角丸四角形: 特別寄稿     真島一郎
             

 

 

テキスト ボックス: アマドゥ・クルマの追悼集会

 

 昨年の師走十二日、早朝。起きぬけのうつろな頭で冷えきった居間へむかうと、西アフリカから一通のファックスがとどいていた。数行しか文字の記されていない、遠目にも用紙の白さばかりがめだつ書状だった。

 

 「真島さん、悲しいおしらせです。クルマさんがつい先ほど、リヨン市内で亡くなられたもようです」。

 居間の窓からは、すでに冬の陽が低く射しこんでいたようにおもう。ことばもなく立ちつくしたあの朝のことは、それきりおぼえていない。

 

作家アマドゥ・クルマ。二〇〇三年十二月十一日死去。享年七六歳。

アマドゥ・クルマ(1927〜2003)

 

その生前最後の作品となった小説の拙訳『アラーの神にもいわれはない』が人文書院で刊行されてから、半年もたたぬ時点での悲報だった。自宅の仕事部屋にはまだ、翻訳の前後から作家と交わしてきた書簡の束が目のつきやすいところに置いてあった。互いの日程が 折りあわず、書簡の相手とは今日にいたるまで会えてはいない。そのひとがふいに逝ってしまったいま、書棚のわきにひっそりと積まれたそのわずかな紙片をのぞけば、故人との対話の痕跡はほかに何ひとつ、スナップ写真の一枚たりとも私のもとに残されてはいなかった。(次へ)

 

 訃報をいちはやく伝えてくれたアビジャン在住のモリかずこから、十日ほどしてメイルがとどいた。彼女の夫モリ・トラオレがアビジャンで主宰する非政府系の文化組織CARASCentre africain de recherche , formation et création en Arts du spectacle et communication)で、このほど遺族の方々をまじえた作家の追悼集会を企画することにしたので、私も日本人訳者として出席したみたらどうかという提案が、そこには記されていた。

 

 内戦の渦中に揺れるコートディヴォワールの日刊紙のなかには、マリンケ出身の故人を遠まわしに誹謗する記事がはやくも出はじめていた。二十世紀西アフリカの激動を生きた個体の死、とりわけひとりの文学者の死を民族対立の暗渠に投じてはばからぬそれら低劣な言説へとむけられたモリ・トラオレの憤怒も、妻の筆致を介し、文面には滲みでている。憎悪と死のうずまく祖国で、舞台ならぬ奈落の日常を おなじくひとりの演劇人として生きねばならぬモリの怒りは、そのときただちに書状の読み手にまで転移したのかもしれない。だがそれ以上に私は、メイルの文中に記された「遺族」の二字に、ことのほか想いをよせるところがあった。遺族の方々にお会いできるなら、故人と書面で交わしたあれこれの対話の痕跡のうち、ぜひとも伝えておきたいことがあったからだ。

 

 作家の死によりそれを永久に埋めることもできぬまま翻訳者の心にひらいてしまったひとつの空虚。たとえそれが遺族ひとりひとりにもたらされた空虚ほど深刻でなくまた同質のものでもなかったにせよ、私がみずからの言葉にかえて伝えたかったことは、そうした空虚と確実に連絡していた。いずれ不可能であることにはだれもが気づきながら、遺された者たちが死の空虚をことばにかえ共有しようとする絶望的なこころみ、たとえばそれが追悼の辞を述べるという行為であるのなら、私ひとりのうちで行き場を失いかけていたあの書状の記憶は、すくなくとも追悼の場で表明されるべき、空虚の記銘であるようにおもわれた。(次へ)

 

 二〇〇四年二月二三日、夜。私はほぼ二年ぶりにアビジャン空港へ降り立っている。科研費の採択研究としてとりくむはずだった植民地期の記憶をめぐるダン語での聞き取り調査を、昨年度は戦況の激化により 中止し、今年度も急遽渡航を中止したばかりだった。本来のフィールドである国内西部内陸は、外務省の邦人退避勧告がいまだ解かれていない危険地域にあたるため、やむをえず「アマドゥ・クルマの作品に反映した植民地期の記憶をめぐる短期研究交流」に目的をきりかえたうえでの渡航である。

 

 事前に告げられていた追悼集会の期日は二月二八日。その五日前にようやく到着した私を空港で待ちうけていたのは、モリ夫妻とCARASのスタッフだけではなかった。得体のしれぬ流れ者かなにかのように独りで異郷にたどりつきそのまま異郷の雑踏へまぎれこむといったアナクロな人類学者像にあえて拘泥するまでもなく、現にそれ以上のあつかいを異郷でうけた試しなど一度たりともなかった東アジアの流れ者にとり、それは予想だにせぬ旅のはじまりだった。週末土曜の憩いのときだというのに、空港にはイヴォワール作家協会の副会長エルネスト・フア氏と、コートディヴォワール大学出版局編集部のザウイ・モニック氏が、わざわざ私を出迎えにいらっしゃっていた。お二方ともむろん私にとり初対面の人物である。没後二カ月をへて祖国でついに開催のはこびとなった不世出の作家の追悼集会。そのことが必然的に当地で帯びつつあった熱気と重みとを、私はこのときまで ついど理解していなかったことになろう。戦下の地でこのような集会につどえることの僥倖にも、このときの私はまだ気づいていない。反政府系の街頭デモが機動隊の武力鎮圧で粉砕されたあげくアビジャン市内で百名をこす死者が生じ、市内全域に厳戒体制がしかれたのは、私が帰国してからわずか三週間後のことであった。(次へ)

 到着したその晩のうちに、モリ夫妻から集会の概要について説明をうけた。それは私の想像をはるかにこえた大がかりな企画へと発展していた。CARAS主催の文化事業のひとつ、「日曜巡回朗読会」(LTD : Lecture Tournante du Dimanche)の特別企画として、その名も「アマドゥ・クルマへのオマージュ」と題されたこのたびの集会は、イヴォワール文化省の後援、およびイヴォワール作家協会の共催でひらかれる手筈がすでにととのっていた。式次第を載せ、あとは発送を待つばかりの状態でCARASのアトリエに山積みされた二ツ折の招待状には、集会のさらなる共催機関としてILCAA、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の名も併記されているではないか。

 

  

    

 CARAS主催「アマドゥ・クルマへのオマージュ」招待状(左・表面、 右・裏面)

 

 作家の追悼によせるひとびとの想いは、だがはじめから招待状の枠をこえていたのかもしれない。リヨン在住のご遺族は残念ながら出席がかなわかったものの、アビジャン在住の作家の親族をはじめ、イヴォワール政府の閣僚もすでに出席の意向をしめし、フランス大使館の文化担当、日本大使館の方々も出席される予定になっていた。国営テレビ局や国内主要日刊紙の記者も当日は取材におとずれるはずだというし、なにより一般市民にひらかれた無料の集会であるから、いかなる顔ぶれのひとびとがどれだけ集まるのか、さしあたりは見当もつかない。いずれにせよ国民的な作家、いや仏語圏西アフリカ文学界の重鎮ともいうべきアマドゥ・クルマの追悼集会であるからには、聴衆もそれ相応の数にのぼることだけはまちがいなかった。

 

 われしらず身のひきしまるような状況説明のうちでもとりわけ私が動揺をおぼえたのは、予定された式次第の中身だった。追悼の場でたとえわずかでも弔辞を述べる機会が与えられればそれにすぐる光栄はないとだけ想っていたところが、印刷ずみの招待状では、なぜか日本人訳者による弔辞が「講演」と記され、それが式次第の中心、メインの座に置かれている。しかも「講演」時間は三十分とされ、国際的にも著名なイヴォワール人映像作家イドリス・ジャバテがあらかじめ私の講演をビデオ収録したうえで、当日はそれを会場の大型スクリーンに映しだすのだという。

 

 これまでに およそ経験したことのないその奇妙な講演形式は、演劇人モリ・トラオレならではの、ある特別な配慮によるものだった。他人に語りかけることを生業(なりわい)とする者は、そうして語りかけるおのれの姿を冷徹なる省察のもとで常時みつめなおす訓練が必要だというのは、もとより彼の持論とするところである。くわえてモリによれば、講演者と聴衆のあいだに「生きた対話」がとり交わされるためには、講演者に終始、集中力が保たれていなければならない。さりながら、講演会と称する対話の場にえてして思想の息吹きが宿らないのは、講演にのみ神経をあつめ憔悴しきった講演者が、その後の聴衆との質疑応答に際してはもはや十分な余力をのこしていないからだという。

