○第170回(2016/11) 今年(2016年)1月、メイヤスーの『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』(カンタン・メイヤスー著 千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳 人文書院)が刊行された。これまで『現代思想』などでいくつかの論文が訳され、また少なくない研究者が言及していた新しい「実在論」の雄の、書籍としては初めての翻訳書である。訳者は新進気鋭の哲学者、千葉雅也。大いに期待して読んだ。 宇宙や生命の誕生など人類がこの世界に現れる遥か以前、「先祖以前」の出来事、或いは人類絶滅以後の世界について、我々はどのように認識し、どのように語ることが出来るのか? このスケールの大きな問いかけと共に、メイヤスーはカント以降の西洋哲学の〈相関主義〉(思考と存在を切り離せないものと考える)を乗り越えようとする。カントの「コペルニクス的転回」は実は「プトレマイオス的転回」であり、〈相関主義〉は、〈信仰主義〉に意外に近く、いかなるイデオロギーをも是認せざるをえないと喝破しながら、「世界は別様にもありうる」ことが〈相関主義〉を含む思考そのものの絶対的条件であり、世界が「かくある」という〈事実性〉は疑えないが「『かくある』ことの偶然性は必然的」である、というテーゼに行き着く。 議論は終始スリリングであり、「偶然性の必然性」という逆説的なテーゼも魅力的だが、メイヤスーが人類誕生以前/絶滅以後の世界の記述を成り立たせるという数学も、或いはそれらの記述そのものも、結局人間的実践ではないのかという疑問は残る。メイヤスーの辿り着いたテーゼは、真に〈相関主義〉の乗り越えになっているのか? というよりも、なぜメイヤスーが、そして今日「思弁的実在論」や「新しい唯物論」と呼ばれる思考を展開している人たちが、ここまで〈相関主義〉から逃れようとするのかが、よくわからないのだ。すべてのモノは人間にとっての有用性の度合いで測られるとまでのプラグマティズムを取らなくとも、世界は、その中で生きる人間との関わりの中で探究され、記述されるだけでも十分なのではないか? 人間には神の目を持つことは出来ないのだから。 そんな風に思っている中、6月の終わりに出た『モノたちの宇宙 思弁的実在論とは何か』(スティーヴン・シャヴィロ著 上野俊哉訳 河出書房新社)が目に止まった。副題が気になって手にとってみると、帯に「ホワイトヘッドを甦らせながら」とあったので、昨年末にジュンク堂難波店でトークイベントもしてもらった『具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社)の著者森元斎さんにメールで問い合わせると、「今、日本語で読めるもので、思弁的実在論について最もわかりやすく書かれている本」との回答をいただいたので、読んでみた(あとがきまで読み終わって気づいたが、森さんはホワイトヘッド研究者として、訳者の依頼を受け、最初の訳稿を読み、助言を行なっていた)。 “認識論を特別あつかいするのをやめなければいけない。特権を取り去らなければならない。なぜなら、ぼくらはモノたちそのものを、モノについてのぼくらの経験に従属させることは出来ないからである”と語るシャヴィロは、世界やモノが人間なしにもあることを強調し〈相関主義〉からの脱却を図るメイヤスーらと出発点を同じくしているようにも見える。人間の特権的地位の否定には、ぼくも同意する。“「人類」はもはや万物の尺度ではない、われわれはもはや自分たちのことを特別な存在と考えることはできず、ましてや万物の霊長と見ることもできない”。そして次のことばは、重く響く。“実際、「生は略奪である」からこそ、生きている有機体にとって「道徳は厳格である。略奪するものは正当化を必要とする」”。 だが、同じスタートラインから発進してまもなく、ホワイトヘッドに依拠するシャヴィロは、メイヤスーら思弁的実在論者とは正反対の方向に進む。後者が“物質そのもの―それが相関関係の外側に存在するかぎり―は単に受動的に不活性的で、意味や価値などを全く欠いているのでなければならないと想定している”ことを批判し、“価値と感覚はあらゆる存在者にそなわっており、したがって現に存在するとおりの世界に内在している”と主張する。価値と感覚において序列などないモノたちが遭遇しあい、相互に作用しあっている。人間も、そうしたモノの一種に過ぎない。だからホワイトヘッドは、“〈生けるもの〉の社会と〈生きていないもの〉の社会の間に絶対的な裂け目はない”“非有機的社会という補助的装置を欠いては、いかなる生ける社会についてもわれわれが知ることはない”というのだ。 