そう、あれは一昨年の冬のことである。
原書の下訳をあらかたすませた私は、テクスト読解上の不明箇所を原作者にただすために、久闊の詫びかたがたクルマに書簡をしたためることにした。原文の誤植箇所を特定するねらいもあったからには、些末とまではいわずとも、個々の質問はかなり詳密な次元におよばざるをえなかった。しかも質問の量がまたひととおりではなかった。それだけに、原作者への礼節をゆめゆめ失することなきよう、私はフランス語の文面にいくども手を入れ、質問の一語一句にも相応の配慮をこめたつもりだった。
数週間後、リヨン在住の作家から回答状がファックスで送られてきた。私のほうで執筆を依頼していた「日本語版への著者あとがき」の全文とともに、そこにはすべての質問事項について懇切な解説が付されてある。作家からの回答を順に読みすすめながら、私はなかば恐縮し、なかば救われたような心持ちになっていた。すくなくとも書状の末尾に書き足された、 「注意」と題する数行にいたるまでは。
その原文と対訳を以下に記そう。
REMARQUE
Vous êtes très pointilleux . Je vous félicite . C'est bien ; c'est très bien . Mais les renseignements que vous avez recueillis sont-ce pour vous ou bien vous allez les servir au public japonais ? Je voudrais vous mettre en garde .
Un roman c'est un poème le lecteur ne le comprend pas de A à Z . Il y a toujours des flous et il faut qu'il existe des flous . Il faut éviter d'assommer le lecteur avec une longue préface ou avec de nombreuses explications . On explique que l'indispensable . Si non le roman serait ennuyeux . Très ennuyeux .
注意
あなたはたいへんに細かい方ですね。祝福してさしあげましょう。けっこうな、じつにけっこうなことではあります。ただし、あなたがこれまで集めてこられた情報とは、はたしてご自分のためなのですか、それとも日本の読者にその情報を供するおつもりなのですか? あなたに注意をうながすことにしたいのです。
小説とは一篇の詩なのですから、読者はそれを一から十まで解するわけではありません。小説にはつねにぼかしがあり、そうしたぼかしの存在こそが小説には必要なのです。長たらしい前書きやらおびただしい注釈やらを添えることで、読者を閉口させるふるまいはつとめて避けねばなりません。必要欠くべからざる箇所だけを説明すればよいのです。さもなくば、小説は退屈なものへと変じてしまうことでしょう、じつに退屈なものへと。
しごくまっとうな指摘だった。自著日本語版の処遇をめぐりこのとき原作者がいだいた少なからぬ危惧、それもまた図星というほかなかった。翻訳にたずさわる過程で、この西アフリカ文学の慄え響く宝石を日本の読書界へと適切に送りとどけるためには、それ相応の分量をそなえた訳者解題と註記を添えねばならぬ、それが訳者としての責任であるとさえ私は判断し、ほかならぬ註記・解題文の執筆を見越した数多の質問を、作家宛の書簡に書きつらねていたからである。
かように過ぎたふるまいが災いしたあげく、ついにいま、警告は発せられてしまった。一介の人類学徒が身のほど知らずの訳業をくわだてたばかりに、文学という名の法廷に明日は出頭すべき罪人にまで墜ちかねぬことをまざまざと思い知らされたような、それは衝撃だった。しばらくのあいだ、私は立ち直れなかった。あの幻聴、クルマの幻の声が、いかなるときも容赦なくつきまとうその苦しみに為す術もなく耐えるしかなかった−「詩がそれ自体としてもつ力、ましてや私の作品が詩としてもつ力を、いったいきみは信じられないとでも言うつもりか」。
作家のいう「小説に欠かせざるぼかし」、すなわち不透明の秘密をつねに内包するからこそ言語のへだたりなどものともせずに異郷の読者の心へと透明に浸潤していく詩の力、文学の強度を、訳者である私も文字どおり透明に信じつつ生きねばならないのか。噛んでふくめるような語調であるだけになおのこと手厳しさが感じられるその警告をうけとったいまや、「長たらしい前書きやらおびただしい注釈やら」を私が訳書に添えてしまえば、それは明らかに原作者への裏切りにひとしくなろう。