 

 なるほど、たしかにそのとおりだとは思う。だがそもそも私には、肝心の講演原稿の用意がなかった。「えっ! マジマさん、東京で原稿書いてこなかったの?」。予定では講演のビデオ収録はわずか二日後にひかえており、それまでのあいだ、日中は国営テレビの番組に広報をかねて出演する予定が組まれていた。当日の集会につどうひとびとの姿をおもうにつけ、初発の動揺がおのれのうちでなにか軽いめまいのような感覚へとすみやかに交替していくのがわかる。追悼の旅はまだ始まったばかりだった。そして時の猶予は、もはやなかった。(次へ)

 

 追悼集会の予告は、国営テレビの昼の情報番組で二五日から三日つづけて放送された。初日は作家協会のフア氏が、二日目は大学出版局のザウイ氏と私が、三日目にはふたたびザウイ氏が、スタジオで番組のパーソナリティからインタヴューをうける形式で集会の広報をするというものである。

 

 くわえて集会前日には、プライムタイムにあたる夜のニュース番組で、「クルマを訳した日本人研究者」をめぐるルポルタージュ風のインタヴューが数分間にわたり放映された。この日本人が東京から持参した人文書院版『アラーの神にもいわれはない』が、画面にいくどもマックス・アップで映しだされる。表紙にえがかれた絵柄と字面を、上から下へと接写移動させていくカメラワークだ。

 

 アマドゥ・クルマの作品に躍動するあのマリンケ語化されたフランス語を、こともあろうに極東の表意文字へうつしたという日本人の唐突なる出現。はたして番組の視聴者からは、連日ただならぬ反響が私たちのもとによせられてきた。集会の連絡先が番組で公表されたそのすぐあとからCARASのアトリエでは電話のベルが鳴り、日時と場所の問いあわせにスタッフが応対する場面がつづいた。

 

 アトリエをじかに来訪するひとびとは、スタッフからわたされた日本語版の見本をしばしつらつらと眺めまわしたのち、やおらあらぬ方向からページをたぐりはじめる。事情に通じぬフランス人も似たような反応をするのであろう、ひとは日本語の書物をどのように手にとり(縦に、それとも横に)、どちらから読みはじめ(左から、それとも右から)、文字のつらなりをどのように目で追うのか(縦書きだったのか!)が、まずもって判じえない。謎の言語、異界の書字法にふれた衝撃からしだいに解かれだすと、つづいてひとはこうたずねてくる。

 

 「こんなアジアの言語で、クルマの小説によく出てくるマリンケ語、たとえば 〈ファフォロ 〉のようなことばを、いったいあなたはどのように訳されたというのですか」。

 私は訳書中の該当箇所を指さしながら、説明をはじめる。その字面を緩慢に追うふたつの瞳に新鮮なかがやきが点りはじめたとき、ひとの驚きはこうして二重の、あるいはそれ以上になにか整理をつけがたい、胸さわぎのごときものへと変じていくようだった。

 

   

『アラーの神にもいわれはない』フランス語版および日本語版

 

(次へ)

 言語の異なりをまえに人間のいだくなまなましい距離感覚に、こうして私はあらためて立ち会う機会にあずかれたのかもしれない。しかしそれとはべつに、この数日間をつうじ鋭く突き刺さるようなしかたで思い知らされたことがある。

 

 たとえばそれは、初日のテレビ放送直後にかかってきた一本の電話――このとき応対したのはトラオレだったから、受話器のむこうの声がじかに私までとどいたわけではない。声音(こわね)から察するに、まだ幼い少女だったはずだとトラオレはいう。学校ではフランス語が抜群にできる生徒で、地元の図書館に日参してはおとなの小説にも果敢にいどもうとする早熟な娘の姿を、私はおもいうかべる。その少女が、「テレビで話していたクルマの追悼集会にどうしても出てみたい」のだという。「はるばる日本からそのためだけにやってきた翻訳家のお話もぜひ聞いてみたい」のだという。だが不幸にも、少女にはひとつの問題があった。アバングルに住んでいるというのだ。国内東部内陸のその地方都市からアビジャンまでは、道のりにして二百キロはある。直線になおせば、ほぼ東京−新潟間に匹敵するへだたりである。アバングルからの電話と知ったトラオレは、それゆえこの幼い冒険旅行のくわだてをやさしく引きとめるしかなかったらしい。

