○第169回(2016/10) 遠藤知巳『情念・感情・顔「コミュニケーション」のメタヒストリー』(以文社)。A5判上製全774ページに及ぶこの浩瀚な書物は、「近代の深さ」を捉えようとする野心的で刺激的な研究書である。遠藤はとりわけ初期近代に照準を合わせ、人間存在の在り方のどのような変化が近代を生み出したのかを、徹底的に問うていく。 人類の(特に西洋の)歴史が近代へと推移する画期の指標として、「自我」の発見/誕生が言われる。「自我」は、思索する「主体」である。だが、近代以前の世界においても、もちろん人びとは思索し、豊穣な思想や文学が遺されてきた。近代的「自我」の、そして近代的「自我」の思索をそれ以前と切断するものは、一体何なのか? それは、「内/外」の切断である。認識論の用語でいえば、「主観/客観」の対立図式の成立である。「二世界性」である。現代に生きる我々が自明とし、観察や思索の前提となっているこの切断、「二世界性」は、近代以前の人びとにとっては、決して自明ではない、或いは全く考え及ばない図式だったのだ。“恐らく17世紀の人びとにとって、心が自然と異なる位相にあること自体が驚きだったのだろう”と遠藤はいう。 図式の移行は、ある日突然起こったものではない。過渡期である初期近代、“16世紀においては、情念=受動を行動主体の原理へとそのまま読み変えようとする議論が優勢”であった。情念は、主体の外から到来し、かつ主体において発現するものである。“あるものと別のあるものとの「あいだ」にある、つまり2つの領域を横切るようにして出現する情念=受動(パッション)は、初期近代に特徴的な何かを、遂行的にーつまりその都度断片的なしかたでー指し示している”のである。 近代への移行を推進した重要な哲学者の一人が、ジョン・ロックである。彼は、感覚(器官)―印象(刻印)―表象という因果系列があくまで心のなかの出来事であると考え、その因果系列の最後の部分を指す用語として「観念」を用いた。そして、観念を受け取り、それを観察しては新しい観念へとひたすら組み合わせていく思考するモノとしての人間を考えた。 ロックこそが、”感覚主体の論理を初めて明瞭に言説化した”哲学者であるが、同時にそれは「情念論の少し外でしかなされえなかった」と遠藤は指摘する。ぼくたちは、「二世界性」という意味で、ロックよりもさらに先に進んでしまっているのかもしれない。遠藤がいうとおり、“私たちは、「反省する私」と「反省される私=感覚する私」とが別物であり、かつ前者が後者に優越するという想定する、ある意味でとても不自然な考え方ーどちらも同じ身体上の出来事なのだからーに慣れてしまっている”からだ。 そうした過渡期にあるロックが“communicate/communicationを、「思想/思考を」等の目的語を伴わずに、自動詞的に用いた最初期の人であることは興味深い”と遠藤はいう。ロックの“経験論の文体は、経験の私秘性とーそれが報告され了承されるかぎりにおいての−「社会」(社交)性を同時成立”させているのである。 翻って現代の我々はどうか? 「内/外」の切り離し、「二世界性」が更に亢進した時代にあって、その思考は二値論理の集積でしかあり得なくなり、極めて貧しいものになっていはしないか?そして情念論から大きく隔たった場所に辿り着き、communicate/communicationを困難にし、もはや「社会」(社交)性の成立さえも危ういことになっていないか? 18世紀になると、チューリッヒの牧師ヨハン・カスパール・ラファータ−の『観相学断片』(1775−8)を契機として、観相学が急浮上する。ヘーゲルもまた『精神現象学』の理性の章で、観相学にページを割いている。現代のぼくらから見るとエセ科学としか思えない観相学をヘーゲルがある種ムキになって批判しているように見えることが、ぼくには不思議でならなかった。だが、ヘーゲルが『精神現象学』を書いていた19世紀の初頭は、観相学が大いにもてはやされる時代であったのだ。それは顔が、まさにその時代に引き裂かれ始めた「内/外」の、文字通りインターフェイスに他ならないからである。 顔は、他者の「主体の内部作用という薄明の領域」に踏み込む唯一の扉かもしれない。顔とは表情の場であり、表情は“感情の表出と伝達という、記号固有の機能と目的をもち、人工言語より安定してさえいる記号体系によって成立している”言語であるからだ。 だが一方、顔は、表情は、「内」を白日のもとに晒すものではない。アーロン・ヒルは次のように言っている。“すべての人は、自分がそう受け取られたいと考えている姿になるように、己の職業にふさわしい、もっともらしい態度と外面を気取る。だから、この世界は公式の顔つきと芝居だけで出来ていると言ってもよいだろう”。 顔は、「内」を晒しながら、覆い隠すものでもあるのだ。観相学は、“「この顔はこの人の何かを告げている」という断言と、「この顔はこの人の真実を本当に告げているのだろうか」という不安や懐疑”という背反する二つのものを同時に生み出すのである。 そのような顔を見る、見られるという状況において、互いの「内」を何とか見定めようとするせめぎ合いこそ、「社交」ではなかったか?その際、相手の「内」をできるだけ正確に見出し、自分の「内」をできるだけ隠しおおすことこそ、「社交」において有力な戦術であったことは想像に難くない。その結果、“見られることなく見たいという人々の欲望によって、社交の円環は引き裂かれていく”のである。そうした、「見られずに見る」観察主体の想像力を、はるかに安定的で大規模に組織したのが、19世紀小説における「作者」という装置の制度化であったと遠藤はいう。
さて、今日。PCやスマホの液晶パネルが顔に代わってインターフェイスとなった今、「社交」は成立するのか? 確かに、顔は騙しもする。しかし、顔は他者の「内」を垣間見る有力な手がかりでもある。 例えばぼくたち書店員は、その重要な手がかりを見逃してしまってはいないか? お客様の言葉の上っ面だけを捉えて、マニュアル通りの接客用語で応答することに終止していないか? 一回一回のお客様がほんとうは何を期待しているのかを、掴みとろうとしているか? そのために、お客様の顔をしっかりと見るという基本的な作業が、できているだろうか? もしそれができていないとすれば、キーボードと液晶端末をインターフェイスとするネット書店と何ら変わりはない。書店というリアルな空間で本を売ることが持っているアドヴァンテージを、全く生かすことができていないのである。そのような空間は、「社交」の場でも、「議論」の場でもありえないのだ。 まず、しっかりと、お客様の顔を見ること。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |