書名:ディオニュソスの労働――国家形態批判

者: アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート 訳者:長原豊/崎山政毅/酒井隆史

定価:6090円 (本体価格5800円+税290円)
サイズ:A5判上製 
468ページ 刊行日2008年4月 
ISBN978-4-409-03074-5 (現代思想)

訳者あとがき

目次

謝辞 
序――ディオニュソス 
I
第一章 批判としてのコミュニズム

  恐竜/コミュニズム/労働/主体/ポストモダン/さまざまなマルクス主義/道程 - 経路

第二章 ケインズと国家の資本主義的理論
  近代国家の時期区分――基本的契機としての一九二九年/ケインズと一九一七―二九年という時代――十月革命と資本主義の構造への衝撃についての理解/ケイ
 ンズにおける政治から科学へのシフト――世界大恐慌と資本内部の労働者階級/資本主義的再編と社会国家

第三章 憲法における労働
  1 問題設定への序論
 労働の憲法的な社会的妥当性/社会的資本と社会的労働/第一の帰結――ブルジョワ的範疇としての労働
  第二の帰結――資本の科学/法治国家と社会国家
 2 労働の憲法化過程:資本主義的発展における労働力の憲法化の歴史過程/第一の司法的帰結――諸源泉のシステムの危機/第二の司法的帰結――法の主権
 理論の危機/社会国家における権利 - 法の具体的産出様式のあり様/社会国家の生産的源泉
 3 労働の憲法化のモデル:労働の憲法化からそのモデルへ/権利 - 法の一般理論とモデル構築/抽象的労働のモデルの具体化の諸条件/資本の啓蒙/社会
 国家
 4 ブルジョワ的権威理論モデルの批判/弁証法の慢性疾患/社会的資本における従属/資本の社会的組織化/諸矛盾から敵対へ/結論という装いのもとで――
 労働者主義的批判は可能だろうか?

II
第四章 コミュニズムの国家論

 修正主義の伝統とその国家概念/問題を位置づける――マルクス的アプローチ/理論の現段階――ネオ・グラムシ派のヴァリエーション3
 問題の再設定――分配から生産へ/国家の構造的分析の諸展開――組織化のメカニズム/国家の構造的分析の諸展開――危機論における国家/一つの挿話――
 ブルジョワ理論の逃げ口上、ほのめかし、自己批判/問題の再提起――国家、階級闘争、そしてコミュニズムへの移行

第五章 国家と公共支出
  総括的な問題構成――解釈の諸条件と現実の諸条件/第一の分析的アプローチ――生産的労働の社会的統一に向かう傾向の評価要素/第二の分析的アプローチ 
 ――社会的蓄積、国家管理、正統性の資本主義的基盤の諸矛盾をめぐって/イタリアにおける公共支出の危機/危機と再構造化の時期における新たなプロレタリア
 的主体/公共支出の蓄積と正統化諸機能のさらなる考察/制度的労働運動のイデオロギー的崩壊――改良主義と抑圧/新たな戦略のための古い戦術

III
第六章 ポストモダン法と市民社会の消滅

  ロールズと革命/ポストモダン法と憲法〔=政体構成〕における労働の亡霊/システムの精髄――反照と均衡/弱い主体と回避の政治/ネオリベラリズムの強い
 国家――八〇年代における危機と革命/共通善と共同体の主体/国家の自律――道徳的福祉/国家への社会の実質的包摂

第七章 構成的権力の潜勢力
  現実リアルの社会主義の危機――自由の空間/ポストモダン国家の逆説/ポストモダン国家の社会的基礎と現存するコミュニズムの前提条件/近代性内部のさまざま
 なオルタナティヴについての考察/存在論と構成/暴力の実践的批判/ポストモダン国家の規範的展開と強化/法的改良主義の幻想/構成的主体の系譜学

原註/訳者あとがき/引照文献/索引


著者・者・内容紹介

アントニオ・ネグリ

1933年生。元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授。『転覆の政治学』(小倉利丸訳、現代企画室、2000)、『構成的権力』(杉村昌昭・斉藤悦則訳、松籟社、1999)
『マルクスを超えるマルクス』(清水和巳ほか訳、作品社、2003)、ハートとの共著に、『〈帝国〉』(水嶋一憲ほか訳、以文社、2003)、『マルチチュード』(幾島幸子訳、
日本放送出版協会、2005)など。

マイケル・ハート

1960年生。デューク大学准教授(比較文学)。パリ第8大学で、当時、フランスに亡命中のネグリに師事。ネグリとの共著のほか、『ドゥルーズの哲学』(田代真ほか訳、法政大学出版局、2003)など。


 

長原 豊  ながはら・ゆたか
1952年生。法政大学教授。『天皇制国家と農民』(日本経済評論社,1989)、ジジェク『迫り来る革命』(岩波書店,2004)など。


崎山政毅  さきやま・まさき
1961年生。立命館大学教授。『サバルタンと歴史』(青土社,2001)、『思考のフロンティア 資本』(岩波書店,2004)、『異郷の死』(共編,人文書院,2007)など。


酒井隆史  さかい・たかし
1965年生。大阪府立大学准教授。『自由論』(青土社,2001)、『暴力の哲学』(河出書房新社,2004)、ネグリ&ハート『〈帝国〉』(共訳,以文社,2003)など。


 『帝国』以前の最重要著作、いよいよ登場!
 比類なきユニークさにみちた、革命をめぐる真摯な思考のオーケストレーション

三十年強の長きにわたるネグリ思想の一大集積。共和制の問題、社会的賃金の問題、国家の枠組みを超克する「構成的権力」の諸問題等々、また「マルチチュード」「非物質的労働」等々の論点など、後に『〈帝国〉』や『マルチチュード』で展開されることになる基本的な問題設定・論点のすべてがすでに本書で提示されており、現在のネグリのスプリングボードともいえる最重要な著作である。「『〈帝国〉』、『マルチチュード』を『資本論』に喩えるとすれば、本書はその二冊に対する『経済学批判要綱』をはじめとした草稿群と位置づけることができる」(訳者あとがきより) 


訳者あとがき

 本書は、Antonio Negri & Michael Hardt, Labor of Dionysus : A Critique of the State-Form, Minneapolis, University of Minnesota Press, 1994 の全訳である。ようやく日本語で届けることができるようになった本書をもって、現在にいたるまでのアントニオ・ネグリの革命運動・社会運動にかかわる主要な著作(共著のものも含めて)はほぼ翻訳が出揃うこととなった。
 さて、ネグリに関しては、『転覆の政治学』(小倉利丸訳、現代企画室)、『構成的権力』(杉村昌昭・斉藤悦則訳、松籟社)、『マルクスを超えるマルクス』(清水和巳他訳、作品社)などで密度の濃い紹介がすでになされている。また、ハートに関しては、『ドゥルーズの哲学』(田代真他訳、法政大学出版局)および『 〈帝国〉』(水嶋一憲他訳、以文社)に詳しい。そのため、ここでは屋上屋を重ねるような言及を避けて、本書の位置づけと批判的論点とを述べておきたい。

 本書『ディオニュソスの労働』は、ネグリの他の著作と少しばかり色合いを異にしている。それは次のような理由によるものだ。
 つまり本書が、一九六〇年代に書かれた政治論文(第 I 部)から、七〇年代におけるそれら(第II部)、そして九〇年代に入ってからのハートとの協働にもとづく新たな模索の諸論考(第III部)という、三十年強の長きにわたる思考の結果からなっていること。
 気をつけなければならないのは、本書に結実したネグリの三十年間はけっして直線的につながっているのではないという点である。
 第II部と第III部の見えないはざまには、国家的危機を契機としたアウトノミア運動の高揚から後退、「赤い旅団」の"理論的指導者"というフレーム・アップによる投獄、獄中からの国会議員立候補と当選、議員特権による出獄とその後のフランスへの亡命、敗北の総括と新たな可能性の模索にかたどられたフランスでの生活、といったネグリにとっての大きな変転があった(このあたりの事情については『未来への帰還』杉村昌昭訳、インパクト出版会を参照されたい)。
 この変転の期間には、自らの『経済学批判要綱』読解の核心を体系だてた『マルクスを超えるマルクス』、亡命者をとりまく政治的緊張にみちながらも希望を願い求めるフェリックス・ガタリとの共著『自由の新たな空間』(杉村昌昭訳、世界書院)の出版がさしはさまれている。
 さらに、ネグリとハートが強調するのは近代性の展開がこの変転の期間に断絶し、彼らのいう「ポストモダニズム」への決定的なシフトが起こったことである。それは一九八九年をメルクマールとする、「既存社会主義ブロック」の崩壊を基調低音としながら進行した、歴史的転機である。
 こうした転機を反映して、本書の第 I 部・第II部から第III部への間にははっきりと質的な違いが存在する。そしてその違いのありようは、さまざまな面に表出している。
 最初の二つのパートは地下活動で回覧するものを含む、中核的活動家(いわゆるカードル)を第一の読者と想定した政治論文からできあがっている。ハートの融通無碍な英語訳にあってもそれらの論文にそなわった文体の硬さはぬぐい去られてはいない。さらに、論文という形式においては端正さを欠いているものもある。
 たとえば第 I 部の第三章をみてほしい。これを十分に意を尽くした論考と呼ぶことはむずかしい。明快な指針をともなった結論が導き出されているわけでもない。この章はアクチュアルな問題と格闘しているネグリが経験した困難を如実に表現している。そのために、記された思考の行程にはいくつもの曲がり角があり、きわめて難解である。イタリア語の原文でもことは同様だ。英語版テクストへの訳をおこなった共著者マイケル・ハートに訳者の一人が確認したところ、ハート本人も原テクストの難解さを述べたうえで「とりあえず英語に訳した」という回答(?)をもらうことになった。
 いい加減、と言うなかれ。変革をめざす社会運動の具体的過程において、論議のためにこの論考は書かれ、まさしく論議の場に投げ込まれたのである。その意味でアカデミズムの観点からすれば未完成以外のなにものでもないこの論文は、理論作業を重視する活動家のあいだでの集団的な批判と検討の「たたき台」として提起されたノートととらえても差し支えないと思われる。だがしかし、あくまで方向性のレヴェルではあっても、批判的な協働のもとに検討されるべき主題はきちんと叙述の核におかれつづけている。
 また、ここで言及される論文や著作が西欧のものに集中する傾向があることに、読者は気づくことだろう。これはネグリをその一員とするイタリアの階級闘争(とくにイタリア新左翼)が有していた、たたかいの交流の中で相互に批判しあいながら問題を共有しようとしていた西欧諸国内での左派ネットワークをその基盤としているものである。その姿勢は、第 I 部・第II部をつらぬいている。
 こうしたありようが第部になると根底から変化し、想定上の読者の範囲は、非物質的労働||とりわけ知識労働や情報労働――にたずさわる多くの人びとへと開かれることになる。ネグリおよびハートがその知的格闘の中身を届かせようとする対象は、変革をになう新たな諸主体である。それらの主体は、「マルチチュード」とここでは名づけられ、潜在的な主体としての多数の人びとを含み込む。そして「マルチチュード」を生きる彼ら・彼女らにあてられた論考は、理論的な質の高さを保持しながらも、平明で柔軟な叙述であろういう試みが繰り返されている。
 第III部では、批判的言及の対象も、西欧からアメリカ合衆国の政治哲学へと重心をシフトする。このシフトがハートとの協働の文脈から要請されたものであるのは、理解に難くない。また、空前の矛盾をかかえこみながら、危機を慢性化することで生き延びるように変質したアメリカ資本主義のプレゼンスも指摘しないわけにはいかない。そればかりでなく、第~部までのような批判的参照関係を維持することがむずかしくなった、一九七〇年代末から八〇年代をつうじての西欧におけるラディカルな左翼の「鉛の時代」が、そこに影をおとしていることも見落としてはならないだろう。
 さらにそれを規定するようなマクロな事態の変化がある。ミッテラン社会党政権があらわにしたその資本主義的限界や、チェルノブイリ原発事故、「既存社会主義ブロック」の崩壊などなど……。いずれにせよ「従来のやりかた」を繰り返すことはすでにできなくなっていたのである。
 その意味で、第III部において問われているのは、革命的主体の集団的再興を新たな時代の具体的な諸文脈において真っ向からとらえようという課題なのである。しかしその課題は、結果として敗北におわったとはいえ、第 I 部においても第II部にあっても、第V部とは異なる文脈におけるそれぞれの危機的状況のさなかで、追求されてきたものにほかならない。
 このように本書は、第 I 部・II部の地平をふまえながらも、第V部でその内容をみずからアップデートし、状況の変容にそくした変更・修正がくわえられている。このことはたしかに紆余曲折の結果であるかもしれない。だがそれは同時に、さまざまな次元での革命をめぐる真摯な思考のオーケストレーションと呼ぶことができるものを生み出してもいる。
 そしてその思考のオーケストレーションは、並ぶものがないユニークさにみちている。
 最初の論文が書かれたときにはすでに、中華人民共和国の人民公社は国家的主軸をなしており、ユーゴスラヴィアの協同組合社会主義はソヴィエトとは異なる路線を着々と歩んでいた。しかしネグリ(とハート)はそのような類の現実に対して、いっさい妥協せず、ましてや拝跪することなどけっしてない。
 本書で展開される思考のもっとも重要な力は、妥協や途絶を峻拒するそうした強靭なラディカルさの持続に存している。「社会主義」と呼ばれた地獄の体制を緊張感をもって地獄の奥底に追いやり、搾取をゆるさない徹底した自由に結びつく新たな可能性をのびのびと提起することができているのも、この持続するラディカルさに由来している。

 さて、本書では『<帝国>』、『マルチチュード』(市田良彦・水嶋一憲監修、幾島幸子訳、日本放送出版協会)において展開されることになる基本的な問題設定と論点のほぼすべてが提示されている。
 たとえば、第 I 部で展開されているのは、ラディカルで動的な絶対的民主制としての共和制の問題である。同様に第~部での公共支出を賃金の問題として読み替える観点は、言うまでもなく社会的賃金の問題設定であり、第III部においては国家の枠組みを超克する「構成的権力」の諸問題や、「マルチチュード」、「非物質的労働」などの論点が前面におしだされる。その意味で『<帝国>』、『マルチチュード』を『資本論』とするならば、本書はその二冊に対する『経済学批判要綱』をはじめとした草稿群にあたるテクストにほかならない。
 そのような質と並行して、本書はネグリ(とハート)の思考を現代思想の圏域における重要なひとつとして考えることを可能にした著作である。それはマイケル・ハートとの出会いをつうじて実現された、ネグリのジル・ドゥルーズへの接近を一大契機としている。
 ドゥルーズの『記号と事件』(宮林寛訳、河出書房新社)には、『前未来(フチュール・アンテリウール)』誌のメンバーとしてのネグリによるドゥルーズへのインタヴューがおさめられている。たがいに異例な思考者であるこの二人のあいだのやりとりは、ハートの仲介によってはじめて可能なものであった。
 このインタヴュー中でネグリは、初々しいと言ってもよいほどの熱を込めて、「不正を一掃する革命的な生成変化はありえないか」とドゥルーズに尋ねている(ドゥルーズはさらっとかわしながら答えているのだが)。これは「生成変化」を主体性の相のもとに読み取るという、ネグリの一貫した姿勢がもたらした独自の観点によるものだろう。
 しかしこのようにドゥルーズさらにはフーコーといったネグリと同時代のフランス思想を主体性論の問題圏で読み解くのは、ネグリ個人の志向にとどまるものではない。そうした傾向性はイタリアにおける左派の広範な知的土壌にもとづいている。その土壌から生みだされ、提起されたものが、『 〈帝国〉』や『マルチチュード』へとつらなるユニークな問題設定と論点を支えているといっても過言ではない。この点をぬきにしてネグリたちの思考を現代思想の諸潮流のなかに位置づけることは不可能であろう。

 つづいて以下に、本書が提起するさまざまな論点のなかで、ふたつの問題にしぼって述べておきたい。
 まずは第 I 部における「法的コミュニズム」をめぐって。
 この部分で展開されているのは、ブルジョア法批判をつうじた、革命的な法の可能性である。模索されているのは、「既存社会主義」の圧制とはまったく異なる根本法である。それはプロレタリアート自身によって設定された原理と原則すなわち革命法(革命的憲法)の理にもとづく自己統治にほかならない。
 そしてこの革命法は、究極的な res publica(共通のもの)である。つまり別の言葉にすれば、それはラディカルで動的な絶対的民主制としての共和制であり、『 〈帝国〉』や『マルチチュード』で「共(ザ・コモン)」として提起されているものなのだ。
 このパートで基本的な定式としてふまえられているのは、一九二〇年代のソヴィエトにおける法理論論争の中心的なひとりであった、エフゲニー・パシュカーニスの考え方である。
 パシュカーニスは、『経済学批判序説』で述べられたマルクスの方法的前提をそのまま理論法学に導入することで、法の一般理論の場としての近代ブルジョア社会の構造をあぶりだそうとした。
 彼がとりいれたマルクスの方法的前提とは次のようなものである。

   ブルジョア社会は、もっとも発展した、もっとも多様な、歴史的生産組織である。それゆえ、それの諸関係を表現する諸範疇は、それの編成の理解は、同時に、すべて
  の滅亡した社会形態の編成と生産諸関係との洞察を可能にする」。それは、ブルジョア社会がこれらの社会諸形態の残片と諸要素をもってきずかれたものであって、そ
  のうちの部分的にまだ克服されていない遺物がこの社会のなかで余命を保っていたり、ただの予兆にすぎなかったものが成熟した意義をもつものにまで発展していたり
  する、等々だからである。人間の解剖は、猿の解剖のためのひとつの鍵である。反対に、より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自
  体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる。こうしてブルジョア経済は、古代その他の経済への鍵を提供する。しかしそれはけっして、すべての歴史的
  な区別を抹消して、すべての社会諸形態のうちにブルジョア的形態を見るような経済学者たちの方法でではない。〔……〕そのうえ、ブルジョア社会自体が発展の一つの
  対立的形態にすぎないから、以前の諸形態の諸関係は、ブルジョア社会においては、しばしばまったく萎縮した姿で見いだされるか、あるいはまた、まったく変わりはてた
  姿で見いだされるかするにすぎない。(資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集』第一巻、大月書店、一九八一年、五七―八頁)

 社会構成体の不可欠な要素として現在社会をおりなす、「過去の諸社会」の「萎縮した姿」「まったく変わりはてた姿」のさまざまな形態がかかえる本質的な差異を理性的認識によってえぐりだすこと。そして、それを概念化することをつうじて、現在に組み込まれた過去の社会の諸力を概念的に再構成し批判の対象へと転じること。その一連の作業がここには描かれている。そうして導き出されたブルジョワ社会への理論的・歴史的批判は、ブルジョワ社会の後に来るべき社会を構築するための導きの糸としてとらえられる。
 パシュカーニスはじつに誠実にこの方法にしたがって分析をおしすすめ、さらにマルクスの『ゴータ綱領批判』とレーニンの『国家と革命』に依拠して次のように考えた。
 価値・資本・利潤などの資本主義的な範疇は社会主義への発展的移行によって死滅する。だがそれは価値・資本・利潤などについての「新たなプロレタリア的諸範疇」の登場を意味するものではない。それとまったく同様に、ブルジョワ法の諸範疇(諸形態)の死滅は、プロレタリア法の新しい範疇によってとりかえられることを意味するものでは絶対にない、と。後に彼は粛清されるが、ここにはその遠因となったラディカルな「法の死滅」が構想されている。
 このパシュカーニス的な問題設定からすれば、新しい権力が制定・公布する法のもとでの新しい法的秩序を無邪気に言祝ぐことは決定的に避けられなければならない。その新しい権力がどれほど素晴らしい革命的主体によるものであってもである。なぜなら、「新しい法」への自然発生的な賛美までをもふくむ「法フェティシズム」には、過去へと完全に断絶すべき「ブルジョワ法の世界観」による断絶しがたい強力な影響がおよんでいるからである。
 この点からすれば、「パシュカーニスの定式を採用・発展させた」(本書三六頁)と述べるネグリとハートの立論を肯定的にうけとめることはどのようにすれば可能なのだろうか。絶対的な民主制としての共和制(それは国家を越える国家でありうる)であればよいのだろうか。問題は提起されたばかりなのである。

 もう一点は、非物質的労働の主体性にかかわる論点である。
 資本の側にとっても、労働者=マルチチュードの側にとっても、非物質的労働が可能にする知識資本・情報資本にかかわる敵対はもっとも核心的なものになっている。そして労働者=マルチチュードにとって肯定的な価値増殖である自己価値創出をたしかなものにすることが、焦眉の課題として登場している。ネグリとハートの論からすぐに得られるこの論点に異議はない。
 だが、労働者=マルチチュードの自己価値創出がどこかで資本の側に転倒させられる巧妙なメカニズムが今や構成されているのではないだろうか。そしてそのメカニズムのもと、現在の資本主義のグローバルな包括力によって転覆の契機が剥脱されてしまう状況は、主体性の確固たる構成を簡単にゆるさないだろう。つまり、肯定的に主体性をとらえようとする著者たちの姿勢はよしとしても、彼らの叙述は楽天的にすぎるのではないか、ということだ。なぜこうした不確かささがあるかというと、現在の資本主義の批判的解明が不十分であるからではないか。
 現在の条件からすれば、国際金融市場に端的に表現されるグローバル化した架空資本による支配を考察の対象とする必要があるだろう。その状況をもたらした利子生み資本形態は『経済学批判要綱』においては十分に展開されていない重大な対象であり、『要綱』主義者ネグリの現状分析の弱さがあらわになる論点でもある。
 さて、マルクスは利子生み資本(としての貨幣貸借)を次のようにとらえていた。すなわち、「貨幣または商品が貨幣または商品として売られるのではなく、自乗において、資本として、自分を増殖する貨幣または商品価値として、売られるのである」(『マルクス資本論草稿集』第七巻、大月書店、一九九五年、四〇八頁)。自乗というのは、いったん売られた貨幣あるいは価値が、めぐりめぐって自分を増殖させながらもとに戻ってくることをいう(銀行から借りた金に高い利子をつけて返さなければならない現実、下記のG−G′が「自乗」である)。
 こうした把握のうえで、利子生み資本の特徴は「物が今では資本として現われ、資本が単なる物として現われ、資本制的な生産過程および流通過程の総結果が物に固有な属性として現われるという形態」(同右)にあるとされる。つまり利子生み資本における「資本の物化」である。
 この資本の物化についてマルクスは、利子生み資本の範式G−G′を、G−W−G′という資本の生産過程と流通過程の統一をもとにして次のように考えていた。

 G−G′。われわれはここに資本の最初の出発点、すなわち定式G−W−G′における貨幣が両極G−G′(このG′は G+ΔG である)に縮約化されたもの、より多くの貨幣をつくりだす貨幣、を見いだす。それは、没感性的な[具体性を欠く]概括に収縮された、資本の最初の一般的な定式である。それは、完成された資本、すなわち、生産過程と流通過程との統一であり、それゆえ一定の期間に一定の剰余価値を生み出す資本、である。このことが、利子生み資本の形態においては、生産過程と流通過程とに媒介されずに、直接に現われる。資本は、利子の、自己自身の増殖の、神秘的で自己創造的な源泉として現われる。物(貨幣、商品、価値)が、いまや単なる物としてすでに資本であり、資本は単なる物として現われる。総再生産過程の結果が、物におのずからそなわる属性として現われる。(資本論翻訳委員会訳『資本論』第V巻a、新日本出版社、一九九七年、六六四頁)

 貨幣としての資本という物象同士の間の社会的関係G−W−G′が、利子生み資本の場合では媒介の位置からぬぐいさられてしまい、G−G′という両極に整約されてしまうわけである。つまり関係が消されてしまうのだ。そのことによって、われわれの前にあらわれる資本は物へと転化してしまい、資本の総生産過程の成果がそうした物(となった資本)それ自体に「おのずからそなわる属性」、つまり自然的属性として現象するというのである。
 資本という物象が物へと転化してあらわれ、資本の総生産過程の成果がその物の自然的属性としてあらわれるというこの事態は、いったいどのような状況を生みだすのか。
 経済的三位一体範式をめぐって、直接的生産過程と流通過程の統一にかかわる分析に移る箇所での叙述が、それを明らかにする手がかりを提出している。

 しかしさらに現実的生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、新たな諸姿容を――そこでは、ますます内的連関の脈絡が消えうせ、生産諸関係が互いに自立化し、価値の構成諸部分が互いに自立的な諸形態に骨化する、そのような新たな諸姿容――を生み出す。(『資本論』第III巻b、一四五五―六一頁)

 人間に資本の姿がどのように見えるか(姿容)、その認識がここでは描かれている。それは、内的関連の脈絡を失い、互いに自立し、ただの骨格と化したバラバラのかたちであらわれてくるというのである。

 利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものから完全に引き離され、賃労働の搾取という機能からではなく資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。これに対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなく、それ自身の独立な源泉としての資本から発生するように見える。(『資本論』第III巻b、一四五七頁)

 剰余価値の形態の自立化と、それにともなって分子化されただけでなく何の力の外挿もないままに自己運動をつづけるような仮象が登場する。そうした状況がここでは描かれている。そのすぐあとにマルクスは社会的諸関係の物化を「素材的な生とその歴史的・社会的規定性との直接的な癒着」(『資本論』第V巻b、一四五八頁)と規定している。このことを考えあわせると、その癒着のもとで、生きた労働の質、さらに直接的に生産された諸商品の使用価値にかかわる自然的属性は、まるで搾取とも剰余価値とも無関係であるばかりか、相互に無関係な物として立ち現れてくるのである。
 この段階にあっては、人間が実感できる次元において資本はそのものとしては登場してこない。それが具体的に感知できるのは何らかの政治経済的プロジェクトをつうじて組織される労働においてである。だが、その現われは資本との「無関係」において露骨な搾取をすでに示さないものとなっている。つまり、資本の側からの敵対のメカニズムがまったく新しい次元での高度なステルス能力をそなえてしまったのだ。
 そのため、生きた労働が、資本との「無関係」によって、そのまま「生きた労働と思われる活動や実践」に転じてしまう。この変質の結果として登場するのは、最高度に洗練され発展した搾取がきわめて巧妙におこなわれる場にほかならない。かつては考えられなかった、新たな搾取をめぐる事態がそこかしこで起こるわけである。非物質的労働がこの惑星のすみずみにまで拡がっている現在は、このような時代なのだ。物象化の力がきわまり、疎外さえも物象化されて、敵対が彼方に遠ざかってしまったように感じられる時代なのである。
 では、そのただなかで、内在的に敵対を前面化し、生きた労働を真にわがものにするためにはどうしたらよいのだろうか。

 これらの論点への問いは、いちゃもんをつけるために発されているわけではない。また、それらに今すぐ白黒をつけるべきだと主張するものでもない。問うことは考えることである。そして考察を呼び込む問いは読みから生みだされ、新しい問題設定へとつながる道筋の共有をもとめる。
 ネグリとハートが言うように、肯定的であれ否定的であれ、可能性へと開かれた能動的な力の理による発露を批判と呼ぶならば、本書の読者は読みをつうじてまさしく批判の協働へと自らを導いていることになるだろう。その協働は、もっとも否定的な在り様の中に、もっとも肯定的な潜在可能性を見出し、その可能性を現実のものにするための不可欠な基盤である。そしてその基盤を打ち立てていく作業はつねに「これから」なのだ。

 本書の翻訳を企画してから、ほんとうに長い時間が経ってしまった。訳者それぞれがかかえていた事情がときにネガティヴな相乗効果を生んでしまったにしても、翻訳作業の遅れについては弁解の余地はない。我慢強く待ってくださった皆さんに謝罪するとともに、心から感謝したいと思う。

 訳の進め方は、序文と第T部を長原、第U部を崎山、第V部を酒井がまず担当し、その後に相互に訳文を検討した上で修正意見を出し合うという形式をとった。内容に関して述べると、原テクストではひとつの概念で記されているが、いくつかの訳語があてられうる表現も多々存在している。そうした表現に対しては、できるかぎりひとつの訳語を選ぶように努めた。
 また、索引は原書の形式をふまえながら、内容に即して少しばかり拡充してある。

〈略〉

  二〇〇八年春
                                                                                    訳者を代表して  崎山政毅  

追記:この「あとがき」の最終的な仕上げのただなかに、来日が予定されていたネグリが法務省によって入国を拒否されたという、突然の知らせが飛び込んできた。日本に向かう飛行機に搭乗する数十時間前に、政治犯であることの「証明書類」を提出せよ、さもなくば出入国管理法でヴィザを発行しない、というきわめて理不尽な命令が在仏日本大使館の法務官僚から出されたということである。日本という国家がみずから腐敗の程度を示してくれたとはいえ、あまりの愚かさにあきれてものが言えない。
 ネグリからは、「日本の友人の皆さんへ」と題された以下のメッセージが届けられている。

 皆さん、
  まったく予期せぬ一連の事態が出来し、私たちは訪日をあきらめざるを得なくなりました。この訪日にどれほどの喜びを覚えていたことか! 活発な討論、知的な出会
 い、 さまざまな交流と協働に、すでに思いをめぐらせていました。

  およそ半年前、私たちは国際文化会館の多大な助力を得て、次のように知りました。EU加盟国市民は日本への入国に際し、賃金が発生しないかぎり査証を申請する
 必要はない、と。用心のため、私たちは在仏日本大使館にも問い合わせましたが、なんら問題はありませんでしたし、完璧でした。

  ところが二日前の三月一七日(月)、私たちは予期に反して査証申請を求められたのです。査証に関する規則変更があったわけではないにもかかわらずです。私たち
 はパリの日本大使館に急行し、書類に必要事項をすべて記入し、一式書類(招聘状、イベントプログラム、飛行機チケット)も提示しました。すると翌一八日、私たちは一
 九七〇年代以降のトニの政治的過去と法的地位に関する記録をそれに加えて提出するよう求められたのです。これは遠い昔に遡る膨大な量のイタリア語書類であり、も
 ちろん私たちの手元にもありません。そして、この五年間にトニが訪れた二二カ国のどこも、そんな書類を求めたことはありませんでした。

  飛行機は、今朝パリを飛び立ち、私たちはパリに残りました。

  大きな失望をもって私たちは訪日を断念します。

  数カ月にわたり訪日を準備してくださったすべての皆さん(木幡教授、市田教授、園田氏――彼は日々の貴重な助力者でした――、翻訳者の方々、諸大学の関係者の
 方々、そして学生の皆さん)に対し、私たちは申し上げたい。あなたたちの友情に、遠くからですが、ずっと感謝してきました。私たちはこの友情がこれからも大きくなり続
 けることを強く願っています。皆さんの仕事がどれほど大変だったかよく分かります。皆さんに対しては、ただ賛辞があるばかりです。

  パーティは延期されただけで、まもなく皆さんの元へ伺う機会があるだろう、と信じたい気持ちです。

  友情の念と残念な思いを込めて……

  二〇〇八年三月一九日 パリにて

  ジュディット・ルヴェル
  アントニオ・ネグリ       (市田良彦訳)

 今回の弾圧は、直接的にはこの初夏に予定されているG8サミットに彼が与える「悪影響」を抑止することが目的であることは明らかだ。だがそれだけではない。国境を越えた社会運動の結合と連帯を「テロリズム」や「越境的組織犯罪」などと規定し自由をおしつぶそうとする圧迫が、ますます強まっている。
 著者をわれわれがほんとうに歓迎できるようになるには、たたかいのさまざまな回路をつくりだし結び合っていく批判と実践が不可欠であることは、言うまでもない。


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