○第189回(2018/6)

 6月20日(水)、肥後橋の大阪倶楽部で行われたサントリー文化財団フォーラムに参加した。同財団が2012年度より鷲田清一氏を主査として行ってきた自主調査研究事業「可能性としての『日本』研究会」の中間報告として今年5月に出版された、『大正=歴史の踊り場とは何か――現代の起点を探る』(講談社)の刊行記念イベントである。財団の副理事長でこの本の編者でもある鷲田氏と、中心的な執筆者であった山室信一氏の対談を、興味深くお聞きした。

 面白いのは、「なぜ大正か?」である。鷲田氏は「私たちは色々と勉強させていただいただけ、実質の編者は山室さん」と謙遜されるが、生粋の京都人であり、そして東日本大震災以来東北に注目し、現在京都市立芸術大学学長と共にせんだいメディアテーク館長務める鷲田氏の強い意志が、そこに貫かれていることは間違いない。曰く、

 “2018年を明治維新150年として祝賀するのは、面白くない。関西、東北にとって、明治維新は東京にとってのそれと全く違う。奥羽越列藩同盟は、今も生きている。新潟県は東北地方。ましてや、沖縄にとってのこの150年とは?明治じゃない、大正ですよ、と言ってみたいというのが、私たちの企みでもあった”。

 2018年は、明治維新150年に当たる。日本の近代化の端緒となった江戸幕府から朝廷への大政奉還150周年を祝おうという声が高まっている。しかし、この150年を京都人から見れば天皇を、都を江戸に奪われた150年であり、東北地方の諸藩から見れば、戊辰戦争敗戦後、東京の中央政府に支配・簒奪された150年であった。東京に電力を供給している原子力発電所の存在は、新潟を含めた「奥羽越列藩同盟国」に集中している。いわんや、沖縄をや。

 そうした地方の人々にとって、明治150年は、何ら祝賀の対象ではない。むしろ、大正という、明治と昭和の間隙にうもれてしまいがちな短い時代を起点に近現代を考え、今日のさまざまな問題を解決する糸口を探ろうというのが、この研究、書物の狙いなのだ。

 その企図は、たんに京都人の「恨み節」から出たものではない。大正は、第一次世界大戦や関東大震災を経験する一方で、現代の市民社会の原型が生まれた時代であり、その後の歴史の方向を決めた転換点であった。そこには様々な選択肢=オルタナティブがありえたと言え、研究会はそこに孕まれながら未発に終わった可能性、あるいは未萌の可能性を探り出し、その可能性を今日の視点で再検証し、未来を見据える目に広く供すべく、一冊の本に結晶させたのである。                

 

 富国強兵に努めて列国に追いつくことを目標とし、三度の戦争(日清・日露と第一次大戦)を勝ち抜き、「大国」の一つと世界に認められた日本が、さてこれからどこに向かっていくのか、ふと立ち止まったのが大正の15年間であった。

 そんな大正を、研究会は「歴史の踊り場」と呼ぶ。

 フォーラムで鷲田氏は、自身この「歴史の踊り場」というキャッチフレーズがとても気に入っていると言い、「踊り場」を、最近の建物では減って来ているが、上がっていくためにも下がっていくためにも使う、行き来する空間であと説明、大正は、ものすごい上昇感覚と下降感覚が共存していたと言う。

 それを受けて、山室氏は、「双面性」が大正時代を考える時に大切だと語る。大正は成金の時代とも言われるが、一方で貧民が増大した時代、漱石は高等遊民を描いたが、大正時代には高等貧民も多く生まれ、大学卒もなかなか職にありつけず、「大学はでたけれど」が流行語に。河上肇の『貧乏物語』は、1917(大正6)年に刊行された。一番経済的に上がっている時に、貧困は露わになる。

 軍部の力が増大し、資本主義的な格差が拡大していく一方、米騒動や民本主義など、一般大衆の存在も無視できなくなってくる。社会主義やアナキズムの思想も拡がっていった。

 子安宣邦氏は、『「大正」を読み直す』(藤原書店)で、ほんの少し期間をずらして、明治43年の大逆事件から、大正13年関東大震災直後の大杉栄惨殺事件までを「大正」と見る。年号が昭和に変わり、泥沼の戦争期を通って敗戦を迎えた後も、「大正」に方向づけられた歴史は連続している。大逆事件の再審請求の特別抗告を最高裁が棄却したのは、昭和42年7月である。民主主義を謳った筈の戦後日本においても、幸徳秋水らの有罪は覆らず、判決後即座に執行された死刑についても不問のままなのだ。そして、大逆事件から1世紀経った21世紀の日本は、社会主義をその政党とともにほぼ消滅させた、という。この議論は、白井聡氏の『永続敗戦論』(講談社+α文庫)や『国体論』(集英社新書)へと繋がっていくだろう。

 上り下りが交錯する大正という「歴史の踊り場」で、今日に至る日本の在り様が方向づけられた。人々は都会へと向かい、「サラリーマン」「職業婦人」そして「専業主婦」という言葉がこの時代に生まれる。欧米においてはその前の世紀に産業革命の進展にともなって、家族が物を生産する単位からう労働力を生産する単位へと転換したが、同じような現象が日本でも大正という時代に生まれたのだ。「安定した職業に就いて、給料で家族を養う」という生活モデルは、高々この100年のうちに形作られたものなのだ。

 そうしたモデルの誕生は、出版産業にも大きく影響を及ぼした。サラリーマン家庭が子どもを教育するために主婦も学ぶ「教育家庭」へと変わり、主婦に対する情報伝達のためのメディアが必要となり、雑誌『婦人之友』や『主婦之友』がこの時代に生まれる。やがて出版業は、全集ブーム、円本ブームを経て岩波文庫(昭和2年)を生み出すことになる。

 そして、関東大震災。日本の社会を強烈に揺さぶり、人々に自分たちの生き方、あり方を考え直さなくてはならないと突きつけた大地震は、数年前、平成のわれわれをもまた、襲ったのである。大陸に侵攻し、泥沼の戦争を続け、国土を荒廃させ尽くして敗戦を迎えるその後の歴史に思いを致すとき、大正という「踊り場」で、あり得たのに採られなかった(オルタナティブな)方向の可能性を検証してみること。それが、「高度経済成長」を成し遂げ「経済戦争」を勝ち抜いた末に閉塞状況にある現代の我々が、今なさねばならないことだと、鷲田氏は強く訴えた。

“孤児でさえ共同で育てるだけの「包容力」が地域から消失して、貧窮が「個躬」のかたちをとらざるをえなくなった”(P21)

“それと並行して進行したのが、市民の相互扶助のネットワークが張られる場たる地域コミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・厚生活動の痩せ細り”(P24)

 『大正=歴史の踊り場とは何か――現代の起点を探る』で鷲田氏は、大正という時代に、残念ながらこのような転換点があったと指摘する。地域コミュニティの「痩せ細り」は、個の選択と責任を増大させる。だが、個としては弱い人間は、生きていくために何かに依存せざるを得ない。コミュニティという依存先を失った個は、否応なくもっと大きなものに期待する。そうして、「お上依存」が生じる。民本主義や(相互扶助を基層とする)アナキズムではなく、国家主義、全体主義へと時代が転がっていったのは、むしろ個の自立が謳われすぎたからかもしれない。鷲田氏は、間違いなくその方向性の延長にある現在の日本の状況と、今後なすべきことを、次のように言う。

 “食材、生活財、電力源の確保から金融まで、わたしたちの生活基盤はいま、右で指摘したようにグローバルな市場の論理に翻弄され、もはや制御不能なものになっている。この濁流から這い上がるためになすべきこと、それは、じぶんたちの生活基盤をじぶんたちの手で制御可能なサイズに、社会を立ち戻らせることであろう。”(P28)

 “コミュニティがぎりぎりまで縮小し、「一住宅=一家族」という住まい方が普遍化した現在、本来人びとの相互扶助であるべき負担がことごとく家族に押し被せられることになって、もはや単独では賄うことが限界にまできているのが、地域社会の現状だとすれば、わたしたちはふたたび、これまでとは違うかたちであれ、地域コミュニティのレジリエントな力を回復してゆかねばならない。”(P37)

 インターネットは、個とグローバル企業を直結させた。中間の排除は個の自由の確立だと、信じさせられた。個人情報保護法、そしてその拡大解釈は、個と個のつながりを、少しずつ、だが確実に破壊していった。その結果、現代人の生活は、寡占的なグローバル企業に大きく依存している。

 現代の閉塞状況を突破し、様々な歪を元に戻すためには、鷲田氏の言うように、「じぶんたちの生活基盤をじぶんたちの手で制御可能なサイズに、社会を立ち戻らせること」が、何よりも必要なのではないか。

 このことは、前回のコラムで、ぼくが書店が今取り戻すべき役割はコミュニティの形成だ、と言ったことと共振していくと思う。書店は、コミュニティに不可欠な空間を持ち、多様な立場の人々が集う場たりうるし、そうでなければ成り立たない場だからだ。

 そして何より、書物(ex.『聖書』『コーラン』『資本論』……)とは、古今東西、時に巨大で世紀を超えて存続するコミュニティを形成する核であったのだから。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)