○2007年度分

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第65回(2007/1)

 寺林修氏の「責任販売制」の試案=“版元からであろうと書店からであろうと取次に搬入される商品はすべて六掛、搬出される商品はすべて六・五掛とする” は、取次を物流機能に限定することと同値であった。そのとき、取次は物を動かす働きに応じた対価を得ることになる。その対価は商品が最終的に売れたかどうかとは関係ないから、取次は実売率に無関心でいい。全くリスクはない代わりに、実売率が上がっても利益が増えるわけではないからだ。

 一方、書店の利益=0.35aSx-0.05aS(1-x)=(0.4x-0.05)aS、出版社の利益=0.6aS-0.65aS(1-x)=(0.65x-0.05)aS( a=定価、S=仕入総数、x=実売率)だから、当然x=実売率に応じて、利益は増減する。出版社・書店双方とも、実売率を上げることに関心を持ち、努力をすることになる。

 「責任販売制」の第一の目的は、返品率の削減(=実売率の伸張)であった。寺林試案は、つまり「出版社と書店の責任販売制」だと言える。取次の責任は回避されているからだ。寺林氏自身が “こう書くと版元・書店からは猛反発が起るのは目に見えている”と認める所以であろう。

 この試案にのっとって、すなわち取次の責任を0とした図式を考えた場合、「責任」は出版社と書店が分担することになる。書店は書店で自店の販売能力に見合った発注を行うようになるし、出版社も返品のないような配本を心がけるだろう(双方とも、実売率100%の時に利益が最大となるから)。それはそれで現状よりもよいことに違いないとは思うが、実際にやってみると、なかなかうまくいかないかもしれない。この方式だと、出版社は注文してきた書店にしか配本できない。1冊も売れなければ書店には損益が発生するのだから、送り付けはできない。その結果販売機会を逃す可能性が高いし、生真面目に受注生産的に刷り部数を抑えれば、単価が高騰し、ますます売りにくくなることもあろう。

 一方、書店の注文数をそのまま採用すると刷り部数が膨大なものになってしまうケースもあるだろう。その場合は、実売率が下がり、双方とも損をするという結果になりかねない。それでは、何のための「責任販売制」か分からない。

 やはり、取次の調整能力が必要なのか?それでは「元の木阿弥」という声も聞こえてきそうだ。しかし、「出版社と書店の責任販売制」を採用するだけでも、出版社・書店双方に実売率向上のモチベーションを与えることは間違いない。販売予想を大幅に上回る注文や、とにかく作って書店に押し込むという無駄の多い戦略は、減っていくだろう。ならば、そこに取次を参画させる際に、取次にも実売率を上げるモチベーションを与える仕組を導入すればいい。

先に述べたように、寺林試案では、論理的には取次は実売率に無関心でいい。行き(納品)も帰り(返品)も取り分は同じだからだ。ならば、取次にも実売率に関心を持ってもらうためには、つまり実売率を上げるモチベーションを持ってもらうためには、行きと帰りで取り分を変えればよいのではないか。例えば、“版元から取次へは六掛、取次から書店へは六・五掛、書店から取次へは六・二掛、取次から出版社へは六・三掛”とすると、取次は、同じ作業で帰りの取り分が行きの五分の一となる。実売ゼロの際の作業効率は、完売の際の六割になるのである。当然実売率には関心が向かう。書店・出版社はといえば、やはり返品となればそれぞれ三%ずつの損益となるから、実売率を上げるモチベーションは保たれる。

 これこそ、「買切制」=「書店の責任販売制」、寺林試案=「出版社と書店の責任販売制」に代わる第三のモデル=「出版社と取次と書店の責任販売制」と呼べるのではないかと思うのだが、どうか。

 こうしたモデルを寺林試案にぶつけるのは、むしろ寺林氏のあるべき取次観に沿うものだとも思う。寺林氏は、取次の根本機能として、(1)配送機能=2冊以上の同一商品を送る作業;新刊書のパターン配本的なもの及び同一商品のまとまった注文に対する処理作業、(2)補給機能=それぞれ異なる商品を送る作業;一冊一冊の客注品の送本作業、(3)金融機能(P22)を挙げたうえで、“「責任販売制」とは取次にとって付帯機能である「情報機能」と「調整機能」の強化である。”(P38)と断言している。それらは、いわば扇の要として、商品内容を出版社から書店に、多くの書店の販売力や特性を出版社に伝達し、出版社の刷り部数と書店の発注部数を最終的に摺り合わせる機能である。寺林氏じしんはすぐさま、“しかし一体、根本機能すら満足に発揮しえていない現在の取次に対し、情報機能とか調整機能という付帯機能をも根本機能と同列に置いて作業せよとは簡単に言えば出来ない相談である。”(P38)と続けているが、「情報機能」と「調整機能」こそ、取次が「責任販売制」に参画する時の最大にして不可欠の要素であることに間違いはない。そして、それらはおそらく、「責任販売制」が成り立つために不可欠な要素でもある。

 そうした機能への成功報酬のため、裏返せば機能不全の際のリスクを担ってもらうために発案したのが、ぼくの先のモデル=「出版社と取次と書店の責任販売制」である。この形になって初めて、言い換えれば業界三者がそれぞれの持ち場で知恵を絞りながら責任を分担して協力する形になって初めて、「責任販売制」は実効性を持つと思うのだが、どうだろうか?


第66回(2007/2)

 131日、岩波セミナーホールで岩波ブックセンター信山社社長柴田信氏のお話を伺った。主催は「でるべんの会」、テーマは、「本の街・神保町の再生」である。

 柴田さんは、10数年にわたり、「神保町ブックフェスティバル」を主導して来られた。その中で、神保町を訪れる本の「ハードユーザー」の存在に確かな手応えを覚え、こうした「ハードユーザー」の期待に街全体が応えていくことなしに、凋落も囁かれる「本の街・神保町」の再生、存続はあり得ないと言う。

 今、岩波ブックセンターは、三省堂書店神田本店と在庫情報を共有・開示し、それぞれの店を訪れたお客様の求める本が自店にない場合、即座にその情報を参照し、在庫確認、商品を確保し、お客様への案内をしている。多くのお客様はそのサービスに驚くというが、お客様にできるだけ早く求める本を手にしていただきたいという、現場の書店人にとっては当然のサービスであると思う。ぼく自身、お求めの本が自店にない場合、客注を承る前に、お向かいのリブロさんに在庫を照会することが多い。多くのライバル店が林立していた京都店時代も、そうであった。そうすることによって、そのお客様はまた自店を訪れてくださるに違いないという確信があったからだ。

 思い起こせば、1997年に池袋店出店によって東京進出を果したジュンク堂書店のキャッチフレーズは、「池袋も本の街」であった。もちろん「本の街・神保町」を意識していた。当時のブックカバーは池袋の書店地図で、老舗の芳林堂さん、駅前の新栄堂さん、駅に直結している旭屋さんやリブロさんといった「強敵」を明示し、「池袋にはこんなに沢山の、神保町に負けないくらいの書店群があるのですよ。私たちは今回その一隅に加えさせていただきましたが、是非本好きの方々は、池袋へいらして、いろいろなカラーの書店をお楽しみください。」というメッセージを読者に送った。だから、芳林堂さん、新栄堂さんが閉店してしまったことは、本当に残念でならない。

 さらに遡れば、1988年に京都店がオープンした頃、京都を訪れた地方・小出版流通センターの川上賢一社長は、会社の垣根を超えて集まった多くの京都の書店人に対して、「京都四条河原町界隈は、西の神田神保町たれ!」とのエールを送って下さった。その四条河原町界隈も、京都書院、駸々堂書店(京宝店の後に入った阪急ブックファーストも)、丸善京都店、ミレー書房、海南堂など、多くの書店が地図から消えていった。共に「本の街」を盛り上げていこうと思っていた当時を懐かしく思い出しながら、ぼくにはやはり残念な状況だ。

だからこそ、「本の街・神保町」が元気を取り戻してくれないと困る、とも思う。「神保町」は、全国の「本の街」のモデルであり、目標なのだから。その目標が元気であってこそ、それぞれの地域もまた、元気を取り戻せると思うから。

 「でるべんの会」らしく、講演後質問が相次いだ。

 「『本野町・神保町の再生』のターゲットは?、つまり神保町に引き寄せたい顧客層は?」という質問に対して、柴田さんは迷うことなく「中高年層」と答えた。これまでも神保町を訪れてきた「ハードユーザー」の期待に応えることが何よりも大事だと言う。多くのプロジェクトが狙いがちな「若者層」をターゲットにしても自分たちには無理がある、むしろ「中高年層」を満足させ、街にいざなうことによって、「若者層」も自然とそれについてくる、と柴田さんは自信を持って断言した。

 また、「小川町のスポーツ用品店街、御茶ノ水の楽器店街、秋葉原の家電店街などとの連携は?」という質問に対しては、自分たちはあくまでも「本」にこだわる、神保町交差点を中心とした半径700メートルの「街」にこだわる、そこに多くの人たちの力とアイデアを集中してはじめて、結果として周辺との連携が可能となる、と柴田さんは応えた。「『本の街・神保町』というテーマは、100年前から与えられているのですよ。」

 「本屋の人間にわかることは二つだけ」と柴田さんは言う。売れたという結果と、在庫。売行き予想も、読者への推薦も、本屋の仕事ではない。本屋にわかるそのたった二つだけのことに、今本屋の人間は真剣に、懸命に取り組んでいるか?と柴田さんは問う。その地道な仕事に真摯に取り組む書店だけが、生き残っていくだろう、と。

 三省堂との相互の在庫照会は、その取り組みの実現である。ここ長らく、昨対は上回り続けている、と柴田さんは胸を張る。他の神保町の有力書店―書泉や東京堂との相互在庫照会、世界に名だたる古書店街との連携を視野に収め、小学館、岩波書店などの出版社、明治大学や行政との提携も含めた柴田さんの「本の街・神保町の再生」構想は、もうひとつの「本の街・池袋」にとって強力な「ライバル」の再生であると共に、学ぶべき部分が多い。

 奥様に呆れられながら、毎朝嬉々として書店現場に赴く77才の柴田さん。「特に専門書を扱う書店にとって、大事なのは人ですよ。」と言い切る柴田さんに、名著『ヨキミセサカエル

 本の街・神田神保町から』(日本エディタースクール出版部 1991年)当時と全く変わらぬ姿勢を感じながら、益々の意気軒昂ぶりをうれしく、心から言祝ぎたいと思った。


第67回(2007/4)

 323日に『希望の書店論』出版記念会兼送別会を開いていただき、25日から引越しの準備に入り、26日に荷物積み出し、27日に着荷・開梱(戸田市民から神戸市東灘区民にかわりました)、29日にジュンク堂書店大阪本店店長に着任。慌ただしく、まさに『希望の書店論』を置き土産として東京を去り、『希望の書店論』を手土産にして大阪にやってきた恰好となった。

 数日間のうちに何人もの取次・出版社の方々の来訪を受けた。「関西は何年振りですか?」と、皆が訊く。1997年秋、京都店を離れて仙台店店長として赴任して以来だから、約十年ぶりである。「大阪へ帰ってこられたのは…?」という問い方に対しては、一応否定する。神戸で6年、京都で10年勤務したが、大阪は初めてだからだ。(不思議なことに、2000年に池袋店に着任したときにも、「お帰りなさい」とよく言われた。首都圏で仕事をすること自体初めてだったのに。東京に集中する出版社の、多くの人たちと親しくさせていただいていたからだろうか。)

 多くの出版人と日常的に交流することができ、特に池袋本店のトークセッションの企画で知り合い親しくなった著者の方々が多くいる東京の地を後にしたことには、正直言って一抹の寂しさはある。だが、関西にも頑張っている出版社、ユニークな著者は数多く在り、連携・協力して面白い企画を立て、実現していく余地は十分にあると思っている。

 何よりジュンク堂大阪本店自体が、1998年オープン当時は日本最大の書店であったし、来日したアンドレ・シフレンが訪れて絶賛してくれた店なのである。その矜持(もちろん決して驕りではなく)はぼく自身店長として持っていたいし、すべてのスタッフにも持っていてほしい。そして地域を見る縮尺を少し小さくすれば、付近には有力な書店がたくさんある。直近は旭屋書店堂島地下街店で、ジュンク堂梅田店も近い。そして紀伊國屋書店梅田本店、旭屋本店、阪急ブックファースト…。大阪駅周辺は、実は書店街でもあるのだ。ところが、そうしたイメージは、何故か無い。

 かつて、阪神間、いや神戸はもちろん姫路あたりまでが、紀伊國屋梅田本店と旭屋本店の商圏だった。その地域に居住する人は皆、本が必要なときには二店を目指して大阪に出た。そもそもジュンク堂書店は、「それではやっぱり不便やろう。」と、神戸に住む読者に向けて、専門書も揃う店を目指して立ち上げられた会社だった(1976年)。その後さまざまな形態の書店が出現し、書店地図も大きく変わったが、それでも改めて見渡せば、大阪駅周辺は今でも充実した「本の街」なのである。そのことを、まずアピールしていきたい、と思う。そのためには新聞・テレビをはじめとするマスコミと積極的に連携していきたいし、サイン会、トークショーなど、読者にとって魅力的なイベントも積極的に推進していきたい。書店同士の横のつながりも必要であるかもしれない。

 講談社の社内情報誌『出版情報』に大型書店の役割について書いて欲しいと依頼され、ぼくは三つの役割を挙げた。「実験場(ラボラトリー)」と「出会いの広場(アゴラ)」と「投資窓口」である。そして、大阪を意識し、「投資窓口」には「キタハマ」とルビを振った。

 これだけ地方分権とか言われているのにいまだ東京一極集中、大阪という街自体が自ら元気が無いと思い込んでいるようにも見える。商都・大阪が、「経済産業省はウチで引き受ける!」と名乗りを上げてもおかしくはない筈だ。大阪が元気にならなければ、日本全体も盛り上がらないと思う。

 もちろん、ぼくたちにできることは、一所懸命本を売っていくことだけだ。地域経済を活性化させる魔法など持っているわけではない。しかし、一冊一冊の本を通じて、読者一人ひとりが知識と情報と、そして勇気を得ることができるのだとすれば、ぼくたちの愚直な仕事も、ささやかな一助となりうるかもしれない。そう信じて、魅力的な「本の街」を目指して頑張っていきたいと思う。


第68回(2007/5)

 三月末に店長として大阪本店に赴任したぼくは、当初違った環境に戸惑いながらも、少しずつローカルルールに馴染み、スタッフ一人一人の人となりを把握し、そのことと並行してスタッフの方も新しい店長に馴染み少しずつ理解してくれるというプロセスを経ながら、やはり気持ちの上でぼく自身のペースを取り戻しつつあるかなと思える端緒となったのは、中之島図書館の貸し出しカードを作った日だったかもしれない。

 とはいえ、現在中之島図書館にそれほどの資料が揃っているわけではないことは事前に知っていた。その日も、中之島図書館では新書を二冊借りただけ、家に帰って早速大阪府立図書館のホームページにアクセスし、いただいた図書館利用者番号とパスワードを使って、資料貸出しの手続きを取った。ぼくが借りたい資料はほとんど東大阪市の大阪府立中央図書館にあり、そこから中之島図書館に転送してもらうことを、最初から目論んでいたのである。異動前にとてもお世話になった埼玉県立でも見つからなかった萌書房のシェリング関係の図書もあり、ネットで申し込んで中之島図書館で受け取った。

 中之島図書館は、大阪本店から徒歩で10分以内の距離、8時まで開いているから早めに上がれる日には寄れるし、昼休みに行って帰ってくることも可能だ。歴史ある図書館を、戸田市に在住していた時の近くの分室のように利用しているわけである。

 常にそこにある必要はない、速やかにそこに移動してくれればよい。本というものには、そうした属性もある。偶然なのだが、大阪本店着任早々、客注担当者が手薄となり、ぼく自身が手伝うことになった。客注の処理・案内は仙台店時代もやっていたことがあるが、今では出版社品切れ重版未定の商品が、かなりの率で、他支店の在庫を送ってもらうことによってお客様に提供できていることを知った。そうやって入手できた商品の入荷連絡をした時、電話の向こうでお客様が「やったー!」と言って下さったときの嬉しさ言ったらない。

 人と本を結ぶこと、仮に多少のタイムラグがあるにせよ、そのことこそが書店の、図書館の最大の役割だと思い直した次第である。


第69回(2007/7)

 六月上旬、「和歌山県のイハラさんという方から、電話が入っています」という内線が入った。どなただろうと思いながら、どこかで聞いた名前だという思いがかすかに頭をよぎる状態で、電話を取った。『希望の書店論』を読んで、また『新文化』の記事で大阪に転勤したことを知って、是非会いたいと言われる、ぼくとしては誠にありがたい言葉をいただき、「ありがとうございます。私も、是非お会いしたい。イハラさんのことは、最近誰かが褒めているのをはっきり覚えています。ええっと、誰だったか…?」と真正直に応答しながら、ようやく思い出した。

 「そうだ!この間ぼくも講師として呼んでもらった米子の『本の学校』で青田恵一さんが熱く語っていました。行き詰っている書店の人、将来に希望が持てないという書店の人には、是非イハラさんの店を見ていただきたい、と。」

 井原万見子さんは、六月十三日の朝、ジュンク堂書店大阪本店を訪ねて下さった。すぐに3階の喫茶部にご案内し、時の経つのも忘れて2時間以上話し込んだ。井原さんは、快活で、エネルギッシュで、予想通りの素敵な女性だった。

 “和歌山の山の中にある「イハラ・ハートショップ」は、日本一すごい店かもしれません。」(永江朗)「私の今までの常識からすると、絶対に成り立つはずがない書店です。」(青田恵一)と、屈指の書店観察者の二人が共に絶賛する(『論座』2007.4号「全国150店 珠玉の「町の本屋さん」!」)井原さんの店は、美山村という人口2千人ちょっとの山村にある。“近辺には約50世帯、100人しか住んでいない。(『棚。は生きている』青田恵一著 青田コーポレーション出版部 P225) 商売そのものが成り立ち難い立地で、実際小売店がどんどんなくなっていった。客の求めで、イハラ・ハートショップは扱い品目をどんどん広げてきたという。“20坪のうち、6割が本で、4割が食品・雑貨などの物販。物販は、乾物類、オカシ、ウドン、しょう油、塩、タバコ、種、マスク、ポリ袋、洗剤など、生鮮品以外はなんでもある雰囲気。”(同P225

 それでもイハラ・ハートショップの主力商品は間違いなく本、特に児童書なのだ。“ジャンルにかかわらず、店の商品は店長がそれぞれの理由から選んだものだが、とくに児童書は厳選している。棚も面も平台も、その場所にある「一冊の本」は、なんらかの事情で見込まれて、この山の店を訪れたのだ。”(同P227)学校で、子供たちに図書館が購入する本を選んでもらう選書会も、イハラ・ハートショップを支える太い柱のひとつだという。

 最初は、先生方に「子どもは本なんて読まないよ」と言われたが、外の世界に触れる機会が少ない山間部の子どもたちだからこそ、本を通じて様々な世界があり様々な人たちがいることを知って欲しいと願い、自主巡回を続けている。今では、「絵本遠足」といって、遠くから本を買いにやって来てくれる学校もあるという。

 井原さんとお会いした約二週間後の六月二十六日、那覇で沖縄県図書館協会総会の記念講演をさせていただいた。その直前に井原さんに「井原さんとの出会いや、イハラ・ハートショップをどんなふうにご紹介しようかと考え、楽しみにしているところです。」とメールしたら、井原さんは、「ご紹介頂けるのは光栄なことですが、是非、当地の皆さんが望まれるお話を優先させて下さい。<本は人と人とを出会わせるものだ>ということであれば、大丈夫ですけれどね」と返信して下さった。『希望の書店論』、『棚。は生きている』という二冊の本が、ぼくを一人のとても魅力的な女性に出会わせてくれたことは、間違いない。

 “阪神淡路大震災の時、神戸にあるジュンク堂のほとんどは、一旦閉店を余儀なくされた。でも頑張ってかなり早い段階でサンパル店を復旧開店した時、訪れて下さったお客様が口々に「こんなにも早く開店してくれてありがとう。」とおっしゃって下さった、と社長は繰り返し言っています。本来、「こんな大変な中、ご来店くださってありがとうございます。」と言いたいのは、こちらの方なのに……。それ以来、ジュンク堂には、原則的に定休日はありません。”と話した時、井原さんは、事情があって閉店したとき、「あんたとこが閉まっていたら、さびしいわあ。」と言ったおばあさんがいた、というエピソードを語ってくれた。店長も営業も一人でこなす井原さんに、また余計なプレッシャーを与えてしまったかな、といささか反省している。


第70回(2007/8)

 724日(火)の夜、長年来の論敵=盟友である湯浅俊彦氏の依頼により、「出版学会関西部会」で、講演をさせていただいた。演題は「大型書店から見た出版の現在『希望の書店論』を刊行して」、場所は関西学院大学梅田キャンパスである。

 開演時間となって「客席」を見ると、旧知の関西の出版社の人たちが多く集まってくれている。そこで、約10年前に京都店を離れたあと、仙台、東京池袋でぼくが何をしてきたか、出版―書店業界について何を思ってきたかから語り始めた。内容は、当然このコラムとも、その期間に上梓した『劇場としての書店』(新評論)、『希望の書店論』ともダブる。図書館関係の人たちとの交流や、トークセッションなどをきっかけに知り合った多くの書き手についても話した。

 本題に入ってのメイン・テーマは、いわば演題を逆さにひねったような感じで、「出版の現在における大型書店の役割」となった。

 役割の第一は、まさに自著のタイトルと同じ「劇場としての書店」である。こう言うときの眼目は、あくまで主役は読者であること。書店に訪れる読者こそ、さまざまなモチベーションを背負ったドラマの主役であり、だから、ぼくは「案内人」という腕章をした黒子なのだ。

 次に、「工房としての書店」。書物は販売することによって読者の手にわたって初めて意味を持つ(商品として完結する)という意味で、随分前から「書店は出版という営為の最終段階」と主張してきたが、2000年に仙台店から異動した池袋本店では、少し違う意味での「工房としての書店」を味わった。池袋本店で行ったトークセッションのいくつかが、そのまま書籍の形で刊行されたのだ。本を通じての人と人の出会いの場であること、書き手、作り手、読み手が、(売り手を介して)集う場としての書店であることを何よりも目指すぼくとしても嬉しい経験だったが、一方でトークセッションが閉じられた円環の中で完結しないこと=安全な「共同体」に守られないこと=いつでも異質な人が入ってこれること、そしてそのことこそ、書店という開放された空間(敢えて“「予定調和」のネット書店ではない空間”と言おう)の意義だということも教えられた。

 そして、「実験場(ラボラトリー)としての書店」。図書館の書棚の「古さ」を実感したのがきっかけだ。それは図書館に対する書店の優位を主張しているではなく、本と読者を出会わせる場としては共通している図書館と書店の役割分担を言いたいのである。委託商品の展示場である書店と、収集した資料を返したり破棄したりできない図書館では、新進の著者に対する見方について、タイムラグが生じるのは仕方がない。だからこそ、図書館関連の講演では、いつも「図書館の方々も是非書店に足を運んで下さい。そして、知らない著者の商品が書店で平積みになっていたら、遠慮なく、書店員に聞いて下さい。」と言い続けてきた。

 最後に「投資窓口(キタハマ)としての書店」。“パトロニズム”という観点から見ると、再販制、定価設定の経済学の常識からみれば真逆な状況(需要が多いほど安くなる)など、出版・書店業界の特殊性が、説明できる。そこは、読者という投資家が、著者(等)に対して投資をする窓口なのだ。トークセッションを通じて仲良くなった森達也という書き手に思いをはせるごとに、そうしたイメージはリアリティを持つ。森さんは、もともとドキュメンタリー映像作家。ただ、その余りに独創的な(それゆえ魅力的な)企画が、広告収入や視聴率が絶対であるテレビの世界では、通らない。そこで取材した内容を、本にしてきた。これらが、面白い。本という媒体は、3000人位の読者が見込めれば、成立するのだ。本を買う読者は、作家に対する超小口投資家と言える。書店という空間は、そうした投資家を集める窓口なのである。

 最後に、67回目のコラムで書いたように、「大阪はこんなにも『本の街』なのに、誰もそれを自覚せず、喧伝しない。大阪駅周辺には、かつての京都河原町界隈にも神田神保町にも負けないくらい、書店がある。本を求める人たちが、『とりあえず大阪に行ってみるか』というようなイメージ戦略を打ち出していきたい。」という思いを訴えた。そして、紀伊國屋書店梅田本店から堂島のジュンク堂書店大阪本店まで、「書店めぐりのプロムナード」を模索している、という話をした。

 二次会の席上、ぼくの隣には大阪市立大学大学院の北克一先生(湯浅氏の恩師)が座られた。北先生は、ぼくの「書店めぐりのプロムナード」を面白がってくださり、同時にぼくが、「池袋との違いは、近くに大学が無いことです。このことは、客層、本の売れ方、アルバイト応募の少なさから、強く思い知らされました。」と言うと、「確かに、大阪市内に、大学はないんです。」と頷き、嘆息された。大阪市立大学も、確かに大阪市内にあるとはいえ、阿倍野・杉本キャンパス共に環状線の外側である。「大阪市の大学」でグーグル検索しても、10校を少し越える程度。大阪駅近く、「本の街」近くには、皆無だ。が、今回ぼくが講演をさせていただいた関西学院大学梅田キャンパス(茶屋町)など、飛び地のような空間はいくつかある(北先生からワークショップでの講演を依頼された大阪市立大学大学院創造都市研究科は、ジュンク堂書店大阪本店のほん近く、大阪梅田第二ビル6階にある。商都にも、“隙き間”はあるのだ。商都大阪は、懐徳堂や適塾を生んだ地でもある)。


第71回(2007/10)

  大阪駅周辺に点在する書店を巡る「書店めぐりのプロムナード」の模索しながら、地下街のルートをいくつか試してみた。わがジュンク堂書店大阪本店から出発して堂島地下街に出、阪急ブックファースト、旭屋書店本店を目指すとなれば、東北東方面に斜めに横切る最短距離を目指したくなるのだが、そこに立ちはだかるのが、第一〜第四の「大阪駅前ビル」群なのだ。もちろんそれぞれのビルの地下はつながっていて、ブックファースト、旭屋両店のある御堂筋まで行けるのだが、特に夜になるとシャッター商店街の様相を呈し、その間で開いている居酒屋や金券ショップなどを通り過ぎるだけというのも、「プロムナード」の名にはちょっと相応しくないかな、と思ってしまう。

三月末に大阪本店に赴任してから三ヶ月ほどたったある日、思い立って紀伊國屋書店梅田本店に参事役高木正明さんを訪ね、遅すぎる「店長着任挨拶」をした。そして、旧知の高木さんに率直に「書店めぐりのプロムナード」構想を話し、「どうも『大阪駅前ビル』群が『壁』になっているという印象が強いんですよね。」と言った。

「でもな、福嶋君。」と高木さんは返した。「君はそんな昔のことは知らんやろうけど、あのビル群ができたおかげで、あの地域は誰でも歩けるようになったんやで。闇市跡のころは、今みたいに誰でも歩ける場所やなかったんや。」

「じゃ、サンパルが四棟あるようなものなんですね?」「その通りや。」

ぼくが最初に配属された店のあったサンパルビルが、神戸の三宮駅の東側、1982年入社当時もまだ闇市跡の余韻を残した地域に神戸市によって建てられたビルであったことを思い出しながら、納得した。「壁」でありかつ「通路」。なにやら、ポストモダン思想風だ。

 闇市から「駅前ビル」への変遷は、梅田地下街をはじめ大阪駅周辺の開発の牽引者であった田中鑄三氏(紅屋社長、全国中小企業団体中央会会長など、多くの役職を歴任)による『商いからみた梅田半世紀』(なにわ塾叢書 ブレーンセンター 1990年)の「第二回講座 ヤミ市からの復興」、「第四回講座 梅田近代化への道程」で、具体的に語られている。

“私もそこにバラック建ててしばらくしたら、ちょっと来い言うわけですわ。お初天神の境内に連れていかれて、お前、そこどけ言うんですわ。その時分はみんなはじき持っておる。わし、体はちょっと大きいからケンカは負けへんけども、はじきでいかれたらかなわんと思って、いろいろ言うたらね、しまいにだいぶどつかれた。それでも辛抱しておった。何くそと思ってね。それぐらいして、その場はなんとか逃れたら、またあくる日来よる。”(P58)

“まず桜橋に第一ビルを建てようとなったんですけど、私ら今になって思うんですけどね、どっかよそのまねを大阪市がやったんじゃないかと、憶測ですけどね。大阪市はもっとえらいスタッフがおるはずなんです。それがなんかちぐはぐになってしもて。”(P132)

“第一ビルができた時は、全く悪評ですわ。次に第二ビルもでけたんですけど、できる時に片福線がここを通過すると大阪市が言うたんです。それでみなさんが空いたるとこを全部買いたい言うて、高い金を出して買うたわけです。最近ちょっと片福線の話も出ましたけど、今まではぜんぜん話が出ない。ですからみな怒ってしもて、あの中、無茶苦茶になってしもたんですわ。”(P134)何となく、ぼくの「駅前ビル=壁」感に通じるような気がする。

 一方、『大阪人』2007年10月号(「大阪駅前ビル」特集)で、マルビル社長の吉本晴彦氏は、自信を持ってこう言う。“駅前ビルの建設が、大阪駅前全体の再開発を牽引してきた。北ヤードが街開きすれば、大阪駅前はもっと広がる。北ヤードから、大阪駅、ダイヤモンドシティ、西梅田を経て、北新地までつなぎたい。連絡通路を工夫して、歩いて回遊できる街になれば素晴らしい”。「書店プロムナード」構想と通底する。

 本誌では、「駅前グルメ」(これは情報誌としては定番だろう)、「駅前旅行」(多くの都道府県大阪事務所がここにあり、多彩な活動をしていることは本誌で初めて知った)などとともに、「駅前アカデミズム」として「大阪駅前ビル」にある「アカデミー喫茶経営学校」、「大阪市立大学文化交流センター」、「大阪産業大学梅田サテライトキャンパス」などを紹介している。ありがたいことにすでに定員40人が予約で埋まった9月29日の美馬達哉−立岩真也トークセッションを何とか成功させ、ジュンク堂書店大阪本店も、「駅前アカデミズム」の一翼を担いたいなどと、大それた思いを抱いた。


第72回(2007/11)

 今春、池袋本店から大阪本店に移ってきて、最初の印象が、「なぜこんなに大学生が少ないのだろう?」というものだったことはこのコラムにも書いたし、人から聞かれるたびにそう答えていた。その疑問に答えてくれる本に出会った。『大阪経済大復活』(増田悦佐著 PHP研究所)である。

 本書によれば、“大阪市は人口に占める大学生の比率が全国五五主要都市の中で五二位と、四番目に低いという事実”(P74)の歴史的背景として、一九六四年に制定された「工場等制限法」がある。それは、“大規模工場の新増設とともに大学キャンパスの新増設を一定の地域内ではほぼ全面禁止する法律”(P74)であった。その時、大阪の主要大学は、“あまりにもあきらめの良すぎる行動をとった。「いずれは拡大しなければならないキャンパスがいまのまんまの場所にあったら拡大ができない」と見切りをつけて、この法律ができた直後から一斉にキャンパス全体を郊外に移転してしまったのだ。”(P76)対照的に、“東京都心にあった大学は都心にキャンパスがあるということの利点を熟知していたので、キャンパスの新増設ができないということになっても、とにかく最低でも都心キャンパスはそのままの場所で維持する方針を貫いた。厳密に解釈すれば法律違反に当たるような増改築も少しずつやって、都心キャンパスのキャパシティをじわじわ拡大しつづけてきた。”(P75)両者を比較して、著者増田氏は、“大阪人の描く反骨精神に満ちた野党的存在という自画像は、川上哲治監督率いる常勝巨人軍に日本中が熱狂している時代に弱小球団阪神タイガースを応援し続けたというような場面では大いに当たっていた。だが、経済とか社会の根本にかかわるようなことになると、大阪市と地元の財界人たちは、意外なほど従順に国の方針を受け入れつづけてきたのだ。”(P77)大阪人としては何としても反論したいところだろうが、増田氏は、同じことが“東海道新幹線建設計画が「新大阪」という不細工な新駅込みで提案されたとき、この提案をひっくり返すような猛反対運動をくり広げなかったこと”(P200)に言えると、さらに傍証を並べる。確かに、元あった駅に新幹線を引き込めた「東京」「名古屋」「京都」とは、交通の利便性が大きく違う。

 結果的に“大学生の収容能力は高いのだが、あまり便利なところにはキャンパスがないので、大学生の流入超過が人口全体の流入超過に結びつかない。人口流入がないから、新しいシステムも生まれず、求人倍率が慢性的に低水準にとどまる。”という具合に、大学生比率の低さは大阪経済全体にも悪影響を及ぼしてきたのだ。(82)

 その、「諸悪の根源」である「工場等制限法」が、二〇〇二年の夏撤廃された。そのおかげで、“関西地域経済は過去二、三年で画期的な変化を見せて、いまや日本中の大都市圏の中でも設備投資がいちばん活発に進んでいる地域になった。”(P12)と増田氏は本書を語り起こしている。そしてそのことこそ、増田氏が『大阪経済大復活』を唱える所以である。

 余勢をかってというべきか、増田氏は、“梅田、中之島、心斎橋、難波に一校ずつ、合わせて四つの都心型大学キャンパスを!”(第二章のタイトル;P73)と提言する。それは、ぼくたちとしても、大いに賛同したい。専門書の品揃えを売りにしている書店は特に、学生さんや研究者、先生方が書店内をうろうろしてくださる風景が、不可欠なエネルギー源であるからだ。

 増田氏が本書で再三主張している鉄道網の利便性向上も、重要である。JRをはじめ多くの私鉄や地下鉄がひしめき合いながら、それぞれの連絡は利用者に不親切であり続けてきた。大阪が誇る「地下街」の分かりにくさを含めて、本来包容力こそその活力源であった大阪を“知っている人たちだけしか歩きまわれない街にしてはいけない”(P70)という著者の提言には、しっかりと耳を傾けるべきだと思う。

 そもそも大阪は、国内外のさまざまな地域からの物資、情報、文化の流入によって発展してきた、世界有数の都市である。“よそ者に不親切”(P68)などと指弾されるのは、不本意極まりない筈だ。再び「よそ者」にとって魅力的な都市となることこそ、大阪復活の、そして大阪が新たな文化を生み出すための最大の条件であると思う。大学キャンパスの誘致、学び手たちの歓待こそ、その第一歩であると言えないだろうか。


第73回(2007/12)

 『論座』(朝日新聞社)12月号に「ネット時代の知財戦略」という特集が組まれていた。寄稿者は、山形浩生(評論家、翻訳家)、永江朗(フリーライター)、白田秀彰(法政大学社会学部准教授)三氏である。テーマは著作権。もとより、われわれが扱う書籍という商材に関係が深い。インターネット時代を迎えて「著作権」の概念じたいが問い直されなければならず、その作業は、インターネット時代において書籍とは何か、という問いに否応なく繋がる。

 山形浩生は、“1.なんでもいいからとにかく創作されるものの幅と量が増えること 2.それがなるべく広く享受・利用されやすくすること”が「著作権」の本来のねらいだったはずだという。(P79)だが、「WEB2.0」が謳われる今、“何か作品を作ったら、それをネットで公開するのはそんなにむずかしいことじゃない。もちろんネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない。(中略)なまじ世の中に出ないほうが世間も当人も幸せだったとしか思えない代物もたくさんある。でも、そうしたものでも享受してもらえる可能性だけは確実に担保される”(P78)のである。

 白田秀彰は、「著作権」という概念の根拠となる「創作者の利益」を次のように整理する。“a 言論表現の自由が可能な限り保障されること―創作活動にとって損失や責任を負う可能性が小さければ創作に着手する意欲が減退しにくいだろう。b 作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること―作品が自由に広く多くの人に届いて初めて、創作者は、公平な評価や経済的利益を受けられる。”文章の質が違うだけで、山形のいう「ねらい」と同じである。“この場合でも、創作者が高い評価や豊かな経済的利益を受けられる保障はない。作品を評価し、創作者に人格的経済的報酬を与える動機は、私たちの自由意思に依存しているのだから、それを法律や制度によって強制することはできない。”(P93)と白田が続けるのも、“ネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない。”という山形と同様である。

 つまり、「著作権」は、創作者の経済的利益を直接保証するものではなく、その前提となる「作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること」を保証するものなのである。そのために出版活動が、言い換えれば出版社が守られるのである。出版活動をする“事業者には、優れた創作者や作品を発見する費用、作品を洗練し編集する費用、そして複製原版を作成する費用が、副生物を作成する全段階の大きな費用として生じる”(P94)からだ。“言論表現の自由は憲法によって保障されているので、著作権制度はもっぱら作品の流通にかかわるが、そもそも著作権制度の根幹である「権利者に無許諾の複製を万人に禁ずること」、すなわち排他的独占権は、出版社たちの業界秩序を維持する必要から生じたものである。”その結果、「著作権」は間接的に「創作者」を利するに過ぎない。白田は、“その制度の仕組みが、創作者の利益とは直接的に結びついていないのが明らかだ。”(P94)と続ける。

 インターネットのおかげで創作が“真の意味で万人のものとなりつつある”“おもしろい時代”(P78)を迎えた今、むしろ「著作権」は創作にとって邪魔になっている、と山形は言う。

 “著作権は本来は、創作者たちが嬉々として創作活動を行うのを後押しするためにできたものだったのに、それが逆に作用するようになってしまっている。クリエーターたちはますます窮屈な状況に追い込まれている。映画やビデオの作家は、街角の風景を写すたびに各種商標やロゴを避けなきゃならない(欧米のテレビでよくTシャツや防止にモザイクがかかっている間抜けな状況はこのせいだ)。”(P81

 “著作権が延びて収入が長続きすると生活が安定して安心して創作にうちこめる、という創作者たちの変な議論がある。でもふつうは、生活が安定してしまうと人は堕落する。売れてしまってダメになった作家やミュージシャンは数知れない。次の作品をはやく作らないと飯の食い上げだ、という焦りがあったほうが、がんばって作品を作ってくれるインセウティブになるという議論だって十分成り立つだろう。”(P82

 “そんな保護がなくても、みんな勝手に単なる気まぐれで作品をどんどんつくるようになる。それはたぶん、創作活動の民主化ということなのだと思う。ネット上の各種活動が示してしまったのは、人は著作権なんかでインセンティブをつけなくてもいろいろ創作活動を行うのだ、という事実だ。”(P84

 では、「著作権」は、今や無用の長物なのか?言い換えれば、出版社を保護する必要などないのか?そんなことは全くない。創作者が自由に創作し流通させることができるようになったインターネット時代においてもなお、否むしろそうした時代だからこそ出版社のレゾン・デートルが明らかになる。

白田は言う。

“現代のメディア企業は、一般的に見て次のような事業の集合体として機能している。
1
 世に周知すべき価値のある創作者や作品の発見
2 創作者の育成、作品の洗練整理
3 複製物作成販売のための事業計画と資金調達
4 世に周知するのに十分な数の複製物の作成販売
5
 流通経路の整備維持
6 告知宣伝
7 創作者の管理監督“(P98

 インターネットに脅かされるのは、4の部分である。いわゆるマーケティングや広告宣伝事業である1、6、いわゆるタレントプロダクション事業である2、7、資金調達やプロジェクト管理事業である3の重要性は従前のままである。「プロデューサー」としての出版社の役割は、衰えるどころか益々増大しているのである。このことは、ブログが元となった『電車男』(中野独人 新潮社 2004年)や『生協の白石さん』(白石昌則 講談社)のベストセラー化の例を見ても言える。世に溢れる言説から、広く読まれるべきものを発見、選別して流通させる役割、それは昔も今も変わりない。

 “出版社にとって、ブック検索に参加することにはメリットとデメリットが考えられる。メリットは販売促進である。検索によってその本の存在がユーザーに知られ、購買につながるかもしれない。グーグルが本を販売するわけではないが、検索結果の画面からネット書店等にリンクが張られているし、実際に店舗を持つリアル書店の場所も教えてくれる。しかし、ネットでの閲覧だけで用が済んでしまえば、本は売れないかもしれない。それがデメリットだ。(P86)” と永江朗が揺らぐように、インターネットは出版・書店業界にとって「両刃の剣」である。だからこそ、出版社は、「プロデユーサー」としての役割を自覚的に担い、実践する必要があるのだ。その時書店は、「実験場」、「投資窓口」としての自らの役割を自覚、実践していく「劇場」であるべきなのである。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)