第7回 

 

続宮古島狩俣・池間島

 

1.狩俣世渡崎の崖葬墓−パナヌミャー

 

 狩俣の集落を池間島方面にしばらく走ると左に西平安名崎、右は池間島への世渡崎の分岐となる。池間大橋を渡り狩俣方面を振り向くと、大きく口を開けたような穏かな入り江が見える。伊良波盛男さんは、地元では二つの岬をシドゥザキ、あるいはヒャウナでともに蛇崎であるという。地図で見るとまさに蛇が大きく口を開け、池間島を飲み込もうとしている姿を連想する。

 

 世渡崎の付け根にあたるところで太平洋側の浜に降りた。午後4時を過ぎていたが、ようやく潮が引き始めた。北東の風が強くリーフの外側は波頭が白く波立っている。正面には大神島が悠然と孤島の姿をみせている。わずか3.5kmの海上である。

 

 左方向に浜の白砂を踏みしめて歩くと、しばらくして世渡崎を形成している岩礁が地肌を露出させて波打ち際まで迫っている。満潮時ではとても歩けない浜の地形である。

 

 ものの5分も歩いただろうか。岩礁の岩肌に人が通れるぐらいの穴が開いていて、中をのぞくと巨大なホールになっている。中の暗さに目が慣れて入ってみた。実は入口の穴はもう一ヶ所右手にあり、光が洞窟全体に薄く差し込んでいる。いわゆる海食洞窟と呼ばれるものであろう。メジャーを持参していなかったので目測であるが、奥行きは10mほど、左右の広がりは20〜30m、天井までの高さは5m以上と思われた。



写真1.海食洞窟を利用した墓への入口。満潮時は下部の抉られているところまで海水が来る。

 

 巨大な自然の洞窟である。目が慣れるに従って、正面奥の壁際に一ヶ所、人頭大の石を積み上げている一画がある。積み上げた石の高さは1mほどで蓋はない。中をのぞくと人骨が見えた。改葬された墓であった。

 右側の奥壁に目をやると、3〜4ヶ所に龕状の掘り窪みがある。ここには人骨は残っていない。いずれも人工的に開けられた穴であり、かつてはここにも棺を置いていたのだ。海食洞窟の墓という考古学的興味と、潮騒だけが聞こえる静寂の中少しの恐怖感が入り混じった複雑な感覚である。また、ライトもないため詳しい観察ができない。少しして第2の穴から外に出た。


写真2.断層崖に横穴に掘られた墓室で3段になっている。古墳時代の横穴墓の景観と同じである。すべて海を向いている。

 

 外に出てまた左に行くとすぐに、横穴が幾つも掘られた崖面があるではないか。ここは先ほどの海食洞窟に連続しているが、波打ち際には大きな転石があり、崖面はU字形に大きく窪んで屹立している。壁面全体の規模は左右20〜30m、高さも10m以上で巨大な崖面である。その壁に上・中・下の3段の横穴が幾つも開いている。全体で観察できるのは20穴ほどあるだろうか。それは古墳時代の横穴墓を診ているような景観である。

 

 世渡崎のパナヌミャーは、海食洞窟内に設けた墓と、外の崖面を利用して横穴墓とした墓が隣接していたのだ。スケール感あふれる遺跡である。また、満潮時には誰も近づけない。ここに葬られた人々はいつも潮騒を聞きながら眠っている。

 

 さて、墓群はいつの時期のものであろうか。狩俣の人は現在ではここに墓参に来る人はいないという。

 

 2.池間島・荒所−アラドゥクル

 

 伊良波盛男さんは池間島にあって郷土学研究所を主宰している。伊良波さんの著書『池間民俗語彙の世界』によると、島のあちらこちらにアラドゥクルがあって、その地域は身の毛もよだつほどに怖く、駆け出す子供もいたという。また、それぞれの地にはアラガミ(荒神)がいるという。

 

 池間島の形はよく馬蹄形であると表現される。つまり、U字形を逆に置くとかつての島の地形をあらわす。周囲には陸地があり中央部には広大な湿地があって、南に入り江が開口していた。大正8年ごろから島の人たちの手によって湿地の干拓が始まるが、現在でもこの一部が野鳥のサンクチュアリーとして貴重な自然を残している。