私はだから、事のはじめからまちがっていたのか。不透明に支えられた文学の透明な強度を神話として突きはなすのではなく、つまりは透明に信じつつ、だからテクストの訳文のみを刊行すれば己れの咎は放免されるのか。いや、ほんとうにそうだろうか。この東アジアのかたすみで、クルマのテクストに息づく不透明は、はたして読み手のパトスに係留されるたぐいの不透明としてなおも香気を放ちつづけるといえようか。赦免願いか裏切りか、訳者はこの場合、いずれの道をとればよいのか。それともそうした二者択一の迷いこそが、そもそもからして偽りの岐路に立ちすくんでみせる者の迂愚の証なのか。
いかにしても解決はつかなかった。決断しきれなかった。公表の如何にかかわる決裁をできるかぎり先延べにしながら、けっきょくは自分ひとりが読者となるかもしれぬ「訳者解題」文を、私はうつろな心境で夏のはじめに書きはじめていた。逡巡につぐ逡巡、そのせいで筆はいくども勢いを失いかけ、ついにはひと夏全体をついやす作業となってしまった。じつに無惨な、一昨年の夏の記憶である。
ジャバテ邸の庭ではいま、カメラに正対するモリが私の訳業にむけた賞賛の辞をなおも語り継いでいる。ふと気づけば夜の庭は、先刻にもまして閑寂を招きいれたかのようだった。耳を澄ませばこのしじまのうちに、どこからか弔鐘は聞こえてくるだろうか。
ライトに照らされたモリの姿が、ふたたび意識から遠のいていく。だが昨夏刊行をみた日本語版『アラーの神にもいわれはない』には、けっきょく六十頁におよぶ訳註と五十頁ちかい訳者解題が添えられている。それは自分なりの決断の結果だった。つまり私は裏切った。クルマを裏切った。あの警告を裏切ったのだ。
トラオレがしずかに席をたつ。ひきつづきカメラのまえに座るのはこの裏切り者だ。弔鐘は聞こえてくるだろうか。どこからか聞こえてくるだろうか。いかにおぼつかぬ心持ちではあれ、ともかくも口をひらかねばならない。裏切りが、原作者への、死者への裏切りがいかにして当の死者にたいする弔辞たりうるかというその所以を、はだかのまま語りはじめるほかない。トラオレを待ちながら、だからあの書状の一件を記憶の底からすくいあげておかねばならなかったのだ、この私は。この裏切り者は。(次へ)
*
二〇〇四年二月二八日、夕刻。
スタッフによる炎天下の会場準備作業もようやく峠をこえ、ここアビジャン市ココディ地区リセ・テクニーク通りの、通称「216ロジュマン」団地中庭には、巨大な映写幕のまえに百脚以上はあろうか、プラスチック製の白いイベントチェアが薄暮にやわらかく浮かびあがっている。大乾季の終わりを告げるなだらかな夕風が露天の会場をさまよいぬけ、涼に誘われるかのようにひとびとがつどいはじめる。緑あざやかな芝の広場。仮設の大型スピーカーからは今宵の催しを予告するBGMも流れてはいるものの、この場からひとが感じとるだろうものは、やはり華やぎとはあきらかに異質な空気だった。
死去六日後にフランス・リヨン市内でいとなまれた作家の葬儀には、在仏イヴォワール大使をはじめ政府の公式代表はついにひとりも姿をみせなかったという。自国の内戦すなわち「市民の戦争civil war」では何人たりとも究極の中立性をのぞむべくもないように、そしてまた「アマドゥ・クルマ」というだれがみてもマリンケそのものの固有名をもって生き、マリンケの言語文化を称揚し、あまつさえかつては反体制運動の盟友だった現職大統領ロラン・バボにこの数年辛辣なる苦言を呈してきただけに、この作家には「反政府サイドの大物文化人」なるレッテルが貼られていたからだ。
政治の汚泥にけがされた作家の死を憂うモリ・トラオレがイヴォワール文化省の正式な後援をとりつけたすえに、祖国の地でようやく日の目をみた手づくりの追悼集会。きょうのその会場には、モリの文化活動に共鳴しみずからもLTDの一員となった文化人類学者、アンジェル・ニョンソアの姿があった。黒塗りの閣僚専用車でかけつけた彼女が現バボ内閣の環境相であることの意味は、よもやこの国でも過小に見積もられることはあるまい。
刻々と膨らみはじめる会衆のなかには、モリとともにコートディヴォワール現代文化の滋味を育んできた数々の著名人、たとえば反骨の老作家シャルル・ノカン、「グリオティシャンgrioticien」の異名をもつ演劇人アブバカル・トゥーレ、あるいはクルマの作品解釈でも知られる演劇・音楽文化批評家バルテレミィ・コチィらの姿もみえる。むこうに座る黒髪ゆたかな老婦人は、仏語圏西アフリカの独立運動史に名高いあの闘士の愛娘、ドゥニーズ・ウェザン=クリバリである。演壇からみて右手には、自国大使館の文化担当からこの催しを聞き知ったのか、女性を中心とした十数名のフランス人が大型スクリーンの正面あたりに陣どっている。内戦下でもなおアビジャン駐在をつづける日本人の方々も、会場のほぼ中央あたりに席をみいだされたようである。
とはいえ、この会場でさきほどからことのほか人目をひいているのは、最前列からやや後方の座席を横一列に走るブーブーとパーニュのかたまりだった。マリンケの正装を纏うことで今宵のつどいの意味を周囲に告げ知らせ、夕闇せまるなか言葉少なに居ならぶ彼ら彼女らは、いうまでもなくクルマ一族のひとびとである。
そのなかには、集会後半のスピーチで「今日はこの会に出席するためだけに、チアサレからアビジャンまで参上した」旨を聴衆につげる老翁の姿があった。内戦のさなかチアサレ市からの往路一二〇キロを、どれほどの非情な検問に耐えつつ翁(おう)は集会の場までたどりついたことだろうか。
そしてコネ・サリマタ・ イヴェット。隙のない正装に身をつつみ、故人をおもわせる意志のつよさを瞳にたたえたこの美しい夫人は、アマドゥ・クルマの実姪である。やや張りつめた面輪(おもわ)で正面を見すえ、背筋をのばし一席に座している。死の悲報がアビジャンへ舞いこむやすぐさま機中の人となり、リヨン市内の大モスクでいとなまれた葬儀に遺族の一員として参列した彼女は、イヴォワール政府の公式代表がその日だれひとりとして弔意に参じなかったこと、そして祖国での追悼行事がきょうにいたるまでなんら企画されなかったことに、おそらくほかのだれよりも傷ついていた。愛し愛された亡き叔父への追慕の情は、混乱する政情のただなかでいかほどまでに引き裂かれてきたことであろう。そもそも『独立の太陽』の主人公ファマが娶った美貌の妻サリマータは、だれあろう彼女をモデルにしていたほどなのだから。追悼集会の模様を報ずる新聞記事のなかで、のちに彼女はみずからの傷心のほどをはじめて告白することになるはずだった。(次へ)
*
集会の幕開けをかざるのは、数基のジェンベ。小気味よい連打を会場に響かせるのは、CARASのジェンベ・クラスに日頃から通う日本大使館の若手外交官とその家族の方々である。つづいてモリかずこがピアノの鍵盤にむかう。「桜」の曲調を大胆に組み替えた、バラフォンとのジャム・セッションである。故人の作品を自国の言語にうつした極東の子とその同胞たちが衷心からささげる作家アマドゥ・クルマへのオマージュ、そして追悼。心づくしの演出はすべてその一点にむけ、すでに助走をはじめていた。
会の主宰者モリ・トラオレと、イヴォワール作家協会の代表エルネスト・フアによる手短なスピーチののち、この場で集会を見守っているにちがいない故人の御霊へ献げるべく、ひきつづき『アラーの神にもいわれはない』の音読パフォーマンスがおこなわれた。原書と訳書、フランス語テクストと日本語テクストの対応箇所をたがいに読み継いでいく、二言語併読のささやかな音読の夕べである。イヴォワール人、日本人のひとりひとりが、交互に自由にスタンドマイクへと足をはこび、音読により瞭然となる言語文化のはるかなへだたり、生ける言語のその命のへだたりを会衆へとじかに伝えていく。これほど身にあまるしかたで報われるだけの訳業を、はたして私はまっとうしたといえるだろうか。
日本語読みのひとり、清潔な白いYシャツ姿の初老の男性が、胸ポケットから老眼鏡をゆっくり取り出し、拙訳の一節を読みはじめる。篤実そうなその横顔には、うすく汗がにじんでいる。私はじきにあのひとだとわかった。十数年前、勝手も知らずこの国へ流れついた大学院生をささえてくれた日本人のひとりだった。一家でアビジャンに根づき、当時は自動車修理工場を経営されていたはずである。私が十数年前のあの学生であることをお礼かたがた白状するまで、彼は過去を現在とつなげていなかった。かつては若々しくみえたひとが老眼鏡で書に向かうようになった十数年の歳月。この方がアビジャンで懸命に生きてこられたおなじ時間を、いったい私はいかに生きてきたというのだろう。
イドリス・ジャバテがビデオ機器のほうに近づいていく。ああ、講演ビデオがもう映されてしまう。こともあろうに裏切りを弔意に代えようとしている男の「講演」が。スクリーンへと詮なく顔をむけつつも、私は眼の端でクルマ家の方々の姿を追わずにはいられない。(次に)
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闇につつまれた広場のスクリーンに、私の経歴を紹介するモリ・トラオレの姿が映しだされる。
そして数分後、スクリーンのなかには見なれぬ風体の私がいる。スクリーンのなかの見なれぬ私が、たどたどしいフランス語で言葉をつなぎはじめる。
「みなさま、こんにちは、はじめまして。わたくし真島一郎と申します。マジマのほうが私の姓にあたります。すなわち私はマジマ家の子、日本でかつて侍とよばれた、戦士の家の子孫であります。土地は異なるとはいえおなじ戦士の家、ギニア・ウォロドゥグ王国に名をはせた大いなるクルマ家の子アマドゥに、何よりまずこの場をかりて、心からの弔意をささげたく存じます」。
「コートディヴォワールの生んだこの偉大なる作家を、ひとはしばしば〈近代世界で闘うグリオ〉と呼びならわしてまいりました。それは難多き生涯の最期のときをむかえるまで、彼が最強のエクリチュールを武器に社会の不正、政治の偽善とたたかってきたからにほかなりません。今となりましては、故アマドゥ・クルマの御霊安らかならんことを切に祈りますとともに、この敬服すべき戦士にオマージュを献ずるというまたとない機会をあたえてくださったCARASの方々に深い謝意を表したく存じます」。(次に)
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「さて、みなさまが本日まず第一にお尋ねになりたいこと、それは私のごとき民族学者、それも日本人が、アマドゥ・クルマの小説をあえて翻訳することになったそのいきさつではないかと拝察いたします」。
「私はこの十五年ほど、日本とコートディヴォワールを行き来しながらダナネ県で住み込み調査をおこない、ダンの村落社会の日常を知ろうとつとめてまいりました。そうしたわけで、あの問題の夜、一九八九年のクリスマスイヴの晩も、私はダナネ南部のダン族の村で寝泊まりをしておりました。そうです、チャールズ・テイラーの反乱軍が秘密裡にリベリア国境を越えようとしていたちょうどその時、私はそのすぐ近くで、ほかの村びととおなじく彼らの動向などなにひとつ気づかずに暮らしていたのです。リベリア内戦の戦端はまさにその晩をもってひらかれてしまい、ダナネにもその後おおぜいの難民が流れついてきました。みなリベリアに暮らすダンのひとびとで、なかには重傷を負っている方もいらっしゃいました。しかしながら、あのとき自分がたしかにこの眼で見たもの、それを私はいまだにうまく表現できません。言語化できないのです。それはひとつの凶悪なる記憶、心深くに外傷のごとく身をひそめうずくまる記憶となってしまいました」。(次へ)
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「それから十年後、二〇〇〇年のことです。アマドゥ・クルマの最新作にあたる本作、『アラーの神にもいわれはない』に私は出会いました。ご存じのとおりこの作品は、リベリア、シエラレオネ両国の戦場に投げこまれたひとりの少年兵の物語です。小説中の幼い主人公が訥々と語っていく戦場の記憶に読者のひとりとしてふれているうちに、私はいつのまにかひどく心を衝かれ、打たれ、動かされておりました。そのときまで自分があえて言語化することを避けていた情動の迷路を、この作品が文学の力でみごとに表現しているようにおもえたからであります」。
「このうえもなく強暴なあの記憶が、そのとき不意打ちのように心の闇から舞いもどってまいりました。とはいえ仮にこのように言うことがゆるされるとすれば、悪しき記憶がまざまざと再生したゆえにこそ、逆説的なことに、私は多少とも救われ、癒されたように感じたのです。記憶へと自由に近づけるのは、まことにひとの方ではございません。逆に記憶こそがひとのもとを予告なく訪れ、ひとを荒々しく責めたてるのでありましょう。けだしひとは、おのれの記憶にたいしつねに受動的たらざるをえない所以でございます」。
「ところでいま私は、クルマの小説にふれたおかげで救われたように感じたと、そう申しあげました。この作品は文学の力をつうじアフリカの内戦にまつわる悲惨をみごとに描きだしているとも申しあげました。ひとまずはいささかの注意もはらうことなくそのように申しあげましたが、じつはそれこそが文学固有の次元で問われるべき問題であるように私は思います。本日問われるべき主題とは、作家アマドゥ・クルマが築きあげた文学の力、その秘密にかかわるものであることを、ここで予告しておくことにいたしましょう」。(次へ)
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「ともかくも私は物語を読みつづけました。そして最終ページまで到ったときには、この作品をぜひとも日本語に訳してみたいという気持になっておりました。翻訳の作業は第一に自分のためではあったのですが、しかし同時にひとりのアフリカ研究者として、現代アフリカの知識を深めるうえでこの小説が日本の読者にも何ほどか寄与するところがあればと、そう願ったのです」。
「私はさっそく翻訳にとりかかりました。そのかたわら、コートディヴォワールの 巨匠(マエストロ)本人に宛てて手紙をしたためることにもいたしました。第一信では自己紹介と挨拶のことばを添えて、そして何通めかの書状では、テクスト読解上の不明箇所をたずねることにしたのです。ひとたび翻訳するとなれば、エクリチュールの筆触、文体の襞にせまることで、自分なりに最大限、意をつくした訳文を練ろうと願ったからであります。日本語とフランス語のあいだにひろがる懸隔のほどを、みなさま、まずご想像になっていただけますでしょうか。しかもそこにはひとつの謎、ひとつの魔術とさえ言ってさしつかえないアマドゥ・クルマのマリンケ語化されたフランス語français malinkiséが聳え立っていたのですから」。(次へ)
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「質問状を手にされたころにはもういくらかご健康をそこねていらっしゃったのかどうか、その点までは存じあげません。しかしクルマ氏は私の質問にすぐさま応じ、長文の回答をよせてくださいました」。
「私の質問のなかには、たとえば作品の献辞に関するものがありました。この小説の冒頭には、〈ジブチのこどもたちへ−きみたちの求めに応えてこの書物は記された〉との献辞が記されてございます。しかしなぜまた〈ジブチのこどもたち〉だったのでしょう。異国の児童と老作家とのあいだにいかなる交流があったのでしょうか。私はここに、作家からとどいた書簡の現物を持参しております。献辞のゆかりをめぐる箇所をモリ・トラオレに代読してもらうことにいたします」。
スクリーンのなかでは、モリが神妙なおももちで私のわきに現れる。カメラの縁取りにおさまるよう巨躯をふかく前傾させ、書状の該当箇所をかみしめるように朗読する。老作家の重厚な風貌へと時をおかずして変じていくその眼、その口。西アフリカ映画界では知らぬ者のいない名優の姿がそこにある。(次へ)
*
「トラさん、ありがとう。さて、私の事こまかな質問に、クルマ氏は終始このようなしかたで答えてくださいました。心のこもった懇切な回答のあいまに、彼は私を大いに祝福し、日本語への翻訳作業を力づよく励ましてもくださいました」。
「しかしながら、重箱のすみをつつくような質問の連続にはさすがに辟易されたのでしょう。作家は書状の末尾にいたって、東アジアの翻訳者にきびしい警告のことばを突きつけてきたのです。この部分もモリに代読してもらいましょう」。
ついに問題のあの部分にまできてしまった。「注意」の題が付された、そこから私の裏切りのいっさいがはじまった先述の箇所である。スクリーンのなかでひきつづき音読にかかるモリ・トラオレの顔。だがスクリーンの外側にいるいまの私にとり、それはもはや演技者の顔ではなくなっていた。声も俳優の発する声ではなくなっていた。アマドゥ・クルマそのひとが、スクリーンのなかから私への警告をいま発している。不可視の存在と化したクルマもこの追悼会場でいま、スクリーンの映しだす己れの姿を、無言のうちに見つめているのだろうか。(次へ)
*
「そう、クルマ氏は私にむけ、このような疑念を投じてこられたのです。この時をさかいに、訳者としての私の苦悶もはじまりました。私はまずもって、消え入りたい気持になりました。ひとをうんざりさせるような質問の数々は、偉大な作家にたいする、すでにして非礼の証ではなかったのかと。そしてつぎには、翻訳者として自分がなすべきこととはいったいなにか、そう自問しながら存分に悩み苦しみました。ふとした折にも、作家から発せられた手厳しい忠告の声がどこからか聞こえてくるかのようでした。幻の声を耳にしながら、私は作家の前半生にきざまれたひとつの挿話を想い起こしていたからです」。
