○第212回(2021/1)コミュニケーションとは何か 現代は「コミュニケーション」の時代 前回、9月の豊岡演劇祭と平田オリザについて書いた。実は、平田オリザについては、以前からこのコラムで書きたいと思っていた。きっかけは、『現代思想2017年8月号 特集「コミュ障の時代』冒頭の平田のインタビュー「演劇を教える/学ぶ社会」を読んだことであった。 「コミュ障の時代」という特集に興味を持ったのは、「コミュ障」という言葉が、コミュニケーションが成立している状態がデフォルトであり、そこにコミュニケーションをうまく取れない人たちは何かを欠落させているという意味を含意してしまっているように思えたからだ。寄稿する著者たちが、そのことにどう向き合っているのかを、知りたかったのである。 大澤真幸は、『コミュニケーション』(弘文堂、2019年)他の著作で、そもそもコミュニケーションは、理論的には不可能であると喝破している。コミュニケーションの成立の条件を突き詰めて考えると、相手が自分の言うことを理解しているという確信と共に、自分がそのことを知っていることを相手が理解していること、更にはそのことを相手が理解していることを自分が知っていることを相手が理解していることが前提となる……、という具合に無限背進に陥ることを免れないからだ。大澤の言うとおり、コミュニケーションの成立が極めて困難、更には原理的に不可能ならば、世間で当たり前に思われている「コミュニケーション」とは、実はコミュニケーションとは「似て非なるもの」なのではないか? ぼく自身、次のように書いたことがある(岩波書店『図書』2015年9月号「巻頭言」)。 “現代は、「コミュニケーション」の時代である。 コミュニケーションは、主体と主体との間に生まれる。言い換えれば、当初は主体が理解し得ない他者との間に生まれる。ヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章を参照すれば、それは闘争である。互いに作戦を立て、時機を見ながら工夫をこらし、相手を凌ごうとする身体や言語の作用の結果、当初予定しなかった他者の承認が成立することこそ、コミュニケーションである。
「会話」が「対話」を駆逐するとき ところが、今日の、「素早い応答」のみを迫る「コミュニケーション」は、そうしたプロセスを許さない。それは、コミュニケーションの希求ではなく、同調圧力と呼ぶべきものだ。 平田は、“「会話(conversation)」と「対話(dialogue)」を区別して考えました。”と言う(『現代思想』2017年8月号P39)。「会話」は、価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべりであり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺り合わせである(平田オリザ『わかりあえないことから――コミュニケーションとは何か』講談社現代新書、2011年)。 「会話(conversation)」と「対話(dialogue)」、この区別は、非常に重要である。通常この2つの概念は似たものと捉えられるが、平田の説明によれば、「会話」では価値観や習慣の共有が前提となっていて、「対話」では価値観を共有していないことが前提となっている、つまり真逆の前提を持つ「対立概念」乃至「相補概念」といえるのだ。 「会話」と「対話」が混同されるとき、「会話」が「対話」を駆逐してしまう。「対話」には常に対立があり、対立によって生じる摩擦がある。今日の日本ではその摩擦を回避しようとする傾向が強く、もっと言えば摩擦の回避が至上命題になってしまっていて、その結果「会話」が「対話」を押さえつけてしまうからである。だが、「会話」が成就させるのは「コミュニケーション」に過ぎず、「対話」なくして真のコミュニケーションはありえない。「意見を同じうする」者同士の言葉のやりとりである「会話」、少しでも考えの違うものを排除しかねない「会話」、つまり同調圧力がかかる「会話」からは、「当初予定しなかった他者の承認」はありえないからだ。「他者の承認」なき「コミュニケーション」が拠って立つのは、「他者」排除の論理なのである。 平田は、「会話」が席巻する、価値観を一つにする方向の「一致団結」は非常に多くの人を排除し(同P41)、「対話」の“欠如が、日本に健全な政権交代がなかったり、民主主義が根付かなかったりする大きな原因”と考えている。(同P40)
対話は、「私」を「みんな」にすり替えない “そもそも「対話」は日本社会のなかでは概念として非常に希薄なのです”(同P39) “戦前にアメリカに留学して何より驚いたのは、田舎の農家の方が「My philosophy」と言うことです。「I think」や「My philosophy」で語るということ、日本ではこれが、「世間では」「みんなは」「普通は」という話になります。これは本当に面白くて、子どもたちに話し合いをさせると、みんな「普通はこうだよね」と言うのです。「普通はいいから。だいたいそれ普通でもないし!(笑)君自身はどうなの?」という話をするのです。なぜか「みんなそう思っていると思います」ということになってしまいます”(同P43) 今日のアメリカが平田の見た通りであるかどうかは保留するが、日本については、平田の見立てに異論はない。日本の「会話」においては、「私は」「君は」という主語は、多くの場合「みんなは」にすり替わってしまうのだ。 平田と同趣のことを、山口裕之が『人をつなぐ対話の技術』(日本実業出版社、2016年)で言っている。 “対話とは、単なるおしゃべりではなく、立場や意見を異にする人と話しあい、互いに納得できる合意点を見つけることである”(『人をつなぐ対話の技術』「はじめに」) “自分にとって気分の悪い主張を批判するときに、相手とおなじことを繰り返してはならないということである。相手がどんなに不正に思えるにしても、それは自分がそう思ってるだけのことであって、客観的に「不正」だとは限らない。相手には相手なりの「正義」がある場合も多いのである”(同P14) “対話を開始する当初、自分が何を考えているのか、必ずしも明確でないことが多い。対話の中で、相手の立場や主張だけでなく、自分の立場や主張も明確化されていくのである”(同P230) 習得すべき「対話」の技術 両者とも、「対話」が「仲間」ではなく「他者」との真剣な向き合いの中で生まれるものであり、発展的・創造的な結果を期待できる作業、民主主義に不可欠なものであるという。 そして、それは「技術」であり、生得的なものではなく、習得しなくてはならないもの、すなわち教育の対象なのである。 山口裕之は言う。 “大学における教育とは、学生に「すぐに役立つ知識のパッケージ」を教えこむことではなく、世の中は多様な見方から研究されていることを知らせ、対話による知識の共有の技術と、自分で学ぶための技術を身につけさせることである”(同P143 ) 平田も“「対話」は本来、社会システムか学校教育かのどちらかできちんと身につけさせなければいけません。自然状態では、「会話」はできるけれど、「対話」というのはできないのです”(『現代思想』2017年8月号P40)と言う。 『図書』の「巻頭言」で書いたように、現代は「コミュニケーション」の時代であり、「コミュニケーション教育」の重要性も声高に唱えられている。しかし、あくまでそれは「コミュニケーション」教育であり、「他者」の承認という真のコミュニケーションが目指されていない。 “日本的な、精神論を好む風土があり、本来音楽や美術と同じように教えるべきコミュニケーション教育を、人格教育と混同してしまっています”(同P40)と平田は言う。 人格教育は、多くの場合あるべき人間像を設定し、学ぶ者に押し付けてしまう。同調圧力が働き、それに馴染まないものを排除しがちになる。 そうではなく、「対話」・コミュニケーションは「習得すべき技術」なのである。哲学の大学教授である山口は、その技術を大学教育の根幹だとする。そして、劇作家平田オリザは、その技術を教えるのに最も効果的なのは、演劇教育だという。 “今のままのコミュニケーション教育や道徳教育だと、悪気はなくても、日本の子どもたちは基本的に何かの落としどころを見つけようとして、「みんなで一致団結してよかったね」という方向に話し合いの力が働いていきます。そこで、私は「フィクションの力」と呼んでいますが、演劇のような手法を使って、子どもたちの意見が分かれざるを得ないような授業づくりをしていかなければならないと考えています”(同P42 ) 確かに、演劇は「対話」の、この上ないモデルである。 (続く)
|
福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |