○第213回(2021/2)なぜ「演劇は「対話」の、この上ないモデルである」のか? 戯曲を書く難しさ 平田オリザは、『演劇入門』(講談社現代新書、1998年)で、まずなぜ戯曲を書くことが難しいのか、を説明する。それは戯曲という表現形式が、基本的に舞台での上演を前提していること、言い換えれば、舞台での上演がその最終的な完成態であることから来る。演劇の持つさまざまな制約が、戯曲を書く上での制約を生み、それが戯曲を書く難しさの原因となる。 演劇とは、舞台に登場している人間が話す言葉によって、物語を進行させていく芸術である。そしてその言葉は、おおむね同じ舞台に登場している別の人物に向けて発せられる。だから、戯曲の言葉は、「会話」か「対話」である(『ハムレット』のように傍白が効いている名作戯曲もあるし、一人芝居というジャンルも勿論あるが、それらについては今は置く)。このことが、戯曲の第一の制約となる 第二の制約は、演劇が舞台という固定された場で上演されることである。劇場という閉鎖空間の中で進行することである。このことは、観客席と舞台の連続性、一体感を醸成し、演劇のアドヴァンテージであるのだが、一方、戯曲中で起こる出来事の場を、1つの――舞台転換が可能とは言ってもせいぜい4、5箇所の――場所に限定しなくてはならないという制約となる。この制約は、自由に動かすことのできるカメラが捉える多くのシーンで、ストーリーを継時的に展開できる映画やテレビドラマには無い。 そのことを踏まえて、平田は言う。 “小説や映画のように、だんだん状況が判っていくという形式、だんだん謎が解けていくという展開は、演劇にはあまり向いていないだろう。 戯曲の場合には、その戯曲、その舞台作品が、「何についての」戯曲、「何についての」作品なのかということを、できるだけ早い時期に観客にうまく提示し、観客の想像力を方向づけていくことが重要になる”。(『演劇入門』P69) 「ネタバレ」こそが、戯曲には不可欠だというのだ。このことは、小説や映画とは真逆である。小説の帯、映画のチラシには、「結末は誰にも話さないでください」と書いてある。なぜ、そうなるのか? それは、実際にはさまざまな場所で起こる多くの出来事を1箇所(あるいは、せいぜい数箇所)の出来事の中に塗り込めていかねばならない演劇において、劇作家は、ストーリーの中で、ある特定の象徴的なシーンだけを抜き出して舞台を構成し、その前後の時間については、観客の想像力に委ねなければならないからである。観客の想像力を喚起する台詞を書くことが、劇作家の技術なのである。(同P65)(注) 空間的な制約だけではない。長い時間をかけて起こったことを、せいぜい2時間前後の出来事の中に集約していかなくてはならない。この制約については、長さが自在な小説はともかく、映画でも同様であるといえるかもしれない。だが、実際に舞台と客席に同じ時間が流れている演劇と比べ、映画は時間の使い方がより自由で、少なくとも撮影段階では観客との同時性を意識せずに済む(尺を決めるのに苦労するのは、編集段階)。
演劇における「対話」の創出 一方、劇作家に大きな制約を及ぼすこれら演劇の形式は、同時に演劇の武器でもある。“生身の観客がそこにいるということは、逆に観客の側から観れば、生身の俳優がそこにいるということだ。この生身の俳優が観る者の想像力を喚起する力は、映像の比ではない” (同P68)。 「観る者の想像力を喚起する力」を持つのは、リアルな台詞である。直接耳に入ってくる台詞が不自然なものであれば、観客も想像力の羽をはばたかせることは出来ない。 単にリアルであるだけではダメである。舞台上で発せられる台詞は、観客の想像力を劇作家の設定したプロットに沿ってはばたかせるものでなければならない。演劇的な制約によってすべてを直接表現することは出来ないが眼前で繰り広げられる劇の重要な背景や状況を想像させる台詞が、必要なのだ。即ちリアルにして必要十分な情報量を持つ台詞が、である。 “古今東西の名作と呼ばれる戯曲は、必ずその演劇の冒頭に、確実に内部の登場人物たちが抱える問題が、自然な形で提起されている”。(同P61) たとえば、 “『忠臣蔵』における最も重要な場面は、「松の廊下」から赤穂城明渡しをめぐる「大評定」までである。ここでの問題提起の巧みさが、『忠臣蔵』を不朽の名作とした”。(同P71) 平田は他に、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』で二人の若者がドラマの最初で恋に落ちる場面を挙げている。シェイクスピア『ハムレット』の冒頭、ハムレットが父王の亡霊と遭遇し、父が暗殺されたのではないかと疑い始める場面もそうだろう。 しかし、冒頭からお芝居の骨格を観客に示すという作業を、リアルな台詞で行うことは、想像以上に、難しい。 舞台に登場する人物のプロフィール(年齢、職業、関係など)が語られることは、リアルな日常会話ではほとんど無い。特に親密な関係にある当人同士の会話では、ありえないと言っていい。仮にそれを話題するとしたら、ふざけているのか、記憶喪失かと疑われるだろう。 そこで劇作家が利用するのは、「会話」ならぬ「対話」である。 前回引用した、平田による「会話」と「対話」の区別を再確認しよう。 『演劇入門』では、次のように定義されている。 対話(dialogue);他人と交わす新たな情報交換や交流、他人といっても、初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味 会話(conversation);すでに知り合っている者同士の楽しいお喋り(『演劇入門』P121) 即ち、対話にまず必要なのは、〈他者〉なのである。但し、相手に何の関心もないような全くの「赤の他人」同士では、「対話」は始まらない。少なくともどちらか一方が、当初は相手のことをよく知らないが、知る必要がある、知りたいと思っているという状況が必要である。 そのために、そのような〈他者〉が登場する〈場〉を、劇作家は設定する。平田は、その〈場〉として、プライベート(私的)な空間でもパブリック(公的)な空間でもない、半公的(セミパブリック)な場所を選ぶことが多いという。あるいは、プライベートもしくはパブリックな空間におけるセミパブリックな時間を。(同P54) 平田自身の戯曲で言えば、前者の例としては、「大学の実験室の隣の、ロッカーなどが置いてある学生たちのたまり場」「温泉宿のロビー」「サナトリウムの面会室」が、後者の例として、「通夜の晩の旧家の茶の間」、「ヨーロッパが戦争状態になっていて、有名な絵画がどんどん日本に避難してきている、美術館のロビー」が挙げられる。 劇作家は、いかに舞台の上で「他者」同士が出会い、言葉を交わす状況をつくるかに苦心し、工夫を重ねているのである。平田が「私がこれまで示してきた戯曲を創るための手続きは、突き詰めれば、「対話」を産み出すための手続き」(同P140)と総括する所以である。
登場人物と観客の視線が重なったとき、対話が始まる こうした苦心や工夫は、できるだけナチュラルな台詞で「現実」と思わせるリアリズム演劇のジャンルだから要求されるのか、というとそうではない。 例えば、たいてい「不条理劇」の範疇に入れられる別役実作品には、親しげな二人が、当人たちにだけわかっているような(つまり、当初観客には何について話しているのかよくわからない)「会話」を交わしながら舞台上で何らかの行動をしているところに、もう一人の登場人物が現れ、二人の奇妙な「会話」と行動が気になり始めて声をかけるという場面を冒頭に持つものが多い。平田が明かす劇作法の「タネ」を、なんの虚飾もなく見せられるかのようである。 40年以上前のことだが、千葉市で行われた高校演劇の全国大会に観客として参加した時、審査員を務めた別役実が、自身の作品を「抽象劇」と括られた際、憮然として、「私は、リアリズム劇を書いているつもりですが」と返したことが、ぼくにはとても印象的で、今でも鮮明に覚えている。 三番めの登場人物が声を発する瞬間、自然と観客の目線は、彼/彼女のそれと重なる。観客は舞台の外にいながら、既にその意識は、舞台に乗っているのである。最初の二人のどちらかが答えた時、今度は「対話」が始まるのだ。 その時同時に、観客席と舞台の対話が、観客と作品との対話が始まる。時折その対話が直接的なものとして現前するのが、例えばハムレットの傍白かもしれない。 演劇は、ストーリーを展開させるために、「対話」を必要とする。そして、様々な制約を伴いながら発せられる「対話」が、作品と観客の「対話」を生み出す。ぼくが前回、「演劇は「対話」の、この上ないモデルである」と言ったのは、演劇のこの消息によるのである。 (注)この差異を逆手にとって、敢えて演劇的構造をテレビドラマに使って成功したのが、『刑事コロンボ』、『古畑任三郎』などの倒叙推理ものである。それらは、場面数も限定されていた。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |