格差社会とベーシック・インカム― 第1回(06/09/15)

小沢修司


   はじめに

 長らく低迷していた株価が上昇し、景気は回復していると言われている。その反面、所得の格差は拡大し、持てる者と持たざる者との間の溝は拡大し、「勝ち組」、「負け組」といった言葉が世の中を賑わし、「負け組」の絶望が日本社会を引き裂くという「希望格差社会」のキャッチコピーは私たちの共感を呼ぶ。働き方を巡っても、正規雇用の職にありながら長時間労働のため自由時間が持てず、疲労困憊し、恋人との出会いや語らいの時が持てず、家族生活もままならず、いつ定職を失うかわからないという、迫り来る不安におびえながら日々の暮らしに追われる人々がいる。かと思えば、パート、アルバイト、派遣など非正規雇用のもと低賃金で無権利、不安定な仕事に生活の余裕もなく、人生の将来設計もままならず結婚や家族生活から疎外される人々がいる。長く続く失業状態で社会生活への参加から疎外されている人々もいる。「ワーキング・プア(働く貧困者)」という言葉も見事復活した!

 人間の生きる力、意欲や活力を喪失させ、人間から希望を奪い取るなんて、何かがおかしい。悲鳴をあげているのは、人間の生活である。生活の営みとしての経済のあり方がおかしくなっている。人間が織りなす社会のあり方が問われている。人間の生活を支える社会的制度や基盤はどうあるべきか。いまこそ、人間の生活を支える公共政策のあり方を問わねばならない。

 ひるがえって考えてみよう。私たちの生活を支えてくれるはずの社会的制度、社会的基盤の現状はどうなっているのか? 社会保障制度の改革は、「持続可能な社会保障を」という主張によって、高まる費用圧力に見合う負担強化の側面だけで論じられたりしている。税制改革も個人所得課税の見直しが、各種の所得控除を廃止するという課税強化の方向で進められている。地方分権化、「三位一体改革」のかけ声のもとで、自立する基盤を強化するということで市町村合併が押しつけられ、地域における住民の暮らしを支える自治体の公共政策も、NPM、独立行政法人化や指定管理者制度、市場化テストの導入など新たな局面の進行が地域における人間の生活に混乱をもたらしている。

 こうした中、地域社会における人間関係の希薄化が進み、人々のつながりや連帯感の解体を修復する取組への期待が高まっている。ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)に関心が寄せられ、コミュニティはいうに及ばず、コモンズという言葉が登場したりする。「共同体の復活」である。これは地域社会を巡ってだけではない。家族においてもしかりである。もちろん、共同体の再建という場合、かつての前近代的で封建的な、人々の自由を束縛する息苦しい共同体の復活が目指されて良いわけはない。自立した個が相互に築き会う自由な共同社会としての共同体の再建が、地域においても家族においても望まれている。

 以上のような、人間の生活とそれを支える社会的制度を巡る問題状況をどのように理解すればいいのだろうか? もちろん、今日の状況は「構造改革」、「規制緩和」を旗印にした新自由主義的な経済運営・公共政策がもたらした側面が強い。その責任は厳しく追及されなくてはならない。だが、追求と同時に、事態の深部で進行する基礎過程の変化をも見定めながら新しい社会制度や公共政策の姿を提示しなくてはならない。人間の生活とは何なのか、生活を支える社会的制度や社会的基盤はどうあるべきで、そのための公共政策はどうあるべきなのか。このことを解明したい、というのが本連載を始めるにあたっての強い思いである。

 その場合、切り口はベーシック・インカム構想となる。ベーシック・インカム(以下、BIと記す)とは、日本流にいえば、日本国憲法が国民に保障している「健康で文化的な生活」を維持するのに必要な最低限の所得ということになり、この所得を就労の有無、結婚の有無を問わず、全ての個人に無条件で支給しようというのがBI構想である。機能不全を起こしている社会保障制度における所得保障(現金給付)部分をBI支給に切り替えようというものである。したがって、「社会保険」としての年金、「手当」としての児童手当、「扶助」としての生活扶助などなどは廃止する。

長期にわたる就労をベースにした長い加入(拠出)期間によって初めて受給資格が得られる年金、しかも将来は先細りが不可避とされる。所得制限付きで支給金額もお粗末な児童手当。「ミーンズテスト」で厳しく選別され「自立助長」とはいまなおかけ離れている生活保護。これら現行制度の問題点は、働いて賃金(所得)を稼ぎ家族で生活する、このいわば「当たり前」と思える生活原理を前提として社会保障制度が築かれ、自前の生活が困難となった時に「セーフティネット」として公的扶助が例外的に出動するという制度設計そのものにある。働いても生活できない! 働きたくても職がない! 働くことがその日暮らしの「ゼニ稼ぎ」に終始し人間にとっての労働の尊厳が疎んじられている! 家族の絆の強調は美しく聞こえる、だが、生活の基盤が破壊され個々人の自由な生き方が疎外された中での「絆」の強調は逆効果を引き起こす可能性もあろう。雇用労働(有償雇用)ならびに「標準家族」(稼ぎ手としての男性と専業主婦としての女性からなる)を「当たり前」の姿として築き上げられてきた今日の社会保障制度やさまざまな社会経済システムに代わって、個の自立を支える新たな社会的な仕組みを作り上げていこう、これがBI構想である。このBI構想を切り口に、人間の生活を考え、生活を支える社会的制度や基盤、そして公共政策のあり方を探りたいのである。

 BI構想は、単なる社会保障制度の改革構想で終わらない。

BI構想は、いわば労働と所得を切り離すところに本質的特徴がある。自ら働いて稼いだ賃金(所得)に基づいて生活を行うという資本主義的な生活原理とは、労働にかかわらず所得保障を行うというBI的な生活原理は根底的にぶつかり合う。したがって、射程は資本主義社会の成立、発展、そして将来の社会像に至るまで広範囲に広がる。BI論の系譜が資本主義成立の初期にまでたどることができるのはそのためである。

土地(生産手段)との関係を強制的に切り離され、自らの労働力を販売して賃金を得ることなしには生活の術をもてなくされ、各地を転々と放浪させられる人々に、土地を奪われたことのいわば代償としてBI(当時は別の呼び名)を支給することで人間生存の社会的基盤を付与しようという提案は、出るべくして出された構想であろう。

とはいえ、BI論自体は通例の社会主義論とも異なっている。労働と所得の関係を切り離して「すべての人に所得を保障する」とはいえ、BIが提供する最低生活保障を超えて働こうとするとき、労働に見合う対価として賃金が支払われることは資本主義社会と何の変わりはない。最低限の生活保障というスタートラインの平等、機会均等はすべての人に保障するという点では、ある意味社会主義的ともいえるかもしれないが、好きな仕事(稼ぎの良い仕事も、生き甲斐重視の仕事も)に思う存分従事しようという労働意欲は確保されるという点では、ある意味資本主義の積極面を引き継いでいるといえよう。

このようなBI論だが、大括りにBIと記しているとはいえ、さまざまな論者や主張が含まれている。私は税源を勤労所得税に求めているが、環境税に求める論者もいる。無条件給付を主張する者もいれば、参加所得や地域コミュニティ活動への従事を条件にした市民手当を主張する者もいる。変形バージョンとしてフリードマンが主張した負の所得税もある。エコロジストが好む議論やフェミニストが好んだり嫌ったりする議論もある。

このようなBIを、私は資本主義発展が呼び寄せた必然として説明するつもりである。資本主義発展の現段階はBIを必然的に呼び寄せる。だが、BIそれ自体は資本主義を終わらせることはない。いわば「資本と労働との対抗関係」をより人間的な形で鮮明にしていくのではないか。この点、労働時間短縮についてのマルクスの評価と共鳴する。詳しくは、連載で説明しよう。

 おおよその連載内容は、次の通り(予定)。

 日本へのBI導入の姿

 「ワーキングプア(働く貧困者)」、雇用破壊とBI

 ソーシャルキャピタル(社会関係資本)、地域での人々のつながりとBI

 家族の多様な姿とBI

 環境、農業とBI

 社会保障の視点からみたBI

 税制の変化とBI

 資本主義、社会主義とBI

 世界の中のBI、BIの系譜と展開

 「持続可能な福祉社会」を目指す公共政策とBI

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小沢修司(おざわ・しゅうじ)/1952年生れ。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。現在、京都府立大学福祉社会学部教授。著書に、『経済がみえる 元気がみえる』(法律文化社、1992年)、『生活経済学』(文理閣、2000年)、『福祉社会と社会保障改革――ベーシック・インカム構想の新地平』(高管出版、2002年)など。


© Shuji Ozawa
 2006/9
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