 

 この特異な地形が島の人々の生活観に深い影響を与えたことは否めない。これがこの島特有の表現であるアラドゥクルにも投影している。

 

 島はそこに住む人々の観念の中で3分割されている。湿地はアオグモイ、イーヌブーと呼ばれ、ここには死霊や悪霊がたむろしているといわれる。墓地の在りかを見ても、多くは入り江の西岸につくられ、日常的に目にすることのない場所が選ばれた。

 

陸地の東は神道原、西を池間原と区別している。神道原には人家はなく(池間大橋は神道原の先端に繋がったためここにはみやげ物店が数軒ある)、また集落があったという伝承もないのである。神道原は名称でも想像されるとおり、神聖な地域としてのタブーがかかる地域といえる。

 

 西の池間原は観念的にはさらに三分割される地域である。北の空間はアラドゥクルのひとつとして日常的には行かない、訪れない地域として認識されている。その事例をニ、三あげると、@東海岸地になるがフドゥーラがある。切り立った海岸の崖の付け根が波浪により貫き通る。先端はフドゥーラヌシバナ(フドゥーラの岩鼻)で、鯨の顔面のようでもあり、不気味な悪魔の口のようでもある。ここは魔物が船を着けるところと伝承されている。A北海岸の小さな入り江をヒシヌニーヌヒダガマ(干瀬の根元の小浜)という。この浜はY字形の小さな入り江になっていて、その要にあたるところに、ひとつの岩が波を受けている。魔物が座る石といわれ、ここも幽霊船が入る入り江だと伝承されるところである。B幽霊船が入る浜に隣接して、ティンカイヌーインツ(天に上る道)という嶺がある。前回でも触れたが、ここは死者の霊魂が、嶺の頂にあるという石を踏み台にして天に昇るといわれる地域である。これら北海岸にある幾つものアラドゥクルが複合して、島の北の地域に対する思いが形成されている。


写真3.フドゥーラの風景。海に突き出たところがフドゥーラの岩鼻で、奥に海食洞窟が見える。

 

 次は集落空間としての地域である。生活の場として東を限る断層崖(バリナウダキ)が

存在する。西はすぐ海になり、北は湿地の縁辺部が集落を限っていた。南側はウイバル(上原)と呼ばれる、ここも台地一帯は聖域である。オハルズ御嶽を中心にして、その中には人家は存在しない。この地域にも島の人は日常的に立ち入ることはないという。

 

 本永 清さんは、以上のような地理的空間認識とは別の宇宙観ともいうべきものを報告している。池間の人たちは、宇宙空間をティンとミャーク、ニズラの3つの領域に区分しているという。ティンは天であり神々が住む世界、ミャークは人間の住む世界である。そしてニズラは死の世界である。「人間はティンにいる神々によって生命を授与され、この世に生れ出る。この世に生れ出た人間は、ミャークで一定の期間楽しく生きた後、いずれ死ぬことになる。そして、死ぬと今度はさらにニズラに降りていく」という。

 

 ニズラは地下世界のようなところを想定しているのだろうか。ニズラには神がいて善行を積めば、再び人間の体を与えられてミヤークに誕生し、悪行であればいつまでもニズラに留められるか、あるいは家畜になって誕生すると考えられた。

 

 池間島の人々の空間認識は、島の中心部にあった広大な湿地が存在していたころのものであろう。湿地はアラドゥクルという認識ばかりではなく、コイやフナ、ウナギなどの淡水魚や蟹が豊富に取れたという。海が荒れて漁に出られない時もここで十分賄えたことも教わった。現在では大橋の開通とともに一周道路も整備され、民俗意識も変容してアラドゥクルも消滅する。

 

 3.聖地ナナムイをめぐる

 

 池間公民館から南を見ると、オハルズ御嶽の入口に立つ石の鳥居が立っている。周囲は低木の林で人家はない。ただ、ムトゥといわれる建物がこの聖域内にあるだけの世界。わたしはこの聖域にはいるとき、まずティーカミの岩に手を合わせた。聖域の入口にあってこの地を守る神である。道は少し上り坂になり、左手に岩があってその根元には香が焚かれていた。この神から50mほどでオハルズ御嶽の入口である。ここは普段の入域は禁じられている。13世紀ごろにヤマトから漂着した補陀落僧を祭るという。

