○第180回(2017/9)

今上天皇のご英断によって(この表現が相応しいものなのかどうかわからないが、自身の民主憲法上の立場を誰よりも熟知しておられる今上天皇が、天皇としての自らの出処進退について希望を述べるという行為は、大変な勇気を振るってのことであったのは間違いない)によって、「平成」は予め終点が定まった、少なくとも近代以降初めての元号となった。恐らくすでに多くの論者が、出版社が「平成」総括の言説や出版物の準備に勤しんでおられるであろうことは、想像に難くない。

8月に刊行された森達也著『FAKEな平成史』(KADOKAWA)は、続けて出版されるであろうそうした企画の嚆矢といっていい本である。

昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)についで長く続いている「平成」は、振り返れば世界が激動、激変した時代だ。はじまりの年(1989年)にはベルリンの壁が崩壊し、やがてソ連の崩壊を経て東西冷戦の終焉へと一気に進んだ。その一方、中東で終わらない戦争が始まる。それはアメリカが主導しながら世界全体を巻き込んだ戦争であるが、これまでの「世界大戦」とはまったく様相が異なる。誰も想像しなかった「9.11」が「大国」のヘゲモニーが揺らぎ始める。そして世界はリーマンショックを経験し、資本主義の行き詰まり、終焉が囁かれ始めた。そして今、北朝鮮の核開発と世界への挑発。核戦争による世界の終焉への時計の針が、再び動き始める。

日本は、この間2度の大震災を経験した。1度目は同じ年にオウム真理教事件、2度めは原発事故を伴い、人々の不安は増大する。そのことによって、人は群れる。そうした人々の自発的な隷従、自由からの逃走によって、日本は擬似的民主主義国家の相貌を明らかにしてきた。だから森達也は、ぼくらが共に生きた同時代を『FAKEな平成史』と呼ぶ。

 放送禁止歌、ミゼット(小人)プロレス、今上天皇、オウム、北朝鮮、メディア…、森が「平成」を総括するために用意したトピックは、どれも森じしんが、ディレクターとして、作家として深く関わってきたものばかりだ。それぞれのトピックに合わせて選んだ魅力的な対談相手も、森に近い人ばかりだと言っていい。本書は、「森達也の平成史」と言ってもいい。当然ながら半径は小さい、と森じしんも言う。

だが、そのことが大切なのだ。直近の歴史を、大所高所から「客観的」に評するのではなく、その中で自分自身がどう生きたのか、一人ひとりが個として向き合うことなしに、個がバラバラにされ、集団の暴走のみが目立つこの30年間を、乗り越えて前に進むことはできないからだ。

そして、メディアが集団化と不偏不党と忖度から抜け出し、一人ひとりが、「ぼくは」「私は」と一人称で語り始めることなしには。

平成の「激変」には、インターネットの登場と凄まじいスピードでの普及がある。『FAKEな平成史』では特に主題として取り上げられていないが、インターネットの世界への浸透、世界がインターネット化したことは、森がいう「集団化」を大いに促進したと思うのだ。

もともとインターネットは、「インターネットは原子爆弾の攻撃にかかわるいくつかの脆弱性避けるために案出されたもの」(『プロトコル』(アレクサンダー・R・ギャロウェイ)であった。インターネットのダイヤグラムは、そのどの部分が攻撃によって壊滅しても、残った部分は関係性を維持し、通信機能も一切途絶えない仕組みになっている。そのために、インターネットは「絶対的な中心」も、主要な「幹線道路」を持たない。“インターネット上のトラフィックは、そのような時、ただ単に新しいルートを見つけ、そうすることでダウンしてしまった機械を迂回していくのである。”(同)

世界がインターネット化したことによって、人間存在のあり方もまた、「近代」とは違ったものに変容してしまったのだ。人間存在もまた、世界に属する「世界内存在」(ハイデガー)或いは世界を映し出す「モナド」(ライプニッツ)だからだ。分割不可能であったはずの個=individualはバラバラに寸断され、断片同士がつながり合う。インターネット上でぼくたち一人ひとりは、クレジットカードの番号やメールアドレスとして存在しているのだ。それも複数の「人格」として。

「なりすまし」行為は早くからあったし、ネット上での炎上を起こす人たちは、「実生活」(世界がインターネット化した今、「実生活」とは何かも自明ではないが)ではとても穏やかでおとなしい性格であることが多いとも聞く。そのような人たちが、「実生活」においても、商店で、学校現場で、医療現場で、時に「モンスター」と化す。

個が、解体されつつある。「アイデンティティ」をあれだけ希求した「昭和」の時代は、もはや昔日の感がある。

その存在理由によって張り巡らされた迂回路によって、インターネット上では誰もが情報を得、情報を発信し、人とつながることができる(注)。そのことは、ぼくたちに大きな自由を与えたかに見える。しかし同時にそれはぼくたちの個を解体していくものであった。解体された断片は容易に繋がり合い、集団=『クラウド』(森達也 dZERO)となって暴走する。

そうした時代を、森達也は『FAKE な平成史』と呼んだのだ。その時代にあって、もっともFAKEなものは、解体されつつある個が幻想する「自由」である。
一方、「個」もまた、一つのFAKEである。生体としても、共同体の中でしか生きられない人間の宿命においても、「個」は近代という人類史の一時期に幻想されたFAKEと言える。

だが、それでもぼくは、森とともに「個」を取り戻したい。「ぼくは」と一人称単数で考え、語りたい。森もぼくも、どうしようもなく「昭和」なのかもしれない。だが、一人称単数で考え、読み、語ることは、ぼくが擬制的な社会のさまざまなFAKEと対決するための武器としてまだまだその有効性を信じる「読書」という営為のために、不可欠な条件だからである。

 

(注)インターネットの脱中心化、拡散性、分散力を評価し過ぎることも危険である。ギャロウェイは、ネットワーク化されたコンピュータの核にある「プロトコル」が、一方で制御を自律した地点へと徹底的なかたちで分散しながら(TCP、IP)、一方では、厳密に規定された秩序形式へと制御を集中化している(DNS)、「つまりは領土化する構造と無秩序な分散作用との両方にかかわる」と述べてる。或いは、“インターネットプロトコルは、組織にかんする分散型のシステムを生み出す助けとなるのだが、その一方でそれら自体が非分散型で、官僚主義的な制度によって下支えされているのである”と。

現在インターネットが一部の大企業に「支配」されているのは、そのことの目に見える結果であると言えるかもしれない。

 

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)