○第181回(2017/11)

 マルクスは、流通現場からは剰余価値は発生しない、とはっきり言っている。剰余価値は、生産現場での労働者が商品を製作するときに、その剰余労働が商品に転化する価値だからだ。

“商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、多くは、一つの混乱、すなわち、使用価値と交換価値の混同がかくれている。”(『資本論 第1部』岩波文庫P276)

 一方商品は、言うまでもなく売れなければならない。流通過程が商品にとって不可欠であることは、マルクスも認めている。そして、資本が効率的に回転するために、流通がスムーズに行われ、できるだけ早く商品が売れることが重要だと言う。商品流通は、資本主義成立の前提である。

“商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。世界商業と世界市場は、16世紀において、資本の近代的生活史を開始する。”(同P255)

 そして、次のような微妙な言い回しも見られる。

“資本は、流通からは発生しえない。そして同時に、流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない。”(同P289)

 それならば、流通もまた生産の一部と言えないか?すなわち、流通段階において、商品に何かが転化されているとは考えられないだろうか?これが、前回のコラムの最後でぼくが示した問題提起だった。

 マルクス自身が認めているように、資本主義はその発達段階によって様々な形態を取る。それが、マルクスが資本主義の研究の題材を、自国ドイツではなくイギリスに求めた理由でもある。ならば、資本投下や労働人口の割合が生産部門から流通部門に大きく移動している現在、流通もまた資本増殖を生む、マルクスの場合生産部門に限られた剰余価値発生の図式を当てはめることが出来ないだろうか?即ち、流通を生産の一部と考えることができるのではないか?
そもそも、マルクスの考察において、労働者の労働が剰余価値を生む図式そのものが、「買うー売る」という商品流通の図式に範を取っている。即ち、資本家が労働者の労働力を買い、買値以上の労働によって利潤を得るというのが、その図式である。

 流通にもその図式を当てはめるならば、流通業者がまず生産者から商品を買う、そして、流通業者の雇用した労働者の労働によって、その商品に新たな価値を付け加え、消費者に売る、という図式になる。マルクスは、流通現場の売りー買いにおいては、決して剰余価値は生まれない、と言う。

“等価が交換されるとすれば、剰余価値は成立せず、非等価が交換されるとしても、また何らの剰余価値も成立しない。流通または商品交換は、何らの価値を産まない。”(同P284)

 流通業者にとって、生産者から買う商品は消費者へ販売する商品の「原料」と言えるが、マルクスの見立てでは、原料の価値はそのまま増えも減りもせずに、新たな商品に転化されるだけである。であるならば、流通資本が販売によって利潤を得るためには、流通業の労働者の労働によって新たな価値が商品に転化されなければならない。その時に剰余労働によって転化される価値の部分が流通業者の儲けとなる、すなわち流通資本の増加分となる。言い換えれば、消費者に販売する際の価格と仕入れ価格の差額が、労働者の賃金と流通資本の利潤に分配されるのである。この時に、流通現場で付加される価値とは何か?というのが、前回の最後に提起した二つ目の問題である。

 柴野京子は、流通過程の機能として、アメリカのマーケティング学者ロー・オルダースンの「アソートメント」という概念を紹介する。「アソートメント」とは、流通過程で意識的に行われる財の組み合わせである。

“ものの集合は、そこに意味を付与しなければただの寄せ集めにすぎない。わかりやすい例として石原武政の説明を借りるなら、底引き網にかかった魚は集塊物である。しかしそれらが網本や卸売商によって種類や等級別に分けられると、それぞれ集合に意味が生じる。卸はこれを各地に配分し、最終消費地では、こうしたいくつかの集合を取り揃えることによって、品ぞろえを完成させる。この一連の工程を、オルダースンはアソートメントの四段階とよび、それらは「中間媒介過程で編成され」、そこでは「量的側面と質的側面の両面が含まれる」”(『書棚と平台』弘文堂P26)

 出版流通において、「アソートメント」の「量的側面」とは、ある本をどれだけ仕入れるかであり、「質的側面」とは、どんな本を仕入れるか、であろう。最終消費地である書店は、「いくつかの集合を取り揃えることによって」、更にそれを書棚に並べ展示することによって、仕入れた本たちに「意味」を付与するのである。

その「意味付与」こそ、書店員の重要な仕事である。そして、その仕事の目的は、本を読者に出会わせることである。棚入れ、棚づくり、棚整理という書店員の日常の作業は、本を読者に出会わせるためになされる。柴野は、「流通の機能とは、財そのものではなく、財の集合の状態を変化させることによって消費者に接近する過程である」と言う。

 「財の集合の状態を変化させる」という表現は、書店現場にはしっくり来る。1冊の本が書棚に入るだけでも、書棚に収められた本の集合は変化する。その本が、「まったく新しい本」=それまでの分類カテゴリーには収まらない本であれば、書棚全体の状態がドラスティックに変化することもある。

実際に変化させるのは、書店員である。書店員のそうした作業は、本の集合への手当てであり、1冊1冊の本に直接手を加えるわけではない。だから、マルクスが言うように、流通現場では商品そのものには、何も加わらないように見える。

 しかし、その本の書棚の中での位置、その本が並べられている書棚の状態は、間違いなくその本に意味を与える。その意味が妥当なものであれば、即ちその本が然るべき相応な場所に置かれた時、然るべき読者に出会う。それが書店員の労働の成果である。柴野が言う通り、流通過程とは「消費者に接近する過程」であるから、その接近を促進する労働は、流通過程における最も重要な価値を、商品に付与していると言えるのだ。

 遡って考えると、出版という営為そのものが、書店と同じ目的を持った、即ち本を読者に接近させるために様々なものを付け加える作業である。編集、印刷、装幀、製本、そしてページデザインや字体。それらもまた、本を読者に接近させるための作用である。ならば、本という商品の生産部門もまた、本が「消費者に接近する過程」、すなわち流通過程の一部と見ることができる。

 ではその時、出版・書店という流通過程が、消費者に接近させようとしている〈本〉とは何か?

 言うまでもなく、著者の思想・創作活動などが受肉したコンテンツそのものである。あるいは、著者その人と言ってもよいだろう。出版・書店という流通業は、著者という人と、読者という人を出会わせる仕組みなのである。

 グレアム・ハーマンは、その「オブジェクト指向存在論」で、「対象(オブジェクト)」は「四方構造」を持つと言う(『四方対象』人文書院)。その一つの極である「実在的対象」には、人間は決して(認識論的に)アクセスできない。その意味では、カントの「物自体」に似ている。しかし、ハーマンは、「実在的対象」を「不可知」なものとして、現象から放逐したりはしない。ハーマンによれば、四つの極象は、それぞれ相互に「融合」するからだ。「実在的対象」は、人間がアクセス可能な「感覚的性質」によって、「暗示(allusion)」される。「実在的対象」と「感覚的性質」の「融合関係」は、「魅惑(allure)」なのである。

 この融合関係は、コンテンツと「商品としての本」の関係に似ていないだろうか?コンテンツも最終的には読者によってアクセスされるから、厳密には〈実在的対象〉と言えないが、商品段階の本(まだ買っていない本)のコンテンツは、(立ち読みや試し読みはあるにせよ)読者にとって未知の存在だ(注)。その未知の存在=コンテンツが、本の製作段階でさまざまな装飾が施され、他の商品とともに置かれることによって、読者を誘う。「魅惑(allure)」こそ、本と読者を、人と人を出会わせるに相応しい契機である。流通段階で本に付加されるものは、本と読者を、人と人を出会わせるべく〈本〉=コンテンツに融合させられる、本の「感覚的性質」なのである。


 (注)フィクションであるコンテンツも「実在的対象」とすることは、それほど突飛な考えではない。ハーマンは、『四方対象』の〈はじめに〉で、次のように言っている。

 “〔あらかじめ述べておけば〕そこには物理的でない存在者や実在的でない存在者さえ含まれているはずである。ダイヤモンドやロープ、中性子と並んで、軍隊や怪獣、四角い円、そして実在する国や架空の国からなる同盟もまた、対象の内に含まれうるということだ。”

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)