 

 この鳥居の前は、岩礁に囲まれた小さな入り江になっている。スゥーンブーといい、ユークイの祭りの日に五穀を携えた神が、南のほうから船をつける入り江だと言われている。池間島の人々にとっては最も重要な場所である。これを表現したのがオハルズ御嶽内にあるという。野口武徳さんの描く御嶽内の図面には、ミャーナカにフネノハナズと呼ばれる香炉を据えた台が書かれている。これは白砂によって作られた船の舳先だといわれている。長さは7mもある巨大なものである。


写真4.ナナムイの聖地の端にある遠見台から見た池間島集落。

 

ユークイの日には、その上に145個の香炉が据えられ神々に祈りをささげる。ユークイは生命の充実と翌年の豊穣を祈る祭りで旧暦の9月に行なわれていた。船を形作っている台の先は南を指している。つまり鳥居前のスゥーンブーを向いていることになる。この船形の台が、南からユーを満載してやってきた神の船を造形しているのである。


図:オハルズ御嶽内にある香炉台。船の舳先状を呈し先は南を向く。ユーがもたらされる方位である。

 

 この入り江を離れ少し行くと、ワートニガイという呼ばれる岩礁がある。スマフサラの日(旧暦11月)には、ここで豚が殺されて調理されるのである。岩礁の2ヶ所で火が焚かれた跡を確認できた。この日は、豚の骨を縛った縄が村の入口に張られて、悪霊や病気のもとを入れないように集落が閉じられたのである。しかし、聖地の中で豚が殺されるのか。そこにどのような説明が可能なのか。多良間島でもアキバライの時、聖なる井戸の近くで豚が殺されたことを思い出す。

 

 また、前回に報告したヅンミヂャー(神の審判があったか)もこのナナムイの森の中にある。今回も尋ねたがすでに草が繁茂していて近寄れなかった。

 本永さんは、オハルズ御嶽を中心とするこの聖地は、ティン(天)への通行口であり池間島の宇宙軸であると表現した。ここはユーをもたらす神を迎えるための聖地であり、池間島に住む人の心象風景の中心地なのである。

 

 4.忘れられた集落

 

 池間島には多くの研究者が訪れて民俗誌を出している。その中で島の生業にかかわるとらえかたは、おおむね漁業が中心であると記述している。これは野口武徳さんの『沖縄池間島民俗誌』が与えたインパクトが大きいかもしれない。

 

しかし、伊良波盛男さんの話は違っていた。池間原(島の西側)の白木嶺(ッスッキンミ−丘陵地)から向こう側(低地でターと呼ばれている地域、現在はすべてサトウキビ畑である)は、明治ごろまで水田があったという。かなり広い地域で、島の暮らしはもとは半農半漁だったのではないか。また、ここには集落跡があり、稲作を伝えたといわれる人の墓があるという。つまり集落と水田と墓の3点セットというわけである。

 

 明治期以前に水田を営んでいたとなると考古学の問題だけに留まらない。琉球王府の収奪体系の中で、この島は下のランクに位置づけされていたという歴史的な経緯がある。また、18世紀にはこの島で人口爆発が突然起こり、伊良部島など島外に移住する事態になった。生産性の低い島で、なぜ人口が急増したのか原因が分かっていないのである。

 

 伊良波さんに現地を案内してもらった。当日は夕方であったので、後日改めて現地に行き歩測による略図を描いてみた。その結果をここで報告したい。

 

 水田跡:集落の北に農免道路を走ると一面キビ畑が開ける。このあたりの地名は指田、長田、川田原などタの名が付いている。この時期はキビの収穫期で畑に出ている人をよく見かける。声をかけてみた。お爺さん、おばあさんが健在であった時には確かにここは水田で稲を作っていたという。湿地に近いため、土地を少し掘り下げると水は得られた。水をためる池があちこちにあったという話を聞けた。南北方向で約1,000m、幅は50mほどある。

 

 野口さんが作った井戸の分布図には洗濯用の池というのがあり、また井戸もその周辺にかたまっている。つまり,集落の北側では地下水位が高いことをうかがわせる図になっている。つまり、この図からも水田への灌漑用水は川がなくても地下水で十分まかなえたことを示唆する。