「かつてクルマ氏は、自分がいかにして作家となったのか、そのいきさつをインタヴューの場で述懐されたことがあります。西アフリカで脱植民地化の政治運動が吹き荒れた一九五〇年代、彼は留学先のリヨンでFEANF、在仏ブラックアフリカ学生連盟の運動に参画していました。FEANFといえば、故フェリクス・ウフエ=ボワニに目の敵とされていたあの学生組織であることは、みなさまにあらためて申しあげるまでもないものと存じます。そのかたわらクルマ青年は、アフリカで目下生じつつある事態、ことに脱植民地期のコートディヴォワールでみずからが目撃したことについて、歴史の真の証人たるべく何かを書き残しておこうと思われたそうです。そこで手始めに、リヨン市内の図書館でアフリカ社会に関する民族学や社会学の文献にあたってみた。しかしそこに記された内容に、彼は深い失望をおぼえてしまいます。学術のエクリチュールには、アフリカ人の真の命など宿りようもない。だから民族学者や社会学者とは異なる道を自分は選びとった、それこそみずからが命名するところの〈生きた社会学 sociologie vivante〉、すなわち文学、小説にほかならなかったのだと、生前のクルマ氏はそう語っていらっしゃいました」。(次へ)
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「ところで、この私はまさにその民族学者、社会学者の端くれであり、若き日のクルマが人間の真の息吹きを滅却することなきようみずからに禁じた職業の実践者にほかなりません。だからこそ私は、いくども自問しつづけたのです。いったい自分などがクルマの小説の善き翻訳者になどなれるのだろうかと。堂々めぐりの自問にいいかげん苛まれたあげく、しかし私はじぶんの採るべき道をきめました」。
「なるほど、〈翻訳は裏切り〉などとは申しますが、使い古されたこの金言になずむ気に、私はどうしてもなれません。翻訳者というものは原作者への裏切りをけっして避けうるものではない、それはたしかにその通りでしょう。しかしだからといって、ひとは諦観に仮託しつつ事の初発から裏切りを予期しているようであってはならないからです」。
「ところが、今回の翻訳で訳者のとったふるまいはその原則に反していたことを、私はきょうのこの場で、みなさまに告白しなければなりません。私は作家アマドゥ・クルマにたいし、はじめからある種の裏切りを犯す決意でいたということです。具体的に申しましょう。作家の警告に反し、私は日本語版『アラーの神にもいわれはない』に、およそ六十ページの訳註と五十ページの訳者解題をあえて書き添えたのでした」。
「ならば裏切りのそのわけとは、いったい何なのか。クルマの善き孫たらんと望んでいた東洋人が、けっきょくは聞きわけのない孫にしかなれなかったそのわけとは何だったのか。じっさい裏切りにはいくつかの理由がございます。これから申しあげるその理由こそ、本日の話でみなさまに何よりお伝えしたくおもっていたことなのです」。(次へ)
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「いまいちどくりかえすならば、この小説の主人公であるビライマ少年は、苦痛にみちた戦場の記憶、ひとりの少年兵として自分がリベリアとシエラレオネの戦場で見たことしたことのいっさいを物語っていきます。ただし、少年の語りはそれにとどまりません。この小説では、現代西アフリカの政治世界についても少なからぬ紙幅が割かれているからであります。アフリカの大物政治家、たとえばフェリクス・ウフエ=ボワニ、ブレーズ・コンパオレ、エヤデマ、パトリス・ルムンバといった人物の実名を、そのさい少年はいささかもためらうことなく列挙していきます。小説とはいえ、同時にそこにはウィリアム・ポンティ師範学校や、ヤムスクロのバジリック大聖堂、あるいはアビジャンのオテル・イヴォワールなどといった単語さえ飛びだしてまいります」。
「その点、私の生まれ育った日本という国では、アフリカの過去と現在についてひとびとにほとんどまったく知識がないという悲しむべき現実があることを、まずここで認めておきたく存じます。ひどくコロニアルで醜悪な若干のイマージュをのぞけば、日本人はアフリカにほとんど関心を示してまいりませんでした。そのため大半の者にとり、アフリカとは、いわば永久にかつてのままの土地であるとみなされているありさまなのです」。
「一例をあげましょう。日本の大学生にアビジャンの写真をみせるたびに、私は彼らから必ずといってよいほど驚かれます。西アフリカの大都市における今日の現実が、彼らの思いえがくコロニアルなアフリカ像とはまるでちがっているからなのです。みなさまに留意していただきたいのは、彼らがみな、日本の高等教育を享受するりっぱな大学生だということです。年端もいかぬ子どもにアビジャンの写真を見せているわけではないのです」。
