「フェミニズムと宗教の不幸な関係を変えるために」
書評:川橋範子・黒木雅子『混在するめぐみ――ポストコロニアル時代の宗教とフェミニズム』
 

評者:小松加代子

 

 

 

 

 フェミニズムと宗教研究とは互いに共通点を持たない、あるいは矛盾するものとする見方は強く、両者の視点を投入した業績は少ない。またその両者の視点を持った研究者でも、いつの間にか自らを権力の立場において語る傾向も少なくない。そんな中で、宗教研究にジェンダーの視点を持ち込むことが宗教そのものを見直す契機となりうること、さらにポストコロニアリズムの批判的視点を持ち込むことで自らのポジショナリティを見据える必要性を提示しているのが、川橋・黒木著の『混在するめぐみ』である。宗教を語ることは家父長制のわなに陥ってしまうことだと考えがちなフェミニズム。そして宗教事象を文化やジェンダー・階級などのカテゴリーから説明することはその価値を貶めるとみなしがちな宗教研究。この著書は、この両者に変革をもたらそうとするその大いなる意図において、画期的である。

 この著書は、フェミニズムと宗教にポストコロニアリズムの批判を持ち込むという理論編に始まる。そこで著者は、宗教とフェミニズムの間の不幸な関係によって沈黙させられてきた宗教に関わる女性たちの主体性を取り戻すと同時に、宗教を研究する研究者の主体性を確立するという目標を掲げる。本書は単に理論を展開するだけにはとどまらない。自らの声を上げる場を確保することができず、いつのまにか代理者によって語られてしまった他者化された女性たちの生きた声に耳を傾け、その主体性に光を当てようとする試みとしても、この著書は大変興味深い。川橋が担当した第三章と、黒木の担当した第四章がそれにあたる。その実証編から紹介したい。

 川橋は、現代日本の仏教界における女性たちの活動について述べている。今まで女性仏教徒の個々の声が聞こえてくることは非常にまれなことだった。それというのも、女性仏教徒について語ってきたのは、「女性はあくまでも男性によって教化される対象」とみなす仏教界の覇権をにぎる保守層の僧侶か、あるいは「自分たちの状況を言語化する能力がない仏教女性たちを代弁する」という仏教における人権侵害や差別を批判する人々のどちらかでしかなかったからだ。この両者はともに仏教女性たちが自ら語ることを前提としてこなかったと、川橋は指摘している。

 著者自身がその当事者でもある「男性僧侶の配偶者をめぐる問題」では、お寺の外にいる者にとっては自明化された僧侶の婚姻という事実自体が、実は仏教宗派内部でまだ解決されていない問題だということが明かされる。真宗を除く他宗派は僧侶の配偶者を婚姻による配偶者として規定していない。川橋も述べているように、この問題を取り上げてこなかった仏教学や宗教学の研究の流れを問い質す意義は大いにある。これに加え、真宗を含め、僧侶の配偶者がジェンダーの縛りの中に閉じ込められている状況や、尼僧が男性僧侶の下に格付けられていることなど、数々の問題が提示されている。

 さらに川橋の指摘は、仏教集団批判にとどまらない。仏教の寺院に住む女性の一人として、宗教における性による差別の是正はどのようにして可能か、という問いに積極的に取り組んでいこうとしている。そしてそうした問いを共有し、仏教の再生のための活動をする女性仏教徒のネットワークが紹介される。このネットワークは、構成メンバーの多様さが特徴のひとつである。在家教団、出家教団に属する女性、特定の教団に属さないが仏教を自己の生き方の指針としている女性、釈尊の原始仏教を選ぶ女性、さらにその中でも寺で生まれた女性、一般家庭で育った女性など、さまざまに異なる状況にある女性たちが集まっている。これについて川橋は「留保つきのシスターフッドのなかに身をおくことこそが、フェミニスト仏教の実践に向けてのエネルギーを生み出す」と述べている。このネットワークを通して、女性仏教徒は自らの声で語る能力と権利を有していることを確認し、各地に点在していた女性たちが線となってつながり、抵抗の声をあげることを可能にしているという。

 第四章では、黒木が現代アメリカの日系キリスト教女性のアイデンティティ構築を論じる。インタビューをした女性の言葉にもあるのだが、日系アメリカ人はその外観から、アメリカ人であることを説明する必要に迫られるという、エスニシティをいつも意識させられる状況にある。さらに日系女性は、「おとなしい」といったジェンダーの規定にも縛られている。アメリカ社会の中でマイノリティである日系女性たちは、抑圧の被害者か、闘うヒロインか、という均質で固定的、さらに否定的なアイデンティティで描かれることが多く、エスニシティとジェンダーによって他者化されていると黒木は指摘する。さらに黒木は、今までの日系一世、二世、三世といった世代によるアイデンティティの説明が画一的であったとし、日系女性たちは世代、ジェンダー、エスニシティが複雑にからみあった状況に身を置いていることを、インタビューを通じて描き出している。

 黒木は、こうした日系女性たちがキリスト教と関わることによって、自分を肯定的で主体的に受け入れる可能性を開いていることに注目している。キリスト教というコロニアリズムの残った宗教のなかで、エスニック・マイノリティである日系女性たちは、男性が定義した神や正義と、フェミニスト神学が語る白人女性中心の神概念や正義がもたらす疎外感のために、キリスト教から離れる方向へではなく、キリスト教の変容を求める方向へと向かっている。それは、仏教、道教、ヨガと矛盾しないキリスト教であったり、他宗教との対話に賛同するものであったりする。黒木は、エスニシティ・ジェンダー・宗教が複雑に絡む中で、日系キリスト教女性たちのマイノリティや被差別性が西洋中心主義への批判的な視点を生み出し、さらには宗教の改革にもつながるような積極的な姿勢が生まれつつある様子を浮き彫りにすることに成功している。

 こうした具体的な事象を裏づけする役割を担っているのが第一章、第二章の理論編である。他者化されることに対し批判的な視点を持つことによって主体性を回復していこうとする人々の運動は、フェミニズムと宗教に深く根付いている。

 第一章では、無視されてきた宗教的主体たる女性たちの声や経験を再発見するための第一歩として、宗教、フェミニズム、ポストコロニアリズムの三つをつなぎあわせることが提案される。フェミニズムは、既存宗教や社会の多くが主張してきた普遍性が、実は女性やマイノリティの経験や思想を欠いていたことを指摘し、今まで宗教研究が語ってきた普遍性に対して疑問を投げかける役割を果たしている。そして、不平等を生み出す既存の教義・組織へのジェンダー批判的な分析によって、宗教の復元を求める動きを創り出そうというのである。さらにポストコロニアリズムの批判的視点は、差別された側が簡単に差別する側に立ち得る可能性を示すだけでなく、従来の宗教と女性をめぐる言説によってあいまいにされてきた女性の宗教的主体を主題化することを可能にするのである。

 第二章では、フェミニスト・エスノグラフィーの限界を示しながら、女性の経験を語ることの難しさについて論じられる。女性の経験の掘り起こしに女性研究者が携わることが多くなった。しかしながら、不平等な関係性への視点は、ここにも他者化の危険性(新しい植民地主義)を指摘することになる。つまり、女性が女性だというだけで、すべての女性を代弁することはできないという事実である。フェミニスト神学が白人女性中心に展開された結果、そのなかで、ジェンダーによって他者化されるばかりでなく人種によっても他者化された黒人女性たちやラテン系の女性たちは、それぞれ別のフェミニスト神学を必要とする結果を生み出した。

 同様に研究者という立場が、アカデミアに属さない女性たちを代表して語るという権力を作り出すこともある。アカデミアの中で発言が認められれば認められるほど、代表しているはずの女性たちからは離れていくというパラドックスがそこには存在している。そのためにも、この本の著者たちは、フェミニズムと宗教研究は、新たな学問を必要としており、そして生み出しつつあると主張する。それは、「既存の「正統」とされる学問に単なる新しい要素を付加しただけの「追加アプローチ」ではなく、「変革アプローチ」」として、提起されている。

 「第一世界の女性とも第三世界の女性とも厳密に重ならないポジショナリティを忠実に見すえ、他の女性たちを抑圧する共犯者とならないための内省的な視座」という言葉に結実しているのは、西洋偏向で男性中心の学問界で研究を進めてきた日本女性という立場から得られた著者自身の覚悟に他ならない。

 本書にはまだいくつかの課題が残されている。川橋の仏教女性の研究は、仏教教義にまでは立ち入っていない。今後仏教教義を研究対象とする研究者がこの議論に加わることが望まれるし、また必要であろう。黒木の研究については、彼女自身のポジショナリティが何であるかを問われるだろう。今後、こうした宗教に関わる女性たちの主体的な活動が、どんな具体的状況に対して抵抗や交渉を行い、その結果どのような世界をつくりあげていくのかに大変興味を引かれるとともに、それが困難な道のりであることにも思いがいってしまう。

 読むものを深い考察へと誘う一方で、読み手が背負わなくてはならない大きな責任も感じさせる本である。というのも、フェミニズム・宗教・ポストコロニアリズムのトリロジーは、すべての人に普遍的に当てはまる方法論や答えがあるわけではないことを認識した上で、状況が作り出す不均衡な力関係を敏感にとらえ、そうした不均衡の解消に向かって進んで行くしかない、とそれぞれの研究者に教えるからである。

 フェミニズム研究と宗教研究に変革を迫る意欲的な著作である。

 

 

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