すなわち、メイヤスーをはじめとする思弁的実在論者もホワイトヘッド=シャヴィロも認識論や人間存在を特別扱いすることを認めない点では(カントから現象学への流れに対峙して)同じ陣営に立つが、ホワイトヘッド=シャヴィロは、思弁的実在論が物質が受動的、不活性的で、意味や価値を欠くとするのに対し、世界に充満するモノたちは、人間がたとえそのモノを認識出来ない時でも感受し、作用を受けていると主張する。 “存在者はそれぞれ自らの価値の肯定に発する個々の様々な欲求や欲望をもっている”と、シャヴィロは言う。或るモノにとって、他のモノは、認識ではなく欲求や欲望の対象であり、感受し享受する対象なのである。 ここまで来ると、「欲求、欲望の主体」を考えたくなる。実際、シャヴィロは「モノの主観」という言葉の使用を認めている。コウモリにはコウモリの主観、ダニにはダニの主観、石にも石の主観がある。それらはおそらく人間の主観とは様相を大きく異にする主観であり、人間には認識不能であるだけなのだ。 メイヤスーの「人間精神とは関わりがなく世界と世界にあるモノたちを説明する数学」も奇妙だが、「石の主観」もにわかには受け入れ難い。シャヴィロは、どうしてこのような議論をするのか? 『モノたちの宇宙』の第三章の章題は、「モノたちの宇宙」であり、更にそれはギネス・ジョーンズのSF短編『モノたちの宇宙』から取られている。 物語は、アルーティアンという人間型エイリアンに植民地化された地球を舞台としている。主人公は、ひとりのアルーティアンに雇われた自動車修理工。彼は、アルーティアンがつくった道具を使って、日々クルマの修理に勤しんでいる。アルーティアンの道具には、われわれ人間の道具とはまったく違う特徴がある。それらは、生きているのである。アルーティアンの道具は、彼ら自身の排出物を生物学的に成形したものなのである。 ある夜、修理工はクルマの修理をしながら、「ある神秘的な顕現、あるいは幻覚」にとらわれる。彼のもっている道具が生きている。“存在するものは息が詰まるほど窮屈になり、耐えがたいものになる”。彼は恐怖におののき、吐き気を催す。そして「諸対象がわれわれと適度な距離を保っている世界」、すなわちモノが「死んでおり、安全である」世界に還ることを、痛切に希求する。 この小説の概略を提示された時、そしてこの小説のタイトル(『モノたちの宇宙』)が本書のタイトルにも採用されていることに改めて思い至った時、シャヴィロの哲学が、今日的状況に即して/促されて成立したものだと強く感じた。かつてヘーゲルが喝破したように、哲学は時代の要請に応えて生まれてくる「時代の子」なのである。 人間の特権的地位を否定する思弁的存在論もまた、現代のエコロジー的問題意識と親和的であると言える。一方、シャヴィロの哲学は更に、IT時代を迎えた人間にとって、切迫した状況を告発していると思う。 IT技術が進化し、AI(人工知能)が人間のすべての営為に取って代わる未来さえ喧伝される今、人びとは生きているモノ、「考える」モノの誕生を前にして、「恐怖におののき、吐き気を催」していはしないか? そして、それは、人間にとって当然の免疫反応でないか? この状況は、本というモノが立ち並ぶ書店現場をも、深く侵食し始めている。もとより本というモノは、“存在者たちは互いに知ったり操作したりする可能性がない場合であっても、お互いに「感じ」あうことで相互作用する”というホワイトヘッドの世界観に親和的である。寡黙に、静謐に書店の書棚に並んでいる本というモノは、読者の手に取られ頁をめくられた瞬間に饒舌となり、読者に大きく作用する。しかしそれは、人間の思考を舞台に繰り広げられる、あくまで〈相関主義〉的なパフォーマンスだ。PCのモニターが表示するPOSデータが、(思弁的存在論的に)人間の思考を不要なものとして除外しながら、書店員の意思決定(とも言えない)に直接指示を与えるのとは、まったく違う。PCが、書店員の思考をスキップして、直接仕入れ部数や展示方法を決定していく状況は、決して好ましいものではない(が、書店現場の現状は、多くがその方向へ向かっている)。 読者が書店店頭を散策することなく、キーワードを入力するだけでPC画面が提示する本のみを求め読む状況も、その裏面と言える。書店における本と読者の出会いの偶然性を大切なものと考え、議論の創発を期待し、オルタナティヴ(今とは違う世界)の実現可能性を信じるぼくは、読者と書店のそのようなさま(ザマ)を目にするとき、「恐怖におののき、吐き気を催す」。 そして何よりも、IT機器に依存しその端末としてのみ働くことは、早晩IT機器にすべての労働を奪われる結果を招来する危険がある。AI(人工知能)の発達により、それは決してSF的な絵空事ではなくなっている。そんな未来は、経済にとって、人間にとって、世界にとって、決して幸せな未来ではない。そのことを、もっと考えていきたいと思う。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |