第2回 中国の「搾取労働」とグローバルな正義
「富士康」での自殺問題と相次ぐストライキ
現代中国の経済発展を考えるとき、必ずついてまわるのが、企業が競争力を高めるために労働者を低賃金で長期間働かせている、という「搾取労働」の問題だ。僕自身も、5年ほど前にアメリカのカリフォルニア大バークレー校に一年ほど留学していたとき、抗議のためわざと服を着ないで裸で行進している女子学生たちの一団に出くわしてびっくりしたときのことをよく覚えている。彼(女)たちは、大学のキャラクターTシャツが、中国などのアジア諸国の労働者を低賃金でこき使う「搾取工場(スウェットショップ)」で生産されているとして、そのことに抗議する「反搾取工場」運動の一環として、キャンパス内をデモ行進していたのだ。
このように、工場における労働者の労働条件の問題は、中国国内だけではなく広く国際的な関心を呼ぶテーマになっている。そのことに改めて関心が集まったのは、2010年になり、iPhoneなどApple製品の製造で知られる、台湾を本拠とする電子機器メーカーの中国深圳市にある子会社「富士康」において、10人を超す従業員が相次いで自殺するという事件が生じてからである。40万人という同工場で働く従業員の数の多さを考えれば、自殺者の比率は必ずしも高いとはいえないのではないか、という声も聞かれたが、事件の後には、やはり同工場の労務管理の過酷さを批判する論調が相次いだ。
もともと数年前から、労働集約的な輸出産業に牽引されて成長してきた深圳市など広東省南部では、出稼ぎ労働者が急速に不足する「民工荒」という現象が生じていることが指摘され、それに2007年の労働契約法の施行という政策の変化も加わって、大都市における最低賃金の引き上げをもたらしてきた(下図参照)。そして、2010年になって上記の富士康での自殺問題や、広東省仏山市のホンダ関連の部品メーカーを皮切りにした外資系工場での相次ぐストライキの発生が社会問題となると、現地企業はいっせいにワーカーの賃金を引き上げる姿勢を示し始めた。たとえば、最も社会的な非難を集めた富士康は、事件がマスコミに取り上げられるようになると基本給を900元から1200元に、さらには2000元まで引き上げるという対応を見せた。
図: 深圳市における最低賃金の動向
データ: 深圳テクノセンターウェブサイト(http://www.technocentre.com.hk/)より
もともと中国の企業では「工会」という、労使の間に立って労働者の権利を守るはずの組織が存在しているはずだった。しかし、この「工会」は中国共産党の傘下に作られた中華全国総工会に属する機関であり、そもそも先進国の労働組合とは性格の異なる存在である。労働者と資本家との階級対立が「止揚された」はずの社会主義国家において、工会は労働者の権利の保護というよりはむしろ政府の側に立ってその思想や行動の管理する役割を果たしてきた。特に、持続する経済成長の中で次第に労使間の利害の対立があらわになった昨今、工会はあからさまに企業寄りの姿勢を見せ、ストなどの阻止に動く場合も多いといわれる。そんな中で中国の工場で現実に起きているのは、ほとんどが工会を通じないで労働者が直接メールなどを通じて情報を交換し、なし崩し的にストライキ広まっていく、という本来は違法であるはずの「山猫スト」である。このような状況の下で、一部の外資系企業での現象とは言え、労働者たちが直接的な行動を通じて待遇の改善を勝ち取っていったことはまさに画期的だといえよう。その背景には2007年に施行された労働契約法により、解雇をめぐる規制の強化などを通じ労働者の権利が高められるという「期待」が大きく膨らんだこと、インターネットや携帯メールなど、労働条件やストライキなどの直接行動に関する情報が労働者の間で共有されるようなインフラが整ったこと、があげられよう。
さて、このような中国大都市における「民工の反乱」ともいうべきストライキの多発とそれに伴う待遇改善は、まさしく中国における「搾取工場」の終焉をもたらすものとして、手放しに肯定されるべきものなのだろうか? また、そのような状況の変化に、冒頭で述べたような「反搾取工場」運動に代表される、「グローバルな正義」に支えられた消費運動は、どの程度影響を及ぼしたのだろうか? 前者についてはより複雑な問題でもあり、次回に詳しく考察することにして、以下では後者の、グローバルな消費運動と中国に代表される途上国の低賃金労働の関係について考えていきたい。
「搾取工場」へのボイコット運動は正当化されるか
さて、このような「搾取工場」で生産されていたとされる製品のボイコット運動に関して、経済学者の多くは否定的だ。たとえば、開発経済学の第一人者であるカリフォルニア大学バークレー校のプラナブ・バーダン教授は、経済のグローバル化と途上国の貧困問題との関連について論じた啓蒙的な文章の中で、以下のように述べている。
「……バングラデシュやベトナム、カンボジアなどアジアの貧しい国々では、多くの女性が輸出用の衣料縫製工場で働いている。世界の基準で見れば賃金は低いが、それでも他の仕事よりはずっと高い。こうした工場で搾取が行われていると懸念する人々もいるが、工場のおかげで女性たちの生活と地位が相対的に向上したことは評価すべきだ。」
「93年、児童労働によって生産された製品が米国で輸入禁止となることを見越して、バングラデシュの衣料品企業では約5万人の子どもが解雇された。国連児童基金(ユニセフ)と現地の援助団体は、これによる影響を調査した。子どもたちのうち約1万人は学校に戻ったが、残りの4万人は砕石作業や児童買春など、より劣悪な仕事に流れることになった。」
バーダンの批判は、それらのボイコット運動の多くが往々にして都市の低賃金労働(あるいは児童労働)という表面的な現象にとらわれており、その背景にある貧困を生み出す経済社会全体の構造を考慮していないことに向けられている、といっていいだろう。
この問題に関しては、少し異なった角度からも考えることができるだろう。やはり著名な開発経済学者のウィリアム・イースタリーは、著作『傲慢な援助』の中で、これまで先進国の援助機関や政府などが発展途上国に対して行ってきた大型の援助プログラムについて、莫大な予算がつぎ込まれたにもかかわらず十分な成果を生んでこなかった、と厳しく指摘している。それに対し、より実効性の高い、望ましい援助を行うための必要条件としてイースタリーが提唱しているのが、途上国の内部に入り込んだ「サーチャー(探索者)」が、援助を行う国の政府や市民に対して情報のフィードバックを行い、アカウンタビリティーに基づいて実際に行われた援助の評価と改善を行う、というやり方である。
一方で彼は、「20××年までに貧困に苦しむ人々の数を半分にする」といった、表向きは派手だが、フィードバックが困難で実効性の疑わしい援助を推進しようとする、援助機関や政治家、そしてオピニオンリーダーたちを「サーチャー」と対比される「プランナー」として批判し、その背景に「優れた能力を持つ自分たちにこそ途上国の貧困を救う能力があるのだ」という「白人の責務」とも言うべき傲慢さがあるのではないか、と痛烈な批判を加えている。
このようなイースタリーの指摘は、中国などにおける低賃金労働の問題を考える上でも参考になるのではないだろうか。製造業の多くをもはや中国の工場に頼らざるをなくなっている現状の下で、その労働現場および労働力供給源である農村に生きる人々の問題に注意を向け、生産現場にフィードバックしていく必要は間違いなくあるだろう。ただしその場合でも、豊かな社会に生きる消費者の「正義」の感覚ばかりが大きな影響力を持ち、途上国の生産現場から先進国の消費者へ、という逆方向のフィードバックが十分に働かないならば、また別の問題が生じてしまうのではないだろうか。
また、こうした途上国の「搾取労働」および「現場感覚」については、「豊かな国」の中でもその受けとめかたに大きな差があることにも注意が必要だろう。
例えば、深圳市に「テクノセンター」という、労働集約的な輸出産業を中心に、日系の中小企業が多数進出している工場団地がある。同センターは、以前から夏休みの期間などを利用して日本の大学生を多数受け入れ、実際に現地のワーカーたちと一緒になって現場の労働に従事させる、というユニークな研修制度を実施してきたことでも知られている。このテクノセンターのインターンシップに参加した学生の体験記は、インターネットを通じてもそのいくつかを読むことができる。
そこに書かれているのは、当然のことながら、正義感にあふれた大学生たちが、農村から出稼ぎに来たいたいけな女工達が劣悪な条件で長時間働かされ、搾取されていることに憤り、その現状を告発する……といった批判的な内容のものではまったくない。むしろ厳しい条件でも希望を失わず労働に従事する女工たちへの共感をつづったり、彼女たちと同じ現場に立って労働に参加することで「人間性が鍛えられた」ことに感謝したり、といったものがほとんどである。もちろん、これは参加した学生達の社会的な問題意識が低いことを示すものではない。それどころか、日本の学生の中でこのような研修に積極的な参加するのは、間違いなく一般的な学生にくらべてかなり「社会」への関心が高い層だ、と言ってよいだろう。ただ彼(女)らの関心の持ち方が、バークレーで反搾取工場のデモを行っていた学生達とは全く違う、ということは認めなければならない。そして、このような日本の学生の場合、「まず現場から入る」という一種の社会的な規範が、その問題意識のありかたにも大きく影響していることは確かだろう。
このように、同じ「低賃金労働」一つとっても、それに対してバークレーの学生たちとインターンシップに参加した日本の学生たちとでは、これほどまでに受け止め方に差がある、という事実には、大学教育に関わるものとしていささか考え込まざるを得ない。しかし、逆説的にいえば、このような大きな認識のギャップが存在するという点にこそ、対話を通じた新たな価値観を創造する可能性が潜んでいるとはいえないだろうか。もちろん、そのためには、前者にあるグローバルな正義感と、後者の「サーチャー」的な現場感覚とを両立させる道を模索しなければならないだろう。それは、果たして可能なのだろうか?
「離脱・発言・忠誠」とボイコット運動
ここで、両者の橋渡しをする思想として注目したいのが、アルバート・ハーシュマンの「離脱・発言・忠誠」という概念である。まず「離脱」とは、いわゆる経済主体による「選択の自由」の行使を言い換えたものに他ならない。たとえば消費者であればそれまで使っていた商品の購入をやめること、そして労働者にとっては勤めていた会社をやめることがそれにあたる。
しかし、現実には、商品の品質や職場に不満があるとき、消費者や労働者にとっての選択肢は製品の購入や会社をやめることだけではない。商品や職場の現状の改善を訴える、すなわち「発言」を行うことによって、企業の経営方針に影響を与えることだってありうる。これは確かに商品の需要や価格に直接の影響を及ぼさないが、立派な経済行為に違いない。
ハーシュマンによれば、伝統的に経済学者は「離脱」のみに注目する傾向があり、「発言」はもっぱら政治学者その他の領分とされてきた。しかし、実際にはこの二つの行動は密接に関係している。たとえば、「発言」が効果的に働くかどうかは、発言を行う者のその組織や企業に対する「忠誠」(離脱オプションが行使できるのにあえて行使しない)の度合いにも大きく左右される。組織への「忠誠」度が高い者による批判的な「発言」ほど、その組織には大きなインパクトを持つだろうからだ。
また、消費者にとって「離脱」すなわち選択の機会が増えることは、経済学の立場からは通常望ましいとされている。しかしハーシュマンは、あまりに「離脱」が容易になりすぎると、わざわざよりコストのかかる「発言」を行うインセンティヴが失われてしまうため、かえって企業の経営改善の努力がなされなくなる場合もあることを指摘している。
このように、ハーシュマンはこの「離脱・発言・忠誠」のさまざまな組みあわせを考えることによって、経済学と政治学の双方の領域にまたがるような、一見複雑な現象に合理的な説明を与えることに成功している。買うのをやめる、という「離脱」オプションの行使と同時に「経営方針を転換しろ」などといった「発言」をおこない、企業の行動次第ではまた購入を始めるという「ボイコット」は、「離脱」と「発言」が組み合わさった典型的な例だと言えよう。
もちろん、そのように「離脱」と「発言」が組み合わさったものであれば、それが全てうまくいく、というわけではない。むしろ、現実に行われるボイコットや経済制裁は、往々にして「離脱」と「発言」との結びつきという点において問題を抱えており、「発言」が有効に機能しない場合が多いように思われる。このようなボイコット運動が社会的に有効に機能するかどうかのカギとなる要素として、まずその「発言」の妥当性、すなわち、運動のメッセージが本来向けられるべき相手に間違いなく向けられているかどうか、ということが挙げられよう。「発言」が本来向けられるべき対象と、実際のボイコットによって影響を受ける人々の間のギャップが大きいほど、それが実際に効果をあげる可能性は低くなるだろう。
次に重要なのは、現地において事態を改善しようとする動きとの連携の可能性である。反搾取工場運動にしても、もし現地の労働者が過酷な労働条件に実際の抗議の声を上げ、NGOなどがそれを支援する形で何らかの具体的なアクションを起こす、ということが実現するならば、それはより現実的な効果をもたらす可能性が高いだろう。しかし、必ずしもそういった現地との連携を伴わないボイコット運動は、恐らく自己満足で終わるケースが多いのではないだろうか。
たとえば、日本の場合、すでに国内の製造業、および第一次産業における単純労働のかなりの部分が、日系ブラジル人や、「研修制度」によって来日した中国人によってまかなわれている。特に、中国人研修生の場合、その多くは出国する際に多額の「研修費」を前もって仲介業者に支払ってきており、中には借金をしているケースもため、日本である程度のお金を稼がなければ帰国できないという、半ば「人質」のような立場にある。このような経済的に極めて弱い立場に置かれているということと、名目上はあくまで「研修生」であって、「労働者」ではなく、「法」の保護を十分には受けられない存在であることから、フルタイムで働いても基本給が月5−6万という、驚くような低い賃金で就労するケースが多いのが現状だ。
外国人研修制度の実態に鋭く切り込んだ安田浩一著『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』によれば、研修生たちにはこのように本来は憲法で保障されているはずの労働権が十分に認められていないばかりか、中国人であるがゆえの差別的な扱いを受けるケースや、特に女性の場合雇用主から性的な関係を強要されるケースが後を絶たないという。このような現状を考えれば、「中国製の安い製品は、現地の搾取労働によって作られているからけしからん」というのは、その「正義」の方向性が必ずしも正しくない方向に向けられている、と言わざるを得ない。それは、日本に住むわれわれがまず向き合うべき、国内の労働問題から目をそらしてしまうことにもつながりかねないからである。
問題なのは、先進国の消費者によるボイコットが、多くの場合、「途上国の労働者に対する搾取に加担したくない」「あのような人権無視の独裁国家とは一切のかかわりを持ちたくない」という人々の心情によって支えられていることだろう。その場合、ボイコットは単なる「離脱」としての意味しか持たなくなり、先進国の消費者の「正義」は、「現場」へのフィードバックを書いたものにならざるを得ないのではないだろうか。
労働CSRをめぐる問題
似たような問題は、現在注目を浴びている労働CSR(企業の社会的責任)をめぐる議論についても指摘できるかもしれない。吾郷眞一著『労働CSR入門』は、まだわれわれにとってなじみの薄い、「労働CSR」がグローバル経済の中でどのような意義を持つのか、ということについて、分かりやすく解説している好著である。
一般に企業が遵守しなければならない労働基準としては、国内労働法のほかにILO(国際労働機関)などが定める国際的な労働基準も存在する。それらに対し「労働CSR」は、法律としての規範性は持たないものの、企業が「わが社はこれらの労働基準をきちんと守ります」と社会に向かって宣言することを通じ、あるいは有力な民間の認証団体に「あなたの会社は労働基準を守っています」と認めてもらうことによって、煩雑な司法プロセスを経なくても労働に関する法の実効性を高めようとするものである。例えば、「児童労働を行っている企業とは取引しない」というCSRが広く認められることで、少しでもそういった疑いがある企業は国際貿易から締め出されるため、わざわざ司法が介入しなくても自然と児童労働に関する法的規範が守られるようになる、というケースを考えればいいだろう。
もともと労働者を保護する法体系が整っていない一部の途上国では、政府による労働行政よりも、巨大な資金力とマーケットシェアを持つ多国籍企業のCSR関連部署の方が高い権限を持っている、という事態が生じがちである。
吾郷は、こういった途上国に進出した多国籍企業が、民間の認証機関やNGOと組んで、CSRを錦の御旗として振りかざすような状況に警鐘を鳴らしている。まず、多国籍企業のCSRや民間機構によるその認証は、ILOのような国際機関の定めた労働基準と違い、立場の異なる複数の当事者の粘り強い「すり合わせ」により作成されたものではない。どうしてもそこに先進国の価値基準が一方的に入り込んでしまう可能性があるのだ。たとえば、ナイキのように大きな影響力を持つ多国籍企業がそのCSRを盾に現地企業の労使対立に介入したり、組合の結成を助けたりするのは、法律でいう「自力救済」に当たり、国内法でも国際法でも違法行為である可能性が高い。いくら途上国の腐敗した政府より、ナイキのCSRのほうが「進んでいる」ように見えても、このようなあからさまな違法行為を行うことが容認されてもいいのか、と吾郷は疑問を投げかけている。
同じような問題が、中国の労働問題についても存在していると言えそうだ。たとえば、アレクサンダー・ハーニー著『中国貧困絶望工場』では、中国における労働CSRの問題の複雑さが詳しく記述されている。中国のように、国内の法制度が整備されておらず、グローバル化によって「搾取工場」に対する非難が強まっているところ――要するに多くの発展途上国――で労働CSRを貫徹させようとすると、現実にどのようなことが起こるだろうか。ハーニーが豊富な関係者のインタヴューを通じて明らかにしたところでは、近年の中国では「法」が掲げる理想と生産現場の「現実」の間を埋めるようにして、いわゆるソーシャル・コンプライアンスを手がける監査法人などが雨後の筍のように生まれており、その中には消費者からの批判に弱い多国籍企業の弱みに付け込んで、利権をむさぼるような悪質なものも少なくない。その結果、「搾取工場」における労働の実態がむしろより複雑に、より外部から見えにくいものになっているという。
それはあたかも、アヘン戦争後に西洋列強から開港を強いられた清朝末期の中国において、伝統的な商習慣とヨーロッパの近代的な商取引とのギャップを媒介する存在として外国語を自在に操る「買弁商人」が跋扈した構図を思い起こさせる、といえば言いすぎだろうか。
もちろん、労働CRS自体は、きちんとした国内法の運用と組み合わされさえすれば、確実に途上国における労働者の待遇改善につながるはずだ。しかし、現実に発展途上国で運用されるCSRの問題点は、その理念が現実の社会で実現されるための精緻なテクノロジーを欠いている点にある。このため、それが現実に実効力を持つためには、しばしば反搾取工場運動のような、先進国消費者のモラリズムに過度に訴えかけることになる。そこにイースタリーが批判するような「プランナー」的な視点、あるいは「白人の責務」の問題が入り込む余地があるように思われる。
労働を保護するための法システムが不在であるままグローバリズムに統合された途上国は、労働者の権利保護に関して、アナーキーな一種の「例外状態」にあるといってよいだろう。しかし、そこで法システムよりも上位に立つ「主権者」の地位を、果たして先進国消費者のモラルに支えられたCSRにゆだねてしまってよいのだろうか。そういった難しい問題が、そこには横たわっているように思われる。
労働者を取り巻く状況の変化と「第二世代の農民工」
では、グローバルな正義の実現を目指しつつ、イースタリーの批判するような「プランナー」的な視点に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか? そこでひとつのカギになると考えられるのが、中国の都市における低賃金労働の問題に関心を持つときに、都市の現象のみに目を奪われるのではなく、必ずその背景にある農村の問題にも目を向ける、という姿勢を常に保っておくことである。
たとえば、一連の中国の労働争議の中でクローズアップされるようになった存在に、「第二世代の農民工」と呼ばれる人々がいる。「第二世代の農民工」とは、具体的には1980年代以降に生まれた一人っ子世代を指し、富士康で自殺が相次いだのも、まさにこの世代の若年労働者であった。
ここ数年、その実態を取材した優れたノンフィクションが日本でもいくつか出版されている。たとえば、レスリー・チャン著『現代中国女工哀史』は、数名の農村出身の労働者にインタヴューすることを通じて、彼女の上昇志向や農村の家族に対する複雑な思い、そして恋愛・結婚観などを同性としての共感を込めて描いている。また、阿古智子著『貧者を喰らう国』は、温州市の工場労働者へのアンケート調査を通じて第二世代の農民工の意識を浮き彫りにしようとしている。
そして、2009年12月に出版された劉伝江ほか著『中国第二代農民工研究』は、大規模なアンケート調査と計量分析を駆使してこの問題に本格的に切り込んだ注目すべき学術書である。以下、その内容のうち、興味深い点をいくつか紹介しよう。
いわゆる「農民工」については、日本ではこれまで「農村からの出稼ぎ労働者」という説明がなされてきた。しかし同書によれば、第二世代の農民工は、自分はいつか農村に戻るものだ、という意識をもはや持っていない。そのことは、出稼ぎの動機に関する違いに如実に現れている。第一世代の農民工が、自己の生活というより家族の生活や教育水準を向上させることが大きな動機になっていたのに対し、第二世代はむしろ自己の能力や技術の向上といったキャリアアップ、そして「農業はもうやりたくない」という理由がかなりのものを占めている。
ただ、彼(女)自身は、むしろ農業従事の経験は少ない。恐らくは小さいときから親たちの苦労を見て育ち、あるいはテレビなどで都会生活の情報を得る中で、農村から抜け出たいという意識を強く持つようになったのがこの世代なのだろう。彼(女)らは、第一世代よりも学歴が高く、携帯電話やインターネットが生活必需品であり、都市生活の情報に通じて消費への強い欲求を持っているとされる。さらには、権利意識が強く、賃金の絶対水準だけではなく、他の労働者との相対的な待遇の違いに敏感に反応するのも、この世代の特徴だとされる。
しかし、その一方で、中国の都市においては戸籍制度に代表される農村出身者への身分的な待遇差別はいまだに強く残っている。親の世代に比べ学歴は上がったといえ、それはあくまで全体の傾向であり、彼(女)の多くは社会的階層を登っていくのに必要とされる専門的な知識や技能を身につけてはいない。
このような状況で、著者たちは、第二世代の農民工は「農民でもなければ(都)市民でもない」存在として、自らのアイデンティティを「内巻化(インボリューション)」させてきたのだ、と述べている。インボリューションとは、外向けの発展が限られた中で内的に独自の複雑化を遂げる状況を指した社会学上の用語である。都市生活に統合され、もはや農村に帰ることもかなわない彼(女)らの内面で、独自のアイデンティティが生まれつつあるのに、そのことは既存の社会の中では十分に理解されない。その中で、経済的に困窮して半ばホームレス化したり、性産業に従事したりする者も少なくないとされる。
このような第二世代の農民工の行動が、中国都市部における低賃金労働の構造を揺さぶりつつある、という現実は、今回述べてきたようなことを考える上でもいくつか重要な示唆を与えてくれる。一つは、「搾取労働」の現実に変化をもたらしているのは、先進国の消費者の正義感に支えられた消費運動などではなく、あくまでも中国内部、それも農村部を中心としておきている経済社会の変化である、ということだ。すなわち、中国の改革開放路線を採用して以来一貫して続いてきた、農村から都市の工業部門に無制限に安価な労働力が供給される、という構造の変化こそが労働者の「交渉力」の強化を通じて待遇改善をもたらしているのであり、グローバルな消費運動の圧力は、それ自体は状況を変化させる力をほとんど持ち得なかったことは明らかだろう。
もう一つ見過ごしてはならないのは、第二世代の農民工の権利意識の高まりやアイデンティティの変容に代表されるような労働者の「意識の変化」が大きな役割を果たしているということである。このことは、経済学が想定するような労働、資本といった要素間の需給状況の変化はもちろん変化をもたらす最も重要な要因ではあるが、それだけでは中国の労働の現場で生じていることを理解するには十分でないことを示してもいる。バーダンの言うような「他に仕事がないから低賃金労働が持続しても仕方がない」という意識は、少なくとも20代、30代の若いワーカーの間ではもはや過去のものとなりつつあるからである。
中国の社会経済、特に農村と年との関係において生じている構造的な変化と、そこで働く若い世代のワーカーたちの意識の変化。その二つをしっかりと見据えることが、「グローバルな正義」と「現場感覚」を両立させる視点を持つために必要になってくるのではないだろうか。
参考文献
阿古智子(2009)『貧者を喰らう国』新潮社
吾郷眞一(2007)『労働CSR入門』講談社学術新書
ウィリアム・イースタリー(2009)『傲慢な援助』小浜裕久・織井 啓介・冨田陽子訳、東洋経済新報社
レスリー・チャン(2010)『現代中国女工哀史』栗原泉訳、白水社
アルバート・ハーシュマン(2005)『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応』矢野修一訳、ミネルヴァ書房
プラナブ・バーダン「グローバリゼーションは貧困を救うか」『日経サイエンス』2006年5月号
アレクサンダー・ハーニー(2008)『中国貧困絶望工場』漆嶋稔訳、日経BP社
安田浩一(2010)『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書
劉伝江・程建林・董延芳(2009)『中国第二代農民工研究』山東人民出版会(中国語)
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