「いいかえれば、日本人の知識から致命的なまでに脱落しているのは、植民地期から脱植民地化と独立を経て今日へといたる、アフリカの苦闘にみちた歴史であると申せましょう。二十世紀のアフリカ史が、われわれ日本人の知識からは根こそぎ抜け落ちているのです。私は日本のアフリカ研究者として、いやそれ以上にみなさまの祖国コートディヴォワールの研究者として、こうした悲しむべき現状についてつねづね浅からぬ責任を感じてまいりました。それで今回の翻訳にしましても、私が何の注釈も添えぬまま訳書を刊行してしまえば、ビライマ少年の語ることを多くの日本人読者は〈アフリカの伝統的な部族戦争〉の単なる延長として消費する結果におわっていたことでしょう。しかし、むろんそうした理解は誤りです。現代アフリカ諸国の内戦とは、ひとびとが共和国のシステムを歪曲あるいは是正しようとするあまり、不幸にも突き進んでしまう戦闘行為であるからです。世界の他地域とおなじく現代アフリカ諸国の内戦も、つねに 国民nationの枠内、共和国républiqueの枠内で展開されてきた。二十世紀のアフリカをめぐるそうした自明の事実が知識から抜け落ちている国の読者に、小説『アラーの神にもいわれはない』を読みこなすことなど、はたしてできるでしょうか。ましてやそうした国の読者にたいし、ウフエ =ボワニとは誰であり、ブレーズ・コンパオレとはいかなる人物で、さらにウィリアム・ポンティ師範学校とはいかなる教育施設であったかなど、知識として望むべくもないことなのです。事例はいくらあげてもきりが ございませんので、あとひとつ、決定的ともいえる例をひけば、みなさまにも事情を察していただけるはずです。そもそも、RDAがいかなる組織であるかを知らぬまま、ひとはアマドゥ・クルマの作品に近づくことなどできるものでしょうか。いかなるイヴォワール人作家についてもおなじ繰り言を述べたてる心づもりなどございません。相手がアマドゥ・クルマならばこそ、このように申しあげているのです。アフリカ諸国の独立とともに幕をあげたヨーロッパ人の、またアフリカ人の〈大いなる政治grande politique〉の手くだを徹底して指弾しつづけた戦士の作品ならばこそ、このように申しあげているのです。それこそが『独立の太陽』の著者としてみなさまも知悉されているあの作家、アマドゥ・クルマの生そのものではなかったでしょうか」。
「ひとつの逆説ではありますが、だからこそ私はアマドゥ・クルマを裏切りました。二十世紀アフリカ史にまつわる情報を中心とした六十ページ分の訳注をテクスト訳文に添えることによってであります。私がいま希っておりますのは、小説の翻訳としておよそ尋常とはいえぬその註記の量が、ある間接的なメッセージとして日本の読者に伝わってはくれまいかということです。すなわちアフリカの現代史とは、日本で漠然と想像されているほど単純なものではないという、その間接的なメッセージとして」。(次へ)
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「さて、私が第二に申しあげたいことは、これまでの話と一見はなはだしく矛盾するかのようなニュアンスをおびております。いましがた私は、拙訳に六十ページもの註記を添えた理由として、アフリカの歴史を日本人読者に〈よりよく知って〉もらうためであると、そう申しあげました。とはいえ、〈よりよく知る〉とはそもそも何のことでしょう。〈知る〉とはどういうことなのでしょうか」。
「たとえば私がこう言ったとします−〈ぼくはきみを知っている〉。このとき私は、あなたの名前やあなたの年齢、あなたの国籍、アビジャン市内のあなたの住所、あるいはあなたの携帯電話の番号さえ知っているかもしれない。しかしだからといって、わたしはあなたの 生=人生vieそのものについていったい何を〈知っている〉というのでしょう。〈知る〉とはいったい何のことなのでしょうか」。
「あるいはおなじく私がこう言ったとします−〈RDAの歴史なら知ってますよ。私もアフリカ研究者の端くれですからね〉。とはいえ、かくいう私は、いったい一九四六年のバマコにいたとでもいうのでしょうか。いいえ、ちがいます。私は一九六二年になってようやく東京で生まれた人間なのですから。あるいはまた、私がこうも言ったとします−〈ダカールの六八年五月事件ならばよく知ってますよ〉。しかし、かくいう私は、当時のダカール大学であの運動の沸騰を目撃していたとでもいうのでしょうか。それもちがいます。六八年といえば私はまだ六歳で、母親にしがみついて東京で暮らしていたはずですから。だとすれば、あれこれの歴史や事件を〈知る〉とひとが語るとき、はたして〈知る〉とはいかなる事態をさすことになるのでしょうか」。(次へ)
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「もっともこの程度の次元にとどまるかぎり、問題はさほど深刻でもないでしょう。〈あなた〉に関するあれこれの知識は、何ほどか良い情報でありましょうし、RDAの創設にまつわる知識もまた、それは歴史の良き知識といえるでしょうから。しかし、ひとたび戦争の次元へと移行するとき、ここでいう〈知る〉をめぐる問題は、即座に、きわめて深刻な様相を呈してまいります。〈戦争を知る〉と語ることで、ひとはいったい何を言おうとしているのかが、ここで問われてくるわけです」。
「大学の研究室という安穏たる環境のもとで、たとえば私が書類に目を走らせながらこう言ったとします−〈ええ、コートディヴォワール内戦の現状についてならば知ってますよ。つい先週も国内北部のコロゴの辺りで、これこれの数の人間が殺されたそうですね。研究者ですからそのくらいは知ってますよ〉。私のような研究者がこのようなしかたで他国の〈戦争を知る〉と言明するとき、はたしてそれは戦争そのものを〈知る〉事態と、いかほどまでに乖離していることでしょうか。一方における〈情報を知る〉ことと、他方における〈情報を消費する〉ないしは〈もてあそぶ〉こととのあいだには、逆にこの場合、どれだけの隔たりがあるといえるでしょうか」。
「あるいはまた、かりにみなさまがアマドゥ・クルマという名の作家であったといたしましょう。そして〈アフリカの戦争の物語を書いてください〉とジブチの子どもたちにせがまれたとします。しかも現実のアマドゥ・クルマがそうであったように、作家としてのみなさまがリベリアの戦場にもシエラレオネの戦場にも足を踏み入れた経験がなかったとします。そんなみなさまは、罪のない子どもとたしかに約束した未生の戦争小説を、いったいどのように書きはじめればよいものか途方にくれるかもしれません。すくなくも、それが困難をきわめた執筆作業になることだけは確実でありましょう」。(次へ)
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「かような例をひきあいに出しましたのも、本作の執筆にあたりアマドゥ・クルマが選びとった文学上の戦略たるや、じつに瞠目すべきものである点を申しあげたいからにほかなりません。この作家はかつてより〈現代のグリオ〉として、大いなる叙事詩の語り部として知られてまいりました。しかしながら本作『アラーの神にもいわれはない』において、クルマはみずからの文体を根底から変えてみせたように思います。もはや叙事詩とはいえぬその文体とは、一種の寓話ではなかったかと思うのです。ならば戦争小説の執筆にさいして、寓話という文学形式からはいかなる効果がうまれてくるのか。ジャーナリストのルポルタージュや社会学者のモノグラフとは質を異にしたいかなる効果が、ほかならぬ〈生ける社会学〉のそれとして胚胎されてくるのか、この点が問題となってまいります」。
「小説のテクストそのものに例をもとめてみましょう。ビライマ少年は、リベリアとシエラレオネの戦場で数多くの幼い戦友を失います。さりとて少年は、亡くなった戦友たちの正確な数を読者に伝えることはけっしていたしません。なぜなら、戦争の犠牲者をめぐる正確かつ抽象的な数値を明示することは、もとより寓話の領分にないからであります。かわりに少年は、幼い戦友が殺されていくたびごとに、今は亡き彼ら彼女らひとりひとりの生の来歴を、〈追悼の辞oraison funèbre〉と称してひたすら綴っていきます。〈あの子は死んじゃってもういない。でもある時まで、たしかにぼくといっしょに生きていた。少年兵になるまえ、あの子はこんなふうに生きていたんだ〉といったしかたで、彼なりの追悼の辞を綴っていくわけです。抽象的な〈犠牲者数〉なるものは物語のうちでけっして明かされることがない。しかし少年がこれでもかと積みかさねていく〈追悼の辞oraison funèbre〉の連鎖を今また辿りなおす読者は、まさしく寓話の流儀にしたがいながら、戦争にひそむ闇の深さを想うよう導かれていくことでしょう。とほうもなく深い、ほとんどつかみようもないほど深い闇の奥行き、そしてその闇に沿って不分明につらなっていく葬列の長さ。死者の正確かつ抽象的な数値がたとえ明かされることがなくとも、名も知れず、また名の知りようもないひとびとの亡骸がそこかしこに累々とかさなっていく闇の深みをただひたすら想うよう、読者は確実にいざなわれていくことでありましょう」。(次へ)