○第166回(2016/7)

 7月16日(土)、丸善名古屋本店のトークセッションに登壇した。タイトルは、「店で本を売るということ」、お相手は名古屋市千種区で古書店「シマウマ書房」を経営している鈴木創さんとの対談である。鈴木さんとは、昨年の9月に「本は人生のおやつです」で初めてお会いした。その時聞いたトークセッションでのお話がとても面白かったので、名古屋でのイベントを打診されたとき、お相手として真っ先に名前が挙がったのだ。→本コラム第156回参照

 トークセッションは丸善名古屋本店新企画「丸善ゼミナール」こと「マルゼミ」の第14回として開催された。「マルゼミ」は、人と文具、人と本と出逢う場所、情報、知識、感動、文化が出逢う場所である書店を、日常的な空間にその道の専門家と市民が集う、双方向の啓発に充ちた場にしたいという思いで企画した連続講座である。

 第1回は、4月15日19時 浅井登『はじめての人工知能』(翔泳社)。

 8月6日15時の第22回『恐竜博士の助手がやってくる!』(エクスナレッジ)までが決まっている。出だしから月5回以上のペースでやれているのだから、初期の池袋のトークセッションの開催頻度を思い起こしても、たいしたものである。ぼくを呼ぶぐらいだから講師は全国区の人ばかりではないかもしれないが、それはそれで開講のコンセプトに合っている。『名古屋とちくさ正文館』(古田一晴 論創社)などの本を読み、名古屋は進取の気性に富んだ街なのだと感じたことが、裏書された気もした。参加者は1回の出席ごとにスタンプ(1単位)が押印され、6単位、12単位の取得ごとに丸善オリジナルノベルティをプレゼント、というお楽しみもある。

 トークは、まずぼくが6月に上梓した『書店と民主主義』の出版の経緯を紹介する形で始まった。

 難波の「NOヘイト」、渋谷の「民主主義」のブックフェアが抗議・攻撃を受けたことが、大きなきっかけだった。このコラムや他の文章でもいきおいそのことにふれたものが増え、それらがある程度の分量に上ったので、本にまとめることになった。もちろん、刊行の背景として、安保関連法案可決などのきな臭い政治状況も頭にあった。

 その間、新聞、TVなどのマスコミのぼくへの取材も多かったが、それは実名、顔写真OKというインタビュイーが極めて少ないからだった。しかし、そもそも署名原稿であることから始まるブランド性こそ出版メディアがインターネットに対抗できる特長なのに、それはまずいのではないか?また、それは民主主義そのものの危機ともいえるのではないか?

 鈴木さんが割って入ってくる。

 「そもそも、一票の格差をそのままにしておいて、「民主主義」というのはおかしいと思うのです。なんとなく2.5倍までは許容できるなんて議論があって、裁判所も「違憲状態」といいながら選挙結果は許容している。だけど2.5倍というのは、3人で何を食べようかと相談している時に、二人がソバと言って一人がウドンと言っても、結局ウドンに決まるという格差なんです。その格差を解決しようとしていないのが、そもそも駄目だ。

 もう一つは、誰でも立候補できるといっても、組織や政党の推薦、公認をもらえないと、どんなに立派な政策を持っていても、それが表には出ない。今回の東京都知事選がそうであるように、報道においても、自ずと主力候補と泡沫候補に分けられてしまう。」

 民主主義=多数決ではない。だが、議論を尽くしても意見の一致を見ない時(実際、それぞれの利害が絡むときはそうなるケースが圧倒的に多いかもしれない)、最終的な決着は多数決に委ねられる。与党と野党の議論において同意に至ることが滅多にない議会においても、同様である。安倍首相が自信をもって、憲法九条に抵触しそうな議案を次々に提出するのも、議会における与党の圧倒的多数という状況があればこそだ。その数を決定する選挙において、一票の価値に大きな格差が見られる状況で、議会が国民の「総意」を正確に反映しているとは、決して言えない。