 

 集落跡:農免道路からキビ畑を横断する道を西に入ると左右に分岐する。左は畑への道、右は集落跡への道である。このあたりはキビ畑から微高地になる。観察できたのは道跡、井戸2ヶ所と石塁である。石塁で区画された地域は広範囲に及ぶものの、ジャングル状になっていて全体は把握できていない。

 

 道は(幅約2.8m)先ほどの分岐から、両サイドに小石積みの縁石をつくって奥まで続いている。50mほどでT字に分岐する。直線方向を道Aとし、左に分岐する方を道Bとする。まず道Aを進んでみた。少し行くとさらに右に折れる道Dがある。Dは道幅が広く(約6m)、行く先は畑(水田)の方向である。AとBの分岐点からAに平行して少し奥に石塁が築かれている。40mほど屈曲しながら進むと1基の井戸がある。

 

井戸1(トゥビガー)とする。井戸1は入口からして見るからに立派な作りであることがわかる。井戸枠は長方形の石を円弧に加工して組み合わせ、井戸枠周辺の石も、枠の外に合せて丁寧な敷きかたである。井戸の直径は1.4m、深さは現状で1.4mである。砂が相当堆積していると見られ水は溜っていない。伊良波さんは、この水は塩分を含まない良質な水で村の人はここまでよく汲みにきていたという。


写真5.オハルズ御嶽の前にある小さな入り江。スゥーンブーといわれてユークイの日に神様が五穀を満載した船を着けるところといわれている。

 

 道をBにとって奥に進む。方向的には西に進むことになる。道幅は約2.7mで両サイドの縁石も残りが良好である。Bに入ってすぐ左右から道にぶつかる石塁がある。50mほど進むとまた分岐点がある。道Cへは今回は断念した。この間、左右から石塁の壁が4ヶ所でぶつかる。それぞれが区画をつくるための壁である。Bを少し右に折れると、道際に石で積まれたコの字方形の区画がある。また、ガジュマルの大木が巨大な自然石を抱くようにあり、拝所でもあったのであろうか。この辺りから右側の石塁は1m以上のものになり、これまでの区画とは様相が違うようになる。



写真6.集落跡内にある井戸1(トゥビガー)。円形に加工された井戸枠と井戸の敷石。

 

 この道も屈曲しながら進むと、30mほどで井戸2の地点に到達した。この井戸(アラガー)は井戸1とは違い自然石を乱積みしたものとなっている。直径は1.5m、深さ70cmで、水はなく土砂が溜っているようだ。

以上が集落跡の道をたどって得た概要である。これでも南北100m、東西130mほどの範囲を線としてみたに過ぎないのである。集落が機能していた時期を示すような遺物はついに見かけなかった。

 

ところで、現在見られる沖縄の集落の景観は、おおむね方形の石垣に囲まれた区画を一つの宅地割りの単位としている。このため、集落内の道路も格子状に設けられている。このような景観は、18世紀前半に琉球王府の一元的な屋敷と家屋の形状を統一する政策が取られた結果であるといわれている。

 

これ以前の集落景観はどのようなものであったのか。資料は少ないながらも竹富町竹富島の花城村跡の測量と発掘成果がある。14〜15世紀のムラで、特徴は主要な道路がなく、屋敷を限る石塁の一部を開けることによって通路を確保しているのである。このため屋敷群全体が一つの有機的な繋がりとしてまとまりをもつという。そしてムラ外とは3ヶ所の出入り口に制限しているのである。

 

 花城村跡は、現行の集落景観とは全く違うムラの存在を明らかにした。さて、池間島のこの集落はどのような形態であろうか。少なくとも道路が存在する事実はある。しかし直線的ではなく、道A〜Cは屈曲している。また、道路に接続する石塁は規則的ではない。道から奥への区画の広がりが分からないが、少なくとも18世紀前半の集落景観とも違うことは推測できよう。

 

 墓は大主が墓といわれているものであろう。ただ、ここも植物が繁茂していて近づける状況ではなかった。

 ターに隣接する集落跡とサトウキビ畑の下の水田は、池間島の歴史にさらに豊な知見を加えるに違いない。再訪して集落の広がりを把握してみたいものである。


 

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©Takeshi Izumi
 2008/03
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