○第167回(2016/8) 7月29日、東京・本郷の出版労連会議室で開催されたシンポジウム「『ヘイト本』と表現の自由」に、シンポジストとして参加した。シンポジストは他に大月書店岩下結氏、小学館川辺一雅氏、弁護士の水口洋介氏である。 最初の話者は、岩下氏。 2年前の2014年7月、氏が中心メンバーとして活動している「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会(BLAR)」が、同じ会場で「『嫌中嫌韓』本とヘイトスピーチ」という学習会を開催、その内容を『NOヘイト!出版の製造者責任を考える』(ころから)として刊行した。それからちょうど2年を経た今、日本社会と出版業界がどう変化し、あるいはどう変化しなかったかを考える機会として、今回の学習会を企画したと、岩下氏はいう。 この間、「ヘイトスピーチ」という言葉は社会に認知され、今年5月にはヘイトスピーチ解消法が成立、川崎市の差別デモを中止に追い込むなどの効果を上げている。少しずつではあるが、社会の対応は前進したと言える。 だが、わが出版業界はどうか?『NOヘイト!』が直接その姿勢を問いかけた出版業界の反応は鈍かったように思う、と岩下氏は総括する。 その大きな理由の一つが、「言論の自由」という理念である。「ヘイト本」も、多くが賛同し難いものとは言え一つの政治的思想や信条を表現した出版物であり、それらに対する事前検閲や法的な規制を、出版界は簡単には容認できないのだ。 意見が対立している状況下での「言論の自由」については、ヴォルテールが言ったとされる「私は君の意見に反対だが、君がそれを言う権利を、私は命をかけて守る」ということばや、「真理の最上のテストは、市場の競争において自らを容認させる思考の力である」というホームズ判事の「思想の自由市場論」が参照されることが多い。その結果、「ヘイト本」の出版、存在は認めた上で、その内容については言論で徹底的に糾弾する、という結論に落ち着く。 だが、岩下氏は、そうした「言論の自由」観に異議を唱える。そもそも「ヘイト本」が「言論の自由」を先に破壊してしまっていると指摘する。「ヘイト本」とは、民族・性差・性的指向・障がいの有無に関する差別を煽動・強化する言説であり、そこにあるのは「お前たちに発言権はない」というメタメッセージだからである。それが目指すのは、事実に根差した議論ではなく、他者を沈黙させることだからである。そして、「ヘイト本」の濫造が、その目的を実際に達成している。ヘイト言説に直面したとき、在日コリアンの多くは反論や怒ることすらできず、黙って立ち去ることしかできない状態に陥る。書店の書棚を席巻する「ヘイト本」の群れを眼にして、彼らは黙って書店を立ち去る。「ヘイト本」は明らかに、被差別者が書店において言説や情報に出会う機会を、それらを得て思考を鍛え表明する機会を、即ち「言論の自由」を予め奪ってしまうのだ。 そうした現実を批判し、特にメディアは、意識的にマイノリティの存在を明らかにし、彼らに対する差別を糾弾、徹底的な差別反対の姿勢を貫かなければならないと岩下氏は締め括った。 二番目がぼくであった。ぼくは、「ヘイト本」「ヘイトスピーチ」に対して明確な意識と意見を持っているシンポジストの中で、参加者の前で、何よりも実際に書店現場で起こったことを正確に報告することが何よりもこの会でのぼくの役割と思うと切り出し、一昨年秋に『NOヘイト』の新刊案内を発見して大いに共感し、書評を書きフェアを展開していった経緯とそれに対する反応を時系列に沿ってお話した。詳細は、このコラムでも何度か書いたもので、『書店と民主主義』にも纏められているので、ここでは割愛する。 そうして、岩下氏の主張には大いに賛同するが、書店人としては、「ヘイト本」を自店の書棚から外すという選択はしない、と申し上げた。その理由としてぼくは、
