○2006年度分 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第57回(2006/4) 「ウェブ進化論」(梅田望夫著 ちくま新書)が、よく売れている。 「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」を「次の一〇年への三大潮流」と捉え、「Web2.0」と呼ばれるITの現状と展望をわかりやすくまとめた好著である。振り返れば想像を遥かに超えたITの急速な進歩を鳥瞰し、現在の足場を確認するため、特にITに詳しくない(ぼくを含めた)文系の読者が読むべき本だと思った。 先ずぼくの目を引いたのは、「ロングテール」論である。「ロングテールとは何か。本という商品を例にとって考えてみよう。」梅田は、「第三章 ロングテールとWeb2.0」をこのように語り始める。一年間にどんな本がどれだけ売れたのかを示す棒グラフを作ってみる。縦軸には販売部数取り、横軸には、2004年のベストセラー、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『バカの壁』・・・と販売部数順に書目を並べる。横軸を1点ああたり5ミリとし、縦軸を1000冊あたり5ミリとしてグラフを書くと、3年間の新刊だけで、体高10メートル以上だが、すぐに急降下しあるところから地面すれすれを這いながら1キロメートル以上の長い尾(ロングテール)を持った恐竜のシルエットのようになる。それは紙の上には図示できない。 従来、本の流通の関係者(出版社・流通業者・書店)は、ある程度以上売れる本、つまり「恐竜の首」(グラフの左側)で収益を稼ぎ、ロングテール(延々と続くグラフの右側)の損失を補うという事業モデルでやってきたが、ネット書店はこの構造を根本から変えてしまい、ロングテール論が脚光を浴びた。きっかけは、2004年秋に、アマゾン・コムは全売り上げの半分以上をランキング13万位以降の本(リアル書店「バーンズ・アンド・ノーブル」の在庫が13万タイトル)から得ていると、発表されたことだ。(後に「三分の一以上」と訂正されたが、それでも瞠目すべき割合だ。)いわば「塵も積もれば山」で、一点一点の売り上げが少なくても、ロングテールを積分していけば、長い首も凌駕する、というわけである。リアル書店の在庫負担と違ってリスティングのためのコストが限りなくゼロに近いネット書店だから、それが可能だというわけだ。 そこには「(≒無限大)×(≒無)=Something」がインターネットの強みだという見方がある。「放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。」(P19) だが、さしあたり、本という商品について「ロングテール」論が成立するのは、ネット書店だけではないと反論しておこう。ジュンク堂書店は、決して「恐竜の首」派ではない。随分前から、ひょっとしたら発祥のころから「ロングテール」派だったと言える。できるだけ多くの点数を揃えて、一人でもその商品を必要としているお客様を待つ、というのが社是であり、戦略だったからだ。そのために、敢えて言えばそのためだけに、池袋本店は日本最大の2000坪の書店となった。「ロングテール」を実現するためである。ジュンク堂はアマゾン・コムと理念を共有しているのである。流通書籍の点数は、(≒無限大)ではない。だから、その全てを一つの空間に収納することは、不可能ではないのだ。 ぼくは、ジュンク堂池袋本店の現場にいて、「ロングテール」論の有効性を、誰よりも身に沁みて実感している。実際、当店の売上は、即ち利益は、「ロングテール」部分の積分に大きく頼っている。無理して「ロングテール」を維持するために、「恐竜の首」に依存しているわけでは決してない。そうであるならば、『ハリー・ポッター』の売上競争にもっと血道を上げねばなるまいが、その必要があるとは、ぼくは、まったく思っていない。「恐竜の首」派か「ロングテール」派かと問われれば、ジュンク堂は間違いなく後者であり、つまりアマゾン・コムと同じ側にいる。 だから、『ウェブ進化論』で提示されているのとは全く別の問い方が可能であり、重要なのだ。「ロングテール」派にとって、リアルとネットとどちらが優位か、という問いが。 在庫負担、在庫するための空間利用のための負担(つまり家賃)について、確かにリアル書店はネット書店に対して不利な条件にある(つまり金がかかる)。「リスティングのためのコストが限りなくゼロに近い」ネット書店は、その点では圧倒的に有利かもしれない。実際に本が並んでいる空間を持つことが、そのためのコストに見合うか否か、が先の問いの言い換えになる。「ロングテール」派としても、リアル書店のアドバンテージはある、というのが、書店現場に立つぼくの答えである。そして、そのアドバンテージを担保するのは、やはり個々の書店人の研鑽・努力であり、それに裏打ちされたレイアウト・空間作りだと思う。 先日、妻と奥秩父に小旅行をした。事前に、インターネットで多くの情報を集めた。旅館や観光協会のホームページ、訪れた人の感想などを参考にして、プランを立てた。秘湯の宿に格安プランで泊まり、清雲寺の夜桜、長瀞の桜並木、荒川のライン下りと、1泊2日の小旅行としては、効率的な観光ができたと満足している。それもこれも、インターネットのおかげである、本当に便利な時代になったと思う。2日目の昼食も、予めネットで検索して見つけていたそば屋で取った。美味しいそばを充分に堪能した後、長瀞の町を花見散策していて、一軒の魅力的な店を見つけた。「あっ」と思ったのは妻も同じだったようだ。どちらからともなく、「この店、ネットに載ってなかったよね。」と言った。