「壁と卵」の現代中国論 梶谷懐 |
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第一回 自己実現的な「制度」と中国産食品の安全性 はじめに 2010年5月、中国では上海万博が開幕し、世界経済危機の影響に見舞われながらも、順調に高度成長を軌道に乗せていることを内外に印象付けた。2年前の北京オリンピックに続き、このような華やかなイベントが行われている反面で、日本では依然として中国に関して厳しい見方が続いている。 たしかにギョーザ事件やメラミン入りの牛乳など食の安全の問題、グーグルとの確執に代表されるインターネットの検閲、若い工員の自殺が相次ぐほどの工場の過酷な労働条件、そして続発する農民暴動や少数民族の抵抗運動……社会のあちこちで様々な矛盾が起きていることが広く知られるようになった以上、その経済成長を手放しで礼賛することには抵抗があるし、中国共産党に共感を持つのはなおさら難しいかもしれない。 しかし、そこで少し立ち止まって考えてみよう。そこであなたがイメージする「中国」とは一体なんだろうか? 中国という国家や中国共産党と、そこに住む人々を混同してはいけない、そのくらいは当たり前のことだ、と思うかもしれない。しかし、そのことを頭ではわかっていても、私たちは、中国を一つの「システム」とみなし、あるときはそれを批判し、あるときは擁護することに、無意識のうちに慣れてしまっているのではないだろうか。 この連載のタイトルに用いた「壁と卵」とは、いうまでもなく、2008年暮れのイスラエルのガザ侵攻、という現実を前に、作家の村上春樹がエルサレム賞の受賞スピーチで用い、有名になったメタファーである。そのような背景から、「壁」とは国家や軍隊などの圧倒的な力をもつシステムを指し、そして「卵」とは、システムに対峙する際の壊れやすい、脆弱な個人のことを指す、と一般的に理解されてきた。 市場経済化のもとで高度経済成長に邁進する中国に関して、このような冷徹なシステムとしての「壁」の存在を感じさせる出来事と言えば、なんといっても1989年の天安門事件があげられるだろう。もう20年も前の事件であるにも関わらず、その全体像がほとんど解明されていないため、趙紫陽や李鵬など、当時の共産党指導者の「回想録」や「日記」が公表されるたびに多大な関心を呼ぶという現象がいまだに続いている。また、2008年当時の民主化運動の精神を受け継ぐ形で、より開かれた中国の政治体制と社会の在り方を訴えた「零八憲章」がインターネットなどを通じて公表され、著名人が相次いで署名するなど世界的に大きな関心を呼んだ。それと前後して、天安門事件の発端となった民主化運動に深くかかわり、その後も政府による武力弾圧を批判し続けてきた作家の劉暁波氏が、突如中国当局に拘束され、その後国家政権転覆扇動罪11年の判決を受けるなど、国家による民主化運動の抑圧が、決して過去のものとなっていないことを思い起こさせた。 より新しい出来事としては2008年のチベット、および2009年にウルムチで生じた民族間の衝突が思い出される。たとえばウルムチでの大規模なウイグル人による騒乱が生じたとき、そこで生じているのは「卵」と「卵」のいがみ合いではないか(http://21chinanews.blog38.fc2.com/blog-entry-117.html)、と指摘した日本人ブロガーがいた。ウルムチでの騒乱のきっかけは広東省韶関市のおもちゃ工場でのウイグル人工員への暴力行為が、インターネットの動画サイトで流れたことだったといわれる。「「卵」と「卵」のいがみ合い」という表現には、沿海部の工場で低賃金労働に従事する労働者が、その不満を資本に対してではなく、より弱い立場の少数民族労働者にぶつけ、それが民族間の対立に発展するやりきれなさが込められている。 もちろん、実際にラサやウルムチで生じたことについては解明されていない点があまりにも多いし、政府は一貫して、これらの騒乱は海外の「三股勢力(「民族分裂主義者」、「国際テロリスト」、「宗教的過激分子」)の仕業だと言い続けている。しかし、そのこと自体が、中国政府が意図的に情報の「壁」を作り出して、民族問題を抱える地域を外界から遮断した結果に他ならない。事件後、半年以上の間、新疆ウイグル自治区内では事実上インターネットへの接続が禁止されていたし、国際電話などもかけることができなかった。このようなインターネット接続の規制をまさに強大な国家権力の象徴である万里の長城となぞらえて「Great Fire Wall(巨大な防火壁)」と名付けてそれを批判し、「壁を超える」ことを目指すネットユーザーたちの動きも一貫して続いている。たとえば、ツイッターで#GFWというタグを使えば、政府規制を批判するつぶやきが毎日大量に流れているのを検索することができる。 このように、「壁」=システム=国家・軍隊・官僚組織、という図式は、現代中国に関しては非常に描きやすいものだ、といってよいだろう。しかし、同時に、村上が同じ演説の中で、このような発言をしていることも忘れてはならないだろう。「我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれはありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」。 以下では、この村上の言葉、特にその最後のフレーズに徹底的にこだわってみようと思う。「我々がシステムを作った」、とは、いったいどのようなことを意味しているのだろうか? ここで言われている「システム」というのは、果たして、軍隊や警察に代表されるようなハードなものに限定されるのだろうか? それは、たとえばわれわれの経済活動とは、無縁のものなのだろうか?
システムとしての「制度」 「個人」と「システム」の関係を扱った学問というとまず社会学のことが頭に浮かぶかもしれない。しかし、以下ではあくまで筆者が比較的詳しい、経済学の枠の中で考えてみよう。 経済学において、「卵」にあたるものはもちろん「個人」であるが、「壁」にあたるものは、さまざまな経済・社会的な「制度」だ、といえるだろう。現代経済学では、そのような「制度」をどう扱うのか、ということが重要なテーマの一つとなってきた。その中で主流を占めてきたのは、「制度」を経済主体の行動に制約を課すルールや契約と同義にとらえる、という立場だった。その中の代表的なものである、ロナルド・コースや、オリバー・ウィリアムソンといった経済学者により研究が進められた取引費用理論は、取引にかかるコストを最小化するように制度や組織が形成されることが経済成長を促進させる、ということを強調している。 それに対し「歴史制度分析」といわれる分析手法の第一人者である、アブナー・グライフは、「制度」というものをより広範な、「相互に関係するルール・予想・規範・組織のシステム」として捉えることを提唱している(グライフ、2009)。グライフは、たとえば法律などの社会的ルールは、それがきちんと守られるかどうかについての人々の予想、あるいは内的な行動規範があってはじめて、一つのシステムとしてとして機能する、という点を強調している。ルールや法律は、人がそれに従おうという動機を持たない限り、実際の人々の行動に影響を与えることはないからだ。 たとえば、途上国にバックパック旅行に出かけたときに、警官に呼び止められていちゃもんをつけられ、「見逃してやるから金を渡せ」と賄賂を請求された、という経験がある人はいないだろうか。しかしどこの国でも、警官がそうやって賄賂をもらうことを合法的に認めている、ということはありえない。つまり、あくまでもルールの上では賄賂は禁じられているのだ。なのに、なぜある国では警官は賄賂を要求せず、ある国ではそれが横行するのか。ここに、ルールや法律はそれがあるだけでは十分ではなく、あくまでもそれがきちんと守られるかどうかについての「予想」や「内的規範」が重要だという根拠がある。 誰もが「警官は腐敗している」と思っている社会では、そうではないところよりも実際に腐敗した警官に出会いやすい。そのような社会では、警官の腐敗が告発される可能性が低いからだ。このような状況のもとで、人々の警官の腐敗に対する予想は「自己実現的(self-enforcing)」である、とみなすことができるだろう。すなわち、他者が期待されている行動に従うという(警官は賄賂を要求するだろう、という)予想を各個人が持っている場合には、自らも期待されている行動(賄賂の受け渡しをする)に従うことが最適になるのだ。 このような自己実現的な制度の下では、人々は別に社会的ルールや法律を作ることに主体的に参加していなくても、「法律は守って(破って)当然」などという価値判断をもって生きることによって、無自覚のうちにそれに影響を与えている。そしてその結果形成される制度やシステムに日々守られたり、あるいはそこから害をこうむったりするのである。ここにこそ、私たちが生きるこの社会の複雑さ、恐ろしさがあるのではないだろうか。
現代中国社会と歴史的制度 グライフはまた、経済的制度を考えるとき、法体系や政治制度のようなフォーマルなものだけではなく、人々の予想や信念といったものの存在を重要視している。たとえば前者だけを先進国のものを真似て導入したとしても、人々の内的規範がそれを受け入れなければ、それは恐らく失敗する運命にあるからである。このことは、前者のようなフォーマルな市場が機能するかどうかということを考える際にも、歴史的な慣習のようなものが大きく影響していることを示唆するだろう。それはたぶん、現代中国における「制度」を考える場合にもあてはまる。 たとえば、経済史家の本野英一によれば、中国社会にあっては伝統的に動産や不動産それ自体は必ずしも「財産」と認識されておらず、したがってわれわれが通常「私的所有権」という言葉で理解しているような、それらの財産に対する包括的かつ排他的な権利も認められてこなかった。むしろ、中国において「財産権」とみなされていたのは、その土地を利用した農作物や商工業の経営のように、何らかの収益が取得可能な経済活動の独占権であったという(本野、2003)。 改革・開放後の中国の土地制度の変化も、実はこの伝統的な制度の復活の過程としてとらえることができよう。たとえば、人民公社の解体後広く採用された生産請負制度は、農村の土地が「集団所有」である、という社会主義経済の前提を残しつつ、個々の農民にその「請負権」を付与しようというものであった。重要なのは、これは土地に対する欧米的な意味での「使用権」とは異なる概念だということである。農地の請負権は、最近まで政府の許可なく譲渡・売買することができなかったし、また農業以外の目的に用いることもできなかった。まさに農業経営を請け負う権利だけが、個々の農家には認められていたのである。すでにみたように、このような範囲を限定された権利のみが資産に対して認められるという現象は、むしろ中国社会の伝統の中に求められる。その意味で、中国政府がいまだ土地に対して個人や法人の所有権を認めていないという問題を、社会主義計画経済から市場経済への「移行」がまだ終わっていないから、という文脈で理解することは、必ずしも正しくないといえるだろう。 本野はまた、このような経済活動の独占権は伝統的に政治権力、それも、必ずしも中央集権的なものではない、地方の有力者のような分散化された権力と結びつくことによって支えられてきたことを指摘している。近年、土地使用権の売却益により地方政府が巨額の収益をあげ、同時にそれが不動産バブルの温床になっていることを思えば、これも現代につながる問題だといえよう。 では、なぜ現在の中国に、社会主義以前の、伝統的な制度との共通点が見られるのだろうか? それについては、いままで繰り返し述べてきたように、「制度」とはそれに対する「予想」や「内的規範」も包括した一つのシステムだから、と解釈するしかないだろう。グライフも述べているように、そのような慣習や人々の内面的規範に支えられた制度は、人々がそれに従って行動しさえすれば利益が得られる、ということが明らかな状況が続けば、たとえ法律や国家によって裏づけられていなくても、より強固なものになることがありうる。そのような「制度」が、たとえ先進国における標準的なものとはいかにかけ離れていようとも、それに従っていれば経済的な利益が得られる、という「予想」や「内的規範」が成立しており、現実に裏切られることがなければ、社会の中からそれを変えようというインセンティブは、生まれようがないからである。 実際のところ、資産に対する包括的かつ排他的な所有権、という概念が人々の内的な規範として根付いていない社会で、それを前提とした法や徴税システムなどのフォーマルな制度を構築するのがいかに至難の業であるか、ということを、土地制度をめぐる中国政府の試行錯誤は、雄弁に物語っている。また、このことは一面で、「知的財産権」という、すぐれて欧米的な概念が、中国社会にきわめて浸透しにくいこととも関係しているだろう。中国がWTOに加盟して以降、いくら諸外国から非難されようが、「山寨」文化ともいわれる、パクリ・コピー商品がなくならないのもまた周知の事実である。 逆にいえば、そのような上からの、あるいは外圧による(欧米的な)「制度化」の試みがうまくいかないほど、また、それにもかかわらず経済成長が続いていけばいくほど、そのような「制度化」に対する人々の冷ややかな評価――所詮それは「タテマエ」にしか過ぎないという「内的規範」――はますます強化されていくのだと思われる。その点では、現代中国の高度成長の過程とは、グローバル経済への統合が進行する中で、欧米的な制度化・規範化が進むというよりも、むしろそれに対抗する力も、同じくらい強く働いている過程だと言えるのかもしれない。 いずれにせよ、中国というシステムをわれわれとは異質なものとして理解の外に追いやるのではなく、そのシステムを構成するロジック、およびシステムと個人の関係について仔細に考察を加えれば、それはむしろ相互に理解可能なのだ、というところから出発すべきなのではないだろうか。というわけで以下では、日本でも関心が高いと思われる「食の安全」の問題を通じて、このようなシステムと個人の関係について、日本に生きる「われわれ」の立場から見てどうなのか、考えてみよう。
中国産食品の価格と品質について 筆者のように中国経済の勉強を専門にしている者にとって、昨今の日本の消費者の中国産食品離れには感慨深いものがある。筆者が大学で教え始めたのはちょうどスーパーなどで中国野菜が急速に出回りだしたころで、以前は国産と中国産のネギやシイタケについてそれぞれ実物を見せて、値段の違いをクイズにしたりしたものだ。が、今や店頭から中国野菜がすっかり姿を消してしまったので、そんなこともできなくなってしまった。
出所:財務省貿易統計(http://www.customs.go.jp/toukei/info/index.htm)より。 上の図は、日本における中国からの生鮮野菜の輸入の動向を示したものである。ここから確認できるのは、1990年代後半より中国野菜の輸入は急増しており、そのトレンドは近年までずっと続いていたものの、世界的に中国産食品の安全性への不安が高まった2007年以降急激に落ち込んだ、ということだ。 ここで興味深いのは、2002年に冷凍ほうれん草などの残留農薬問題がクローズアップされ、いったん輸入が落ち込んだものの、すぐまた復活し、2006年までは伸び続けた点である。このことは、「安い中国野菜」を、少なくとも数年前までは日本の消費者自身が強く望んできたことを意味している。また、従来はあまり指摘されない点だが、中国からの食品輸入全般が急増した時期がちょうど日本が深刻なデフレ経済を経験した時期と重なる、という点も重要である。一時期、中国からの安い輸入品の増加がデフレを招いた、という議論が盛んに行われた。しかし、これは因果関係としてはむしろ逆で、デフレが続いていたからこそ、消費者が切実に安い代替品を求めたという側面が強いのである。 このような需要サイドの事情に対し、中国の供給サイドの事情としては、1990年代後半、農作物の過剰生産により農民の生活が圧迫され、地方政府による輸出振興策が盛んに行われたといたことがまずあげられる(大島一二編『中国野菜と日本の食卓』芦書房)。そしてその動きに積極的に乗っていったのが、中国の人件費の安さに目をつけた日系の商社や食品会社であった。そもそも現在の日本の中国からの輸入農産物は、そのほとんどが日本企業によってその生産・品質管理・加工などのノウハウが持ち込まれる、いわゆる「開発輸入」によって生産が始められたものである。近年その使用が問題とされた農薬の多くも、もともとは日本企業によって持ち込まれたものだという指摘もある。問題は、中国側の人件費など生産コストが次第に上昇していく中でも、消費者に「安さ」しか求められない、という日本における中国産食品の位置づけが、当初と全く変わらなかった点にある。 そんな中相次いで生じた「毒入りギョウザ」「メラミン入り牛乳」のような日本でも報道されたセンセーショナルな事件は、一気に消費者の中国産食品離れを引き起こした。ほぼ同時に、後にテレビ局の「やらせ」であることがわかった「ダンボール肉まん事件」や、一旦廃棄された食用油の再利用問題(「地溝油」)や「ニセ卵」など、中国国内の食の安全に関するおどろおどろしい情報も日本に伝わってきた。もちろん、日本に輸出される食糧は国内で販売されるものとは比較にならない厳しい検査を受けており、検査に引っかかる確率は輸入食品全体の平均よりも明らかに低いことが厚生省による「輸入食品監視統計」の数字からも裏付けられる(下表参照)。しかし、現在では中国産食品の「安さ」こそがすっかり「危険さ」のスティグマとなってしまったことは否定できない。 表 輸入食品が安全基準に違反する割合
出所: 丸川知雄『「中国なし」で生活できるか』PHP出版、厚生労働省医薬食品安全局食品安全部「輸入食品監視統計」より。
このような、「安いから売れる」から「安いからこそ売れない」へ、という中国産食品をめぐる状況の変化は、経済学でいう「レモンの市場」の応用問題としても解釈できるだろう。ノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが唱えたこの議論は、もともと中古車市場を対象としたものである。中古車の買い手と売り手の間で車の品質に関する情報が同じではない=非対称だと、故障車(レモン)かもしれない、というリスクの分だけ販売価格がディスカウントされるので、正常な車の持ち主が市場から退出してしまい、ますます故障車の確率が高くなる、という、いわゆる「逆選択」と呼ばれる現象のメカニズムを解明したものだ。 すでに述べたように中国からの輸入食材のうち、安全性の面で問題のあるものの比率は、極めて低い水準にしかすぎない。にもかかわらず、このような輸入食材は消費者と生産者との「情報の非対称性」が大きい、つまり具体的に中国のどの産地・工場で作られたものなら安全なのか、という情報を消費者が入手するのが難しい。このため、いったん「中国産」というだけで安全基準を満たさない食品(レモン)の確率が通常よりも高い、とみなされてしまうと、中国産食品全体の価格低下につながってしまうことは避けられない。 幸いにして、輸入食品の場合、アカロフの言うような「逆選択」のメカニズム、すなわち良心的な生産者ほど先に撤退し、不正な手段でコストの引き下げを行おうとする悪質な業者だけが残ってしまう、という現象はまだ生じていない。ただ、その代りに横行しているのがいわゆる産地偽装だ。実際、丸川前掲書では、国内消費の大部分を中国産に頼っている水煮のタケノコ、あるいは養殖ウナギなどに関しては、中国産のものはその品質のいかんにかかわらずあまりに価格が安く押さえられているため、国産というラベルを張る「偽装」が後を絶たないことが指摘されている。 さて、ここでわれわれが注意すべきなのは、中国産の食材に関する人々の偏見や思い込みが強固に作り上げられると、すでに述べたような自己実現的なメカニズムが働いて、実際にわれわれの行動の選択を拘束し始めるということだ。このことは、以下のような思考実験によって確かめられる。ある食材について、中国産のものと国産のもの双方を扱っている業者がいたとしよう。実際の品質はほぼ変わらないにもかかわらず、「中国産は質が悪く安全ではない」という思い込みを多くの人々が抱いている場合、この業者はどのような行為をとるのが合理的だろうか。もし見た目だけでは中国産か日本産かわからないのであれば、産地のいかんにかかわらず質のよくないものには「中国産」というラベルを貼って安く売り、より質のよいものには「日本産」としてより高い価格付けを行うのが、「合理的」な行為になるはずである。 これはあくまでも経済学の理論モデルと同じような思考実験である。しかし、重要なのは、こういった人々の「中国産は質が悪い」という思い込みが、「中国産」とラベルを張られた食品の品質を実際に引き下げる、という現象は、すぐれて自己実現的な性格をもっており、従って現実にも生じている可能性が高いということである。なぜなら、そのようにして「中国産」と書かれた食品を手にした消費者は、「ああ、やっぱり中国産なので品質が落ちるな」と納得し、当初の思い込みをますます強化させるだろうから。そして時折報道される、中国国内での食の安全を揺るがすような事件、あるいは、中国からの訪問客が日本で粉ミルクを大量に買い込んでいく、といった現象も、そういった日本の消費者の内的な規範をさらに強化していくだろう。
さて、ここでもう一度村上の言葉を思い出してみよう。「システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません」。このような「中国産」の食品の価格と品質に関する現象も、そのような独り立ちする「システム」の一種なのではないだろうか? そもそも、食品の「原産地」に関する人々の判断と行動は、あまり合理的とはいえない。たとえば、スーパーではあれだけ価格の違いがあっても中国産ニンニクやシイタケを避けて買おうとしないのに、ファミレスレスや街の中華料理屋で使われているニンニクやシイタケが中国産か国内産かなんて、ほとんど誰も気にしようとしない。りんごジュースに使われているりんごや天然ハチミツは実は大部分を中国産に依存しているのに、毒入りギョーザ事件以降、りんごジュースやハチミツがさっぱり売れなくなったという話も聞かない。 このように消費者が食品の産地について、非合理的な行動をとることは、必ずしも頭ごなしに批判はできないだろう。「食べる」という行為は極めて人間的な営みなので、合理的な「計算」よりも「なんとなくイヤだ」、という感覚が優先されるのはむしろ自然なことだからである。しかしこのことは、逆説的に、中国で生産されたものの評価が低いのはその品質を合理的に判断した結果ではなく、「中国」と名のつくものに対する消費者の生理的な感覚が、とにかくネガティブなものだからそうなっている、ということを示唆するものである。その結果、市場全体の経済厚生を低めてしまうような「悪い均衡」が生じている、ということは、もう少し強調されてもいいのではないだろうか。逆に言えば、そのことに自覚的でありさえずれば、自己実現的な「悪い均衡」から抜け出せる可能性をも示している。なぜなら、それは村上の言う「システム」と同じく、ほかならぬわれわれが作り出したものなのだから。 このような観点からも、「中国」を「壁と卵」の視点から、徹底的にリアルに見つめていく、という作業を続けていくことには、十分意味があるといえそうだ。
参考文献 大島一二編(2007)『中国野菜と日本の食卓』芦書房 村上春樹(2009)「僕はなぜエルサレムに行ったのか」『文藝春秋』2009年4月号 丸川知雄(2009)『「中国なし」で生活できるか』PHP出版 本野英一(2003)「アジア的税思想とは何か」『別冊 環』第7号 劉暁波(2009)『天安門事件から「08憲章」まで』劉燕子編、横澤泰夫ほか訳、藤原書店 ジョージ・アカロフ(1995)『ある理論経済学者のお話の本』幸村千佳良、井上桃子訳、ハーベスト社 アブナー・グライフ(2009)『比較歴史制度分析』神取道宏、岡崎哲監訳、NTT出版
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