○第194回(2018/11)

 落合陽一の『デジタルネイチャー』(PLANETS)を読んだ。「手強い」と思った。

 落合の本を読まなければならないと強く感じ始めたのは、ホリエモンこと堀江貴文との共著『10年後の仕事図鑑』(SBクリエイティブ)が、売れ始めた頃からだろうか。『魔法の世紀』(PLANETS)などの既刊書も一緒に平積みされ、それらもよく売れている。落合が、現代の読者層に(恐らく若い世代に)広く受け入れられているのは、間違いない。そして、そこに並べられた『10年後の仕事図鑑』(SBクリエイティブ)や『超AI時代の生存戦略』(大和書房)そして猪瀬直樹との共著である『ニッポン2021−2050 データから構想を生み出す教養と思考法』(KADOKAWA)というタイトルを見ると、これまでIT・AI信仰を伴う「未来学」を批判してきたぼくとしては、その思想・展望をしっかりと検証し、学び、意見を表明しなければならないと思ったのだ。

 1987年生。東京大学大学院情報学環・学際情報学府博士課程終了。博士(学際情報学)。現在、筑波大学デジタルネイチャー推進戦略研究基盤基盤長。筑波大学准教授および学長補佐。秀才である。一方で、ピクシーダストテクノロジーズ株式会社CEOを務める経営者にして、デジタルテクノロジーを駆使した現代アートを創り出すメディアアーティスト。文章や語りは率直で迷いがなく、間違いなく今日のオピニオン・リーダーの一人である。多くの読者を得ているのも頷ける。

 「手強い」と思ったのは、多くの分野で、ぼくが彼に太刀打ちできないことは明らかだからだ。ITやAIなど、デジタルテクノロジーの知識。経営者として人を引っ張る力。そして、現代アートについての知識と創作活動。

 ぼくが落合に無謀にも対峙しようとする時、頼りはぼくの周囲にあふれる、そしてぼくが読んできた本(その点でも質量ともに彼に勝てるという自信はないが)と、それらと格闘する中で行なってきた思索だけである。ぼくの挑戦を支えてくれる援軍は、素晴らしい本たち以外には無い。今回も、最大の援軍は、『技術の完成』(F・G・ユンガー、人文書院)である。

 落合陽一のいう「デジタルネイチャー」とは何か?そして、彼は「デジタルネイチャー」という概念を用いて何を主張し、何を目指しているのか? 落合自身の言葉を聞こう。

 “デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。そして同時に、〈近代的人間存在〉を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することで、〈近代〉を乗り越え、言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越するための思想だ。”(P34)

 “本書では、〈近代〉を〈イデオロギー〉ではなく、〈テクノロジー〉の側面から乗り越える可能性を考える。”(P40 )

 「計算機的テクノロジー」によって「現存する自然を更新」(このことばに「環境破壊」というニュアンスは込められていない)する、単純化を承知で言えば、それは、ITやAIのテクノロジーが所謂「自然」を結びついた世界(「計算機と非計算機に不可分な環境)を、われわれが生きる環境として措定し直すということである(「措定」といういかにも近代哲学的な言葉を、落合は受け容れないかもしれないが)。そのことによって落合は、「人間中心主義」を乗り越えようとする21世紀の哲学、メイヤスーを始めとする「新実在論」(それ自身、この一つのラベルで括ることが憚られるほど多様であるが)と、軌を一にしているといえる。そこにあるのは、〈「近代」の超克〉への、強い意志と、その必然性への信念である。

 テクノロジーが今日の環境の重要な構成素であるという見立てに、違和感は無い。ぼくたちの生活世界には、すでに多くのテクノロジーが入り込んでいる。テクノロジーを抜きにした「環境」など、少なくとも今のぼくたちには想像できない。「私たちはウィーナーが想像したよりもはるかに、情報がその形を変え、現実に力を持つようになった世界を生きている。それは、コンピュータによって処理されたある種の自然環境(ネイチャー)の中で生き始めている、とも言える」(『デジタルテクノロジー』P95ことは、そのとおりだと思う。

 だが、続けて「サイバネティクスとユビキタスのその先にある世界で、コンピュータが果たすだろう重要な役割の一つが「人類知能の補集合」になることだ」(『デジタルテクノロジー』P96)と言われると、ぼくはむしろ人類が「コンピュータの補集合」になりつつあるのではないか、との危惧を強く抱く。ユンガーの次の言葉の方が、現代においても当たっているのではないか、と。

 “当然のことながら、人間が支配し操っている自動機械化の影響は、人間へと跳ね返ってくる。自動機械化によって人間が獲得する力は、逆に人間を支配する力を獲得する。人間は自分の動き、注意力、思考を自動機械の方に向けるよう強いられる。機械と結びついた人間のしごとは機械的なものになり、機械的に、寸分違わぬ形で繰り返される。”(『技術の完成』P57)

 ぼくが落合への賛同を保留する最大の理由は、テクノロジーが「現存する自然を更新」することが無条件に「善きこと」であると感じさせる落合の論調なのだ。そして、それが本当に「〈近代〉を乗り越え」ることになるのだろうか、という疑問なのである。

 最初に引用した文章(P34)に、落合の思想のエッセンスが盛り込まれている。一つは、「生物が生み出した量子化という叡智をテクノロジーによって再構築する」という言葉だ。別の箇所で、落合は次のように説明している。

 “そもそも量子化という意味での〈デジタル〉は、生物に固有の情報演算形式であった。DNAやRNAの記録は4種類の塩基によって量子化され、コドンによってさらにコード化されている。網膜や蝸牛も量子化装置であり、空間の光線や空気振動をデジタル化して神経系へと接続する装置だ。”(P36)

 落合のこの説明は、「生物/テクノロジー」という二項対立を、ハッとさせられるほど明快に「脱構築」している。だが同時に、デジタルテクノロジーの進化は「自然界」の進化の延長にあることを示唆してもいる。生物進化ー技術ーデジタルテクノロジーの連続性を感じさせる。だが、だとすれば、デジタルテクノロジーが世界を「近代」から切断する根拠、すなわち「デジタルテクノロジー/「近代的」なテクノロジー」という新しいスラッシュは、どこにあるのだろうか?

 F・G・ユンガーは、言う。

 “技術は収奪を前提としており、技術の進歩と共に収奪は増大していくから、完成の域に達したときに技術がこれまでなかったほど包括的かつ強力に収奪するであろうこと、地球規模で組織化された収奪、このうえなく合理的な方法による収奪が実行されることは、想像に固くない。損失経済は途方もない規模となり、当然、我々は長くは持ち応えられないであろう。”(『技術の完成』P223)

 『技術の完成』が書かれたのは20世紀半ばであり、二度の世界大戦と原子爆弾の登場の時代である。ユンガーの危機感は、現代のわれわれ以上に大きかったかもしれない。だが、ユンガーのこの文章が予言している「未来」を、今ぼくたちは生きている。「完成の域に達したときに技術がこれまでなかったほど包括的かつ強力に収奪する」という彼の予言は、当たっていないのか? 「地球規模で組織化された収奪」は持続・増大していないか? 「損失経済は途方もない規模」になっていないか? 地球環境の危機の増大、リーマンショックなどの資本主義経済そのものの破綻を鑑みる時、われわれはユンガーの予言を回避できたと言い切ることは出来ないだろう。ならば、テクノロジーが、「近代」的な流れを断ち切れなかったことも明らかではないか? IT/AIテクノロジーが、その流れの中には無いということ、即ち「収奪」の誹りを免れることも出来ないのではないか?  

 “放射線はすべてを汚染する。この汚染は、今日明日のみならず、何千年もつづく。放射性廃棄物が置かれたところは、人間が住むことのできない土地となったのである”(『技術の完成』P43)

 ユンガーが描く風景は、半世紀以上前のものではない。「3.12」を経験したわれわれは、その風景を、今再び原子爆弾投下の時代と共有している。

 一方落合は、「デジタルネイチャー」の可能性の根底にある機械と「自然」の同質性を、別の言葉でも説明している。

 “こういった人間や生物の活動全般は、世界のエントロピーを低下させるという性質があり、人間の作る機械も同じ機能を持ち合わせている。それを「生命」と呼ぶかは措くにしても、人間と機械は、宇宙を支配する「エントロピー増大の法則」に逆行する点において同質の存在であることを、彼(ウィーナー)は著作の中で述べている”。(『デジタルネイチャー』P 78)

 ウィーナーの引用を、落合は明らかに肯定的に行っている。「生命」=「エントロピーの低下」は、シュレディンガーの「生命」の定義である。「それを「生命」と呼ぶかは措くにしても」と少しばかり慎重になりながら、落合は機械と生物の同質性を確信していると感じられる。「エントロピーの低下」という共通点で機械=生物と言えるのかどうか、前回(193回)取り上げた福岡伸一=池田善昭の、シュレディンガーのその定義だけでは「生命」は語れないという議論も参照しながら、慎重に考察しなければならないと思う。

 人間という生物にとって、(特に情報の)エントロピーの低下を実現する大きな武器は、言語である。落合も言う。

 “我々の言語は、いうなれば言語を用いる人間という〈オートエンコーダー〉が集団的に生成する、現象の次元圧縮装置と解釈できる。”(『デジタルネイチャー』p24)

 だが、彼は続けて言語という武器の不完全性を衝く。

 “それが世界を記述するシステムとして不完全であることが、人類が突き当たっている〈近代〉の限界の根本にあるが、東洋文明には、その不完全性を超越しうる直観が常に底流している”(同)

 落合は、20世紀の「言語論的転回」へと辿った「近代」(西洋)哲学の限界を、それが依拠する言語の不完全性によって指摘し、〈「近代」の超克〉の正当性と必然性を、強く主張するのである。

 “言葉が本来的に備えている「情報の圧縮」や「フレーム化」といった機能を代替する、新しい理解のモデルが求められているのだ。 End to End。末端から末端、現象から現象へ。言語を経由しない直接的変換によって、意味論の外部で現象を定義し、それを外在化する方法に辿り着かなければ、西洋形而上学の枠組みの中で、本質から疎外された言葉遊びを永遠に繰り返すことになるだろう”(『デジタルネイチャー』p18)

 「本質から疎外された言葉遊び」とは「近代」哲学・思想への痛烈な批判的表現である。とはいえ、落合はこの論考を言葉で書き、みずからの思考を拡散している。言葉というメディアの力(=縮減の力)を彼自身認めて、利用しているとも言える。

 言葉をほぼ唯一の武器とする本というメディア(商品)を販売することを生業としているぼくとしては、言語の不完全性は認めながらも、その不要論を肯定するわけにはいかない。

 言葉不要論は、言語を操る一部エリートとそれ以外のスラッシュ(分断)を確定する。それは、「本を読める者/本を読めない者」の圧倒的な格差があった過去への逆行を結果すると、ぼくは思う。この格差は、言語にコンピュータ言語を付加すれば、さらに現実味を帯びるだろう。「コンピュータに指令を与える者/コンピュータに指令される者」、「ITを操る者/ITに操られる者」というGAFA全盛の世界である(本コラム第192回参照)。落合自身、「デジタルネイチャーは、〈近代以前〉の多様性が、〈近代以降〉の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界だ」という言い方をしている。「〈近代以前〉の多様性」は、「〈近代以前〉の身分社会」と聞こえる。一体それが、目指すべきユートピアなのか?

 思えば、「第五世代」の「フレーム問題」による失敗は、言語による縮減によって「フレーム」を設定する人間の、最後の抗戦だったのかもしれない。ビッグデータのディープラーニングによるAIの「進化」は、「フレーム問題」の解決ではなく、いわば「無視」による「超克」なのだ。人間には想像できない計算速度による、「縮減」の不要化、すなわち「言語」の不要化。

 結果的に「言語不要論」に向かうとはいえ、落合は言語を嫌っているわけではないし、軽視しているわけではない。俳句にも詳しいし、白川静を読み、明治の翻訳語を研究するなど、漢字についての造詣も深い。もちろん、そうでなければ、「近代西洋」のオルタナティヴとしての東洋思想にあれほど通暁できるわけはない。これは、落合の矛盾ではない。そうした広い知見をもとに、現代の状況を見つめ、ありうる未来を見据え、冷静に分析した上で、熱っぽく「近代」のオルタナティヴを語っているのだ。だから、落合を批判する者は、その言葉の端々の矛盾を論っても意味はない。落合の思想、構想の根本部分を理解し、それについて議論しなくてはならない。そのためには、落合同様、ことの本質を見定め、現実と可能性の双方を、しっかりと捉えて議論しなくてはならないのだ。冒頭、落合は「手強い」といったのは、それ故である。

 落合とユンガーは、「近代技術」批判という点では、同じ象限にいる。だが、その批判の矛先が、落合においては「近代」に向かい、ユンガーにおいては「技術」に向かう。落合は、「近代」を支配する「人間主体」中心の思想を批判し、「技術」の発展が「近代」を乗り越える道を探る。ユンガーは、「技術」そのものが世界を収奪し、貧しくし、破滅へ向かわせると見る。

 ユンガーは、「技術的進歩が消費する在庫品には、人間も含まれている」(『技術の完成』P249)という。「技術」の収奪は、人間や社会にも及ぶと見る。ユンガーの「技術」批判は、狭義のエコロジーにはとどまらない。

 落合もまた、デジタルテクノロジーの発展が人間や社会に及ぼす影響は甚大である、と説く。だが、その影響に対する評価は、肯定的なものである。

 ここで再び、落合とユンガーは、邂逅し袂を分かつ。(以下次号)

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)