○第190回(2018/7)

 6月25日月曜日、ジュンク堂書店難波店で、〈トークセッション番外編 阪南大学流通学部森下ゼミ 学外公開ゼミ〉「なぜ、本を読むのか?何故、本屋に行くのか?」を開催した。語り手は、「特別講師 福嶋聡」、即ち、ぼくである。

 このイベントのきっかけは、阪南大学流通学部森下信雄専任講師から、15人のゼミ生に出版や書店の現状を話してやって欲しい、と頼まれたことだ。元タカラヅカの元総支配人である森下氏とは、彼が『元宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略』(KADOKAWA 2015年1月)を上梓されたとき、ジュンク堂難波店にぼくを訪ねて来られて以来の付き合いである。

 最初は、「バックヤードかどこかで」という依頼だったが、当店のバックヤードに15人の学生を集めて話をできる場所は無い。ぼくは、「むしろ、店内でお話をすることにして、それ自体をトークイベントにしてしまっては?そして、学生さんだけでなく、一般の人にも聞いていただいたらどうでしょう?」と提案した。

 その提案には、目算と目論見があった。目算とは、ともあれ15名近くの参加は最初から約束されているから、集客に頭を悩ませることは無い、ということ。目論見とは、ぼくの話を、学生だけでなく、一般のお客様にも聞いてほしいということだ。

 本編のトークの中でも話したが、出版・書店業界の人たち、本をつくり、本を売る人たちは、「人は本を読むべきだ」という前提で仕事をしている人が多く、なぜそうなのかを語ったり、そもそも考えることもない。そして業界全体の売上減の元凶を、人々の、特に若い人の「読書離れ」にに求め、ただただそれを嘆き、批判している。他の業界の人たちは、自分たちがつくり、売っているものが如何に素晴らしく有用なものであるかを消費者に伝えることに必死になっているのに、わが業界の人たちには、そうした姿勢が感じられないのだ。そういう機会、つまり本を読むことは快楽であり有用であるということを、自身そう信じ実感しているぼく自身が、本を読まないと言われている(森下ゼミの学生は間違いなくそうだ、と森下氏も「太鼓判」を押す)に向かって訴える機会を持ちたいと思った。

 そして、それをトークイベントにしてしまうことによって、書店を訪れてくださるお客様にも、ぼくの話を聞いて欲しかった。チラシやHP、ツイッターで一般の方の「参観」も募集し、予約を取った。イベント用の閉空間の会場がない当店ではトークイベントは通路脇で開催するから、たまたま店に来られていた方にも「立ち聞き」してもらえる。

 元々興行を仕事としていた森下氏は、ぼくの提案に一も二もなく賛成した。

 「それはいい。自分たちが話を聞いている姿を、自分たち自身も見られるというのは、ゼミ生たちにとっても、いい経験になる」

 森下氏は更に、「本を扱う、書店以外の人たちにも参加してもらえたら」と希望された。それは、ぼくも同感だった。書店とは違った形で本と関わる人たちの話も、ゼミ生たちに聞いてほしい。そして、本というものの良さを、多角的に知ってほしいと思った。

 目算もあった。毎年近畿大学で行っている出版流通論の集中講義を、「私も聞きたい」と言ってくれる業界関係者は何人かいた。それが社交辞令でなかったら、誰か来てくれるだろうと思った。実際、参加し、当日出版社としての思いを語ってくれた人がいた。

 書き手も呼ぼうと思った。ちょうどイベント当日の夜、MARUZEN & JUNKUDO梅田店で、新著『本屋な日々 青春編』刊行記念トークをやるために来阪していた、旧知の石橋毅史に、「良かったらその前に難波に来て、ぼくのイベントにも参加してくれませんか?」と声をかけた。石橋は、快く承諾したくれた。

 このことには、付随効果もあった。かつて出版業界紙『新文化』の編集長を務めていた石橋は、同紙からの依頼で、後日トークイベントの様子を寄稿してくれたのだ。

 “どこまで伝わったかはわからない。こちらから見る限り、学生の表情は一様にボンヤリしていた。授業を受ける学生とは、得てしてそんなものである。だが福嶋氏は熱意を込めて果敢に語り続けた。彼らの心に何かひとつでも残そうと、資料を配り、本や書店の魅力を多角的に紹介していた”。

