○第185回(2018/2) 高校2年生の時、ぼくたちは岡村先生という年配の教員に「倫理社会」を教わっていた。岡村先生は病気がちで休講も多く、ぼくたちは「自習時間」という名の遊び時間を喜んでいた。トランプ遊びに興ずるものも多く、ぼくなどは、演劇部で麻雀の場面がある芝居を書き、稽古用と称して部室に常備してあった麻雀牌と麻雀マットを持ち込んだ。 受験とは余り関係のない科目だったので、授業中もクラス全体が熱心に聴くという状況ではなかったと思う。ただ、ぼくは、その頃から、訳がわからないことが多いながらも哲学の本を読み始めていたから、授業がある時は熱心に聞いていた。 ある時、岡村先生が、「マルクスの言う、資本主義の最大の問題点は何か?」と問われた。ぼくは、答えた。「人間を、目的としてではなく手段として用いることです」。もちろん、カントが念頭にあった。岡村先生は言われた。「確かに、それも大きな問題だ。でもそれが最大の問題ではない。最大の問題は、資本主義経済が必ず恐慌に陥ることだ」。 もはや高校で何を教わったかをほとんど覚えていないぼくも、この場面は鮮明に覚えている。 『資本論』において、恐慌が論じられるのは、第3巻である。第2巻以降は、マルクスの死後、エンゲルスの編集によって出版されている。もちろん、マルクスの草稿をまとめての刊行だから、マルクスの著作と言って間違いはないのだが、生前の出版物に比してどうしても典拠性に欠ける。恐慌論も、マルクス以後のマルクス主義経済学者たちによって解釈・議論が重ねられた。 今日、もっともアクティヴで注目されているマルクス研究者ミヒャエル・ハインリッヒは、『『資本論』の新しい読み方 21世紀のマルクス入門』(堀之内出版)で、
そして次のように付け加える。
この部分の末尾、「唯一の生産様式」という言葉が、岡村先生の言う「資本主義の最大の問題は、恐慌」という解答と符合する。 では、なぜ資本主義において、恐慌は避けられない(それは、歴史的事実でもある)のだろうか? マルクスは、自己増殖が資本の本質、唯一の「欲望」であることから、説明しようとする。 労働者の剰余労働による剰余価値は、利潤としてまず資本家の懐に入るが、残りは追加資本となる。守銭奴ならぬ資本家は、追加された資本を貨幣退蔵へ回すのではなく、生産過程に投下する。それが不変資本(生産設備・原材料)と可変資本(労働力)の購入にバランス良く当てられた時に、拡大再生産が行われ、その利潤がさらに資本に追加される。 このプロセスが間断なく続いていくのが、資本の自己増殖の実態なのである。 このプロセスの中で、固定資本が増大していくのと並行して、実は利潤率は低下していくとマルクスは言う。それは、利潤率=m/(c+v)を、(m/v)/{(c/v)+1}と変形し、剰余価値率=m/vが一定ならばcが増大すると分母が大きくなり、利潤率の式の値はが低くなるからである(m=剰余価値、c=不変資本、v=可変資本;労働賃金)。 資本家は、利潤率の復旧を図り、日々進歩する技術を取り入れ、より効率の良い生産設備に資本投下(購入)する。より効率が良いとは、すなわちより少ない労働賃金で多くの剰余価値を得ることができるという意味である(相対的剰余価値の増大)。すなわち、労働者の賃金を抑えられるか、就労者数を減らせるかのどちらかと同義である。新しい技術への資本投資は、労働者全体の収入を、すなわち購買手段を減額する。
こうして、資本の自己増殖のプロセスは減速→中断し、恐慌=「社会の経済的再生産の深刻な撹乱」を結果する。要するに、資本が利潤を上げて大きくなろうとすればするほど、恐慌は避けられないのである。 実際には、商品の販売の場に商業資本や銀行が介在することが、恐慌を発生させる重要な要素である。すなわち、最終消費者に商品を販売する前に、商業資本が買い取り、あたかも販売が終了したかのように、産業資本が(拡大)再生産に入る、そして商業資本に(もちろん時には産業資本にも)その介在を可能にさせる融資をする銀行が存在することが、時に恐慌へのスピードを加速するのである。
