○第174回(2017/3)

 きっかけは、やはり店頭にあった。

 去年の秋頃、数ヶ月前から平台で展開しているAI=人工知能のフェアに並ぶ本たちを眺めているとき、突然「これは、何か大変なことが起こりつつあるのではないだろうか?」という思いに襲われたのだ。いくつかの本をめくっているうちに、「やはり、これはただ事ではない」という思いを強くした。これだけ関連書が出ているのに、事の重大さに気づかなかった自分の不明を恥じた。

 刊行時にはスキップしていた『現代思想』2015年12月号「人工知能」を手始めに、何冊かの本を読んだ。そして、確信した。AI=人工知能問題は、単にテクノロジーの進歩云々という話ではない。労働のあり方、経済のあり方、社会のあり方を直撃し、人間の生き方そのものをドラスティックに変えてしまう可能性さえ秘めている。人類が選択を誤った時、引き返すことの出来ない坂道を転がり落ちていくことになるだろう。少なくとも本の世界にとって、その脅威は電子書籍の比ではない、と。

 

 第二次世界大戦後に発明されたコンピュータは、PC、インターネット、スマホと、その形態を変貌させながら、確実に、そして加速度的に進化してきた。論理演算を駆動力とするコンピュータには、「人工知能」としての役割が当初から期待されていた。「人工知能 Artificial Intelligence」=AIという名称は、1956年のダートマス会議で採用されたと言われている。1980年代には、第2の波が来る。「第5世代コンピュータ」という流行言葉を思えている人も多いだろう。

 だが、「第5世代コンピュータ」のプロジェクトは、機械による「パターン認識」の困難さや、いわゆる「フレーム問題」などにぶつかり頓挫し、また、90年代半ばからのインターネットの圧倒的なプレゼンスを前に、「人工知能」は表舞台の話題から消えていった。

 しかし、水面下では技術の進歩は留まることなくすすみ、21世紀になって再び「人工知能」が脚光を浴びてきたのである。その劃期は、2005年、レイ・カーワイルが『シンギュラリティは近いー人類が生命を超越するとき』で、「2045年にコンピュータが全人類の知性を超える」と、大胆に予言した時かもしれない。具体的に「いつWhen」が入った予言、コンピュータが人類を超える時点を表す「シンギュラリティ Singularity」(技術的特異点)というキイワードも馴染みやすい。実際にIT技術の目覚ましい進化を見て育ってきた人々の間に、「シンギュラリティ」仮説は拡がっていった。おそらくは、畏れと希望の療法を伴いながら・・・。

 もちろん、「シンギュラリティ仮説などトンデモ科学だ」と相手にしない人もいるし、少なくとも意思や感情を持つ「人間そっくり」の万能人工知能=「強いAI」の出現には、懐疑的な論者が多い。だが、一定数の賛同者もいて、「シンギュラリティ仮説」は、ある程度世の中に受け入れられていると言っていい。多くの人は、次に何が来るか分からないIT技術の不連続な発展を経験しているし、コンピュータは、1997年にはチェスの世界王者に、その後将棋や囲碁においても人間に対して勝利をおさめてもいる。

 「人工知能」が21世紀になって「復活」した理由は何か?

 ひとつは、コンピュータの計算能力のさらなる増大である。だが、それはコンピュータが誕生した時から途切れることなく続いてきたことであり、何ら目新しいことではない。確かに能力はグンと上がったかも知れないが、それだけが原因なら、「第5世代コンピュータ」プロジェクトの密かな継続が花開いたにすぎない。しかし、そうではない。

 21世紀に「人工知能」を復活させたもう一つの理由は、「ディープラーニング」の概念が、コンピュータのあり方(本質といってよいかもしれない)を大きく変え、それが再び「人工知能」への道を切り開いたことである。

 ディープラーニングでは、まず、入力層になんらかの認識・分類対象となる生データを与え、その認識結果・分類結果の正解を出力層に与える。この作業を適切に多量に行って、機械をトレーニングしていくのである。(『人工知能が変える仕事の未来』野村直之 日本経済新聞出版社』P173-4)

 これは、基本的には人間の教育と同じである。大量の練習問題を解かせて、すぐに答え合わせをやり、それを繰り返すことによって正解を得るためのチェックポイントを記憶させているのだ。野村直之は、「学習・教育というより、調教の方が相応しい」と言う。

 コンピュータの立場で言えば、これまでは予め与えられたプログラムに則って同じ作業を繰り返していけば良かったが、与えられた大量のデータを処理しながら、それらを覚え、その後の作業に活用していかなくてはならない。すなわち、コンピュータは、変わる=成長することができるように、否成長しなくてはならなくなったのだ。

 データラーニングは、人間だってやっている。人間もまた、さまざまな問題に出会い、それを解決したり、解決に失敗したりして学び、成長していく。ただ、その問題の数が、処理するデータ量がコンピュータよりも著しく少ないだけである。

 そうした、新しいコンピュータのあり方と人間の像の重なりが、「人間そっくり」の人工知能がやがて、或いはすぐにも生まれるという発想を生み出したのだ。人間の学習と同質のデータラーニングで学び、成長するうちに、人間と同じように意思や欲望を持つコンピュータが生まれるのではないか、と。

 ディープラーニングは、もちろん「ビッグデータ」との親和性が、そして相互因果性がある。ビッグデータが存在するからこそ、コンピュータのディープラーニングが可能となったのであり、逆にコンピュータの処理能力の急激な進化があったからこそ、ビッグデータの解析が可能になり、ビッグデータの発掘収集に意味が生まれたのだ。

 実際、インターネット社会を生きるわれわれは、「リアル社会」ではヒステリックに「個人情報保護」を叫ぶ一方で、ネット空間にさまざまな個人情報を喜んで提供している。ネットで買い物をするときには、名前・住所・電話番号・メールアドレス・年齢・性別を簡単に企業に知らせ、ブログやSNSでは、個人的・日常的な出来事を事細かに漏出する。それらをコンピュータが処理して加工した結果をこそ「自分の真の姿」を思い込み、Amazon他のネット企業が「レコメンド」するものを、疑いもなく受け入れている。コンピュータとビッグデータの相乗効果の進展には、データが有用だという大前提がある。コンピュータが膨大なデータを掬い上げ、弾き出した行動指針は常に正しく、その結果も含めた人間の行動や言表のデータの集積は、必ずコンピュータを「賢く」する、という前提である。だが、その前提は本当に正しいのか?

 マイクロソフト社が開発した「テイ」( TAY)というオンラインAIは、ツイッター上の人間のつぶやき合いなどを基に学習し発達した挙句、ヒットラーを賛美したり、ヘイトスピーチを繰り返したり、卑猥なことをつぶやいたりするようになったという。

 データを提供する人間が賢くならない限り、AIも賢くなるはずがないのだ。そしてAIが「成長の糧」とするビッグデータが棲まうネット空間は、似た言説が凝集し対論を見えなくさせ、極論をますます先鋭化させてヘイトスピーチを養っていくような、そんな空間なのだ。そうした、人間の愚かさに塗(まみ)れたビッグデータによって「学習」した人工知能が、どのように人間の知を越えていくと言うのだろうか?

 ビッグデータの「学習」によるコンピュータの「進化」とは、発明当初のコンピュータのあり方から言えば、「退行」とも言える。もともと、コンピュータは、最初に与えられたプログラムから厳密な論理計算によって推論していく、演繹(ディダクション)的な機械であった。ところが、ビッグデータによる「学習」は、大量のデータを読み込んで蓋然的な結論を引き出す、帰納的推理(リダクション)もしくは仮説推量(アブダクション)である。推論の過程のそうした変更によって、確かに人間の「パターン認識」に近い作業が可能になったかもしれないが、推論の真理性においては確実に劣る。

 それは即ち、人工知能の知が人間の知に近づいたことを意味するのではないか、と「人間そっくり」の人工知能を夢見る人たちは反論するかもしれない。だが、そもそもコンピュータの知と人間の知の間には、決定的な違いがあるのだ。

 茂木健一郎は、言う。

 “意識は、「今、ここ」という限定の下で、有限の資源に基づいて外界を認識し、適切な行動をとるために進化してきたと考えられる。”(『現代思想』2015年12月号P60)

 それに対して、今目指されている人工知能の知は、膨大ではあるがあくまで過去のデータの集積に基づいたものである。

 西垣通は、「生物と機械のあいだの境界線とはいったい何か?」が基調テーマであるという『ビッグデータと人工知能』(中公新書)で、生物と機械の違いを次のように述べる。

 “コンピュータとは純粋に「過去」にとらわれた存在だ。設計者は過去のデータや処理結果をふまえて論理空間を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定するのであり、いちいち現在時点での判断でデータを処理しているわけではない。”(P106)

 “コンピュータにかぎらず、一般に機械とは再現性に基づく静的な存在である。再現性を失ったら、それは機械ではなく廃品だ。これに対して、生物とは、流れ行く時間のなかで状態に対処しつつ、たえず自分を変えながら生きる動的な存在である。この相違は途方もなく大きい。”(P107)

 “ビッグデータの分析とは所詮、過去のデータを統計的に整理した結果にすぎない。要するに、生物はリアルタイムで現在に生きている存在なのにたいし、機械はあくまで過去のデータによってキッチリ規定される存在だということだ。”(P154)

 即ち、機械の作動はあくまで過去の再現であり、生物の行動は常に「今を生きる」ことなのである。

 “人間の目標設定は「生きる」という価値軸にそっておこなわれる。・・・それなら、身体に支えられた「生きる」という衝動をもたないコンピュータは、いったいどのような「知能」活動をするというのか?”(P148)

 「生きる」ことは、未来に向かって、今において行為することだ。その行為によって自分を絶えず変化させながら。「生きる」ことのゴールは、「死」である。「生きる」ことの背後には、常に「死」がある。そして、人間は、そのことを知っている。

 「生きる」ことの否定である「死」を目指して生きていく人間、そのことを知っていながら、あたかも知らないかのように行為する人間、そうした人間の姿を、悲劇の主人公たちに見出すのが、福田恆存の『人間、この劇的なるもの』(新潮文庫)である。福田は、ハムレットに、そうした人間の典型を見出す。それが劇中の人物だということが、茂木や西の人間観と共振する。演劇とは、「今」の現前そのものであり、過去も未来も、プロットが進行し登場人物が行為するその「今」との関わりの中でのみ存在するからである。

 福田はいう。

 “行動というものは、つねに判断の停止と批判の中絶とによって、はじめて可能になる。”(P139 )

 “もし資料が十分に出そろってから行動に移るべきだとしたら、私たちは永遠に行動できぬであろう。資料は無限であり、刻々に増しつつあるものであり、のみならず、行動によってのみ、あるいは明らかにされ、あるいは新しく発生するからだ。”(P140 )

 過去のデータに頼って生きることは、福田のいう「行動」を阻害する。それは、これまでの人間の「生き方」を否定、あるいは「生きる」ことそのものの否定に繋がると言えるかもしれない。

 こうした、過去のデータに頼る姿勢は、AI社会の本格的な到来を待たず、既に蔓延し始めている。そのことが、AIの実現を更に強く待望させる。

 

 出版・書店業界においても然りである。POSデータを元に、膨大な販売データが作成され、該当部署から、そしてあちこちの出版社からも次々に送られてくる。それらを作る方も見る方も、かなりの時間を取られる。本来そのデータを更にスピーディに解析し、「適切」なアドバイスを与えてくれるヒューマンフレンドリーなAI無しにデータだけが氾濫する状況は、「過渡期の地獄」と言うべきだろうか。

 だが、過去の販売データに頼ることが我々の仕事に有効かというと、そうは言いきれない。一度買えば通常二度と購入することのない本という商材は、未来の販売数が過去の販売数に対して、傾きが正の関数には決してならない。過去に売れたから注文しようという類の単純なデータ利用は、必ず返品の山を生むのである。

 「目の前に迫っている」AI社会に対抗するために(より穏健にいえば「対応」するために)必要なのは、いまだ実現していないAIに既に頼ろうとしている心性を、今日の段階で、個人的にも社会的にも振り払うことだと思う。

 

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)