インターネットの恩恵に大いに与かりながら、「やはり実際に行って見ないと分からないことはある。」と思った次第である。 引き続き、『ウェブ進化論』について。 「コンピュータの私有に感動した」世代から「パソコンの向こうの無限性に感動した」世代へと、ITをリードする主体はシフトしている。前者の代表格がビル・ゲイツでありマイクロソフトであれば、後者の代表格が、検索エンジンをビジネスモデルへと引き上げ、莫大な利益を上げる(かつこれまでにないモデルで分配する)グーグルであり、自社の生命線たる商品データベースを公開することでネット小売り業者からeコマースのプラットフォーム企業へと変貌を遂げたアマゾンである。 “権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべて知を再編成しようとする。”(『ウェブ進化論』P54)こうして、グーグルは「民主主義」を徹底的に追求する。 “自前のウェブサイトを持つ個人や小企業が「アドセンス」に無料登録すれば、グーグルの情報発電所がそのサイトの内容を自動的に分析し、そこにどんな広告を載せたらいいかを判断する。そしてグーグルに寄せられたたくさんの出向候補広告の中から、そのサイトにマッチした広告を選び出し自動配置するのである。そしてそのウェブサイトを訪れた人が、グーグルによって配置された広告をクリックした瞬間に、サイト運営者たる個人や小企業にカネ(広告主がグーグルに支払う広告費の一部)が落ちる仕組みなのである。つまりサイト運営者は「アドセンス」に無料登録し、そのウェブサイトを粛々と続けて集客するだけで、月々の稼ぎができるようになるのだ。“(同P74)こうして、グーグルは、新しい利益の分配の形をつくった。 “民主主義だ、経済的格差是正だなんて大仰なことを標榜したIT企業は過去に存在しない。そこにグーグルの新しさがある。「インターネットの意志」に従えば「世界はより良い場所になる」と彼らは心から信じているのだ。”(同P77) 一方、“ウェブサービスの公開からわずか一年たらずで、ウェブサービスを利用して作られた無数のサイト経由でアマゾン商品を購入したユーザは、数千万人にのぼった。アマゾンはこのウェブサービス経由での売り上げから十五%の手数料を得る仕組みを導入していたので、アマゾン島事業自身よりもアマゾン経済圏支援事業の利益率のほうが高くなった。自社の生命線たる商品データベースを公開することで、アマゾンはネット小売り業者からeコマースのプラットフォーム企業へ、テクノロジー企業へと変貌を遂げたのである。これがアマゾンのWeb2.0化である。”(同P116)「Web2.0化」の推進力は、「不特定多数無限大を信頼できるか否か」にある、と梅田は断言する。 これに対して、例えば「2ちゃんねる」などで起こる「フレーミング」、個人情報のデータベース化や漏洩などの負の部分を論うのは、「忌避と思考停止は何も生み出さない」と敢えてオプティミズムを貫く梅田の議論とはすれ違うだけだ。 むしろ「Web2.0化」の推進力そのものの有効性を、市場原理や「民主主義」の至上性という、「近代」の理念そのものを、真正面から問うべきなのではないか。「民主主義」・「経済的格差是正」を標榜するグーグルが、ワーカホリックを思わせる知的エリートによって運営され、自らの理念を振りかざして他国への爆撃・占領に何の躊躇もない、かの国の産なればこそ、なおさらにそう思う。 そんな風に考えながら、梅田が“「適切な状況の下では、人々の集団こそが、世の中で最も優れた個人よりも優れた判断を下すことがある」というテーマを追求した刺激的な本”(P205)と紹介する『「みんなの意見」は案外正しい』(J・スロウィッキー著 角川書店)を読んでみた。「クイズ・ミリオネア」のスタジオ視聴者の正答率、遭難した潜水艦スコーピオン号の捜索、チャレンジャー事故後の開発関連会社の株価の動き、大統領選挙結果の予想など、“正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている”(『「みんなの意見」は案外正しい』P10)例が、次々に挙げられる。その際の「集団の知力」は、「ミツバチの知恵」に譬えられる。 “蜂たちは、みんなが一か所に集まってどこに徴発部隊を送り込むかなんていう議論はしない。その代わり、偵察部隊をコロニーの周辺にたくさん送り出す。偵察に行った蜂が花蜜のふんだんにありそうな場所を見つけると、コロニーに戻って8の字ダンスを踊る。ダンスの激しさは、花蜜の量によって変わる。……その結果、蜂の徴発部隊はあちらこちらに散らばっている花蜜のある場所にうまく配分されて送り込まれ、探索にかける時間とエネルギーに対して最大限の食料が確保できるようになっている。”(同P45) 「集団の知力」を説明する実に巧みな譬えである。但し重要なのは、先の引用文における“正しい状況下では”という限定である。「賢い集団」であるためには、条件があるのだ。その条件が満たされない時、「集団の知力」は極めて劣悪な結果をもたらす。典型的な例が、バブルの発生とその崩壊である。 スロウィッキーが語る“賢い集団の特徴である四つの要件”(同P27)は実に示唆的であり、傾聴に値する。詳細は、次回に。 前回紹介した『「みんなの意見」は案外正しい』は、実はその邦訳タイトルが素晴らしい。「案外」という副詞が、実に的を射ているのだ。“正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている”(P10)の「正しい状況下では」というニュアンスを巧みに伝えているからだ。言い換えれば、『「みんなの意見」は常に正しい』のではない。原題の“The Wisdom of Crowds”では、このニュアンスは伝わらない。逆に、おそらく「案外」という言葉の持つニュアンスは、英訳できないであろう。日本語の「あいまいさ」の長所である。 一方、 “賢い集団の特徴である四つの要件”を、スロウィッキーは実に論理的=明確に語る。その明確さは、日本語による文章が、伝統的に獲得してこなかった、あるいは獲得を拒否してきたものであるかもしれない。しかしだからこそ、それは我々にとって、実に示唆的なものなのだ。 スロウィッキーのいう四つの要件とは、意見の多様性(それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)、独立性(他者の考えに左右されない)、分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)、集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)である。 “この四つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという二つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。”(P27)だから、“私たちは集団としてなら賢くなれるよう、プログラミングされているように思えてくる。”(P27)と、スロウィッキーは言う。 ならば、何よりも肝要なのは、そのようなプログラミングに従って、「賢い集団」を構築すべく、スロウィッキーのいう「四つの要件」をクリアしていくことではないだろうか。 意見の多様性、独立性を保つことは、(恐らくは特に日本においては)既存の集団にとって、実は容易なことではない。“均質な集団は多様な集団よりもはるかにまとまっている。集団のまとまりが強くなるとメンバーの集団への依存度が増し、外部の意見から隔絶されてしまう。その結果、集団の意見は正しいに違いないと思い込むようになる。自分たちが間違えることは絶対にないという幻想、その集団の意見に対して考えられるあらゆる反論を何とか理屈をつけて退けようと躍起になる姿勢、異なる意見は役に立たないという信念がこうした集団には共通して見られる。”(P56)からだ。例えばリナックスの成功は、明らかにプログラマーたちの多様性と独立性による。そのプロセスは、前回紹介した「ミツバチの知恵」に似ている。メンバー同士の影響力、依存性の強い集団では、そのようなプロセスは望めない。相互依存性が市場においてもたらす悲劇が、バブルの発生とその崩壊である。“株式市場では独立した意思決定と相互依存的な意思決定が、ある程度の割合で常時交じり合って存在しているはずである。この割合が相互依存の方向に大きく傾いたときに、バブルが発生する。”(P256) スロウィッキーは断言する。“みんなの意見が正しくなる鍵は、人々に、周りの意見に耳を貸さないよう説得できるかにある。”(P80)と。 いったん成立した「賢い集団」も、常に自らを更新していかなければならない。“集団が物事をいちばんよくわかっているとしたら、集団のやることをなぞるのは合理的な戦略だと言える。問題は、みんながこの戦略をとると、集団は賢くなくなってしまい、集団に従う戦略自体が合理的でなくなってしまうことだ。 ”(P62)「賢い集団」とは、極めて弁証法的な存在、より正確に言えばプロセスなのである。 そのプロセスをよりよい方向に導く(即ち「賢い集団」を「賢い」まま維持する、さらには「より賢い集団」へと進化させる)動因こそ、「天邪鬼」の存在である。 “天邪鬼がいないところでは、話し合いが行なわれた結果、集団の判断が前よりもひどい内容になることもある。これは「集団的極性化」と呼ばれる現象が原因だ。私たちは議論をとおして合理性と中庸が生まれると考えているので、意見を交わせば交わすほど人々は極端に走りにくくなると思い込みがちだ。ところが、三〇年に及ぶさまざまな実験や陪審の経験から得られた知見は、多くの場合、まったく逆の事態が生じることを示す。”(P202)“ 集合的な意思決定は合意形成といっしょくたに考えられることが多いが、集団の知恵を活用するうえで合意は本来的には必要ない、合意形成を主題に置くと、誰かを刺激することもない代わりに誰の感情も害さないような、どうでもいい最大公約数的なソリューションになりやすい。合意志向のグループは慣れ親しんだ意見ばかり大事にして、挑発的な意見は叩き潰すからだ。”(P211)“自信過剰な人はネガティブな情報化カスケード(注)に巻き込まれにくく、ときには情報カスケードを壊すこともあるので、社会全体にとってはいい話だ。人々が自分の持っている私的情報よりも公的情報を重要視していると、情報カスケードは、脈々と続く。”(P76) スロウィッキーの言葉に、「見せかけ」や「形ばかり」ではない真に実効的な(「賢い」)「民主主義」へのヒントを見いだしながら、ぼくは秘かに、自分自身のレゾン=デートルにほんのささやかな自信を持った。 (注)カスケード=滝;“市場や投票制度のように、みんなが持っている私的情報を集約するのではなく、情報不足の状態で次から次へと判断が積み重なるというのが情報カスケードである。情報カスケードが抱える根本的な問題は、ある時点を過ぎると自分が持っている私的情報に関心を払う代わりに、代わりの人の行動を真似することが合理的に思える点にある。みんな自分の知っている情報に基づいて判断をしていると思っているけれど、実際には先人が知っていると自分が思い込んでいる情報に基づいて判断をしている。そのため。集団は誤った判断をしてしまう。”(P70) 前回は、スロウィッキーのいう“賢い集団の特徴である四つの要件”のうち、主に、「意見の多様性」と「独立性」について書いた。そこで得たヒントは、「天邪鬼」の存在意義であった。今回は、残りの二つの要件、「分散性」と「集約性」を取り上げる。 “まず、何か問題が起きた場合、できるだけ現場に近い人たちが意思決定を行なうべきだ。フリードリッヒ・ハイエクは暗黙知―経験からしか生まれない知識―が市場の効率性に必要不可欠だと喝破した。暗黙知は組織の効率性にも同じくらい必要不可欠だ。”(P227) “自分の働く環境に関して意思決定できる権限を人々に与えると、業績が目に見えて改善するケースが多い。”(P228)“知的労働であるサービス業などでは、社員を歯車の一部として処遇してもうまくいかない。”(P230) スロウィッキーが「身近な情報に特化し、それを利用できること」という「分散性」は、組織における「現場主義」だと言ってもいいだろう。情報や事件は、さまざまな現場で発生し、迅速な対応を迫られることも多い。また、あらかじめ予測できるものではないそれらに、事前に設定したそのまま適用できないことの方が普通だ。そんな時力を発揮するのが、経験からしか生まれない知識である「暗黙知」である。 “企業のオペレーションのすべてを命令と管理だけで行なおうとするのは不毛だし、トップが本来かかずりあうべきではない情報に悩まされることになる一方で、従業員やマネージャーのやる気も奪ってしまう”(P220)“ 何千という人を組織化して一つの企業のために働かせる唯一の理由は、人的資源の効率性を向上させ、個々で働くよりももっと賢くなれるように、というものである。そのためには一人ひとりが個人で独立して事業しているような気概をもって一所懸命働き、質の高い情報をもとに行動しなければならない。”(P221) 思えば、ミツバチもまた、あちらこちらに散らばっている花蜜のある場所に徴発部隊をどんどん送り込む「分散性」によって収穫を得るのであった。 「意見の多様性」「独立性」「分散性」と取り上げてくると、「賢い集団」にとって何よりも重要なのは、個の自由・自立性であるように思える。しかし、それだけでは不足なのだ。スロウィッキーは四つ目の要件として「集約性」を挙げる。 “本書の前提からして筆者がさまざまな活動を分散化することで、中央で一元管理するよりもよい結果が得られると信じていることは明らかだ。だが、分散性が特定の状況下ではうまく機能しても、それ以外ではあまりうまく機能しないことも事実だ。”とスロウィッキーは言う。“分散性をうまく機能させることは極めて難しく、うまく機能させることはさらに難しい。交通渋滞やアメリカの諜報機関を見れば一目瞭然だが、分散性は簡単に無秩序に陥ってしまう。” (P91) “分散化されたシステムが本当に賢い結果を生み出すためには、システムに参加しているメンバー全体の持っている情報を集約するメカニズムが必要となる。集約できなければ、分散性は賢い結果につながらない。”(P90) “日本が大規模な軍事行動に出そうだという証拠が山ほどあったのに、どこも真珠湾攻撃を事前に察知できなかったという苦い経験”(P81)を持つアメリカ連邦議会は、1947年、国家安全保障法を可決し、中央情報局(CIA)を設立した。それでも、「9.11」を阻止することはできなかった。“諜報機関が収集した情報の集合的な意義を理解するためには、単純に中央で一元管理すればいいという話ではない。分散した情報を集約しなければいけないのだ。”(P94) フォーマルな組織を持たず、システムの改善に携わる人が世界中に分散しているリナックスの成功は、明らかにその「分散性」に負っている。“リナックスの改善に携わりたいと思っているプログラマーの数は驚くほど多い。そのおかげで、ソリューションの選択肢の幅が大きく広がる。プログラマーは多様で、人数も多いので、どんなバグが発見されても誰かがそれを修正する方法を思いつく。”(P89)だが一方、“リナックスの場合、リーナス自身を含む一握りの人たちが、オペレーティング・システムのソースコードに加えるべき修正点を綿密に検証する。世界中にリナックスのプログラマーになりたい人はたくさんいるが、最終的にすべての道はリーナスに通じていて、彼が決めるのである。”(P90)ここでも、最後には、「集約性」が重要な機能を果たしているのだ。 「民主主義」や「経済的格差是正」を大真面目に標榜するIT企業であるグーグル自身は、 “思想的に「不特定多数無限大を信頼する」という会社ではない。むしろ「ベスト・アンド・ブライテスト」を集めて才能至上主義的唯我独尊経営を志向する会社だ。”(「ウェブ進化論」P225) そのあたりの不整合性、不徹底性を糾弾する、あるいは「民主主義」の無力さを主張したり、「究極の民主主義」の不可能性に絶望したりすることには、何の生産性もない。重要なのは、スロウィッキーのいう“賢い集団の特徴である四つの要件” 、時として相矛盾することもあるであろう「意見の多様性」、「独立性」、「分散性」、「集約性」のすべてを重んじながら、困難を承知の上で“賢い集団”を目指す努力を重ねることであろう。 スロウィッキーは、『「みんなの意見」は案外正しい』の巻末を、次のように締める。 “それ(民主主義)は認知の問題を解決したり公益を発見したりするための仕組みではない。だが、協調と調整に関わるいちばん根本的な問題に取り組む一つの方法なのである。 私たちはどのようにすれば共生できるのか。どのようにすればみんなの利益になるように力を合わせられるのか。民主主義はこうした問いに答える力を貸してくれる。“(P281) 『ウェブ進化論』の終わり近くに、少し気になる箇所がある。 “「シリコンバレーに日本人が少ない理由」(素晴らしすぎた日本の就労環境)が消失し、技術志向の若者たちの間に「言いようのない閉塞感」がひろがりはじめているらしい。シリコンバレーにやってくる若者の数も少しずつだが増加傾向にあることもわかってきた。”(P232) “シリコンバレーの人口は約二五〇万人(就労者は約一三五万人)。うち三五%が外国生まれ”なのに、“その中で日本人は本当に少ない”(P231)ことを憂える梅田は、“ここ何十年もの間、日本の大企業が技術系大学生・大学院生のトップクラス大半を新卒採用し、自由度の高い研究の場や世界最先端の技術開発プロジェクトに関わる場を与え、さらには終身雇用という安定した好条件(円高が進んだ一時期は世界最高賃金)を提示し続けていた”ことが「シリコンバレーに日本人が少ない理由」だと捉え、“その前提が崩れつつ”あることを、むしろチャンス到来と感じている。そして、シリコンバレーに日本人プロフェッショナルのコミュニティを作ることと、日本の住む若者たちが「シリコンバレーをめざす」のを支援することを柱とするNPO活動を始めた。 そうした活動自体に異を唱えるつもりはない。シリコンバレーをめざす若者たちをさまざまな面で支援するのを邪魔立てする理由は、ない。ただ押さえておきたいのは、シリコンバレーを目指すことのできる若者はごく一部であり、また、シリコンバレーをめざすという選択肢が、彼らにとっても最上のものとは限らないということである。 「忌避と思考停止は何も生み出さない」と敢えてオプティミズムを貫く梅田の議論とはすれ違うだけだということは重々承知の上、ぼくがなおこだわるのは、 “若者たちの間に「言いようのない閉塞感」がひろがりはじめている”ことの方であり、梅田が(逆説的にかもしれないが)そのことをスプリングボードにしていることであり、そのスプリングボードに乗って跳躍できるのは「言いようのない閉塞感」を持った若者たちのごく一部でしかない、ということである。 『ウェブ進化論』の中で梅田が指摘しているように、「民主主義」・「経済的格差是正」を標榜し、現在のところもっとも成功しているIT企業であるグーグルが、紛れもないエリート集団でありエリート主義であることを考えても、「言いようのない閉塞感」を持った若者たちの多くを救えるとは思えない。むしろ、「民主主義」・「経済的格差是正」という理念と相反して、「シリコンバレー」は、新しい格差を生み出し、確立し、拡大していく装置になる危険性が高い。 “権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべて知を再編成しようとする。”(P54) その基準にグーグルは「民主主義」を謳うが、それでも一つの(ひょっとしたら権威主義よりも強固なしかたで=有無を言わせぬしかたで)序列化を行っていることにちがいはない。すべての序列化は、格差づけを伴い、必ず排除をもたらす。 ジュンク堂書店池袋本店では、昨年末と今春、『フリーターにとって「自由』とは何か』(人文書院)の著者杉田俊介、『〈野宿者襲撃〉論』(同)の著者生田武志のお二人を招き、トークセッションを行なった。 “雇用をこまぎれに短期化し、人件費を抑え、労働者を好き勝手に使い捨てるためには、必要な時に必要な労働者を円滑に補充できるフレキシブルな―「可塑的」ではない―システムが不可欠”(「フリーターにとって自由とは何か」P37)であるがゆえに、 “資本と国家は、経済効率を上げ剰余価値を稼ぐために、「世帯を支える男性労働者」だけではなく、そこから排除された流動的で不安定な低価格の労働者を必要とした。その意味でフリーター的労働者の起源は、資本制そのものにある。その起源(とそこからの転位)が忘れられている。(同P71)”、“社会的に困難な立場に立たされる、つまり「日本社会の中で居場所がない」若者たちが、文字通りの意味で「社会の中で居場所がない」野宿者を襲うという事実には割り切れない思いがどうしても残る。”(『〈野宿者襲撃〉論』P96)、 “「学校・会社・国家・家族」像の揺らぎの中で、こどもたちは生きるために必要な自分の心理的「ホーム」を損なわれ、同様に「国家・資本・家族」の機能不全に寄って野宿者は物理的「ホーム」を失う。前者の「ホーム」レスが後者の「ホームレス」を襲うという野宿者襲撃は、この両極に立つものどうし、「日本の社会の中で居場所がない」という共通する問題を持つ者どうしが最悪の出会いをするという事態だった。”(同P157)と語るお二人のことばに直接触れたことが、『ウェブ進化論』の終わりの部分に、少なからずの引っ掛かりを感じた原因かもしれない。 『アマゾン・ドット・コムの光と影』(横田増生著 情報センター出版局)を読んだ。 そもそもぼくは、「アマゾン上陸」を「黒船来航」に譬える脅えかたには与してこなかった。それ以前に、ネット書店vsリアル書店という図式に「最終戦争」的なイメージを持ったこともない。ネット書店とリアル書店は、自ずからその役割が違う、それぞれに利不利があり、読者はその利不利を使い分けるだろうから、相互に補填しあうものという認識だった。その使い分けは、図書館と書店の使い分けと同趣のものである。使い分けに異を唱えても何ら生産的な議論にはならず、使い分けを通じて「読者」が「再生産」されることが、それぞれにとって重要なのだ、というのがぼくの立ち位置である。 本書の次のパラグラフにぶつかった時、自らの立ち位置を移動すべきではないかという疑問を持ったわけでは決してないけれど、立ち位置の磐石さについては、再検証すべきかもしれないと感じた。 “リアル書店の売上げランキングでは、一〇〇〇億円を超す紀伊國屋書店と丸善がトップ集団となる。四〇〇〜五〇〇億円を売り上げる文教堂と有隣堂が二番手集団だ。アマゾンジャパンの売上げを「五〇〇億円超」とするなら、もちろん売上げ構成比の違いはあるものの、二〇〇三年段階ですでにこの二番手集団につけていることになる。・・・このまま注文件数が増えつづければ、アマゾンジャパンは二〇〇四年にも売上げを一〇〇〇億円台に乗せて、日本の書店ナンバーワンの座に躍り出る可能性が出てきた。”(P184) 周知のとおり、日本の書物の販売総金額は、間違いなく落ちてきている。その状況で、短期間でアマゾンジャパンが「二番手集団」につけてきているということは、間違いなく既存のリアル書店の売上げを食ってきた存在だということだ。 “日本のリアル書店が営々と積み上げてきた売上げ数字を、アマゾンジャパンは二〇〇〇年のサイトオープンからわずか数年で凌駕しようとしている。それは、二本足でトボトボと歩いていく一団を、後ろから車に乗って追い越していくようなものであり、勝負の土俵が違っているように見える。これはオールドエコノミーの典型である日本のリアル書店が、ニューエコノミーの急先鋒であるアマゾンに敗北を喫したことを意味している。”(P274)と、横田氏は明確に述べている。 本書は、アマゾンジャパンの成功を称揚する本ではない。アマゾンの作業現場に、アルバイトとして「潜入取材」を試みた横田氏の、告発に満ちたルポルタージュである。 “「ここでは、一分間に三冊の本をピッキング(本を探して抜き出す作業)してもらうことになっています。できるだけ早く達成できるようにがんばってください。それとみなさんの作業はすべてコンピュータに記録させてもらいます」”(P54)と、就業と同時に横田氏は告げられる。潜入ルポに先立って横田氏は、鎌田慧の名著『自動車絶望工場』を再読するが、実際にアマゾンでの就労を重ねるにつれ、次のような感想を持つに至る。 “しかし、無駄とは知りながらも不満を言おうという思いが湧くだけトヨタの方がましなのかもしれない。この一見些細にも見える差異にこそ七〇年代と現在の労働環境の違いが、凝縮されているように思えてならなかった。 アマゾンのセンターにおいて、アルバイトとは“時給で働くロボット”にすぎない。七〇年代、トヨタのコンベア上で細分化された作業はさらに細かくわかれ、ここでは入ったばかりのアルバイトが即戦力になり得るほどシステム化されている。“(P119) だからこそ、“アマゾンも日通も、人が長つづきしないことを、露ほども気にしていない・・・。ここでは、アルバイトとは募集広告をうちさえすれば、陸続としてやってくる“使い捨て人材”の異名でしかない。“(P78)のである。 昨今問題になっている「格差社会」の見事なサンプルであるこうした状況を、批判する眼は絶対に必要である。前回ぼくが、“むしろ、「民主主義」・「経済的格差是正」という理念と相反して、「シリコンバレー」は、新しい格差を生み出し、確立し、拡大していく装置になる危険性が高い。”と述べた危惧とも通底していると思う。 但し、本を売る戦場で凌ぎを削っている立場としては、さしあたりそこの部分を攻撃することは差し控えたい。ビジネスとして、言い換えれば顧客獲得の戦場にあって、相手の雇用条件の悪さを論うことは、何の武器にもならないからだ。あくまでもビジネスの現場で求められているのは、まず顧客の満足であり、被雇用者の満足ではない。(もちろん、その双方は矛盾・対立するものではない。理想論と詰られようが、ぼくは双方が両立し、相互に支えあう状況を目指したい。それでも、優先順位は、顧客の満足が上である。) その意味で、本書で語られる次の状況の方が、むしろとても気になる。 “バイトをやめた後で都内を取材してまわっているときのことだった。その日の取材先を訪ねる前にどうしても目を通しておかなければならない本を買おうとして、リアル書店を、まわった。京葉線沿線の駅前の本屋に入り、本を棚入れしていた女性店員を見つけて、探している書名を告げれば、明らかに作業を中断されて迷惑だという顔をしながらコンピュータで検索してから、「うちには、置いていません」と一言だけ言って、作業に戻っていった。結局三軒目で本は見つかったが、このときも、「前もってアマゾンで買っていればこんな不愉快な思いはせずに済んだのに」と後悔した。” (P238) オンライン書店bk1を傘下におさめたTRC(図書館流通センター)代表取締役会長の石井昭氏も次のように言う。「はじめのころ、リアル書店とネット書店の比率は九対一ぐらいで落ち着くだろうと思っていた。けれど、現在までの顧客動向を見ていると、八対二ぐらいまでに伸びそうな勢いです。・・・・これは、リアル書店がお客さんに対して不親切だという裏返し。本の流通に問題があるという証拠でしかない。お客さんは単純に『ネット書店の方が便利じゃん』と思って利用しているわけです」(P263) リアル書店が「親切」で「便利」であること、リアル書店で本を買うという経験自体が快適であること、そんな環境を作っていくことが、何よりもまず重要だと、改めて思う。 毎年夏、新入社員がいくらか日常の業務に慣れてくると、「出版流通』について話してやって欲しいと、新人研修係から頼まれる。ぼくはいつも、ひょっとしたら研修係の意に反して、敢えて日常的なノウハウを離れて、話をする。つまり、新刊や重版確保の方法や、長期委託、常備寄託の意味や具体的な使い方などの話はしない。そんなことは、日々の業務の中で覚えていけばいいのであって、敢えて「研修」として特別な時間を設けるなら、より大きな眼で、出版・書店業界を鳥瞰する機会をつくりたいと思うからだ。何よりも、そうでないと、ぼく自身が面白くない。人に教えるためには、まず自分が勉強しなければならない。元来怠け者のぼくにとって、「新人研修」の場というのは、自分自身の研修のいい機会なのである。 数年前、特に「再販制」について詳しく話して欲しいと言われたときには、『発行書籍再販と流通寡占』(木下 修 著 アルメディア1997年10月)と『著作物再販制と消費者』(伊従 寛 編 岩波書店 2000年11月)を読み、ノートを配布した。どのような制度、問題についても、多角的な見方があること、現状が当たり前でもなく、現行の方法が最上でもないことを知ってもらい、柔軟な考え方を持ってもらう事、大げさに言えば、そうしたことが「新人研修」の何よりの目的だと思うからだ。
今年は、『増補 出版流通改善試論―取次の立場から責任販売制を考える―」(寺林修著 日本エディタースクール出版部1984)を読み、資料とした。実はさしたる理由があったわけではなく、いつも使っている 20年以上前の議論を読むと、出版・書店業界において変わったことと変わらなかったことが浮かび上がってくる。それにより、出版・書店業界の持つ問題の本質が鮮明となり、一方で、現在当たり前と思っていることを、つまり現在の自らのあり様を相対化することも出来る。 孫引きになるが、寺林氏が引用している次の言葉は、むしろ新鮮に響く。“「昔のように売切買切の実施が理想であるが、今の小売店諸君には出来ない相談だから、その急速実施は困難である故に、次善策として責任販売制を敢行したい」(『出版興亡五十年』小川菊松 昭和二十八年八月)。”(P90)小川氏の発言は「委託口座」や「常備寄託」の発生とほぼ同時だという。 小川氏の発言を約30年後に寺林氏が引用した1984年当時、やはり「責任販売制」が模索されていた。寺林氏は本書の中で、「責任販売制」に関して、一つの提案をしている。 “話を簡単にするために極端な場合を想定すれば、書店からの返品はすべて六掛入帖、版元への返品はすべて六・五掛入帖とするのである。換言すれば、版元からであろうと書店からであろうと取次に搬入される商品はすべて六掛、搬出される商品はすべて六・五掛とするのである。”(P190) つまり、「責任販売制」において、もしも売れなければ、出版社も書店も定価の5%ずつ損をするという仕組みである。一方、取次は10%の口銭を得る。つまり、売れなかった方が取次は儲かる。いわば「責任販売」を全うできなかったことのペナルティとして出版社、書店の双方が差し出した損益が丸々取次に入る、という仕組みである。 「そんな、馬鹿な!」と出版社、書店ともに口角泡を飛ばして怒鳴りつけるかもしれない。取次の人間の身勝手な発想だ、と声を荒げるに違いない。寺林氏も “こう書くと版元・書店からは猛反発が起るのは目に見えている”と認めている。だがそれに続いて、“が、「経済法則にもとづく規制ないしは制度化を勇断をもって樹立しない限り」(書協案)「責任販売制」が空念仏に終るのは過去すでに実証済みである。”(P190)と続けられたとき、それは確かにその通りだと思う。寺林氏の時代から20余年を経て、さらに証拠は堆積されたともいえる。 冷静に考えてみると、寺林案は、書店にとってもそれほど悪い話ではない。寺林氏の数値をそのまま踏襲すると、販売時の書店の利益は35%である。一方、売れなかった商品の損益は5%であるから、入荷部数の8分の1=12.5%を販売すれば、トータルで損はしない。(出版社は青ざめるだろうが、)返品率85%でも一応利益は出るのである。(∵0.35aSx-0.05aS(1-x)≧0 ⇄ x≧0.125 ; a=定価、S=仕入総数、x=実売率) これが完全買切なら、正味の分だけ、つまりこの場合は65%を売らない限り赤字となる。(∵0.35aSx-0.65aS(1-x)≧0 ⇄ x≧0.65 ; a=定価、S=仕入総数、x=実売率) 10月27日、日書連が取り組む、受注生産、満数配本、完全買切の責任販売による「新販売システム」に協力する形で、講談社が『窓際のトットちゃん 新装版』、『だいじょうぶ だいじょうぶ』を刊行、配本したが、受注部数はそれぞれ1万1000部、1万2000部と、講談社が設定した最低ライン各2万部を大きく下回った(「新文化」2666号)。日書連事務局では、「やはり完全買切に対する慎重さが如実にでてしまったようだ。」と言っているらしいが、「完全買切」の条件では、書店が二の足を踏むのは当然である。いかに期待できる本でも、必ず売れる保証はどこにもないからだ。先に計算したとおり、実売率が正味率を上回らなければ、書店は赤字となるのだ。 もちろん、「話を簡単にするために極端な場合を想定」した寺林案をそのまま採用すべしと思うわけではない。いくつかの弊害はすぐに思いつくし、先の試算はあくまで書店サイドのものであり、出版社の立場は無視している。何より、売れなければ取次が得をする、という構造はどう考えてもおかしい、と感じられるだろう。 実はぼくは、寺林案を検討することは、出版社‐取次‐書店の役割分担=責任分担についての考察につながると秘かに考えている。そして、「委託制」と「買切制」の中間に、真に有効な「責任販売制」の着地点を見定めることへと。 前回、寺林修氏の「責任販売制」の試案=“版元からであろうと書店からであろうと取次に搬入される商品はすべて六掛、搬出される商品はすべて六・五掛とする”という案を、書店の立場から考えてみた。この場合、書店が利益を出すための実売率は、12.5%以上であった。(∵0.35aSx-0.05aS(1-x)≧0 ⇄ x≧0.125 ; a=定価、S=仕入総数、x=実売率) これを出版社の立場で見るとどうか。 同じ変数を使うと、出版社の収支=0.6aS-0.65aS(1-x)になるから、これがプラスになる条件を計算すると、 0.6aS-0.65aS(1-x) ≧0 ⇄ 0.6-0.65 (1-x) ≧0 ⇄ 0.65x≧0.05 ⇄ x≧1/13 すなわち13冊送品して1冊売れればトントンである。 寺林試案では、書店は8 冊仕入れて1冊、出版社は13冊送品して1冊売れれば赤字にはならない。これは確かに「責任販売制」の名のもと、書店・出版社双方にとって無理のない数字であろう。ただし、それは粗利の黒字/赤字の分水嶺にすぎない。双方ともに人件費ほかの諸経費がかかる以上、実際に重要なのは、利益額そのものである。 双方の立場で、利益額に関して、委託制、買切制と寺林試案との差額を計算してみると、 書店; 委託制の場合の利益−寺林試案の利益=0.35 aSx-{0.35aSx-0.05aS(1-x)}=0.05aS(1-x) 買切制の場合の利益−寺林試案の利益={0.35aSx-0.65aS(1-x)}-{0.35aSx-0.05aS(1-x)}=-0.6aS(1-x) 出版社; 委託制の場合の利益−寺林試案の利益=0.6 aSx-{0.6aS-0.65aS(1-x)}=0.05aS(1-x) 買切制の場合の利益−寺林試案の利益=0.6 aS –{0.6aS-0.65aS(1-x)}=0.65aS(1-x) 考えてみると当然のことだが、書店も出版社も、委託制の方が、寺林試案より返品総額の5%、つまり寺林試案の返品の際の取次の取り分だけ、利益が大きくなる。一方、買切制の場合は、書店の方は寺林試案より返品総額の60%だけ利益が小さくなる(=損益が大きくなる)。それに対して出版社の方は、買切制の方が、寺林試案より返品総額の65%利益が大きい。こちらもイメージするのは簡単で、買切制の場合、売れ残った商品の正味分を、書店が負担しているということなのだ。 講談社と提携した「日書連『責任販売』」について報じている「新文化」11月16日号の一面で、日書連の藤原直流通改善委員会委員長は、「本音を言えば、時限再販や歩安入帳、返品許容率など、少しでも書店の負担を軽くし、売れ残りのリスクをなくしたい。しかし、これまで、こうしたことが商慣習として定着していたために、買切制度を定着させることができなかったと思う。マージン拡大には新しい取組みが必要。ハイリスク、ハイリターンで、腹を括って勝負に出た」とコメントしているが、先の計算から言っても、「買切制度を定着させること」を目指す姿勢は、書店サイドの責任者の発言としては奇妙だと言わざるをえない。「責任販売制」=「買切制」という発想は、書店が「責任」のすべてを担うべし、という発想だからである。 では、相対的に書店、出版社の双方に利益が出る委託制が寺林試案よりやはりいいのかと言えば、そこで割を食う存在が、取次である。 寺林試案の数字を仮定すると、委託制の場合、取次の取り分は、0.05aS-0.05 aS(1-x)=0.05 aSxである。一方寺林試案では、0.05 aS+0.05 aS(1-x)であり、その差は、{0.05 aS+0.05 aS(1-x)}- 0.05 aSx=0.1 aS(1-x)となる。委託制ではx=実売率が落ちるとそれに比例して取り分は小さくなる。一方x=実売率が落ちると返品が多くなるから作業量はその分大きくなる。つまり経費もかかる。取次が必死になって実売率を上げようとする、すなわち返品率を下げようとするのは、当然のことなのである。 一方寺林試案では、x=実売率が落ちるとその分取次の取り分が増える。委託制との差も大きくなる。「実売率が落ちる方が儲かるシステムなんてとんでもない」と出版社・書店サイドは怒るであろう。しかし取次にも言い分はある。「商品が行って帰ったら、倍のコストがかかる。」 だが、実売率が落ちるとコストが増えるのは、書店も出版社も同じである。書店には返品作業が加わり、出版社には受け入れ、保管、再出庫のコストがかかる。 実は、寺林試案は、取次の役割を現状に即して縮減する視点から生まれた、と言うべきなのだ。寺林は言う。“戦前の商品の流れはすべて「注文扱い」であるから同じ「取次」でもそこには「販売会社」的色彩が非常に濃厚であったのに対し、戦後の「委託・長期・常備」口座扱いという新形態になると同じ「取次」といっても、そこには「物流会社」的色彩を強く帯びてくるという事実である。”(「増補 出版流通改善試論」P106)寺林試案は、取次を物流会社と割り切るならば、納得のいくシステムであり、その場合、“ 「取次における付加価値」とは「投下した労働力の量的集積に対する評価」と定義”(P59)するのは、当然である。 実は、そうした取引相手を、もう我々書店は持っている。宅配便業者がそれである。宅配システムで送品した商品を、客が受取り拒否して返送された場合、宅配業者からは送返品両方の送料を請求される。客との取引に失敗した書店は、それを負担するしかない。そのコストは、確かに宅配業者が運んだ事実に見合っているものだからだ。 寺林試案は、取次の機能を、そうした宅配業者のように、物流機能に限定することによって正当化される、とも言える。となると、第一に寺林試案にぶつけるべきは、次のような疑問である。 取次は、明らかに寡占状態であり、出版販売業界における最大の企業体であり、そのことによって出版販売業界を「牛耳っている」と言っても過言ではない。そのような状況と、取次を物流機能に限定することに、整合性があるのだろうか?裏返して言えば、物流機能に限定したとき、取次は現在のような規模と立場を維持できるのか? 物流機能に限定した場合、宅配業者をはじめとして、ライヴァルは急増する。着荷日時の確定や遵守などの要求は、今よりずっと高くなるだろう。注文品の「行方不明」(!)など、絶対に許されない。(そうなると、書店現場としてはとてもありがたい。)一方、直取引の増加など、出版物流の構造が変化していく可能性もある。それはそれで面白い展開かもしれないが、物流機能への限定による急速な縮減に、企業体としての取次は耐えられるだろうか?
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |