○第96回(2010/9)
「本は、失くなるから、いいんですよね。」
今年6月27日(日)、ジュンク堂大阪本店で開催されたトークセッション「パンも薔薇もこの手に」で、酒井隆史氏がポツリと呟いた言葉だ。
このトークセッションは、上智大学非常勤講師の白石嘉治氏の初の単著『不純なる教養』(青土社)の刊行をきっかけに、東京は紀伊國屋新宿本店で矢部史郎さんとのトークセッションを行なった白石氏の「関西でも是非!」との希望を受けて、開催されたものだ。ぼくもベタベタの関西弁を駆使してなめらかな思考を展開する白石さんを是非関西の読者に引き会わせたく思い、青土社の人たちとも相談して企画を進め、大阪府立大学准教授の酒井氏にお相手を引きうけていただいた。お二人は、「Vol」(以文社)の編集作業などでも協働されている。
白石さんとは、池袋本店時代に『文明の衝突という欺瞞』(マルク・クレポン著 白石編訳新評論)を題材としたトークセッションで初めてお目にかかり、その後数度お会いして大いに意気投合した仲で、白石さんは「関西でも是非!」という希望を一番最初に、ぼくに届けてくれたのだ。結局、ぼくが古巣でのイベントの司会役を引き受けることになった。
イベント当日、白石さんと久しぶりに話すに当たって、酒井さんは家から何冊かの本をトーク会場に持参しようと思われたらしい。ところが、いざ探してみると、ある筈の本が、どこにも無い。結局、予定した本は一冊も見つからなかったと言う。そこでポツリと漏らしたのが、冒頭の一言である。
「本は、失くなるから、いいんですよね。」
この一言が、ぼくには大変印象的であった。否、衝撃的であった。昨今の「電子書籍」vs「紙の本」論議で、自明な前提とされているものと、真逆の一言であったからである。その自明な前提とは“「電子書籍」には絶版が無い”ことが「電子書籍」の「紙の本」に対するアドヴァンテージだということである。
その一言のあと、酒井氏は、おもむろに「記憶」について語りはじめた。それ以来、「本は、失くなるから、いい」と「記憶」の関係が、ずっと気になっていた。
哲学の祖ソクラテスは、文字や書物のデメリットを確信し、書物を残さなかった。“ソクラテスは正しかった。自分の考えを書きとめ、他の人々の書きとめた考えを読むことに慣れていくにつれ、人々は自分自身の記憶内容に頼らなくなったのである。”と『ネット・バカ コンピュータがわたしたちの脳にしていること』(2010 青土社)の著者 ニコラス・G・カーは言う。カーの議論は、古代ギリシアの哲人から最新の脳科学までを駆使し、コンピュータやWEBへの依存に警鐘を鳴らす。「コンピュータがわたしたちの脳にしていること」を明らかにするポイントは、「脳の可塑性」である。
「脳の可塑性」は、“個体の一生のあいだに、および時には数日のあいだに、ローカル環境が要求するものを処理することに特化した構造を形成することで、そうした要求に適応できる脳”(デヴィッド・ブラー『適応する精神』。『ネット・バカ』P51より孫引き)を与えてくれたが、“可塑的であるとは弾力性があるということではないのだ。われわれの神経ループは、輪ゴムのように元にもどったりはしない。変化したあとの状態にしがみつく。そして、新しい状態は必ず望ましい状態であると、保証してくれるものは何もない。悪しき習慣も、よい習慣と同じくらい容易にニューロンにしみつきうる。”
(『ネット・バカ』P51)
“オンラインでわれわれが、何を行なっていないかも、神経学的に重大な結果をもたらす。発火をともにするニューロンがつながるのと同様、発火をともにしないニューロンはつながらない。ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読書の時間を押しのけるにつれ、一口サイズの携帯メールをやり取りするのに用いる時間や文や段落の構成を考えるのに用いる時間を締めだすにつれ、リンクをあちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。”(同P170)カーによれば、“記憶を機械にアウトソーシングすれば、われわれはみずからの知性、さらにはみずからのアイデンティティの重要な部分までをも、アウトソーシングすることになるのだ。”(同P269)
『情報宇宙論』(室井尚 岩波書店 1991年)を読んで以来、フロッピーディスクをはじめとする媒体に、さまざまな記憶をアウトソーシングすることをよしとしてきたぼくとしても、大変ショッキングな議論だ。
やはり、「本は失くなるから」、人の記憶は失くならないのだ。もちろん、フロッピーディスクのデータを呼び出せる機器はぼくの周りに既に無い。記憶媒体に「保存」したつもりのデータも、その多くが失くなったり、壊れたりした。ただ、(脳にとって)重要なのは、実際に「失くなる」かどうかではない。「今手にした本はいずれ失くなるかもしれない」という頼りなさと、「保存されたデータはいつまでも残る」という(実は確実に保証されたわけではない)安心感なのだ。前者こそ、ぼくたちの脳を鍛えるのである。
折りも折り、2015年を目標に教科書のデジタル化を進めるという政策が、推進されようとしている。もしも『ネット・バカ』の鳴らす警鐘が正しければ、その政策は、文部行政の益々の迷走の軌跡をたどることになるだろう。8月28日には、この問題に大きな危機感を抱いているポプラ社から、『デジタル教育は日本を滅ぼす 便利なことが人間を豊かにすることではない!』(田原総一朗著)が出版された。但し、実際には「デジタル教育」に触れる部分は少なく、予定調和でない議論が飛び交う「朝まで生テレビ」が自分にとっていかに勉強になったかを強調する田原氏の主張は、確かにデジタル教育批判へ繋がる道は通ってはいるものの、かなり後方からの援護射撃でしかなく、「紙の本」業界からの反撃の橋頭堡にはなり得ていない。その出版の志を受けて、ぼくは早速、『ネット・バカ』や『電子出版の構図』(植村八潮著 印刷学会出版部;前回コラム(95回)で紹介)、『街場のメディア論』(内田樹著 光文社)などを動員し、ジュンク堂書店難波店で、「ブックフェア 店長の一押し!教科書のデジタル化を考えるときに読む本」を始めた。
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