○第184回(2018/1) マルクスは、『資本論』第1巻の第3篇と第4篇(岩波文庫版(二))で、まずマニュファクチャ(近代的工場手工業)が生まれ、それがさまざまな機械の発明を伴う産業革命によって大工業へとその座を明け渡す近代産業の発展過程を、豊富な文献と具体的な事例を使って、詳しく論じている。重要なのは、この産業の「発展」において、科学的叡智の進展による技術革新は単に契機に過ぎず、動力源は、あくまで資本の論理であるということだ。資本の論理とは、資本の自己増殖をひたすら目指すもので、その手段は剰余価値の生産である。それゆえ、第3篇のタイトルは「絶対的剰余価値の生産」であり、第4篇のそれは「相対的剰余価値の生産」である。 マニュファクチャ=労働者を一つの工場に集めて生産させるという方式を生んだのは、分業の効率性である。一人の職人が1個の生産物を最初から最後まで作り上げるよりも、生産過程をいくつもの部分に分け、多くの労働者がそれぞれの部分を専門に分担して作業した方が生産効率が上がることは、経済学の初期から提唱されていた。否、経済学などが成立する前から、実践されていた。だが、多くの労働者を集めて働かせるためには、その場所(工場)を確保(建設)する必要がある。だから、マニュファクチャと資本主義の成立時期は、重なるのである。資本主義とマニュファクチャがその親和性によって融合していけば、マニュファクチャの性格は資本主義の目的に沿うものになる。
「労働日」とは、労働者の一日の労働時間である。工場主=資本家は、より多くの剰余価値の獲得のために、それを可能な限り伸ばそうとする。労働者の賃金、すなわち労働力の買値は、労働者が自らの労働力を再生産できる額、平たく言えば次の日も働けるように食べ、休み、寝るための費用である。その費用が、一日6時間の労働に見合うものであれば、12時間働かせれば、残りの6時間分の労働が、剰余価値を生むのである。資本は労働力を買い取っているのだから、それをどのように使うかは自由であると考える。
労働時間の延長によって資本が手にする剰余価値を、マルクスは「絶対的剰余価値」と呼ぶ。 資本が「労働力の寿命を問題にしない」のは、資本家が「いつでも過剰人口があること、すなわち資本の当面の増殖欲求に比較して、過剰な人口があること」を知っているからだ(同P156)。その矛先は、労働力のあくなき低廉化を目指し、児童や婦人にも向けられ、彼(女)らに長時間な過酷な労働を課すようになる。マニュファクチャの分業=協業化は、一人ひとりの仕事の単純化によって、それを助ける。 マルクスは、熊野純彦のことばを借りれば、「ときに皮肉で、ときとして衒学的な書きぶりをかなぐり捨てて、人間的な憤激をあらわに」(『資本論の哲学』岩波新書 P89 )、“何歳の児童にせよ、これを一日に10時間以上働かせる自由を奪われるならば、それは彼らの工場を休止させることになるであろう”(『資本論(二)』P199)と威嚇的にわめき立てる工場主を批判している。 それでも、労働者の抵抗により、イギリス議会は標準労働日なるものを法律で制定し、一日の労働時間に制限を与えた。
このことが、工場の機械化を促進した。工場は、労働者が道具を使って生産する場から、機械が労働者を使って生産する場へと「進化」したのである。産業革命は、科学的叡智の進歩の結果というよりも、資本家の必要が産んだと言えるのだ。
機械装置の改良は、「労働力をより大きく吸収するための手段」だった。機械化によって生産効率を上げ、労働時間の制限による利益の低下を防ぎ、更には利益の増大を目指したのである。こうして資本が手に入れる剰余価値を、マルクスは「相対的剰余価値」と呼ぶ。 「労働力の寿命を問題にしない」資本家に課せられていた長時間労働から解放された労働者は、今度は、機械化によって、同じ時間に生産量を増やすことを迫られる。マルクスによれば、労働の「強度」が増したのである。 それだけではない。マルクスは、マニュファクチャから機械制大工業へと移行していくにつれ、労働者の「不具化」が亢進していったと説く。労働者の仕事は、もはや職人として一つの生産物をつくりあげることではなく、機械の動きに合わせてひとつ事を繰り返すだけになるからだ。労働者は、労働を通じて成長することもなくなる。 そして、再び、資本家は労働力として女性や子どもたちに食指を伸ばすのである。蒸気機関の発明などによる動力機の登場は、人間力の制限からの解放を意味し、もはや大人の男性の筋力を必要としないからである。 マルクスは、ある母親の次のような証言を記している。
蒸気槌の発明者ネイスミスは、「今日機械を使用する労働者のなすべきことは、またいかなる少年でもなしうることは、みずから労働することではなく、機械のみごとな労働を、監視することである」と言っている。(同P430)この言葉は、更に技術が進歩した今日、特にIT化が進んだ生産現場の状況に、見事に当てはまる。そして、機械を監視する労働者は、逆に監視されることも容認するようになるだろう。
19世紀の、この工場労働のありかたと相似的な変容が、近年の日本の書店業界でも起こっていないか? 20世紀の最後の四半期、書店の大型化が進み、営業時間が長くなってきた。定休日も減り、年中無休の店も珍しくなくなった。小売業は労働集約産業だから、それにともなって、一店あたりの書店員の数も増えた。大型の職場で労働者数が増えると、分業体制とならざるを得ない。担当するジャンル、職務は細分化され、自分の領域以外は分からなくなっていき、総合的な接客ができる書店員が、いなくなっていく。書店のマニュファクチャ化である。 やがて、職人=熟練労働者的な書店員も減っていき、それを補うために、機械化=SA化→IT化が促進される。ブラック企業の社会問題化による労働法や労働基準監督署監視の強化により、そしてそれ以上に人件費抑制の必要から社員の長時間労働にも制限が課せられて、「アルバイトでも回せる書店」が資本の覚えよき職場となり、職務の機械化=IT化が促進されていった。そこで忘れられ、置いていかれたのは、おそらく顧客=読者である。書店に行っても、まともに本のことを話せる店員がいない。顧客=読者は、徐々に書店から足が遠ざかる。書店員の目は、顧客=読者ではなく、また、商材=出版物でもなく、ひたすらデータを集積・羅列するコンピュータのモニター画面に向けられている…。書店の、機械による「大工業」化である。書店と縁の深い印刷所の19世紀イギリスの次の事例が、今日の書店員の状況を既に暗示していたようにも思えてしまう。
19世紀イギリスの工場にせよ、今日の書店にせよ、機械化による効率化は、資本から見れば好ましいものに見えたであろう。だが、その展開は、やがて資本そのものを脅かす種をはらんでいる。マルクスに学ばなければならないことは、まだたくさんある。
|
福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |