道場
根拠はないのだが、何となく悪い予感がないわけではなかった。いや、根拠がないということはない。彦さんが東京の築地にある癌センターに入院して闘病生活をし、退院して家に帰っていることは知っていた。私にとっては敬愛してやまない先輩なのだが、奥さんと二人の娘さんと最後の団欒をしているのだからと、私は会いにいくのを遠慮していたのだ。そんな日がつづき、留守番電話を聞くスイッチをいれるのが恐かった。何件かの取るに足らない声のあと、いつもの陽気さとは違う高橋公の暗鬱な声が響いてきた。
「おい、彦が死んだぞ」
それだけだった。土曜日だったので、さっそく高橋公の自宅に電話をいれた。だが応答はない。彼も彦さんの家にいっているのかもしれなかった。予期はしていたはずなのだが、彦さんのあの声この顔が思い出され、私は電話器の前で涙をこぼしてしまった。外から帰ってきた妻が私の顔を見て、どうしたのと問う。
「彦さんが死んだ」
学生時代から私は彦さんを知っていて、結婚する前より妻も彦さんには世話になってきたのだ。妻も重いものを抱え込んでしまうようにして黙った。
取るものも取りあえずという感じで黒い服に着替え、私は家をでた。山手線の駅で私鉄に乗り換え、駅前で白い花を注文し、それしかないので白百合の花束を買った。彦さんは私の大学の先輩の五十二歳であった。これまで何度となく酔っぱらって通った住宅街の道を、私は似合わない白百合の花束を持ってゆっくりと歩いていくのだ。とても急ぐ気にはなれなかった。この歳になり、ひとつひとつ決まりがついていく。やがては、私自身が決まりをつけなければならない番になる。彦さんが逝ってしまったからには、私の番もそう遠くはないと思われる。
八階にある彦さんの家には、すでにたくさんの人が集まっていた。弔問客には知った顔も知らない顔もあった。部屋のテレビは点けっぱなしになっていた。テレビの世界で働いていた彦さんの、プロデューサーとして制作した番組と、キャスターとして出演した番組のビデオが流れていたのだ。かつての彦さんの姿が光と影になってテレビの中で踊っている。
私は夫人の真木に挨拶をしてから、彦さんが眠っている蒲団の胸の脇に白百合の花束を置き、線香を立てた。それから白い布をほんの少しめくって顔を見た。痩せ細ってはいたが、彦さんらしい精悍な風貌は失われていない。修行をして山から降りてきた僧のような峻厳な表情だった。執着が消え、透明感が漂っている。彦さんはまわりの人間に別れの言葉もなく、ひょいと向こう側にいってしまったのである。残されたほうではあっけにとられるような思いがあった。
「あったかいなあ。お風呂にはいってるみたいだなあ。気持ちがいいよ。ちょっと眠っていいかなあ。これが最後の言葉なんですよ」
喪服を着た真木がいう。私は真木とも学生時代からの付き合いだ。こんな臨終の言葉を残す人間もめったにいないなと、私はほんのわずかだが明るいような気分になる。真木はそばにいるなるべく多くの人に聞こえるようにはっきりした声でつづけた。
「それじゃ休んだらいいわって私がいったのが、夜の十時頃かしら。私も付きっきりで看病していたから、一緒に横になったんですよ。夜中の一時頃に目が覚めたら、どうも呼吸の間隔がありすぎるんです。それまではリンパ腺が腫れて喉を圧迫していたから、息がうまくできなくて、すごい鼾だったんですね。時々は呼吸をあわせたりしたんだけど、その呼吸ではこちらはとても苦しいんです。息遣いも弱くなっているし。私は、お父さん、お父さんと頬をはたいたんだけど、そのまま呼吸が止まっちゃいました。私はまだあきらめきれなかったから、救急車を呼んだんですよ」
その日の夕刊に彦さんの死亡記事が出た。死因は呼吸不全と書いてあったが、下咽頭癌による呼吸不全が正しい。病院から一時帰宅したのは、切開すれば二、三カ月は命があると医者がいったにもかかわらず、彦さんが手術を拒否したからだ。どうしてそうしたのか、もちろん彦さんに聞いてみなければわからない。下咽頭は隠れたところにあって癌は発見しにくく、見つかった時には癌はすでにかなり進行していた。転移して左リンパ腺が腫れてきたが、放射線治療により腫れは幾分引いていた。小康状態を保っている時、彦さんは家に帰ってきた。おそらく彦さんの意志が強く働いたのだろう。癌細胞が活発になればリンパ腺が腫れて膨らんできて、気管を圧迫する。そうなれば呼吸が苦しくなり、どうしてもまた入院しなければならなくなる。これが家庭で家族と過ごす最後の時間になるはずである。
家庭も最早安楽の地ではなかった。予想どおり間もなく呼吸がうまくできなくなり、酸素が足りなくて、身体が冷えてきた。彦さんは寒い寒いと訴えるようになった。そこで真木は病院から酸素吸入の装置を運び、同時に医者に痛みをやわらげるモルヒネを射ってもらった。そのために彦さんの身体はあったかくなり、風呂にはいったかのように気持ちよくなったのであった。
通夜の晩、私は高橋公や昔からの仲間たちとともにいた。彦さんは学生運動の闘士であり、リーダーであったから、いろんな人間の思いを背負っている。社会人となってからの仲間もいて、近所の寺でおこなわれた通夜には多士済々の顔が集まった。もてなしの酒と料理は、それぞれの関係者に分かれたテントの下にならべられた。中には十年ぶり二十年ぶりに見る顔もあり、このまま別れがたい気分になった。駅前の居酒屋に移した流れで、ささいなことからいい合いになり、殴り合いまで起こった。昔の仲間が集まると青春の気分が忘れられず、自分が中年になっているのも忘れ、血気さかんになってしまう。しかし、過去も現在も自分が正しいのだとあくまで主張するような論争や殴り合いの中にはいっていくような気分にはなれず、私は外にでた。高橋公も一緒だった。
高橋公は彦さんの一の舎弟分と、自他ともに認める男である。敵対する党派の占拠する大学本部に四十七人で突っ込み、篭城したことがあった。命懸けで先頭切って突っ込んだ行動隊長の高橋公の名は、学生運動の世界にとどろいたのである。中心を占拠して一点突破全面展開で状況を変えようと発想したのが、彦さんだった。その時、彦さんは現場にいなかった。それまで学生運動で何度も何度も逮捕され、保釈中で、裁判を控え、身動きがつかなかったのである。
「彦のやつ、勝手に先に死にやがって」
暗いアスファルトを歩きながら、高橋公はいかにも悲しそうにいう。私は心の中のことを率直に言葉にしていう。
「悲しいな」
「たまんねえな」
「死にやがって」
「本当に死にやがって」
背後から足音が迫ってきて追い抜いていくような気がするのだが、歩いているのは私たちだけだった。うしろはぼうっとした暗闇のほかに何もない。
通夜の寺に戻った。白菊の花が闇の底に仄白く咲いていた。おびただしい白菊の花が生垣のようにならべられ、その前に献花された生花の花輪が配置してあった。経費もいとわず闇を埋めつくすように白菊が集められたのは、真木の思いだった。通夜の客はほとんど帰り、彦さんが社長をするテレビ制作会社の若い連中がいるばかりだった。白菊で飾られた祭壇の棺の中にいる彦さんと、彼らは酒でも飲みながら朝までいるつもりらしい。通夜の会場は寺の本堂ではなく、葬儀場のようなところだった。高橋公と私とがいくと、彼らは当然のように酒を汲んだ湯呑茶碗を渡してくれた。高橋公と私は棺の中の彦さんに向かって、献杯といって湯呑茶碗を差し出し、中のものを一気に飲んだ。
若い連中が一升壜を傾けて湯呑茶碗に酒をついでくれる。冷たい酒は歯に染みた。テントのほうでは石油ストーブは使えるのだが、祭壇のあたりでは吹きさらしの風にあたっていなければならない。高橋公と私は折畳み椅子をだして、オーバーコートを着たまま彦さんと向きあうかたちに坐った。
「死にやがって」
もう一度いって高橋公は酒をあおる。若い連中が床に立てていってくれた一升壜をつかみ、私は二人の空っぽの湯呑茶碗につぐ。
「病室にカーテンを引いて、本をたくさん持ち込んで、寺にでも篭っているみたいだったな。しょっ中座禅してたよ。髪も髭も伸ばし放題で、石窟に篭った修行僧みたいだったな」
癌センターに見舞いにいった時のことを思い出して私はいう。まるで人生の休暇ができたとばかり、闘病を楽しんでいるふうだった。もちろんそれは小康状態の時だけで、二十四時間眠ることができないほど痰が喉に絡まり、ナースコールのボタンを押しつづけたこともあったらしい。自分が瀕死の状態なのに、同室の人が手術をする前日には、頑張ってくださいと書いたメモを渡したのだそうだ。
「あの時、凄味があってきれいな顔になっていたな。目が澄んでいたよな」
「修行がすんだんだって感じだったな」
「誰にも別れの挨拶をしなかった」
「一人で向こう側にいっちゃったな。見事なんだよ」
「一人で死にやがって」
高橋公も私もこの世に取り残されたような気分になっていた。生きているのがつまらないような心持ちである。高橋公も私も彦さんが一人で死を掴んだことに嫉妬さえ覚えていた。この世はどこでも道場なのだが、修行の期間がすめば道場を去らねばならない。こうして彦さんは彼岸にいったのだが、高橋公も私もいまだ道場にいる。
いくら酒を飲んでも酔いそうになかった。もちろん二月の寒さのせいばかりではない。私も彦さんとはこれで最後だとばかりに高橋公の掌の中の湯呑茶碗に酒をつぐ。騒いでいた酒がしずまると、蛍光灯の二本の線が水面に浮かんだ。
「明日の葬式の弔辞の原稿を、これから書かねばならない。ずいぶん酒を飲んだけど、眠くないから書けるだろう」
私は今さらのように思い出していった。思いがたくさんあるために、うまく文章を仕上げる自信はなかった。湯呑茶碗の酒を一気にあおると、明日また出直してこようといって、高橋公も立ち上がった。
弔辞
はじめて彦さんの姿を見たのは、私が早稲田大学政治経済学部に入学した一九六六年春のことでした。大学はバリケード封鎖され、封鎖を続けるかどうかをめぐって、学部の学生大会が開かれました。全学共闘会議副議長として、彦さんは壇上にいました。詰襟の黒い学生服を着て、痩躯で、眼光鋭い男でした。大会は紛糾し、連日徹夜続きで疲労困憊していたのか、彦さんは衆目の前で胃から黒い血を吐いて倒れたのです。沖田総司のようだな、格好いいなと思ったのが、私の一方的な彦さんとの出会いでした。
本当に彦さんと親しくなったのは、一九七〇年を過ぎ、なんとなく行き場がなくなってからでした。私は小説を書いていたのですが、発表する機会もないので世の何処にも所属しない浪人であり、彦さんも時代の浪人を決め込んでいました。彦さんや他の仲間たちとしたことは、住んでいる南阿佐ヶ谷の須賀神社の境内で、夜になると剣道の激しい稽古をすることでした。もちろん彦さんが師範です。みんな時代の浪人でしたが、きたるべき時のために力をつけておきたいと、真剣に考えていたのです。そのきたるべき時とは、イメージの中のことでしかありませんでしたが……。
本当に稽古は激しかったですね。夏には群馬の渋川に合宿にいき、熱に閉じ込められたような防具の中で、全身全霊を打ち込んでぶつかり稽古をしたものです。朝食前に二時間、昼前二時間、午後二時間、夜二時間と、一日八時間もの体力精神力とも限界の稽古をしたもんです。強くならないわけがありませんね。私は今でも木刀の素振りをしては、あの頃のことを思い出しますよ。
彦さんとはいろんなことをやって楽しかったですね。麿赤児さんを中心に麿プロをつくり、山下洋輔トリオの早稲田大学のバリケード内での何処にいくかわからないほど勢いのよい演奏を、「ダンシング古事記」として仲間たちとLPレコード化したことがありました。レコードの評判は上々で、手元からは飛ぶようにはけていったのですが、いっこうに金がはいってこず借金ばかり残りました。金とは縁のない人生です。生活費を稼ぐため、彦さんとは築地の市場によく仕事をしにいったもんです。
やがて私たちはなんとなく追われるように故郷に帰ったり、会社勤めをはじめたりしました。一方、彦さんは相変わらず時代の浪人で、剣の道を極めようとしていたのです。まさに道の人ですね。彦さんは武道の道に専念し、八王子の武道大学に通ったり、極真空手の道場に入門したりしました。その頃の彦さんと会って、忘れがたい言葉を聞いたものです。
今世界と抜き身で対峙している俺は、真剣で鉄を斬ることができる。観念が充実したある瞬間、彦さんはこう確信したそうです。心技体が充実すれば、不可能なことはない。刀でこの世界を真向上段のもとに斬って落とせると認識したのでしょう。ビル工事現場からコンクリートの中に埋め込む鋼鉄の鉄筋を持ってきて台の上に置き、昭和新刀の真剣を構えて精神を集中させ、渾身の気合いとともに真向上段から振り降ろしました。鉄がすっぱりと斬れるどころか、刀は虚しく跳ね返されたそうです。鉄筋にも多少の疵はつきましたが、刀の刃こぼれのほうがひどかった。そして、精神の傷が最も深かった。いかにも彦さんらしい挫折体験ではありませんか。
他人には理解しがたいあまりにも個人的な挫折の後、彦さんは私達の娑婆世界に降りてきて、テレビの仕事をはじめたのです。自分がプロデューサーだと思えばプロデューサーということで、いきなりプロデューサーでした。戦火のレバノンでパレスチナゲリラと生活をともにし、アフガンゲリラと従軍し、ソマリア難民の群に身を投じ、リビアでカダフィ議長にインタビューしと、深い含蓄と行動力のある彦さんの仕事はいつもエキサイティングでした。
彦さんのことを考えれば、思いは尽きません。彦さんと酒を飲んでいると、快い緊張感と心からの慰藉があり、本当に楽しかった。彦さんは私にとって、私のまわりにいるたくさんのものにとって、師であり、兄であり、至上の友でありました。
彦さん、彦さんとこんなふうに永遠の別れをしなければならないのは、悲しいです。無念です。
いいたいことは山ほどあるのに、これ以上言葉はありません。
彦さん、本当に、さようなら。
三回忌に、彦さんの骨を納骨にいく真木にみんなでついていこうといいだしたのは、高橋公だった。彦さんが逝って、丸二年が過ぎていた。彦さんの故郷がどんなところなのか、一度見ておきたかった。彦さんは高校を卒業して離郷し、骨になってはじめて帰郷するのである。友人は十人ばかり参加し、奥さんの真木と娘さん二人、娘さんの連れ合い一人が一行である。現地で親戚や友人と合流する。彦さんの故郷は山口県の周防大島というところだが、私にはどうも確かな光景が思い浮かばなかった。
広島空港に降りると、島からホテルのマイクロバスが迎えにきていた。片道二時間もかかる広島空港まで普段なら送迎することなど考えられないのだが、シーズンオフなので宿泊客もなく、ある程度人数がまとまったので、ホテルもサービスをしてくれるのだ。私は幹事役の高橋公のつけた段取りどおりに動いていればいいのだった。
彦さんは最後の最後まで楽天的に見えた。死などものともしないかのようだったのだが、それは神通力で治すつもりでいたからなのではないかと、私は考えるようになっていた。病院では「高僧伝」のような本を片っ端から読み、座禅をしていた。病気は彦さんにとっては修行の道場が与えられたと同じであり、剣道の稽古が苦しいように闘病生活は苦しい。だが稽古により剣道の腕は確実に上がるように、苦行に近い闘病をすれば神通力も増し、エネルギーに満ちた観念が病根を根絶する。それは彦さん特有の楽天的な考え方だ。なにしろ真剣で鋼鉄の鉄筋が一刀両断にできると観念した男である。病気はあくまで修行の過程であって、精神を鍛練すればそれとともに胆力が何処からともなく湧出し、近代医学で治癒できなかった病根もたちまち滅し尽くしてしまう。彦さんがそう観念したところで、なんら不思議はない。そういう楽天的といえば楽天的な男なのだ。ただし今回は、真剣を病魔に向かって真向上段に降りかぶる間もなく挫折してしまったのである。
彦さんは手術を拒否した。身体にメスをいれると、せっかく獲得した神通力が失われてしまうと案じたのだろうか。だが切開したとしても、二、三カ月延命できた程度だということだ。病状が小康状況になって一時退院する時、彦さんは真木にそっとこういったそうだ。
「医者は俺を死ぬと思っているのか」
病院からでてくると、彦さんは別の医者の友人のすすめもあり、食事療法の玄米食をした。しかし、そのような悠長なことをしていられないほど病状は切迫し、死の一週間前に友人の医者が彦さんに食事療法はやめたらどうかといいにいった。生活のレベルを上げ、最後の時間を楽しむべきだという提案である。もちろんその背景には、死は避けられない現実だという認識があった。だが彦さんは、俺がこれをすると決めたんだからと、構えを崩そうとはしなかった。いかにも型を重んじる剣士の発想だ。これで駄目ならもう仕方がないではないかということである。その根底には、他人には見えない神通力が最後に働くのだという底知れない楽観があったのだ。
「病院で医者は誠心誠意患者とかかわり、そのことでは頭が下がるけど、娑婆に生還した患者はいないんだよなあ。医者が可哀相で見ていられない。医者が気の毒だから、俺は病院には戻らない」
家にいたある日、彦さんは真木にこんなふうにいったのだそうだ。医者の手を借りず神通力によって治癒するとも、このまま死ぬ覚悟だとも、両方の意味にとれる。楽天と覚醒とが混在している。矛盾した二つが同居しているのが、彦さんの魅力である。案外に彦さんは覚醒していたのではないか。それでいて、絶対に絶望はしなかった。そういう意味の楽天家なのだ。
「楽天家だけど、自分の思うままにしているのは、まわりの人を救うと思ってですか」
没後に医者は真木にこう尋ねたそうだ。女房にしても答えようもない問いであったろう。彦さんが死んでからの二年間、みんな彦さんのことを考えつづけてきたのだ。私にしても道を歩いている時など、この世にもう彦さんはいないのだなあとふと立ち止まり、不意打ちのような悲しみに襲われるのはたびたびだ。
広島空港から中国自動車道を走るマイクロバスの中で、彦さんの思い出話がぽつりぽつりとでた。新宿ゴールデン街に飲みに誘われ、いざ勘定を払おうとすると彦さんの金が足りない。こちらの有り金を全部足して、ようやく店をでることができた。小田急のロマンスカーに乗っていた時、彦さんはみんなが財布の中身を心配しているのに酒とビールとつまみを容赦なく注文した。貧乏の時ぐらい贅沢しなければつまらんというのが、彦さんの主張だった。こんな話が散発的にでるのだが、それぞれが彦さんのことを深く噛みしめているのか、話は展開しなかった。
大島大橋のたもとで車を止め、瀬戸内海を眺めた。鉄橋の下では潮が激流となりざあざあと音を立てて流れていた。周防大島が村上水軍の根拠地となっているという理由がよくわかった。潮の流れにのって攻撃し、潮流とともに去っていく。地の利を生かせば、水軍も海賊も航行する船を襲うのはたやすい。こんな景色さえ、彦さんのイメージに重なる。柳井高校をでて早稲田大学にはいるため上京し、間もなく学生運動に身を投じた。破壊的な過激派という悪口雑言は家族や故郷の人々の耳にも届き、テレビのプロデューサーやキャスターとして名をなしてからも、彦さんは故郷に帰る機会を持たなかった。今こうして骨壷にはいり、沈黙のうちに生涯で一度の帰郷を果たす。
「見てください。美しい海でしょうが。この島じゃ葬式の時が一番にぎわうけえ。ここは六十五歳以上の高齢化率が日本一じゃ。なんでも日本一はいいことじゃろ」
島にはいって急に元気になった運転手は、曲がりくねった道にうまくハンドルをあわせながら大声で話した。本当に澄んだ海だった。彦さんがいた子供の頃、橋も道路もなかったのでよそ者がたくさん渡ってきたとも思えず、海は潮さえ気をつければ最高の遊び場だったろう。三十年近い付き合いの中で、彦さんから故郷の話を聞いたことはなかったはずだ。彦さんにとって故郷は捨てたもので、また故郷に捨てられたものでもあったろう。私ははじめてきた島なのに、前に訪れたことがあるような気がするのが不思議だった。マイクロバスに同乗した真木にも娘さんにも友人たちにも、はじめての土地である。全員が同じ気持ちになっていると、私には思えた。
人工海浜に建てられた地中海風というふれ込みの豪華なリゾートホテルにチェックインし、またマイクロバスに乗る。
彦さんの故郷は大島に寄り添うようにしてある、面積一平方キロに足りない沖家室島だった。三百メートルほどの海峡を昔はポンポン蒸気船が結んでいたそうだが、今は立派な鉄橋が架かっていて陸つづきと一緒だ。
かつて家室千軒といわれ、漁師やそれにともなう商人の家が軒をつらねていたということだ。いわれてみればそんな面影も残っているなと感じられる暗い路地の坂を登ったところに、龍宮門のような山門を持った泊清寺がある。この島の全戸が泊清寺の檀家で、五年に一度五日間の寺篭りの行に参加すると、戒名が授与されるという。この島の人のほとんどは自分の戒名を持っているということだ。
住職をはじめ地元の人たちが私たちの到着を待っていて、古い大きな本堂でさっそく彦さんの三回忌の法要がはじまった。観無量寿経を読み、焼香をすると、住職が用意しておいてくれた卒塔婆と、東京から持参した骨壷とを持って立つ。裏の墓所は傾斜地に段々畑のように刻んであった。原色の造花がそれぞれの墓に飾ってあり、この世のものではないようななにやら華やいだ雰囲気があった。飾られているのはプラスチックの造花であったが、墓はどれも掃除がゆきとどいている。彦さんの家の墓は段の上のほうにあった。墓石を動かすと、骨を納めておく部屋がある。娘さんが持ってきた骨壷を真木が受け取り、少し躊躇してから、彦さんの骨を中にこぼした。欠片か粉になっている彦さんの骨は、先にすでにはいっている御先祖の骨にまじる。石でできた骨壷を私も持たせてもらい、少しこぼした。みんなも少しずつこぼした。重い墓石を動かして蓋を閉じ、顔を上げると、正面に限りなく透きとおった青い海があった。彦さんはこれから朝も昼も晩もこの海を眺めるのだ。そこには永遠の時間がたゆたっているかのように、私にも見えた。
(『晩年』第一章より抜粋)
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