○第201回(2019/7)

 何よりも問題なのは、「同一労働同一賃金」なのではないか?ある時から、そう思い始めた。

 「同一労働同一賃金」というスローガンこそが、欺瞞を支え、拡大し続ける元凶なのではないか?

 今年からはじまった神戸新聞の「ブックストアとまり木」は、ぼくが毎月一つのテーマで何冊かの本を選び、第3木曜日の夕刊で紹介するコーナーだ。第一回(1月17日)のテーマは自ずと「阪神淡路大震災」に決まり、「平成」(2月)、「東日本大震災」(3月)と続く。4月のテーマにぼくが択んだのは、「はたらく」だった。元々4月は「新社会人」が第一歩を踏み出す時期である上に、今年は、「働き方改革」法の施行の時期に重なったからだ。

 他のさまざまなスローガン(「アベノミクス」など)がそうであるように、安倍政権の施策説明には美辞麗句が散りばめられている。いわく、「一人ひとりの生き方に合わせたフレックスな働き方」「やりがい、生きがいを感じられる働き方」「働きの応じた報酬」…。どれも一見肯定、賛同したくなる文言である。しかし、その方法論として挙げられる「裁量労働制」や「高度プロフェッショナル制」などを見ると、そこに大きな罠が仕掛けられているように感じる。

 「同一労働同一賃金」というスローガンもまた、一見さして反対する必要はないように思える。それは、さまざまな制度や背景(贔屓、縁故…)などによって、賃金に不当な格差が生じている状況を、労働者にとって平等なものとすべし、という風に読め、確かにそうした不当な格差は早急に改めるべきものだからだ。

 だが、何をもって「同一」労働と見なすのだろうか?

 そもそも、賃金労働を発生させた資本主義は、商品の存在なくしてはあり得ず、商品の存在は、社会的分業なくしてはありえない。そのことはアダム・スミス、マルクスといった経済学の両陣営の祖が共に認めている、近代以降の経済の基本構造だ。分業というのは、別々の仕事をすることである。言い換えれば、近現代社会は、人々が「同一」の仕事をしないから、成立しているのだ。それは、倍率を上げ視野を小さくして、部分をつぶさに眺めても変わらない。社員がみな「同一」の仕事をしていては、いかなる会社も成り立たないだろう。

 では、例えばチャップリンが「モダン・タイムス」で演じたベルトコンベアの横でネジを締めるような仕事はどうだろう?確かに、そこに居並ぶ大量の労働者は、「同一」の仕事をしているかもしれない。だが、そこには、後で述べる「同一」の根拠がある。それにも関わらず、むしろ様々な理由を論って、本来「同一」なはずの賃金に格差をもたらされているというのが、問題なのである。

 資本主義の本質的前提である分業によって、労働は多種多様なものである。多種多様なものの「同一」を言うためには、尺度が必要だ。労働の場合、賃金こそその尺度ではないのか?多種多様な労働は、その賃金において「同一」であると言う他はないのではないか?

 商品に価値があって、そこから労働の価値が算出されるのではない。労働こそが、商品の価値を生み出す。マルクスは、そのことを明確に言っている。

 “このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである”(『資本論1』岩波文庫P74)。

 “諸商品の交換価値はこれらの物の社会的機能に他ならぬのであって、自然的諸性質とはまったく何の関係もないのであるから、われわれはまず、すべての商品の共通な社会的実体は何であるか?とたずねねばならぬ。それは労働である”(『賃銀・価格および利潤』岩波文庫P62)。

 この見方は、マルクス主義、共産主義に特有のものではない。自由主義的なジョン・ロックもまた、私的所有をその人の労働と関連させている。

 では、その労働の価値を図るのは何か?それについても、マルクスは明快だ。

 “そこで、財貨の価値の大きさはどうして測定されるか?その中に含まれている「価値形成実体」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間は、また時、日等のような一定の時間部分としてその尺度標準がある。”(『資本論1』岩波文庫P74)

 労働の量自身は、その継続時間によって測られる」。このマルクスの公理は、先に挙げたチャップリンの『モダンタイムス』の世界に、最もよく当てはまるだろう。なぜなら、チャップリン演じる工場労働者は、一定のスピードで動くベルトコンベアに完全に従属して、ネジを締め続けなくてはならないのだから。ベルトコンベアは「時計」なのである。

 労働の価値の尺度は労働時間、そして商品の価値の源泉が労働の価値であるならば、商品の価値の尺度はその商品に費やされた労働時間である。明快な三段論法だ。

 そして、通常、労働者は、労働日、労働時間に応じて賃金が支払われる。だとすれば、労働時間と賃金は労働の同じ尺度の両面だと言ってもよい。即ち、「同一労働時間=同一賃金=同一労働」が労働の「同一」の定式なのである。多種多様な労働は、その賃金の「同一」、その労働時間の「同一」において、そしてそれらにおいてのみ「同一」労働と見なすことができるのである。

 この「同一賃金同一労働」から「同一労働同一賃金」への順序の逆転は、今言った明快な定式を破棄しようとする目論見である。別の言葉で言えば、「成果主義」であり、その「成果」とは、資本主義経済においては、畢竟、資本家の利潤であると言っていい。資本家は、その「成果」のために、支払った賃金に当たる労働時間、労働日よりもできるだけ長く労働者を働かせようとする。マルクスが150年前に徹底的に批判したのは、資本主義のこの本質的性格なのである。

 “資本の不変的傾向は、肉体的に可能な最大の長さまで労働日を延長することにある。というわけは、それと同じ程度において、剰余労働が、したがってそこから生ずる利潤が、増加するだろうからである。”(『賃銀・価格および利潤』P104)

 この構図は、現代の「成果主義」やブラック企業によってもたらされる「過労死」「過労自殺」という構図と、全く同じではないか?

 「それは、時代錯誤と言うべきではないか?」と言う人がいるかもしれない。マルクスが見、報告し、批判した19世紀イギリスの工場労働と現在の労働の内容は随分と違うし、何より労働法の整備によって、事態は大きく改善されているのではないか?

 確かに今日、マルクスが批判したように、労働者の再生産に必要な6労働時間の賃金で、12労働時間働かせ、資本の利潤の元となる100%の剰余労働を労働者に強いることは出来ない。労働法が労働時間の上限が定められており、また時間外労働に対する(割増を含めた)残業代支払いが義務づけられているからだ。

 しかり、それゆえにこそ、「裁量労働制」や「高度プロフェッショナル制」によって、資本階級は労働法を骨抜きにしようとしているのだ。「同一労働同一賃金」は、その作業を推進するための、まやかしのスローガンなのだ。

 “Time is money.”

 このことばは、アメリカ建国の父であるベンジャミン・フランクリン第二代大統領のものとされている。これを、「時間を無駄にするものはお金を失う」と意訳する必要は無い。「時間はお金だ」と言っているのだ。のちに世界を二分した左右両陣営の始祖とも言える二人が、経済的価値の源泉を、共に時間であると喝破しているのである。

 実際、現代社会を「支配」する巨大IT資本も、時間が価値の源泉であるということはよく知っている。ジョージ・ギルダーは、『グーグルが消える日 Life after Google』(日経BP社)で、次のように言う。

 “時間は、費用の最終的指標である”(P73)

 “時間が代金の指標や代理になるのは、「限界費用ゼロ」社会においてほかのものが豊富になっても、時間の希少性だけは変わらないからだ。”(P61)

 “情報が豊かになったとしても、「時間」の貴重さに変わりはない。”(P253)

 Googleは、人々の検索時間、即ち情報獲得に要する時間を限りなくゼロに近づけることによって、全世界の人を誘い込む誘蛾灯となり、そのことで個々人の情報と莫大な広告収入を手に入れているのである(もっとも、「広告収入」という方法論の弱点を、ギルダーは指摘している。『グーグルが消える日』というタイトルの根拠は、そこにある)。

 だが、それでも「同一賃金同一労働」という定義には、重大な見逃しがあるのではないか?それは、個々の労働者の能力差である。能力のある労働者は、能力のない労働者よりも、速く与えられた仕事を仕上げることができるのではないか?「同一時間」に、より多くの商品を作り上げることができるのではないか?
マルクスは、この疑問にも答えを用意している。

 “もし一商品の価値が、それの生産に用いられた労働の分量によって決定されるとすれば、ひとが怠惰であるか不熟練であればあるほど、その商品の仕上げに多くの労働時間が必要だというわけで、彼の商品はますます価値が多いかに思われるかもしれない。だがそれは、とんでもない間違いであろう。諸君は、私が「社会的労働」という言葉を用いたのを記憶されるであろうが、この「社会的」という形容には多くの論点が含まれている。一商品の価値は、その商品に費やされまた結晶された労働の分量によって決定されるというとき、われわれは、与えられた社会状態において、一定の社会的平均的な生産条件のもとで、使用される労働の与えられた社会的平均的な強度および平均的な熟練をもって、その商品を生産するに必要な労働の分量を意味する”(『賃銀・価格および利潤』P68 )

 即ち、一定時間の労働の価値は、個々の労働者が達成する仕事量によって決まるのではなく、社会的な平均によって決まるのである。ある商品の価格も、多少のぶれや変動があるにはせよ、均せば社会的平均によって決定されると言え、そしてそれゆえにこそ経済全体は安定するのである(但し、マルクスは、今引用した箇所に続けて、社会的平均そのものが、技術革新等によって大きく変動していくことを付け加えるのを忘れていない)。

 個々の労働者にとっては、労働の価値の社会的平均即ち賃金は、実際の自分の労働の価値よりも高かったり、低かったりするだろう。「出来る」労働者こそ、そのことに不満を持つかもしれない。より早く、より多く生産できる自分が、より遅く、より少なくしか生産できない人と同じ賃金であることに不満を持つかもしれない。だが、資本はそこにつけ込むのだ。そうした不満に応えるかに見せかけ、「裁量労働制」だの「高度プロフェッショナル制」だのという疑似餌をちらつかせて、すべての労働者からのより多くの搾取を目論むのである。

 マルクスの「万国の労働者よ、団結せよ」は、そうした文脈でも読まなければならないのかもしれない。「真の階級対立は99%のただなかにこそ見いだされるのです」と広瀬純がマニュエル・ヤンに言った(『黙示のエチュード』新評論)も、そうしたことを踏まえてのことかもしれない。

 労働の価値は、社会的平均によってしか定まらないことを、即ち労働者は一人では労働者になれたないことを、しっかりと押さえておこう。「働くもののコミュニティ」あってこその、労働者なのである。

 


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)