○第200回(2019/6)

 (承前)
 前回の最後に、“ぼくたちは、「読者共同体」の壁を壊していかなければならないのだ”と書いた。

 今日、誰もが日常的に本を読むわけではない。大学生の読書量が減っている―というよりも限りなくゼロに近づいているという調査結果があり、ぼく自身、前回書いたいくつかの講義体験や書店でのアルバイトを志望する大学生たちの採用面接でも、その事実を確認することは多い。

 本を読む人たちの「読書共同体」は、貴重なのだ。

 その大事な「読書共同体」を壊すとは、何事か?

 ぼくたちが、その「共同体」の中にいるということが、大事な前提である。ぼくが壊したいのは、「共同体」そのものではなく、「共同体」を固定してしまう、「共同体」を自閉させる壁なのだ。「共同体」の外部に出ていき、外部を「共同体」の中に取り込みたいのだ。

 否、「取り込み」ではない。それでは、「共同体」を拡大して、やはりそこに壁をつくることになる。それでは、ダメだ。ソビエト共産党や新左翼のオルグと同じだ。

 「読書共同体」が内側から壁を壊す目的は、その更に外側に壁をつくり、自分自身を拡大、増殖させることではない。「外側」との壁をなくし、「外側」との行き来、交流を図ることだ。

 2000年代のはじめ、ジュンク堂書店池袋本店でのトークイベントは、当初こそ著者や出版社からの依頼があるたびに間歇的な開催だったが、日を追うごとオファーが増えていき、ある時期には2日に一度というハイペースまでになった。店内の喫茶室を利用してのイベントであったため、流石にもう少し回数を抑えようという当時の店長の意見で、毎週木曜日・土曜日に限定した。それでもオファーは衰えることなく、2ヶ月3ヶ月待ちが常態となっていったのである。

 トークイベントには、当然まず登壇者のファンが集まってくる。高々40くらいの席数しか用意できなかったがゆえにしょっちゅう起こった満員札止めの場合には、席はほぼすべて登壇者のファンで埋まった。そうしたときに、ぼくはそこに生じる「共同体」を感じたし、そのことに安心したし、だが一方、そのことにイベントとしての限界を感じた。そこで繰り広げられるのは、「予定調和」の世界だったからだ。登壇者のファンが集まって、予め共感できている話を聞く。それは、トークイベントとして、予定され期待された風景であった。しかし、書物が本来持つべき力は、それに相対する読者にとって、毒となり、世界観そのものを変えるものではなかったか。かつて「流行り」、批判された「マインド・コントロール」の力ではなかったか?その意味で、繰り返される予定調和に、ぼくは、安心とともに一抹の不満を持たざるをえなかったのである。その不満は、前回触れた3月30日のトークイベントにおいて、質問者が発した「マスターベーション」という感想から、それほど遠いものではない。

 だが、時折、そうした平安を破る出来事があった。

 現象学を語る西研さんのトークの時に、参加するでもなく入り口から覗いていたあと、「やっぱり科学では?」と質問を投げかけた中年男性(『希望の書店論』(人文書院)P167〜)。

 劣化ウラン弾によって癌を発症した女性や子どもたちの写真を世に問い続けた報道写真家の豊田直巳さんが、アメリカによるイラク爆撃の非道を訴えたトークの質問コーナーで、「では豊田さんは、金正日の北朝鮮にも、核爆弾を落としてはいけないと言うのですか?」と真顔で訊いた若い男性。

 マルクス思想を、ポストモダン風に軽やかに語る的場昭宏さんに、「私たちの、生活に根ざした、地べたの労働運動は、どうだったのでしょう?」と投げかけた初老の夫婦。

 一瞬張り詰めた空気は、席亭として正直避けたいものであったことは確かだが、同時に、書店という空間にふさわしいものとも感じられたのだ。「アリーナ」としての書店、民主主義の場としての書店という空間に。

 2009年にオープンしたジュンク堂書店難波店には、喫茶室もイベントスペースも無かった。それでも、どうしてもトークイベントを開催したかったぼくは、エスカレータで上がってきて、レジカウンターを背にしながら南へ延びる広い通路から壁までの空間にゼミテーブルとホワイトボードを置き、丸椅子やパイプ椅子を並べて即席の会場にすることにした。シャッターラインを越えて、半分以上「外」だから、近くにコンセントも無い。反対側の検索機のところから、天井を這わせてコードを垂らした。

 会場はエスカレータからもエレベータからも入り口すぐのところで、喫茶室やイベントスペースと違って、壁もない。店内で最も通行量の多い通路脇だから、トーク内容は、そこを通る人すべてに聞こえる。椅子に座って参加している人たちから、木戸銭を取りにくい。その結果、無料イベントとなるので、講師や登壇者に謝礼も払えない。それでも、色々な著者が来てくれるのは、本の著者たるもの、自分の本を売りたいのはもちろんだが、それ以前に、何かを多くの人に語りかけたい、訴えたい、という気持ちを強く持っているからだろう。そもそも本を書くという行為が、自らの壁に穴を開けて外に出る行為なのだ。そして本を読むという行為もまた、外側から誰かの、あるいは何かの壁をこじ開ける行為なのである。

 それぞれの個人が、集団が、社会が持つ壁をこじ開ける、そういう場所で、書店はありたいと思う。

 その意味で、窮余の策としてトーク会場に仕立て上げた通路脇の空間というのは、結果的によかったと思う。通路を行き交う人が、「なんだろう?」とポスターやチラシを見る。会場横に積んである関連書を開いてみる。気づけば、近くの棚の間で、覗き見る人もいる。トーク会場の脇では、そういう風景もしばしば見られる。
もちろん、席が空いていれば、「どうぞ、ご参加ください。無料ですから」と声をかける。

 3月31日の「薔薇マークキャンペーン」トークで、とても嬉しい風景に出会った。「薔薇マークキャンペーン」とは、国の緊縮財政・増税に反対し、福祉など必要なところに十分な財政出動を訴える政策を持つ候補者に「薔薇マーク」を与え、他の候補者との違いを明確にして、その選挙戦を支援しようという運動である。4月の参院選を前に、そして夏の参院選も睨んで開催されたイベントであった。折しも、EUに緊縮財政を強要されて破綻したギリシアの元財務相バルファキスの『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社)がよく売れていて、時宜を得たイベントとなった。登壇者は、「日本でも、国の財政が逼迫していると言って、増税やさまざまな緊縮財政が必至とされているが、それは嘘だ!」と、繰り返し主張した。

 参加していた初老の女性が、終演後、トーク会場近くで行っていた関連図書フェアを見ながら、登壇者の一人に語りかけた。

 「私は、今日、このようなイベントがあるとは知らず、このようなイベントに参加する気持ちもなく、この本屋さんを訪れました。でも、通りかかって皆さんのお話を聞いているうちに、気がつくと席についていました。そして、お話に引き込まれ、共感しました。これまで、政治や社会のありように、モヤモヤしたものを感じていたのですが、そのモヤモヤの理由がはっきりわかりませんでした。でも、今日のお話を聞いて、自分自身の中で納得し、とてもスッキリしました。皆さんの運動を応援します」

 登壇者たちは間違いなく、一つの壁を、それは小さな壁だったかもしれないが、崩した。たまたま書店に来ていた客の一人と、繋がった。

 開放空間で行われる難波店のトークイベントを、ぼくはラジオの公開放送のようなものとイメージしている。そして登壇者は、通りかかった人たちを誘惑・魅惑する「蝦蟇の油売り」であり、「シャルラタン」(近代前夜の近代前夜のフランスで、客寄せ芸人たちを引き連れ、祝祭や大市などを格好の舞台として、巧みな口上よろしく生半可な医術を営み、怪しげな薬を売りつけてはいずかたともなく去っていった「いかさま薬売り」。『シャルラタン』(新評論)、『希望の書店論』P108?)なのだ。

  5月19日の、『沖縄の米軍基地を「本土」に引き取る!市民からの提案』(コモンズ)刊行記念トークイベント。全国の10都市で繰り広げられている「基地引取運動」の中から、大阪と福岡で運動をしている人たちが登壇者として立った。

 この運動こそ、多方面から異論が飛び込んできそうな運動である。辺野古基地に反対する人たちであっても、基地を自分の住む土地に引き取ろうという人は少ない。実際、この運動は「基地容認」だと、左派からの風当たりが強いという(『世界』6号でも、安彦良和と対談している蟻塚亮二が、「基地引き取り運動をやっている人たちがいるけれど、私も、ああこれはまずいと思った。基地は絶対悪だと思うから」と批判している)。

 だが、運動を担う人たちは、そこにこそ「沖縄差別」を見る。今日の日本においては、日米安保を是認・容認する人が多数派である。それはつまり、日本国内に米軍基地を受け入れることを意味する。だが、自分たちの住むところには来てほしくない、沖縄の人々に同情するそぶりを見せながら、結局は沖縄に基地を押し付けてやむなしとする、いわば沖縄を植民地扱いし、沖縄の人々への差別感情を持つと言われても、決して否定できないのだ。論理的に、極めて明快な結論である。

 「基地引き取り運動」に参加している人たちは、何よりもまず自らの差別感情と向き合った。そして、多くの人たちにも同じことを求めている。何のためか?

 「基地引き取り運動」は、論理的には破綻する。今は10箇所で繰り広げられているその運動が、全国に広がっていけばいくほど、そうなる。それぞれの土地の人びとは、自分たちの住む場所に基地を引き取ることを主張しているからだ。他の土地での「引き取り運動」に全面的に賛同することはできない。その土地が、いかに基地引き取りに、「より適した」場所であっても、そうであればあるほど、賛同できない。賛同することは、もう一つの「沖縄」を生み出すことに他ならないからだ。
ならば、各地で発現している「基地引き取り運動」は、決して連携することはできないのか?

 より大きな、より重要な連帯があるのだ。それは、沖縄の人たちとの連帯だ。沖縄への米軍基地集中を、「本土」の人たちがいかに批判しても、沖縄の基地反対闘争を「本土」の人がいかに支援しようとも、日米同盟を容認し、かつ「本土」への基地移転を認めない限り、その批判・支援には整合性が無い。ウチナンチューは、決してヤマトンチューを信用することが出来ないのだ。そのことは、ウチナンチュー自身の希望を削ぎ、その運動に水を差す。

 自身の住む土地への基地引き取りを認めることによってはじめて、自身の沖縄差別を克服できる。そうなってはじめて、沖縄の人たちと真に連帯することができる。

 ぼくはこのイベントの開催に当って、登壇者の主張に反論する人が参加することを、場合によっては外側から野次る人が現れることを、少しばかりの危惧を伴いながら、実は期待していた。そこに議論が発生することを期待していた。「共同体」の壁が敗れることに、期待していたのだ。

 残念ながら、明確な形で、そういう「出来事」はなかった。しかし、登壇者の発言が、参加者の心を動かしたことを、ぼくは確信している。そして、通路を行き交う他の人々の心にも、影を、棘を、揺らぎをあたえたことも。

 『沖縄の米軍基地を「本土」に引き取る!市民からの提案』という小さな本が、ほんの少しばかり世界を揺り動かし、それが沖縄と「本土」との真の連帯へとつながっていくことを、ぼくは願う。

 そして、書店という場が、そうした連帯の揺籃器であることを。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)