 だが、基本的には書店がテーマのトークセッションで、鈴木さんがなぜそこまで「一票の格差」にこだわるのか、お昼すぎに名古屋に着いてシマウマ書房にうかがった時に二人で行なった打ち合わせ段階から、ぼくは少し不思議に思っていた。しかし、次の鈴木さんの一言で、その真意が理解できた。

 「書店でも、一冊一冊の本が、ほんとうに平等に扱われているのだろうか?」

 ぼくは、『書店と民主主義』の中で、誰もが自分の意見を自由に表現できる状況こそが「民主主義」であり、それは多様な意見をその身に刻みつけた本たちが居並ぶ書店の店頭風景に似ていると述べた。だが、東京都知事選での主力候補と泡沫候補の扱われ方の差異に似て、高名な著者の本と無名な人の本、大手出版社や老舗出版社の出版物とそうでない出版社の出版物の店頭での扱われ方には、明らかな違いがある。出版社の宣伝力やブランド性によって、ぼくら書店員も、ひょっとしたら読者も、知らず知らずのうちに格付けを行い、そのバイアスを通して本を見てしまっているかもしれない。本たちは、書店においてほんとうに平等に発言の機会を与えられているか?それが、鈴木さんの(非難、批判ではなく)問いかけである。この問いかけを受けて、ぼくたちは日々の業務を自己検証していかなくてはならないと思う。

 「もう一つ、「お客様」という表現が気になる」と鈴木さんは言う。新刊書店では、表で「お客様、お客様」と目一杯立てているが、バックヤードでは「こんな客がいてさあ」と店員同士が噂しあっているというのではないかという疑いを持ってしまう、というのだ。そして、書店が本が集まり人が集まり行き交う場所だとしたら、店員と来店者も対等にやり合った方がいいと思うので「お客様」っていうのをやめませんかと提案したい、と。

 「古本屋は来店者から買うこともあるのでフラット」ということもあるだろうが、ぼくも、特に文章を書く時に「お客様」と書くことに抵抗がある。「客」でいいのではないか、とも思うし、「顧客」と書くか?「顧客」だと、もっと相手のことを知っていなければおかしいか・・・。「お客様」に代わる呼び名はすぐには思いつかない。だが確かに、ぼくらも例えば病院で「患者様」と呼ばれると、立ててくれていると同時に距離をおかれている、突き放されている、親身になってくれないのではないかという不安を抱く。同様にぼくたちもまた、「お客様」と連呼することによって、その人と距離を置き、近づきすぎるリスクから逃れようとしているのではないか?そんな及び腰で、ぼくは書店を「言論のアリーナ」などと呼ぶことが出来るのだろうか?

 「〇〇さん」でいいのではないか、と鈴木さん。

 思えば、かつては、買って行かれる本の傾向をぼくが明確に把握しているお客様(と、また書いてしまった)、何を探しているか、どんな本を読みたいかを率直に言ってくださる方、これから注目される本を教えてくださる方など、「〇〇さん」とお名前で呼ぶお客様が、今よりずっと多くかった。

 ただ多くの本が集まった空間であるだけでなく、名前で呼び合いながら(ぼくはトークの前半でも、署名原稿こそがネットに対抗できる出版物の武器と言っていた)、自由に自分の意見を開陳し、それについて腹蔵なく話せる人たちが集う場であってこそ、書店は「言論のアリーナ」になっていけるのかもしれない。

  そんなことを考えながら、ぼくはふとあることに思い至った。それは決して嘘ではなく、間違ったことでもないと思うのだが、その時にぼくの口から出た発言は、再び物議を醸しかねないものかもしれない。

 「ぼくがやったブックフェアにクレームをつけてきた人、ある意味ではぼくとはまったく意見が合わない人と話している時のほうが、まだ違和感がないかもしれません。つまり、事実認識の仕方が違う人に対しては、ぼくも「それは違うと思います」とはっきり言えるから。そういう人と話している時のほうが、正直に喋っている、自分というものを出して向きあえているかもしれない。だからぼくは、意外にクレームが嫌じゃないのかもしれないのです」


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)