を挙げた。 三番目に話された小学館の川辺氏は、青林堂の『そうだ、難民しよう!』という本を掲げ、読み上げながら、いかに書かれていることに事実の誤認があり、本来そうした誤認をチェックすべき編集が杜撰であるか、を示された。そして、編集者としては、よりグレードの高い編集作業によりクオリティの高い本を仕上げて、そうした言説に対抗していきたい、それが自分たちの出来ることであり、目指すところだと言われた。 どこからが「ヘイト本」だという線引きが難しい以上、排除するのではなく対抗するいい本をつくっていきたいという編集者としての姿勢は、書店人としてのぼくの行き方と方向性を同じくしていて、大いに共感した。ただし、書店現場に立っている者としての経験からは、よりクオリティの高い本が、より多くの読者を獲得し共感を得ているという訳ではないという現実は、否めないのだが・・・。 四人目の水口弁護士は、それまでの三人とは少し違った角度から問題にアプローチされ、出版業界外の人の意見が大変興味深かった。 「ヘイト本」「ヘイトスピーチ」を法規制によって取り締まれという声も大きくなってきて、「ヘイトスピーチ規制法」が出来た。この法律には罰則規定はない。刑事罰については慎重になった方がよい。成立した法律は、元の意図を超えて特に権力に利用されやすく、法の適用も恣意的になりやすい。例えば、同じように貼っていても、特定の政党のポスターを貼った時だけ住居侵入罪が適用されるというような具合だ。何人も、ある時いわれなき罪状で逮捕・投獄されるかもしれないのだ。検察も警察も信用出来ない。刑事罰を伴う法律制定には、慎重であるべきだ。 ただ、何もしなくてもよい、という状況ではない。「ヘイトスピーチ規制法」には罪の定義があるだけだが、禁止条項はあるべきだろう。「ヘイトスピーチ」を行なった個人・法人の名前を公表する、「ヘイトスピーチ」と判断される文言を掲載したHPは閉鎖するなどの行政指導はあってしかるべきだろう。但しその判断主体は有識者などによる第三者委員会的なものであるべきで、政治・行政権力からは一線を画した存在であるべきだ。その意味でも、これまでの弁護士としての経験から、やはり警察権力の介入を余儀なくされる刑事罰の導入には、慎重であった方がよい、と思う。一方、行政指導等に伴う民事訴訟では、裁判の公開生の原則から、裁判官も余りに恣意的判決、いい加減な判決は出せない。 四人とも、「ヘイトスピーチ」を許さず、「ヘイト本」の内容を認めないという点では一致している。相違は、「ヘイト本」の存在そのものも許すかどうか、である。 一方、小学館の川辺氏とぼくは、「ヘイト本」はそれこそ憎むべき対象であるが、それらを抹殺する、見えなくするということを自分たちの仕事とは見ていない。「ヘイト本」には、本づくりやパフォーマンスで対抗、打ち克っていくべきだと思っている。 弁護士の水口氏は、刑事罰を伴う規制法の拙速な制定には反対する。その点では川辺氏やぼくに近いかもしれないが、一方手を拱いているだけでよいというわけではなく、告発、裁判などの具体的行動は必要だと言う。 シンポジウム終了直前の質疑応答のコーナーで、『ネットと愛国』(講談社)『ヘイトスピーチ』(文藝春秋)などの著作がある安田浩一さんは、次のような質問を投げかけた。 今日のお話の中で、「表現の自由」を言われるとき、それは「ヘイトスピーチ」する側の「表現の自由」について話されたが、私が取材の現場で考えるのは、「今、表現を奪われているのは誰か、沈黙を強いられているのは誰か」ということ。「ヘイトスピーチ」の被害者、被差別者の立場に立った時、現在の出版の状況をどのように考えられるか? 質問の形をとってはいるが、安田さんは、被差別者は「ヘイトスピーチ」「ヘイト本」によって書棚から目をそむけさせられ、自由な言論が戦うアリーナである書店からも、締め出され、あらかじめ「言論の自由」を奪われている、そうした非対称をもたらす「ヘイトスピーチ」「ヘイト本」を排除することなしに、「言論の自由」はあり得ないと考えているのだ。 敢えて荒っぽく集計すると、排除派2(岩下、安田):非排除派2(福嶋、川辺):「排除だが慎重に」派1(水口)ということになるだろうか? 結論は真っ二つに割れたと言ってもいい。「ヘイト本」に反対する立場は同じでも、「ヘイト本」が「そこにある」ことを認めるか認めないかは、双方の主張の論拠がそれぞれ正当なものであるがゆえに、簡単に決着のつく問題ではない。大切なのは、拙速に意見の一致を求めることではなく、問題の深さ、解決の困難さを理解し、粘り強く考え抜いていくことであろう。そして、当事者として、眼をそらすことなく、「ヘイトスピーチ」「ヘイト本」やその背景となる社会の動向を知り、議論を深めていかなくてはならないと思う。
*9月7日の朝日新聞朝刊に福嶋店長が登場しています。合わせてご覧下さい。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |