○第193回(2018/10)

 今年7月に刊行された、池田善昭著『西田幾多郎の実在論』(明石書店)は、「AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか」という副題を持つ。西田哲学とAIの対決が、ぼくの関心を強く引いた。

 哲学者池田善昭は、生物学者福岡伸一の「生命とは動的平衡である」という画期的な定義に触発され、そこに西田幾多郎の「絶対矛盾的自己限定」「逆対応」を見出した。福岡は以前から西田哲学に通じていたわけではなく、この本の前著にあたる『福岡伸一、西田哲学を読む』で、池田のナビゲーションによって西田哲学を読み進めている。池田に媒介され、福岡の生物学が西田幾多郎の哲学と邂逅したのである。

 このことには何の不思議もない。古来、偉大な哲学者は皆、同時代の自然科学に通暁し、対決しながら思索を深めた。デカルト、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、シェリング、ベルクソン…、マルクスもまたそうであったことが、晩年のノートの解読によって、最近注目されている。だから、池田が福岡生物学に西田哲学との同質性を見出したことは、牽強付会では決してない。

 西田と福岡の邂逅は、二人が西洋哲学と自然科学の共通の方法と対峙することによって生まれている。二人が対峙した方法とは、「主観」を絶対化し、「世界」を、その中に現に生きている自分を捨象して、外側から「対象」化する学問的方法である。そうした方法の下では、時間が「流れ」であることは隠され、西田の「過去、未来を包み込む永遠の現在」において「作られつつ作る」生命という見方は生まれない。

 西洋哲学や自然科学においても、そうした方法論への疑問・批判は生まれている。哲学の歴史を「存在忘却」と喝破したハイデガーの哲学がそうであり、量子力学のアポリアの発見も、そうした方向を示唆している。だが、量子力学を知悉するシュレディンガーの、「負のエントロピーを食べる」という卓越した「生命」の定義も、「正/負」の相対性の中にあり、「絶対無」を知ることはなかったと、池田は断ずる。

 その「負のエントロピーを食べる」という定義を「先回り」という概念で捉え直したのが、福岡伸一である。細胞膜における分解と合成を研究していた福岡は、そこに、生体があらゆるものが逃れられない「エントロピー増大則」を免れるために、自ら「先回り」して分解を行っていると、見て取ったのだ。

 “エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ”。(福岡)

 福岡は、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」と言い、「生命とは動的平衡である」と明言する。生体の構造ではなく、生体の行っている活動の「流れ」にこそ、「生命」の本質は存するのである。

 「福岡の定義した「生命」が奇しくも西田の言う「絶対無」を場所として成立している」と、池田は見る。

 “細胞膜上での分解と合成とは、呼吸における呼と吸と同様に、まさに絶対矛盾的自己同一であり、こうした自己同一上の「先回り」こそ、生命活動における最も根幹的なものでなければならないのである。そして、これこそが、「行為的直観」と言われてきたものであった”。

 自らの「生命」の定義に確信を持ったとき、福岡は言う。「忘れていたのは時間であった」

 その時の時間とは、自然科学や西洋哲学の伝統が読み違えてきた「空間的な時間」「時刻」ではない。「流れ」そのものである。双方をそのように捉えるとき、「生命」と「時間」は同義となる。福岡によれば、「先回り」によって、生命こそ時間を生み出すのである。

 “生命は、先回りして分離反応を行うことによって、「時間をかせいで」いるのです。”(『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅』明石書店)

 “細胞が環境に対して行っていることというのは、端的に言うと、時間を作り出していることじゃないかと思うんですよね”(同)

 池田の読みによって、福岡の「生命」論と西田の「実在論」が、重なる。

 “絶対無の場所における「この今」の非連続の連続こそが、正真正銘の生命の姿でこそあるからである。その姿こそ、身体と自己との矛盾的自己同一的と言われるものであったのだ。身体とは「個物即多」というあり方であり、自己とは「全体的一」というあり方であるがゆえに、非連続の個物的多と連続の全体的一とが「非連続の連続」として現前化することになるのである。”

 「この今」の「非連続の連続」こそ、西洋哲学や自然科学が見出し得なかった「流れ」としての「時間」である。そして、「個物即多」は、福岡が観察して「時間」を再発見した細胞の不断の代謝活動である。

 西田の「この今」は、前後少しばかりの「延長」を持つだけのものではない。西田の「絶対現在」は「永遠の未来は永遠の過去に、永遠の過去は永遠の未来に映されている」「瞬間」なのである。池田は、一人の人間の生を超えて「永遠の過去」と「永遠の未来」を考え、“それゆえにこそ、天文学者や物理学者らが、138億年前の宇宙の始まりやその後の宇宙形成経過を、また、生命科学者が生命の起源やその後の進化過程を研究することが可能となる”と、言っている。

 このような西田の「絶対現在」は、論理的・学問的に考えるよりも、むしろぼくたち一人ひとりが、自分の生きているさまを素直に見つめ直すときに、よく分かる。過去を、特に過去の大きな失敗を振り返るとき、それは距離を隔てた(空間的な)「昔」を想起しているのではなく、今まさにその失敗が現前しているというのが、実感だからだ。

 思えば西田は、「事実其儘に知る」ことを、思索の出発点としていた。西洋哲学や自然科学は「主/客」図式をどうしても離れられなかったがゆえに、「生命」や「時間」を「事実其儘に知る」ことが出来なかったと、池田は指摘する。その意味では、今年来日を大いに歓迎された、「新しい実在論」を標榜する現代の哲学者マルクス・ガブリエルが、日本人が自らの哲学と西田哲学に「同じ響き」を感じ取っていることを歓迎している風なのは、興味深い(『ニュクス』第5号 千葉雅也との対談の最後の部分)

 西田の「絶対現在」は、前回のコラムで言及した福田恆存の「演戯」論とも、大いに共振する。福田の「演戯」も、「今」の絶対性に依拠するからだ。それまでの出来事すべての結果であり、かつそれから起こすすべての出来事を知りながら、恰もそれを知らないかのように「今」を生きることが「演戯」だからだ。「永遠の未来は永遠の過去に、永遠の過去は永遠の未来に映されている」「絶対現在」こそ、「演戯」の場なのである。

 「演戯」しているのは、舞台上の役者たちだけではない。人はみな、それぞれの「今」を、「過去が未来に、未来が過去に映されている」「絶対現在」として、生きているのだ。さきほど、「絶対現在」を「論理的・学問的に考えるよりも、むしろぼくたちが生きている自分を、素直に見つめ直すときに、よく分かる」と言ったのは、それゆえである。

 すなわち、ぼくたちは皆、「絶対現在」において「演戯」しているのだ。そう断言する最大の根拠は、「死」である。あるいはぼくたちが「死」を知っていることである。しかし、「いずれ死ぬ」という終幕ばかりが頭を支配すると、日々の生は成り立たない。ある意味ではぼくらは、「いつまでも死なない」かのごとく、生きている。あくまで役者が終幕を、あるいは直後の劇的展開をも知らないかのように「演戯」しているごとく。

 4年前に刊行されロングセラーになった『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(名越康文著 PHP新書)の卓越したタイトルへの一つの答えー「なぜ」の答えにはなっていないかもしれないが「どう生きるのか」の答えが、これである。ぼくたちは皆、あたかも「死」という終幕を知らないかのように生きているのだ。

 そしてこのことが、『西田幾多郎の実在論』の副題「AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか」の答である。池田は言う。

 “今日のAIの下で考えられているアンドロイドやシンギュラリティなど、そこでは常に身体が忘却されている。なぜなら、自己と身体との矛盾的自己同一の仕組みが真に理解されていないからだ。彼らは、いまだに17世紀のデカルトの言う「思惟するもの」にしがみついているからである”。

 身体を忘却することは身体の働きを忘却することであり、その活動そのものである「生命」を、そしてその「流れ」そのものである「時間」を捉えられないのだ。

 “もはや、止まらない技術開発と技術によるAI能力の無限拡張にしろ、シンギュラリティにしろ、生身の「身体」を無視して関わり得る対象は、「存在」の意味でこそあれ「実在」ではありえない。アンドロイドもシンギュラリティも「死」や「無」がないという意味では、もはや「実在」ではあり得ないのである”。

 「存在」とはどこまでも「主観」の「対象」であり、「実在」とは、「主客未分の」「事実其儘」と考えれば良い。

 池田のこの結論は、羽生善治が人工知能との数多くの対局から得た直観、「人工知能には「時間」の概念がない」とも通底する。それを受けてぼくは、“おそらくは、「時間」は、「恐怖心」と同じ根を持つ。人間は、生まれてから死ぬまでの、有限でかつ決まった時間しかこの世で持てないからこそ、「時間」の概念を持つことが出来るのだ”と書いた(当コラム第175回)

 まとめよう。人工知能には「身体」がなく、それゆえ「生命」がなく、「時間」を持たない。そのことは、人工知能に「死」が無いこと、自らの「死」を知らないことと表裏一体である。一方、人間には「身体」があり、「生命」があり、「時間」を持つ。「時間」を持つことは、「死」があることと表裏一体であり、多くの場合自らの「死」を知っている。そうでありながら「今」を生き続けることは、即ち「演戯」である。

 『対人距離がわからないーどうしてあの人はうまくいくのか?』(2018年 ちくま新書)の著者岡田尊司は、アメリカ精神医学会の診断基準DSM−Wが分類する10のパーソナリティの中で、“社会適応にプラスの相関がもっとも強かったのが、演技性パーソナリティである。演技性とは、周りから注目や関心を惹こうとする傾向で、演技性パーソナリティの人は、芝居がかったパフォーマンスや嘘が上手な傾向が見られる”と結論づけている。

 岡田は本書の冒頭で、仕事の成功、経済的な豊かさ、家族や仲間に愛されて幸福に過ごすこと、社会のために役立つ、学芸の道を究めると、自分の人生に何を求めたとしても、その成否を大きく左右するのが、対人関係であると述べている。「人生でつまずくのも、その原因は、十中八九対人関係である」との見立ては、経験則からいって正しいと思う。収集した多くのデータから、その対人関係をうまく築き上げる、言い換えれば「ほどよい対人距離をとれる」のが演技性パーソナリティであると、岡田は言うのである。

 その理由として岡田は、“度が過ぎている場合には、支障になることもあるが、ほどよく演技性の傾向を持つことは、むしろ魅力になるし、実際、一緒にいて楽しいと感じさせる長所である。相手が消極的なタイプであろうと、自分からアプローチして関係を作り、チャンスを広げていくことができる。今日のように自己主張や自己表現が求められる時代にあっては、演技性の傾向は、高く評価される素質である。社会で活躍するためには、演技性の傾向をほどよく持つことは、むしろ成功の条件だといえるし、プライベートな関係においても、愛されることに大いに役立つのである”と論じている。

 「社会適応にプラスの相関が強い」とは、即ち社会にうまく適合し、他者との良好な関係を維持して、楽しく人生を送る度合いが高いということである。それは結果的に幸福度の自己認知にも繋がっている。その傾向に大きく力あるのが、パーソナリティの「演技性」というわけだ。

 演技性の特性は、ある意味で誠実さの対極にある。岡田は、演技性パーソナリテイを、手放しで礼賛しているわけではない。

 “病的な演技性は、信頼関係を壊し、自己の尊厳を貶めてまで、注目や関心を求めてしまうところがある。自分の性的なトラウマを打ち明けたり、かつての恋人にどんなふうに愛されたかといったことを赤裸々位に話すことで、相手にショックを与えるとともに、間接的な挑発をしてくることもある”一方、“このタイプの人は外見にばかり重きを置いて、中身に欠け、空疎になりやすい。性的な魅力で迫ってきたり、気を持たせて誘惑したりするが、本気で愛しているわけではないく、相手がその気になると、気まぐれに拒否したりする。ペースにはまると、心をかき乱されたり、その魅力に幻惑されたりすることになる”ので、「恋人や伴侶に選ぶのには最悪だ」とも言っている。それでも、“フェイクが上手な演技性や自己愛性や反社会性の傾向をほどよく持っている人の方が、社会的に活躍しているというのも現実なのである”。

 一方で、演技性パーソナリティの強いタイプは、言語性や動作性においてはむしろ劣っていることが多い、という。だが、それを補って余りあるのが、そうしたタイプの人が「社会的知性」に恵まれているからだ。

 “社会的知性とは、相手の信頼や関心を獲得し、巧みに接近し、思いのままに利用する能力でもある。しかも、相手から進んでそうさせるように事を運ぶ。それが可能になるのは、愛着という仕組みを逆手に取って、それを操ることができるからだ”。

 ヒトは、一匹では生きていけない脆弱な動物だ。それゆえに、ヒトは群れをなして生活し、社会を形成してきた。「社会的知性」とは、ヒトという生物が生きる上で最も大切な武器なのである。「人生でつまずくのも、その原因は、十中八九対人関係である」のも、そのためなのである。

 こうした議論の中で起こりやすい誤りは、個人を「○○パーソナリティ」という集合の要素と規定することによって、人びとを完全にチーム分けしてしまうことである。そうなると、「演技性パーソナリティ」チームに属する人は、一部の人間という風になってしまう。実際はそうではなく、一人の人がさまざまな「○○パーソナリティ」を持ち合わせているのだ。「演技性パーソナリティ」を持つ人が、同時に、傷つくことや失敗することを恐れる「回避性パーソナリティ」や孤独を好み他人と何かをすることに興味や喜びが乏しい「ジゾイドパーソナリティ」、あるいは真面目で倫理感や責任感が強く決まった通りにすることを好む「強迫性パーソナリティ」をも併せ持っていることは珍しくない。個性とは、それぞれの「パーソナリティ」の強度の違いである。

 大抵の人は、自己の中に同居する矛盾した「パーソナリティ」を、相手に応じ、場面に応じて使い分けているのだ。この点でも、人は「演戯」しているのであり、「絶対矛盾低自己同一」として、生きているのである。

 「演技性パーソナリティ」が強ければ強いほどよい、というわけではない。

 岡田は、次のようにも指摘している。

 “質のいい演技性の人は、誰も傷つかないような嘘をつく。相手を喜ばせ、その気にさせ、こちらも潤うことになる。病的な演技性の人は、後で嘘だとばれるようなことを言ってしまう。ばれるとわかっていても、言わないではいられない”。

 社会の中で生きていくしかない以上、そして「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」と問うとき、人は誰しも「演技性パーソナリティ」を持っていると思われる。大切なのは、自らの「演技性パーソナリティ」を様々な場面で、様々な対人関係の中で、上手に発揮させることであろう。そして、それができることこそ、「AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか」という問いの答えなのではないか、と思うのである。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)