本屋とコンピュータ(1〜4)1999/9〜1999/12
*07年3月に刊行した『希望の書店論』に収録された06年4月までのコラムを年次ごとにまとめました。

        福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店)

 (1)

「本屋とコンピュータ」このタイトルでコラムを連載しようと思う。
 このタイトルは、無論ある別のタイトルへの連想を予見している。「本とコンピュー タ」、津野海太郎氏の著書、そしてまた彼が中心となって刊行を続ける季刊誌の名でも ある。そこでは一貫して電子情報と本のせめぎあい/共存の可能性が現状から未来への ベクトルの中で問われ続けている。一言でいえば、コンピュータは本の製作者にとって 両義的な(アンヴィヴァレント)存在である、即ち、編集作業を大いに助けてくれる一方、本 という形 の媒体の存在理由(レゾン・デートル)を脅かす。これは書店人にとっても勿論重要な(死活) 問題だが、差し当たり「本とコンピュータ」の方に任せる(9号の木田元氏の文章に共 感、乞うご一読)として、このコラムでは、コンピュータの導入(いわゆるSA化)、 電子情報の利用が書店現場をいかに変えたか、今後どのように変えていくのだろうか、 どのように変わるべきなのだろうか、というテーマに特化して議論を進めたい。その時 肝に銘じておきたいのは、決して大所高所から論じたりはしない、ということだ。一書 店人として、あくまで現場の目線から、現場で起きていることを精確に観察することか ら始めたい。流行り(かけ?)の言葉でいえば、「内部観察」に留まり続けたい。
 例えば…。在庫検索の問題を取り上げよう。キーボードを叩けば、本の在庫数や在り場 所を示してもらえるのはありがたい。ぼくの店では、前方一致でしか叶わないが、それ でもとても便利である。だが、例えば書籍総目録に劣るのは、音ではなく文字による検 索である点だ。この場合書名の頭に来る鈎括弧などが厄介なのだ。"「"なのか"『"なの か、あるいは"["や"〈"なのか、そしてそれぞれ全角なのか、半角なのか?(中黒"・" 、引用符" ―"、カタカナやアルファベットも同様。)前方一致検索の場合、それが違うとヒット し てくれない。そしてデータベースに記されたものは、入力した人の判断(や癖、趣味) によっており,恣意的と言ってもよい。いっそ、鈎括弧は一切入力しない、と決めてく れた 方が、ずっと助かる。あちこちでバラバラにデータ入力するのはそろそろよしにして、 皆が共有・共用できるデータベースのアーカイヴを構想したらどうか。ぼくには、須坂 の共 同倉庫よりずっと容易で有意義なように思われるが…。 最低、入力規則の標準化は訴えたい。


(2回)

 クヴィエタ・パツォイスカーという人の絵本が欲しいという問い合わせがあった。児童 書の担当者はいない。ぼくは絵本作家については、全く知識が乏しい。こういう時のた めのパソコンも、役に立たない。トーハンから送ってくれるデータベースでは、外国人 の著者名は殆どファーストネームから入力していて、しかもカタカナだったりイニシャ ルだったり、それぞれ半角だったり全角だったりで、それに…、そう、この後に続く事 情が、今回のテーマである。

 何とか手がかりをつかもうと、作家名以外に何かご存知ではありませんかと訊いてみた 。お客様は、ニッコリして、「この間、NHKの番組で紹介されてたの。それは、すばら しい 絵だったわ。」と答えた。なるほど、舌を噛みそうな名前の作家の絵本を探しにわざわ ざご来店いただいた動機はよく分かった。しかし、捜査に進展はない、ぼくにとって手 がかりとなるようなものは、一つも増えていない。「あんな風に紹介されていたから、 本屋さんはみんな喜んで沢山仕入れているか、と思ったんだけど。」まさに、そうある べきだろう。現状では買いかぶりとしか言いようはないが、その買いかぶりがお客様を 書店へ連れてきてくれているなら、ぼくらはもっとそれを大事にすべきだ。

 「この人ではありませんか?」その時、救いの声がした。わが店の芸術担当者が、書籍 総合目録の著者索引に、かの舌を噛みそうな名前を発見したのだ。そこから書名を拾い 、パソコンで在庫とありかを確認して、2冊お売りすることが出来た。 お客様は感激していた。東京駅前の大型店で訊ねたら、すぐにパソコンで調べてくれた のだけれど、何も分からなかったというのだ。「分からなかったのは、すぐにパソコン で調べたからですよ。」ぼくは、即座にそう答えてしまった。 件の大型店のデータベースに欠陥があったといいたいのではない。コンピュータの弱点 をあげつらい、書物を擁護するのが目的でもない。

 この場合、著者が外国人であったこ とが結果を分けたのだ。外国人の名前のカタカナ表記は、どうしてもゆらぐ。現にお客 様のメモに書かれた名前は、著者名索引の表記とは微妙に違っていた。だからこそ、厳 密な一致を要求するコンピュータではなく、一覧を順にたどるしかない書籍型の目録で 見つけやすかったのだ。まさに、「ギョエテとは、誰のことかとゲーテ問い」である。 繰り返すがコンピュータデータベースの劣位を述べ立てるのがぼくの目的では全くない 。このエピソードを紹介したのは、それを、データベースのありようへの提言へ結び付 けるためである。


(3回)

 前回、書籍型の目録では、検索にあたって「一覧を順にたどるしかない」と書いた。だ が、このことは、「一覧を順にたどることができる」と肯定的に書くべきかもしれない 。例に挙げた外国人著者の名前のように、表記のしかたにゆらぎがあるなど、曖昧な情 報による検索は、厳密な一致を要求されるデータベース検索には馴染まないからである 。

 翻って、我々がものを探す場合、手がかりは曖昧である事がほとんどだ。ありそうなと ころに当たりをつけて、無ければその前後左右を探す。それでも無ければ、探索範囲を 少しずつ広げていく。最初の「当たり」が間違っていたら即座に探すことを諦めるなど ということはない。(ヒトに限らず生物は、試行錯誤を通じて目的のものにたどり着く ことを常とする。生態心理学の「アフォーダンス」という概念、その周辺の実験・観察 が興味深 い。) 書籍のデータベース検索において、厳密な一致を要求されるのは、最初の「当たり」だ けで検索の成否を決定づけられることであり、「自然」に反する。データベース検索に おいても、「当たり」が違っていた時に前後の項目を確認できる、「一覧性」が欲しい 。このことは、辞典・事典のCD−ROMが「索引―検索」として既に実現しているこ とであ る。(但し、「一覧性」「前後」といっても、紙の目録とコンピュータ・データベース で は、様子は大分違ってくる。 データベース上では、同じ「当たり」をつけても、カナ( 読 み)で検索した時と漢字(文字)で検索した時とでは、「前後」にあるデータは全く異な っ てくる。)

 余談だが、「厳密な一致を要求する」という「自然」に反した態度は、さまざまなケー スで見られる。卑近な例では、ある本の問い合わせを受けた書店員が、その本があるか ないかを答えることにのみ血眼になる場合である。よし問われた本がなかった場合に、 何故紹介すべき他の本が無いか探してみないのだろう。その本が置いてあった書棚にお 客様をお連れし、「前後」を見せないのだろう。むしろ、それが間違いないと知った時 、「その本は絶版です。」と誇らしげに答えて満足しているありさまである。 「一覧性」。これが、ぼくが書籍データベースの検索機能に求めたい第一である。これ は、いわば形式面。ではぼくが求めたい第二、内容面(データベースの項目)とは何か ?それは、一冊一冊の書籍の「履歴」である。詳しくは、次号。


(57)

 「ウェブ進化論」(梅田望夫著 ちくま新書)が、よく売れている。

 「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」を「次の一〇年への三大潮流」と捉え、「Web2.0」と呼ばれるITの現状と展望をわかりやすくまとめた好著である。振り返れば想像を遥かに超えたITの急速な進歩を鳥瞰し、現在の足場を確認するため、特にITに詳しくない(ぼくを含めた)文系の読者が読むべき本だと思った。

 先ずぼくの目を引いたのは、「ロングテール」論である。「ロングテールとは何か。本という商品を例にとって考えてみよう。」梅田は、「第三章 ロングテールとWeb2.0」をこのように語り始める。一年間にどんな本がどれだけ売れたのかを示す棒グラフを作ってみる。縦軸には販売部数取り、横軸には、2004年のベストセラー、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『バカの壁』・・・と販売部数順に書目を並べる。横軸を1点ああたり5ミリとし、縦軸を1000冊あたり5ミリとしてグラフを書くと、3年間の新刊だけで、体高10メートル以上だが、すぐに急降下しあるところから地面すれすれを這いながら1キロメートル以上の長い尾(ロングテール)を持った恐竜のシルエットのようになる。それは紙の上には図示できない。

 従来、本の流通の関係者(出版社・流通業者・書店)は、ある程度以上売れる本、つまり「恐竜の首」(グラフの左側)で収益を稼ぎ、ロングテール(延々と続くグラフの右側)の損失を補うという事業モデルでやってきたが、ネット書店はこの構造を根本から変えてしまい、ロングテール論が脚光を浴びた。きっかけは、2004年秋に、アマゾン・コムは全売り上げの半分以上をランキング13万位以降の本(リアル書店「バーンズ・アンド・ノーブル」の在庫が13万タイトル)から得ていると、発表されたことだ。(後に「三分の一以上」と訂正されたが、それでも瞠目すべき割合だ。)いわば「塵も積もれば山」で、一点一点の売り上げが少なくても、ロングテールを積分していけば、長い首も凌駕する、というわけである。リアル書店の在庫負担と違ってリスティングのためのコストが限りなくゼロに近いネット書店だから、それが可能だというわけだ。

 そこには「(無限大)×(無)=Something」がインターネットの強みだという見方がある。「放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。」(P19

 だが、さしあたり、本という商品について「ロングテール」論が成立するのは、ネット書店だけではないと反論しておこう。ジュンク堂書店は、決して「恐竜の首」派ではない。随分前から、ひょっとしたら発祥のころから「ロングテール」派だったと言える。できるだけ多くの点数を揃えて、一人でもその商品を必要としているお客様を待つ、というのが社是であり、戦略だったからだ。そのために、敢えて言えばそのためだけに、池袋本店は日本最大の2000坪の書店となった。「ロングテール」を実現するためである。ジュンク堂はアマゾン・コムと理念を共有しているのである。流通書籍の点数は、(無限大)ではない。だから、その全てを一つの空間に収納することは、不可能ではないのだ。

 ぼくは、ジュンク堂池袋本店の現場にいて、「ロングテール」論の有効性を、誰よりも身に沁みて実感している。実際、当店の売上は、即ち利益は、「ロングテール」部分の積分に大きく頼っている。無理して「ロングテール」を維持するために、「恐竜の首」に依存しているわけでは決してない。そうであるならば、『ハリー・ポッター』の売上競争にもっと血道を上げねばなるまいが、その必要があるとは、ぼくは、まったく思っていない。「恐竜の首」派か「ロングテール」派かと問われれば、ジュンク堂は間違いなく後者であり、つまりアマゾン・コムと同じ側にいる。

 だから、『ウェブ進化論』で提示されているのとは全く別の問い方が可能であり、重要なのだ。「ロングテール」派にとって、リアルとネットとどちらが優位か、という問いが。

 在庫負担、在庫するための空間利用のための負担(つまり家賃)について、確かにリアル書店はネット書店に対して不利な条件にある(つまり金がかかる)。「リスティングのためのコストが限りなくゼロに近い」ネット書店は、その点では圧倒的に有利かもしれない。実際に本が並んでいる空間を持つことが、そのためのコストに見合うか否か、が先の問いの言い換えになる。「ロングテール」派としても、リアル書店のアドバンテージはある、というのが、書店現場に立つぼくの答えである。そして、そのアドバンテージを担保するのは、やはり個々の書店人の研鑽・努力であり、それに裏打ちされたレイアウト・空間作りだと思う。

 先日、妻と奥秩父に小旅行をした。事前に、インターネットで多くの情報を集めた。旅館や観光協会のホームページ、訪れた人の感想などを参考にして、プランを立てた。秘湯の宿に格安プランで泊まり、清雲寺の夜桜、長瀞の桜並木、荒川のライン下りと、12日の小旅行としては、効率的な観光ができたと満足している。それもこれも、インターネットのおかげである、本当に便利な時代になったと思う。2日目の昼食も、予めネットで検索して見つけていたそば屋で取った。美味しいそばを充分に堪能した後、長瀞の町を花見散策していて、一軒の魅力的な店を見つけた。「あっ」と思ったのは妻も同じだったようだ。どちらからともなく、「この店、ネットに載ってなかったよね。」と言った。インターネットの恩恵に大いに与かりながら、「やはり実際に行って見ないと分からないことはある。」と思った次第である。

   
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© Akira    Fukushima
 2007/04
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