○第175回(2017/4)

 1996年、IBMのスーパーコンピュータ「Deep Blue」がチェスの世界チャンピオンを打ち負かす一年前、『将棋年鑑』に、プロ棋士への「コンピュータがプロ棋士を負かす日は?」というアンケートの回答が掲載された。多くの棋士が「そんな日は来ない」と答える中、「その日」をほぼ正確に「2015年」と予測したのが、若き日に頂点に登りつめ、タイトルを総ナメにしていった天才棋士、羽生善治である。

 奇しくもその2015年、NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る」(2016年5月放送)の番組作りがスタートした。『人工知能の核心』(NHK出版新書 2017年3月)は、羽生とNHKスペシャル取材班のプロデューサーとディレクターが、その取材を元に執筆した本である。

 コンピュータがプロ棋士を負かす日を「2015年」と答えたのは、決して羽生の「敗北宣言」ではない。進化し強くなっていく将棋ソフトと対戦しながら、羽生は人間の将棋とコンピュータの将棋が全く「べつもの」であることを肌で感じたに違いない。「人工知能を探る」羽生のモチベーションは、その「ちがい」を見極めたいという思いから生まれたと思われる。

 「べつもの」だから、人間vsコンピュータの勝ち負けは、もはや大した問題ではない。羽生は、次のように言っている。

 「私がコンピュータ将棋に関心を持っているのは、コンピュータ将棋がどれほど強くなるかよりも、人間と同じような手が指せるようになるか、についてです。あるいは、人間よりも強くなったコンピュータの考えた手が、はたして本当の意味でベストなのかどうかを知りたいと思っています」

 NHK取材班とともに取材を進めながら、羽生は人間と人工知能の違いを見出していく。人間の強みは、あることを学習すると他の状況にも応用できる「汎用性」である。一方、現状の人工知能でそうした「汎用性」の実現はまだ難しいが、一方コンピュータが桁違いの計算能力を駆使して学習していくディープラーニングにおいては、機械には学習できるけれども、人間には学習できないブラックボックスが存在する。いわば、互いに相手の手の内は見えないのである。

  羽生は、人間の将棋と人工知能の将棋の違いを、次のように総括する。

 “人間が「直観」「読み」「大局観」の三つのプロセスで手を絞り込んでいくとすれば、人工知能は超大な計算力で「読み」を行って最後に評価関数で最善の一手を選ぶという形になります。

 ここで人間にあって人工知能には無いのが、手を「大体、こんな感じ」で絞るプロセスです。棋士の場合には、それを「美意識」で行なっていますが、人工知能にはどうもこの「美意識」にあたるものが存在しないようです。”

 「美意識」とは、しかし、その効用が覚束ないものではないか?強固な理論に基づき、精緻な計算によってプログラムされた人工知能の指し方の方が、結局は合理的で、強い指し方であるように思われる。実際、年を経るにしたがって、勝負は、人工知能に歩がよくなってきている。

 しかし、その〈覚束なさ〉が、実は大切なのだ。

 AIを論じる多くの著者が引用する、ダニエル・デネットが「フレーム問題」を解説するために作った次の例え話を、羽生も引いている。

 ロボットが、爆弾が載っているバッテリーを取り出してくる、という課題を与えられる。だが、いかなる指示の仕方をしても、ロボットは「バッテリーを救い出す」という使命を果たすことが出来ない。問題状況を無視して直接的な指示だけに固執するか、問題状況を把握しようとして計算をはじめ、時間切れになるかである。

 覚束なくても前進できる、ある選択肢に賭けることができることが、人間が行動するにあたって不可欠の、そして最も有用な武器なのだ。

 羽生は、「棋士が次に指す手を選ぶ行為は、ほとんど「美意識」を磨く行為とイコール」であると言い、「筋の良い手に美しさを感じられるかどうかは、将棋の才能を見抜く重要なポイント」だと指摘する。

 一方、人工知能だから指せる手、と感じられる手もあるのだという。

 それは、人工知能に「恐怖心がない」ことに起因する「通常なら怖くて指せないような、常識外の手」である。

 人工知能に「恐怖心がない」ことは、理解できる。人工知能は「死なない」し、歳も取らないからだ。

 更に羽生は、「人工知能には「時間」の概念がない」とも言う。人間に取って「指し手 」は、勝負の流れの中の一手であるが、人工知能にとっては、「一つ一つの局面はあくまでも静止画像」である。それゆえにこそ、現在の人工知能の手法が使えたのだろう、と言う。

 おそらくは、「時間」は、「恐怖心」と同じ根を持つ。「死」である。人間は、生まれてから死ぬまでの、有限でかつ決まった時間しかこの世で持てないからこそ、「時間」の概念を持つことが出来るのだ。

 人間は、計算に時間がかかるが故に「時間」の概念を持ち、データの検証が不十分でも、 「時間」内に行動するために「端折る」。一方人工知能は、「時間」の概念を持たないがゆえに「時間」内におさめるという発想ができず、デネットのロボットのような失敗に陥ってしまうのだ。実際、人間は、サンデルが示したような倫理学上の難問に対して多くの場合、もっともプラグマティックな方法で対処する。考えずにスキップしてしまうのである。

 勝負の流れの中で一手一手を、時に説明し得る根拠もなく選んでいく棋士と、局面の静止画像の一枚一枚に対して最善手を計算し提示していくコンピュータは、同じ盤面に向かっていながら、していることが全く違うのである。逆に、その違いを明確に理解していればこそ、天才・羽生善治は、人工知能とその棋譜に、将棋を学ぶことができると確信するのである。

 時代を遡ること約20年、障害児教育という、羽生とは全く違ったジャンルで、人工知能の開発に学ぼうとしたのが、東北大学の渡部信一である(『鉄腕アトムと晋平君 ロボット研究の進化と自閉症児の発達』ミネルヴァ書房 1998年11月)

 渡部は、ロボット開発の現場で「人間らしいロボット」を作ろうとしている研究者が、「第5世代コンピュータ」の失敗を経て、「人間らしさとはどういうことか?」を追求しようと必死になっているということを知る。彼らが選択したのは、「記号計算主義」からの脱却であった。それまでのロボット開発を支えてきた「記号計算主義」では、実験室の中ではうまく動いていたロボットが、実験室を出たとたんに全く動けなくなってしまったのである(渡部もまた、羽生が参照したデネットの例えを引いている)。

 言い換えれば、人間は、記号計算主義では説明できない、直感的認識によって動いているのだ。現存する世界最古の機械計算機「歯車式加算器」を1642年に発明したパスカルは、人間の「知」には幾何学的には扱うことのできない側面があることを主張した通りだったのである。パスカルは、言った。
“人間の心は、技術的法則には頼らず、暗黙の内に、そして自然に直感を働かせる。”

 渡部は、同じ失敗を、「単純なものから複雑なものへ、スモール・ステップで発達していく」という、当時の自閉症児教育の常識に見出す。自閉症の子どもたちには、教室や訓練室で学習したことが他の場面でできなくなってしまう「般化困難」が、大きな問題だったからである。

 渡部は、問う。“自閉症児に対する訓練自体に「ある状況で学習したことが他の状況では使えない」「教わったことしか実行できない」という特徴があるのではないのだろうか?”

 そして、「訓練」の有効性に疑問を覚えた母親がむしろ同世代の子どもたちの中に「放り込む」ことによってスクスクと成長した晋平君の事例の聞き取りを通じて、あらかじめプログラムされた「訓練」への疑念を深めていく。

 成長の過程で、晋平君は、数々の失敗を犯す。教師たちも、〈晋平ママ〉の方針に、しばしば反対する。しかし、そうした失敗の連続の中で、晋平君は、確実に成長していき、当初困難だったコミュニケーションの能力を獲得していく。

 晋平君の成長過程を聞いた渡部は確信する。

 “人間の知能の柔軟性ってものは「誤りを犯すかもしれない」という代償をはらうことによって はじめて可能になる。〈ヒューリスティクス〉とは、「誤りを犯しながら何とかうまくやっていく」ことなのだ”と(「水に入る前に泳ぎを習うことはできない」と言ったヘーゲルを思い出す)。

 渡部は、のちにIT技術を駆使した伝統芸能の伝承に挑み、その可能性と限界について纏め(『超デジタル時代の「学び」 よいかげんな知の復権をめざして』新曜社 2012年2月)、神楽舞の動きそのものは、ITでかなり正確に伝えることができるが、その動きを支える師匠の〈思い〉は、共に生活することによってしか、伝えることはできない、と「内弟子制度」の意義を論じている(この渡部の議論に、ぼくは『紙の本は、滅びない』(ポプラ社 2014年1月)114頁以下で、言及した)。

 教育においても、そして人工知能の進化においても、ただ予め与えられたプログラムにそってなされることよりも、失敗を恐れず、環境に放り込まれることが、より有効であり、大切なのだ。そのことの認識から、人工知能のプロジェクトにおいて、ディープラーニングの発想が生まれたのだろう。

 羽生もまた、成功よりも失敗の経験の重要性を指摘する。

 “大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなく、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。”

 「間違う」「失敗する」こと、そしてそれらを経験として蓄積することに関しては、人間が人工知能に勝ると考えてよいだろう。「「この問題は間違えて悔しかった」という感情や、あるいはその問題を以前にミスしたときのシチュエーションなどと関連付けて覚えること」は、人間の方が得意なように思われる。なぜなら、人間は常に「死」の可能性と共にあり、かつそのことを認識している存在だからである。それゆえにこそ、「恐怖」という感情も起こる。「恐怖」は失敗経験を強烈に人間に刷り込み、「捨てる方」を見極める目を育てる。その目こそ、デネットの例に登場するロボットに欠けていたものである。

 『人工知能の核心』を、NHK取材班は、次のように総括する。

 “あらゆる「成功(正解)」を瞬時に弾き出す人工知能を前に、私たちができることは、「失敗」なのかもしれない。リスクを前にしてもひるまず、自分の決断を信じて進む。それが、私たちに残された道なのではないか。”

 人工知能に取って代わられないための人間の武器、それは〈勇気〉に他ならない。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)