 

 あるいはまた、私自身がじかにうけとった 声――それはスタジオ出演を目前にひかえテレビ局の敷地内をせわしく移動していたときのことだった。行く手のむこうに、大物然とスーツを着こなした恰幅のよい男ふたりが漫然と立ち話をしているのが見えた。番組のプロデューサーか何かだろうか、わたしはどの国のテレビ業界にも群れていそうなこの種の男たちがどうも苦手である。と、私に同行していたザウイ氏がすれちがいぎわ、おそらくは彼女にとり既知の人物である彼らに言葉をさしむけた。さりとて雑談に興ずるいとまなどありようもなく、むろんつぎの場面は、自分のわきにいる東洋人のあわただしい紹介となる。ザウイ氏の説明を鷹揚な微笑とともに受け流していた男ふたりは、だが「クルマの日本語訳」にまで話がおよんだとき、微妙に表情を変えてこちらにむきなおった。ザウイ氏はといえば、こんどは通りがかりのべつの男に呼びとめられ、こちらに背をむけ何か話しこんでいる。私をみつめる男のひとりが、やにわに私の手をとった。真顔だった。

 

 「わたしたちのクルマの小説を日本語に訳してくださったとは。そうですか、クルマが日本で訳されたのはこれが初めてなのですね。あなたがなさった難多きお仕事のすべてにたいし、ここで祝福のことばを述べさせてください」。

 祝福をしたいというその声は、なにかに急かされたような、外見とはあまり似つかわしくない小声になっていた。

 

 「わたしたちのクルマの小説」この地をきょうも生きる子たち孫たちに「わたしたちの」とまで呼ばしめる作品の数々をのこし不帰の客となった老作家の影は、あすからのこの地でも、いかほどまでに敬われ、愛され、慕われつづける影となることだろう。

 

 クルマを訳した東洋人への祝福は、ひとびとの声から声へとみずからを乗りつがせるかのように、それからも連日くりかえされることになった。ひとびとの声から声へ。その波打ちぎわに立たされた者の心情をいったいどういい表せばよいのだろう。せつなさ、とでも呼べばよいのだろうか。祝福と慰労のことばをたまわるそのたびごとに、私はいよいよせつない気持になっていった。わずか数日の生の往来で送りとどけられた老若男女のことばということばは、あきらかに私に宛てたものではなかったからだ。それはあの「わたしたち」にとり打ち消しようのないひとつの喪失、いまは亡きアマドゥ・クルマにささげられた祝福であり慰労であったからだ。(次へ)

 

 CARASと国営テレビ局を往復する午後の車中からは、市街の十字路に点々と、無造作に横付けしたジープのまえで自動小銃を手に陣どる国軍小部隊の姿がみえた。不確かな闇が車窓を流れ去っていく深夜のアビジャンも、内戦前にくらべ街全体がひどく閑散としてみえるのは気のせいだろうか。人影がまばらなだけに、肌もあらわな安手の身じまいで片腕にはおきまりのヴァニティケースを通した娘たちの姿ばかりが、いつになく異様にうつる。交差点でタクシーが停まるごとに、そんな彼女たちの乾いた声が車中に荒々しく投げこまれる。「エイ! アミーゴ! ショートで三〇〇〇! アミーゴ!」。

 

 昼夜をとわずタクシーで市中をあわただしく動きまわった二日間。講演原稿の執筆は、そのあいまをぬっての突貫作業となった。ビデオ収録の前夜は、とうとう完徹で宿の机にしがみつくありさまだった。椰子の葉叢(はむら)からわずかにのぞく眼下の庭では常夜灯のまわりを羽虫が乱舞し、額と頬をとめどもなく汗がしたたり落ちる悩ましい北緯五度の夜があけても、だが心中秘めてきた追悼のおもいは文字に定着させようとするそばから千々に乱れるばかりで、いっこうに原稿を詰められない。しかたがない。書き継ぐことのできなかった後半部分は、原稿なしで思いの丈をそのままビデオカメラにぶつける覚悟をきめた。

