭乗口に向かう通路の途中に、航空会社のスタッフが立っていた。機内持込荷物の重量チェックである。私は係員に呼び止められた。どうみても私より年下のイヴォワール人男性が、制服姿で私の前に立ちはだかる。バッグの取っ手を少し持ち上げたとたんに彼が顔をしかめたのを、私は見逃さなかった。ここでまた一悶着を覚悟しなければならないのか。だが、通りすぎていく乗客の荷物ばかりに目を光らせていたこの男が、口論に乗りだす構えでようやく私の顔まで視線をうつしたとき、とたんに柔和な表情になるではないか。
「テレビのニュースで見ましたよ。あなたですね、アマドゥ・クルマの小説を翻訳してくださった日本の作家の方というのは。一枚名刺をいただいてもよろしいですか。ああそれです、どうもありがとうございます。それではよいご旅行を」。
持ち上げられたキャリング・カートが、そっと床に置かれた。如何物アジア人作家の背後では、「ほら、あのひとだよ」と仲間に説明をはじめる男の声がもう聞こえていた。
フランスのフランス語による流暢な機長放送が、客室中に安手の威厳をまきちらす。だれかへの手土産を片手で揺らしながら、窓ぎわの男としきりに話しこむ女。あらかじめ手帳に書きとめておいたパリ郊外の知人の住所を、ふるえる指先でいくども見なおす青年。そして癇にふれた乳児の泣き声。それぞれの人生模様をひとまとめに抱えこみながらも、機は無頓着に離陸する。眼下にのぞむアビジャン、内戦下のアビジャンの街は、いつになく深い闇に蝕まれていた。だがその暗いとばりのむこうには、だれかの暮らす家々の灯りがいつ絶えるともなく、かすかに、点々とまたたいている。機はグラン=バサムの海岸線上で力強く旋回し、その光たちがいま、急速に視界から遠ざかっていく。空無のままとりのこされてしまった場になおも記憶を織りこめうようとただそれだけ、そのことだけをねがう者は、ときとして光のなかにさえ声を、ほんとうに声をきくことがあるのかもしれない。
わたしたちのクルマ Notre Kourouma 。わたしたちのクルマ。わたしたちのクルマ。わたしたちのクルマ。
(2004年8月26日記)
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