 「それは、最前線の現場にいる本屋の“いま”を象徴するすがた」と、石橋は書いてくれた。本屋についての本を何冊も書いている彼は、本屋の現在をよく知っている。「本とは買われるべきもの、読まれるべきものという出版業界にとっての大前提が、すでに大きく揺らいでいる」事実を、ぼくと共有している。そして、そのために、今本屋は何をすべきか、を模索する姿勢も。

 「本を読まない世間と対峙する本屋」というこの寄稿で、石橋は、『傷だらけの店長』の著者伊達雅彦が沖縄・石垣島で日本最西端のブックカフェうさぎ堂を昨年10月にオープンしたことを伝え、沖縄・那覇市で「市場の古本屋うらら」の店主である、元ジュンク堂書店の宇田智子の新著『市場のことば、本の声』を紹介している。そして、花田菜々子著『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を、出版・書店関連書として重要な文献でありながらむしろ多くの書店で女性向けエッセイのコーナーで販売されていることを評価、同書をエポックメイキングな作品と言う。

 石橋が言うように、今、出版・書店業界は、内輪だけで通じる話を繰り返しながら、自閉的に方法論を模索している場合ではない。「業界」と「世間」を包括する視点が大切なのだ。ぼくが、阪南大学の学生たちに、そして集まってくださた「参観者」に、更に店内を通りながらふと耳を傾けてくださった方々に本の良さを語りかけていったのも、同じ思いである。この思いを共有している人は、少なくないと思う。石橋が言及した三氏をはじめ、日本のさまざまな地域(あるいは場所を特定できないネット空間)において、それぞれの書店の〈場〉(あるいは〈非‐場〉)で、コミュニティを立ち上げようとする試みが続いている。

 コミュニティを立ち上げるために必要なものは何か?構成要素である人間が同じ〈場〉にいることだけではコミュニティは成立しない。その人間同士の関係を育む、―コミュニティと語根を共有する―コミュニケーションが、不可欠なのだ。

 本は、二重の意味でコミュニケーションツールである。他人に勧められて手に取る、他人に負けまいとするために頁をめくる。他人とのさまざまな関係が人と本を結びつける。同時に、読んだ本がまた新たな関係を創り出す。そもそも読書という行為が、(多くの場合見も知らない)他人の書いたものを読む、人と人の関係だ。だから、コミュニティーコミュニケーションー本の隆盛/衰微は並行して進行する。

 コミュニティの衰退の危険が叫ばれ始めた前世紀後半には、同時にコミュニケーション障害も増加し、「自閉症」、「引きこもり」といった言葉が巷間を賑わした。「カプセル人間」などということも、言われた。ウォークマン、ファミコンといった機器が登場し、そうした状況に受け入れられ、そうした状況を増進した。並行して、本も読まれなくなり始めた。

 その後、インターネットやSNSの普及、固定電話からケータイ、スマホへの通信機器の発展と、いわゆる「コミュニケーション・ツール」は多様化し、社会における存在感も大きく増した。しかし、ツールの方はそうでも、肝心のコミュニケーションは、減退していくばかりだ。

 今から一年前、『現代思想』2017年8月号は、『「コミュ障」の時代』を特集した。そこに収録された國分功一郎との対談で、千葉雅也は、自分も「コミュニケーション」とは、「空気を読んでの根回し」というイメージの方が強かった、と振り返る。そして、現代の特に若い人は承認をめぐる争いに巻き込まれ、とにかくネット上で「いいね」を押してもらいたくてしょうがなくなっている、と言う。

 こうした「コミュニケーション」の今日的状況について、ぼく自身も次のように書いている。

 “現代は、「コミュニケーション」の時代である。

 ぼくたちは、いつどこででも、「コミュニケーション」を強いられ、「コミュニケーション力」を問われる。身近どころか身体に装着されようとしているIT機器は、ぼくたちにただ素早い応答のみを迫る。熟慮は想定外で、沈思黙考は裏切りである。常に「コミュニケーション」が前提とされる強迫的状況は、実はコミュニケーションの可能性の芽を、摘んでいる”。『書店と民主主義』人文書院 P79)

 このような「コミュニケーション」は、コミュニティを産む、あるいはコミュニティとともに発展するコミュニケーションではない。今日の「コミュニケーション」は、コミュニティを産み出し、存続させるために決定的に重要なものを欠いているからだ。それは、「対話」である。

 先程千葉雅也の発言を参照した『現代思想』2017年8月号『「コミュ障」の時代」の巻頭インタビューで、平田オリザは、“「会話(conversation)」と「対話(dialogue)」を区別して考えました”と言っている。

 「会話」とは「価値感や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり」であり、一方「対話」はあまり親しくない人同士の価値感や情報の交換。あるいは親しい人同士でも価値感が異なるときに起こるその摺り合わせだというのである。

 すなわち、「いいね」を連発することは「対話」ではなく(「会話」とも、なかなか言い難いが)、コミュニケーションを生み出さない。ひたすら「いいね」を要求される同調圧力の場は、コミュニティとはいえないのだ。

 平田は、次のようにも言う。

 “「対話」は本来、社会システムか学校教育かのどちらかできちんと身につけさせなければいけません。自然状態では、「会話」はできるけれど、「対話」というのはできないのです。その欠如が、日本に健全な政権交代がなかったり、民主主義が根付かなかったりする大きな原因になっているのではないかと考えてきました。” 

 こうした平田の考えは、『人をつなぐ対話の技術』(日本実業出版社)で、山口裕之が展開している議論と通底する。

 “対話とは、単なるおしゃべりではなく、立場や意見を異にする人と話しあい、互いに納得できる合意点を見つけることである”。

 山口もまた、「対話」とは予め結論が決まっているものではなく、また、想像もつかない道行きをたどるものだ、という。自分だけで考えていては絶対に至ることのない見方を知るために、「それを知っている人から聞く、あるいはそれについて書いてある本を読む、ということが必要」なのである。そうした行程なしに、「すべての市民が賢くなければならないという、無茶苦茶を要求する制度」である民主主義は成立しない。だから、大学教育とは、「対話」を教えることでなければならない、と山口は力説する。

 “要するに、大学における教育とは、学生に「すぐに役立つ知識のパッケージ」を教えこむことではなく、世の中は多様な見方から研究されていることを知らせ、対話による知識の共有の技術と、自分で学ぶための技術を身につけさせることである”。

 この山口のことばは、人間が考えるのは2つの場合だけ、一つは人と対話しているとき、もう一つは本を読んでいるとき、という大澤真幸の見立てと同じだといえる(大澤真幸『思考術』河出ブックス)。

 また、世間のトレンドでは、就活において「自己分析」がキーワードになったり、「個性」の尊重、「個性化教育」が重要と言われるようになっているが、山口は“私は、「個性」や「その人らしさ」なるものがその人の心の中に入っている、という見方そのものが、間違いであると考えている。そういったものは、個人の属性ではなく、個人間の関係性である”という。そして、“対話を開始する当初、自分が何を考えているのか、必ずしも明確でないことが多い。対話の中で、相手の立場や主張だけでなく、自分の立場や主張も明確化されていくのである”と。

 「個性」や「思想・信念」は、対話を通してしか、生まれてこないのである。

 ぼくが行った「学外特別ゼミ」でも、石橋の観察どおり、「学生の表情は一様にボンヤリしていた」。また、「月に1冊以上本を読む人は?」という問いかけに手を挙げたのは、たった一人だった。そうしたゼミ生とぼくとの間に、そもそも対話が成立したのかどうか、覚束ない。でも、まず語りかけること、問いかけることなしには、対話は絶対に発生しない。

 繰り返すが、読書とは本との対話である。対話の重要性に気付かせてくれた平田オリザが優秀な劇作家・演出家であり、演劇理論家であることに、ぼくは一つのヒントを見出した。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)