 

 モリ・トラオレの発案による私の講演タイトルは、「アマドゥ・クルマ、西洋から東洋へ Ahmadou Kourouma de l'Occident à l'Orient」というごく平明なものだった。とはいえ発案者みずからもいうように、表向きのタイトルなどこのさいさほど重要ではなかった。私の弔辞をつらぬく主調低音は、すでにだが、いつからだろう決まっていたからだ。「わたしたちのクルマ」をこの地で想うひとびとすべてを名宛人とし、翻訳の現場から東洋人訳者が拾いあげ送りとどけねばならなかった空虚の記銘。じつにそれは「裏切りtrahison」の一語に尽き、私にとりそれ以外のものではありえなかった。

 

 故人への裏切りの告白としての追悼。それをいかに言語化すれば、翻訳者の弔意をひとびとに、そして当日の追悼会場へ来臨しているにちがいない故人の御霊に伝えられるだろう。いずれにしろこの場合、「翻訳とは裏切り」などという西欧の卑俗な金言を訳知り顔で反復するごとき茶番は許されるはずもなかった。思い悩むうちに、フランス語という言語のさだめる最低限の規則さえ、どうにもまどろこしくおもえてきた。原稿の用意がない講演の最終部分は、だからダン語で話すことにきめた。ウォロドゥグ王国の大いなる戦士の末裔にむけ、サモリ帝国の夢がさいごに砕け散った土地のことばでじかに語りかけることにするのだ。(次へ)

 

 映像作家イドリス・ジャバテの瀟洒な邸宅には、手入れのゆきとどいた庭が長く広がっている。緑あざやかな遠景のうちでも訪問者の瞳とまず溶けあうのは、ツタの葉で一面おおいつくされた庭の外壁だ。深緑(ふかみどり)の布襞をギニア湾の浜風に揺らせ視界の先にまでつづく天然のとばりが、安らいだ空間の奥行をいっそうたしかなものとしているのだろう。追悼講演のビデオ収録はここ数日のスケジュール過多によりけっきょく一日延び、この緑の外壁を背景に翌二六日、初回テイクがなされるはこびとなった。

 

 奥まった住宅街の一角をしめるジャバテ邸の午後九時は、静閑そのものである。さきほどから辺りに低くこだまするのは、庭の芝に身をひそめた虫の鈴音でしかない。撮影用の反射板に照らされ、追悼集会の発起人モリ・トラオレがまずカメラのまえで居ずまいを正す。モリが両肘をあずける木机の端には、日本語版『アラーの神にもいわれはない』をとりまくように、故人の著した作品の数々がわざと無造作に並べ置かれている。無音と沈黙に繋がれたある濃密な気配がモニター映像からただよいはじめたとき、モリがカメラを正視し、私を聴衆に紹介することばをおもむろに記憶からひろいあつめる。十五年前、まだ二十代半ばだったマジマとの出会いにまでさかのぼる心算のようである。

 

 カメラの背後でつぎの出番にむけ待機する私は、あらかじめモリに頼みごとをしていた。

 

 「生前のアマドゥ・クルマから受けとった書簡を、ぼくはここまで持ってきている。集会ではその一部を披露したいから、ぼくが話の途中で合図をしたら、もういちど画面に割りこんで、故人の代わりにその部分を朗読してくれないだろうか」。

 

 私は二箇所について代読をたのんでいた。ひとつは、作品の冒頭に「ジブチの子どもたちへ」という献辞のある理由をクルマが私に解説してくれたくだりである。作品誕生の夜話にあたるこの挿話は、どちらかといえば聴衆の関心をひきつけるために私がえらびとったものであり、むしろ講演の主題とじかにかかわるのは、第二の代読箇所のほうであった。

 

 この書状を東京で一読した瞬間からはじまった懊悩のほどを、ここアビジャンで私はいまいちど、おのれの記憶からたぐりよせようとする。懊悩のぬかるみへといまいちど身を沈めぬかぎりは、自分にとり唯一無二の弔辞を作家にささげることができそうになかったからだ。(次へ)