では、生産者(産業資本)と購買者の間に商業資本や銀行が介在することが恐慌の根本的な原因なのか?そうではない。宇野は、次のようにも言っている。
恐慌の根本原因は、「産業資本における過度の蓄積」なのである。そして、その「過度の蓄積」が可能になるのは、その前に実際に商品が売れ、資本が増殖していったことを前提としている。好況→不況→恐慌の経済循環が必至なのは、そして現実の経済の中でそれが起こっていることは、それゆえである。つまり、資本主義は、技術革新と共に進化すればするほど、自らの破綻を招来するという矛盾を必然的に孕んでいるのである。
20世紀最後の四半期から今日に至る出版・書店業界の有様も、そうした矛盾の現れではないだろうか? 1996年に出版販売総額のピークを迎えるまで、この業界はずっと右肩上がりだった。「出版は不況に強い」と言われた。技術革新により、生産の効率化も図られた。印刷は活版から電算写植へと移行、出版社からの入稿も紙の原稿からデータでの入稿が当たり前になった。実際にモノをつくるその段階以前の工程でも、著者と編集者は、メールでのやり取りが主流となる。「生産」スピードは上がり、量産が可能になった。 特に出版業界の場合、委託販売制と取次の配本力により、生産物は即市場に卸される。未だ売れていない商品があたかも売れたかに見える錯覚が起きやすい。その反省からPOSデータの重視が始まったが、それはそれで問題を孕む。売れているというデータがリアルタイムで届くと、ここで儲けようと重版を繰り返し、結局過剰生産になってしまうことも多い。 過剰分はやがて返品となって帰ってくる。そのマイナスを相殺しようと、そしてどこかでベストセラーをつくって累積した赤字を埋めようと、新刊を続々と市場に送り込む。技術革新によって生産スピードが上がったから、それができてしまう。かくして、右肩下がりを続けた20年間、新刊点数は膨れ上がっていった。その分、過剰在庫が増加し、多くの出版社が資金繰りの限界を迎え、倒産が相次いだのだ。 書店も同様だ。90年代のバブル崩壊によって、家賃が低下し、より大きな面積が借りられるようになった。文化の香りがし、集客力もある書店が入ることを歓迎する家主も多かった。大きな面積を埋めるためには、大量の商品が必要だ。帖合が欲しい取次は、新規オープン時の商品請求を繰り延べして自らのシェアを広げようとした。小田光雄は、それを「本の不良債権化」と呼んだ。ぼくは、常備寄託制度を利用して棚に商品を並べ、毎年きちんと入れ替えをしていけば、決してそれは「不良債権」などではない、と反論したが、現実には小田の指摘は間違いではなかった。常備だけで棚を埋められた訳ではなく、追加で仕入れられた注文品や大量の新刊は、本来即請求の商品だからだ。それらがすべて売れて初めて、後日に繰り延べられた請求に対応することが出来る。いわば、出荷する出版社と同様、仕入れた書店にとっても、商品は売れる見込みがなくても「売れたもの」「売れるもの」と見なされたのである。 その時、取次は明らかに金融機能を担った。金融機能が肥大すると、恐慌は目前である。 一方、相次ぐ大型店の誕生を、出版社も歓迎した。先に言ったとおり、出版社は冊数、点数ともに増産を続け、過剰在庫を抱えていたから、それらを納品できる市場を必要としていたのだ。 いわば、業界三者が、それぞれの思惑で、需要を遥かに超えた増産を続けていたのだ。わかりやすい指標が、返品率の高止まりである。この状況は、最初に挙げたハインリッヒの「恐慌」の定義の前半部分「生産された商品量の大部分をもはや販売することができない」状況に当たる。 20世紀末からの「出版不況」は、「出版恐慌」だったのである。 だが、われわれは、その原因を更に追求しなくてはならない。ハインリッヒの「恐慌」の定義の後半部分、「生産物にたいする欲求が存在しないわけではないが、支払い能力のある欲求は存在しない」という状況について、考えなくてはならないのだ。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |