○第97回(2010/10)
ぼくが「ブックフェア 店長の一押し!教科書のデジタル化を考えるときに読む本」を始めてほどなく、『デジタル教科書革命』(中村伊知哉・石戸奈々子著 ソフトバンククリエイティブ)が刊行された。
「これまでの教科書は間違っている。日本の競争力が低下している。このままでは30年後に取り返しのつかないことになる。今すぐ日本の教育を改革しなければならない」2010年7月27日、デジタル教科書教材協議会の設立シンポジウムでのソフトバンク孫正義社長の言葉を冒頭に掲げる本書は、もちろんデジタル教科書推進を標榜する。フェアのきっかけにもなった『デジタル教育は日本を滅ぼす 便利なことが人間を豊かにすることではない!』(田原総一朗著 ポプラ社)にも、きっちりと反論している。“なぜデジタル化はダメという結論になるのかがよくわからない。というより、田原氏の教育論を推し進めるならデジタル技術が役に立つはずで、だからタイトルと内容が逆転し、「デジタル教育が日本を救う」という内容にしか読めないのだ。”(P19)
その批判は正鵠を射ている。ぼくも前回書いたように、田原氏の本は、「教科書のデジタル化」への反撃の橋頭堡にはなり得ていない。田原氏が同書で(恐らくは自陣営と恃んで)取り上げる陰山英男、藤原和博両氏が揃って「デジタル教科書教材協議会」の副会長を務めているのだから、分が悪いのも仕方がない。
少し前に出ていた『ウェブで学ぶ オープンエデュケーションと知の革命』(梅田望夫 飯吉透 ちくま新書)も、WEBとIT機器を駆使しての教育の未来を謳う本である。ぼくはもちろん、両書とも、「教科書のデジタル化を考えるときに読む本」に加えた。
「紙の本」を守るために、そしてそのためにも「紙の教科書」を守るために、印刷業、製本業、取次業、書店業(コンテンツそのものを制作する出版業は差し当たり除く)といった現行の業態の存続(そこに働くものの雇用の確保)を理由にするのは、戦略として有効ではない。ぼくは、現在のところ、書籍のデジタル化を含めたIT環境が脳に及ぼす影響を論じる、前回紹介したニコラス・G・カーのような議論が最終的にはもっとも有効な論拠となると考えているのだが、差し当たり、推進派の議論にさまざまな「突っ込み」を入れることも、「敵」の勢いを止めるべく序盤で取るべき戦術の一つだと思う。
『デジタル教科書革命』を読んでいてまず引っかかるのは、「いま、教科書のデジタル化を最も望んでいるのは誰か?」ということである。
“政府や教育関係者だけではない。産業界も熱い視線を送る。情報端末の価格を仮に2万円とすれば、ハードだけで2000億円の市場が出現する。……デジタル教科書や教材というコンテンツは端末とは別の大型ビジネスを形作る。また、情報端末やコンテンツをつなぐ通信・放送ネットワークの巨大ビジネスも広がる。”導入されるだけで、(「教育」効果の如何に拘わらず)大きな市場が創設され即時に利益に繋がる情報端末や通信・放送に携わる企業こそが、教科書のデジタル化を最も望んでいるのだとしても、全くおかしくない。
一方で次のようにも言われる。
“効率性を高め、生産性や創造性を増し、知識やコミュニケーションを豊かにする。どの国においても、社会の各方面で情報化の効用が認知され、特にこの10年はICTが日用品化して、ごく自然に利用されるようになった。しかし、その例外が教育分野だ。「いったい情報化やデジタル化にはどういうメリットがあるのか」といった議論が続けられている分野はほかにはもうない。ひょっとするとそれはもう日本だけの特殊な光景なのかもしれない。それほどまでに教育の問題は複雑であり、繊細であり、重要ということだろう。”(P67)
教育分野だけが「例外」、「日本だけの特殊な光景」かどうかはともかく、教育の問題が「複雑であり、繊細であり、重要」ということは、著者たちも認めているのだ。
一方、教育そのものの「進歩」とともにその傍らで、教育に携わる教員の「校務負担の軽減」も期待されている。“コンピュータやネットが導入されることによって、その仕事が増えるようでは本末転倒。”(P78)とされているが、「本末転倒」は容易に起り得るような気がする。
実際、本書でも、“急速な展開に対する不安もある。現場の先生が対応できるのか。煩雑な事務を増やすことにならないか。教育効果はあるのか。情報端末のメンテナンスはどうする。教科書会社は事業をやっていけるのか。検定はどうする。コストはどう手当てするのか。議論も検証も必要だ。”(P16)と至極尤もな「不安」が列挙されている。だが、すぐさま次のように続く。“しかし、日本は悠然としていられない。日本はおくれているのだ。”これでは「論理の飛躍」どころか、「強弁」である。
日本は、どこに対して「おくれている」のか?そして、何故「おくれている」のか?
“韓国やシンガポールは政府主導でトップダウンの展開だ。…アメリカやイギリスは、…予算などに関する校長の権限が大きいため、国が音頭を取らなくても、情報化の効用が認められれば現場主導でどんどん進む。”(P17)結局はどちらも、トップダウンである。だから、“首相級が旗を振る国はスピードが上がる。日本も首相級が強くコミットするようにならなければならない。”(P107)と、主張される。気乗りのしない方向である。
そして、2010年までに全生徒の2人に1人の割合でパソコンを配備する、その名も「マゼラン・イニシアティブ」を、“ポルトガル政府がマイクロソフトと協定を結び、推進している”(P103)と知らされるにつけ、「教科書のデジタル化を最も望んでいるのは誰か?」の答えも、仄見えてくるのである。
『ウェブで学ぶ』では、もっとスケールが大きい。著者たちのシリコンバレー礼讃はともかく、二人が「バラ色の未来」として紹介する「オープンエデュケーション」構想は、二〇〇一年、マサチューセッツ工科大学(MIT)が「自校の約一八〇〇の講義で使われている教材のすべてをウェブ上で無料で公開する」と発表したオープンコースウェア(OCW)を嚆矢とする。その結果、“現役を引退したり惜しまれつつこの世を去った幾多の素晴らしい教育者の「生き生きとした教え」を「永久保存」し、書物を超えた形で後世に伝えていくことすらできる”(P61)と梅田は絶賛するが、果たして、「教育」とはそういうものだろうか?そのような「教育」が進化したり、時代と関わって行くことができるのだろうか?
同じように、“教材はもう作らなくていいんだ。MITのOCWをはじめ、一流の教授たちの授業コンテンツはもうウェブ上にあふれているんだから”(ここでも梅田は、「なるほどと思いました」と言っている)と言うのは、“途上国での教育のために、「ユニバーシティ・オブ・ザ・ピープル」という授業料無料のグローバルなインターネット大学構想を設立したイスラエルの起業家シャイ・レシェフである。アメリカとイスラエルが同じ方角に向って「正義」を掲げる時には、どうしたってある「意味」を纏ってしまう、などと考えるのは、穿ちすぎか?
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