私的沖縄学事始 泉 武


目次

 

第1回(06/12/5)
 

1.久高島 

五穀の起源地/2.久高島 島建て/3.久高島 天の子種/4.久高島 他界に通じる井戸/5.海を渡ったジュゴン/6.首里城とジュゴン/6.首里城とジュゴン/7.ジュゴン肉のゆくえ


第2回(06/12/5)
 

8.(うき)水走(んじゅはい)(んじゅ)9.もう一つの王陵―天山陵/10.浦添ようどれの擯榔樹(びんろうじゅ)11.王陵を守る獅子

 多良間島

浜比嘉島


第3回(07/3/13)

波照間島
1.壷を祀る村/2.西表島と対峙する石獅子/3.油雨のふる島―波照間島の始祖伝承/4.港の岬のビジュル/5.南に見果てぬ島を夢見る/6.7つの門がある屋敷/7.スサレロ(死者への唱えごと)/8.アラントゥワー(南集落の新本ウタキ)

 

第4回(07/6/1)


続・多良間島

1.ウプリ(虫送り)/2.ウプリに集う人々/3.ウプメーカー(ウプミャーカー積石墓)

津堅島

1.中城湾をめぐる攻防/2.ウルマンツァー/3.アダンの荷車/4.会の呪術/5.初起(はちうく)し―津堅島の旧正月/6.家焼き/7.平安名(へんな)のパーパーターシンカ 

 

第5回(07/7/31)

竹富島

1.ニーラン石と海上の神の道2.悪霊を防御するーアールマイ伝承とサンー3.サーラ田伝承4.島の創生と女陰石5.ヤギを屠るを手伝う6.猪の下顎骨を祭る

 

第6回(07/11/30)
宮古島市池間島

1.フーフダとスイジ貝/2.天に昇る道/3.神の審判があったか

宮古島狩俣

1.村を囲む石壁と門/2.ムトゥ屋群/3.狩俣の始祖神話

続々多良間島
1.アキバライ/2.準備その1/準備その2

 

第7回(08/03/04)

続宮古島狩俣・池間島

1.狩俣世渡崎の崖葬墓−パナヌミャー2.池間島・荒所−アラドゥクル/3.聖地ナナムイをめぐる/4.忘れられた集落

 

第8回(08/05/02)

伊良部島
1.アクマガマ/2.魚垣‐カツ/3.通り池とヨナイタマ/4.牧村の滅亡―天の神と神酒

 

第9回(09/02/02)

1.フーフダ(沖縄の呪符)/2. ミャークヅツ見学記(池間島)/3.東シナ海に浮かぶ島の正月−塩売りとお年玉−/4.石切りの海岸 ビーチロックに残された遺跡/ 5.マータンコー(津堅島)/6.沖縄水事情−タンク・トゥジ・キミズ

 


第1回

 

 1.久高島 五穀の起源地

 「アマミキヨが大島よりくるとき、海があれてタニムンの壷がなくなった。それには大麦、小麦、ハダカムギ、アワ、アデカの苗が入っていた。

 それから幾世代をへて久高に流れついた。アカチミがとろうとしたがとれず、アカチミのウミナイビがヤグル井で水あびしてあと左の袖で取った。アマミキヨが波に落としてしまった壷であった」。(西銘シズ。75年採話)

 

 これは久高島に住まいする西銘シズさんが語った五穀起源の伝承話のひとつである。シズさん自身は神人として、島で執行される祭祀を主導された方である。

 

 久高島は沖縄の五穀発祥の地として語られるが、琉球王府が編纂した史書にもアマミキヨが天に昇って五穀の種を持ち帰ったという話もある。国王は自ら久高島に渡って、国家の繁栄と豊作を祈願する行為であると理解されている。

 

 久高島のウプラトゥ家に伝わる別伝によると、五穀の入った壷は東海岸の伊敷浜に流れ着き、麦をハタスという島の真ん中の畑に播き、壷もハタスに埋めたという。

壷を拾った人はウプラトゥ家の夫婦であり、異伝として百名から久高に渡ってきたシラタルとファーガナシーの兄妹であるとする話もある。

 

(伊敷浜は東海岸にひろがるサンゴ砂の浜。五穀の入った壷が漂着したと伝承されている聖地である。東方は世果報(ゆがほう)がやってくるニライカナイの方角でもある。)

 

 ハタスは伊敷浜から急な坂道を昇った畑地に囲まれた中にある。畑の一画には東を拝むように香炉がおかれ、ここが聖地として崇められていることを示している。ただ現在では麦などは植えられていない。

 

 一年の祈願祭である旧2月のウプヌシガナシーヌウガンタテ(御願立て)と、旧12月のウブクイでは、壷を拾って播いた畑を巡り神話世界を再現するのである。ウプヌシはニライカナイ(東方にある豊穣をもたらす神地、竜宮とも観念されている)の大主であり、祭祀はかってニライウプヌシのシジ(祖霊―守護霊のこと)を受けた女性の神人が執行した。ニライウプヌシの神は最高神と位置づけられ、神役の継承者はこの神のシジを受けると夫も持てず、畑仕事もできなかったため、この神になる人がいなくなった。

 

 9月の麦の播種祭祀は、久高、外間両ノロ家、根人家の所有する畑で行われる。これが終了しなければ、一般の家では麦播きはできなかったという。

 

 久高島は五穀発祥の地としての伝承が色濃く存在する。ところが、この中に稲作が行われたとの伝承は語られない。島の自然条件は稲作に適さないが、外間守善さんはハンチャアタイ(神田畑)での稲作の可能性に言及した。この近くにはミャーハブとよばれる湧水池のあったことをとりあげている。

 

 久高島に限らず、沖縄の離島の農業は現在でも天水が頼りである。水のないところには豊穣の世は実現しない。だから神祭りが現実味を帯びることになる。

 

 2.久高島 島建て

 「この久高島はアマミヤー神様があっちの本島からね、海を渡ってこっちに来ていらっしゃって、この木の竿持って来てね、この久高の海にこんなに立ててからに海を上げになって島を造った。

 また、久高の始まりはね、シラタローファーガナシーというね、この人は神様で、こっちにお宮があるでしょう。この神様が知念村の百名から久高島に渡っていらしゃってよ、この久高を造ったという。私はね、シラタローウフガナシーという神様が生んだ息子の子孫。」(内間マサ。昭和57年採話)

 

 この話に通じるものが、西銘豊吉さんが語っていて「この棒は今まで外間トンにあったが、今年旧暦66日にウーザムト(御座元)一棒をたてたところ一にオミヤをつくってそこへ移した。」(75年採話)という。内間マサさんの語った木の竿と、ここで語られた棒とは同じものを指しているのであろう。この話で興味深いのは、竿を海中に立てて、引き上げた塩のしずくから島が生れたと語られる。このモチーフはまさに、『古事記』の国産み神話ではないか。

 

国産み神話は「二柱の神天の浮橋に立たして、その()(ほこ)を指し下して、()かせば、塩こをろこをろに()()して、引き上げます時、その矛の(さき)より(した)だる塩の累積(つもり)、嶋と成りき。」とかたり()()()()(しま)が生成された。

 

 同系統の話は石垣島でも採話されている。「大昔のこと。太陽加那志が、あまん神を呼んで言った。「お前は、天の下に降りて行って島を造れ。」そこで、あまん神が、()天の七尺の橋の上から、島のできそうな天の下の海の真中に投げ落として、天の鉾でかきまぜると、見ているうちに島ができあがった。(下略)(盛山キヨ。昭和55年採話)

 

 久高島には島を創ったという棒(シマグシナー)と、最初に立てかけた石(あるいはアマミヤが腰を掛けたという石)が伝承され、カンジャナシーと呼ばれる来訪神(ニラーハラーの神々)を迎えて島を祓い清める祭りにおいて登場する。

 

(島造りの基点と観念されている石柱である。この石は個人の屋敷の一画にあり、この家の祖先により久高島の島建てが行われたムトウ(元根)に繋がる家系である。)

 

 竿を立てかけた石は、現在は屋敷地だけが残る屋号ウッチグワ家の一画にある。道から樹木の茂みを入った東側の奥まったところに、高さ35cmで琉球石灰岩の楕円形(65×50cm)で、頂部が平たくされた石柱である。根の部分はあたかも自然の岩を削り出しているようなカーブをもち、大地から生えているような形状である。

 

 この場所では祭り本番の前日に、男性神職者たちにより石柱に対して礼拝が行われる。アマミヤが島創りをしたシマグシナーは、赤く塗られた2mほどの棒で、祭り当日アマミヤの神に扮した神女が右手に持って「ワンヌ アマミヤヤ シマグゥシナーティタティリィ シマヌノーサ クニヌノーサ ウナントゥノーシ トゥマイノーシ ナミシュルミ シュウスルミ」と歌うのである。

 

 海のしずくは、時を隔てて国土の創生とかかわったことを物語る。また我々人間も産みから生成されたという。我々の古い記憶がDNAに記録され、このような物語をつむぎ出す。

 

3.久高島 天の子種

 比嘉康雄さんは、久高島の民俗調査と写真撮影を精力的におこない、大部な民俗誌を著した。この中で最も印象的なのは、西銘シズさんから聴取された歌、「アガリナーヌヘーナ」である。比嘉さんは「この歌は卑猥だからといって、西銘シズ氏はなかなか話してくれなかったが、聞いてみると卑猥どころか、トゥイヤウタティ(鶏が鳴いて)と表現されているとおり、あけもどろの太陽と交わり子供を産もうという雄大な歌である。」と絶賛された。

 

この歌とは「東方ニラーハラーに向かって 鶏は鳴いて 尊い女よ 女陰をうち開けて ムルトゥヌギ ムルグゥルイ 男の子の誕生をお願いしよう。」(比嘉康雄訳)ムルトゥヌギ、ムルグゥルイは太陽と交わる様を表現しているという。

 

孤島苦という独特の響きを持つことばがある。久高島を孤島とは呼ばないだろうが、島で暮らすことの閉塞感と経済苦。濃密な社会的連環の中で生きること。このような社会的関係性の中で、なんと豊穣なイマージネイション、饒舌で甘美な表現であることか。

 

五穀の種が流れついた伊敷浜は、東方に開けた珊瑚礁の砂浜が開けている。この浜こそあけもどろの太陽が昇り、太陽の子を賜ろうとした場所でもある。

 

奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から出土した、弥生時代の壷に表現された人物がある。両手をかざし、鳥羽状の大きな裾を開く鳥装の巫女を線刻で表現する。下半身は木の葉形の女陰を露にした立ち姿である。

 

弥生時代のこのような土器は、穀物の種を貯蔵したと考えられる大型の壷に表現された。

 

西銘シズさんが語った歌は、久高島では正月行事のなかで歌われた。巫女は太陽に向かって女陰を露にして子種を授かるという神話的世界を演じながら、同時に地母神として五穀の豊穣を祈願したのである。

 

 このような太陽神との交感神話は粟国島にも伝えられていた。「昔あったことですよ。ある女の人が朝も早く起きてですね、天に向かって口開けて露を召し上がりなさったら、その女の人は、妊娠なさって、男の子産みなさったそうですよ。そのとき、天から丸い月の半分と、太陽の形の半分が落ちてきたから、それを大事に持っていたそうです。(下略)(末吉カマ。昭和55年採話)

 

 この話は直接的な表現ではないが、天から降りてくる露が太陽の精であり、これにより妊娠にいたるという、天の種の子と表現されている。粟国島の話では懐妊した女が巫女であることは語られない。しかし、太陽の精を受け止めるのは選ばれた女であった可能性は考えてよいのではないか。

 

 2000年前の弥生時代に土器の表面に描かれた女の姿―これは考古資料であり何も語らないが一時間と空間を跳び越えたかのように、南島の神女によって天の子種の物語が伝承されていた。

 

(奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から出土した、弥生時代(2000年前)の女性を描いた絵画土器である。上半身の衣服表現などは想像図である。)

 

 

 4.久高島 他界に通じる井戸

 久高島では集落の奥まったところにイザイ山がある。ここにイザイホーで知られた久高殿(とぅん)の神アシャギがあり、東隣には古くに久高島に住み始めたとされるウプラトゥ家がある。今は住む人がなく拝所として村人によって護られている。

 

 この家の一隅には拳大の石で積まれた船形の井戸がある。長さ約4.2m,幅約1.8mあり、舳先を西南に向け、内側は二つの部屋に区切られている。井戸の底は深くはなくサンゴ砂が敷き詰められている。白いサンゴ砂は聖地の象徴であり、ニライカナイに通じているといわれている。

 

 このような井戸がイチャリ小家の一画にもある。ニラーヌハングゥムイと呼ばれ、長径約1.3m,短径約1m,深さ30cmで、底には砂が敷かれている。この井戸も海底に通じているとされ、井戸の名称からもニライカナイとの関連が想起される。

 

(大里家の一角にある舟形の井戸。底が浅くサンゴ砂が敷かれている。周りもサンゴ石により積み上げられている。)

 

井戸は天水にしか頼れない島の生活では、無くてはならない生命維持装置である。滾々(こんこん)と湧き出る水にニライカナイからの贈り物と観念したのである。

 

 宮古島には、仮面を被りつる草で全身を覆った神が来訪する、パーントゥの祭祀が行われている。仮面草装の神に扮する場所は、集落の南はずれのンマリガーと呼ばれる古い井戸である。祭りの当日、井戸の水はすべて汲み出され、そこに全身を蔓草で覆った若者達が井戸の底に入る。ヘドロを全身に塗り、仮面にもヘドロを塗って、グシャンという杖をもつとパーントゥ神の誕生である。そして日没を待って集落へ出現することになる。

 

 以前は子供の誕生や死者の清めなどで使用された神聖な井戸であった。パーントゥ神の誕生儀礼にもかかわるこの井戸は、他界とも通じていることが想定される。

 赤嶺政信さんは「宮古では、ニッジャ(ニライ)の入口を井戸とする場合がある。その井戸は底なしで、そこを通っていくと海の底にいたるという。」という先島の事例を紹介した。

 また、お盆などで先祖を祀るのに、仏壇の前でウチカビ(紙銭)が焼かれる。このとき(かな)(だらい)が持ち出され、植物の茎などで井形に組まれる。これを井戸に想定しているようで、ウチカビはここを通じて後生にいる祖先にたくさんのお金が渡されるのである。

 

時代は遡って、平安京五条大路の六道の辻に、小野篁(おのたかむら)が建立したと伝える(ちん)皇寺(こうじ)がある。小野篁は平安時代の高官であったが、『今昔物語』では冥府の高官として、昼も夜も官庁で働いていたとされる。篁は寺の境内にある井戸から冥府に通った。ここには、井戸が後生とつながる通路であったと観念する沖縄の伝承とつながる。

 

 久高島には天とつながる場所もある。「前外間さんの門向かいのアタイ()はハンチャタイといい、()この一角に小石を集めた(畑の石ころを投げ集めた形)ところあり。ここを天の門(テンノジョウ)という。以前は現在よりもまだ小石が高く積まれていた。ここに天から縄が下りてきて、神が下りてくるという。」(崎原恒新メモ)

 

 見た目には、崎原さんが述べているとおり、小石の塚状態で簡単に崩れそうな石積みである。集落の中心にほどちかい場所であるところに、存在する意味が込められているのであろうか。テンノジョウにまつわる伝承はすでに忘れられた

 

5.海を渡ったジュゴン

 遠藤庄治さんは沖縄で長く伝承話の調査に携わってきて、ジュゴン(人魚、沖縄ではザンと呼ぶ)と人間がむすばれる話や、津波の来襲を人間に予告する話などを数多く採話された。この中には東南アジアに類似した伝承話があること。その由縁は東南アジアの沿岸部にいた漁労民が、ジュゴンを求めつついつしか沖縄まで到達したのだという。その人々がジュゴンにまつわる伝承をも携えてやってきたのだと構想した。

 

通説的にジュゴンは、一定の海域に定着して暮らす海棲動物であり、鯨やイルカのように広域の移動はないだろうという。これは主として、食料となる海草―アマモは沿岸部のごく浅い海域に成育していることに関連している。アマモは水生の顕花植物で、水中で開花し種で繁殖するため、太陽光が十分届く沿岸部にのみ生育するのである。このためジュゴンの生活領域も、アマモの生育環境に制限されているとの推定である。ここにはどうも冒頭で紹介した遠藤さんの構想は成立しそうにはなかった。

 

ところで、驚いたことに2005年になってジュゴンは、広域的に移動する可能性を示す研究が発表された。

 

ジュゴンが暮らすのは、赤道を挟んだ北緯30度から南緯30度の熱帯、亜熱帯地域である。この海域に沖縄、奄美大島を北限とする東南アジアのグループと、オーストラリア北岸とインド半島沿岸に生息するグループ、およびアフリカ東岸、マダガスカルからアラビア半島を挟む紅海である。生息数は1997年現在で約105,000頭と推定さていれる。

 

研究に用いられたのは、遺跡から出土した骨や死骸として打ち上げられた標本、水族館にいる生体から得られた資料などで、地域別には沖縄周辺から東南アジア、オーストラリアのジュゴンである。そして骨などの細胞内にあるミトコンドリアの塩基配列の特徴が分析された。

 

(明治22年のジュゴンの図である。体長2・5m、体重は260〜300kgが標準サイズとされている。沖縄近海では明治から大正初期にかけて300頭ほどが捕獲されたと推定されている。)

 

 

その結果、フィリピンのグループと沖縄のグループが、同じ塩基配列を持った非常に近縁、もしくは同一の母集団を共有していたことを報告したのである。つまり、沖縄近海に生息する(あるいは過去に生息した)ジュゴンは、フィリピン海域を棲みかとする母親から離れて移動してきた可能性を示したのである。

 

台湾を除く東南アジアには現在、約15,000頭の生息が推定されている。フィリピン海域と沖縄を結ぶ広大な海を回遊していたのかも知れない。

 

遠藤庄治さんが竹富島で採話した「ザンのユングトゥ」。

「東の海岸に人魚が打ち寄せられたという噂がでた。誰が聞いたか、耳が聞いた。耳は行かずに足が行った。どこにあるか足は見ること出来ないから、見たのは目が見た。匂いがするかと、嗅ぐのは鼻が嗅いだ。嗅いだ鼻は取らずに、手が取った。手は食べずに、口が食べた。そしてお腹一杯になったから、垂れたのはけつが垂れたから、けつが犯人だと叩かれた。」(話者:高那三郎。平成7年採話。遠藤庄治先生は沖縄国際大学で教鞭をとり、沖縄で73,000の伝承話を調査し2006年に逝去された。一つの地域では世界的にも群を抜く数で、伝承話群として、あるいは言語資料として計り知れない文化遺産となっている。)

 

6.首里城とジュゴン

 中山王であった尚巴志は、1429年に三山を統一し琉球国が成立した。このころ、中山の最高所を占地して城郭を構築したのが首里城である。これ以降、1879年に首里城を明治政府に明け渡すまで、南海に成立した国家の中枢として機能した。

 

その後、沖縄戦により潰滅したが、多くの人々の努力により復元整備が進められ、2000年には復元された首里城は世界遺産に登録された。

 

この整備事業の過程で発掘調査が進み、遺構、遺物について貴重な情報をもたらしたが、ジュゴンの骨も少なからず出土したのである。

 

ジュゴン肉の旨さや薬効があることは、王府でも良く知られていたようで、物産税として八重山の新城島に限って課税されていた。

 

新城島は西表島の東に位置する小島で、現在ではほとんど無人に近い過疎の島となっている。ここで捕獲されたジュゴンは、もちろん生肉として首里までは運搬できない。当時の史料には、塩蔵または干し肉に加工された。ジュゴン肉の燻製というものが、石垣市八重山博物館に所蔵されている。たて7cm,よこ26cmの長方形に加工されている。

 

大泰司紀之さんは、新城島下地の七門御嶽に祀られているジュゴン骨を調査した。すべてジュゴンの頭骨で、少なくとも49個体分があることを明らかにした。この調査によっても、新城島がジュゴン捕獲の拠点であったことを改めて確認させた。

 

ところで冒頭で触れたように、王城の膝元でジュゴン骨が多数出土するということと、八重山地域の特産品としての位置づけとどのように関わるのか。

 

首里城右掖門(うえきもん)地区から出土した骨には、複数の個体が解体処理されたことが骨に残る殺傷痕から観察された。骨格別に見ると、頭骨、肩甲骨、肋骨、椎体、中手骨などあらゆる部位の骨があり、解体時に割ったような破損、切り込んだ傷跡などもあり、捕獲された個体がそのまま城内に持ち込まれたのである。

 

戸部(とべ)(よし)(ひろ)の『大島筆記』は、琉球から薩摩に向かっていた琉球王府の官船が、台風で遭難し土佐に漂着した時、戸部良燕が乗組員から、琉球の官制や風俗について聞き書きした。

 

ここでもジュゴンは珍しいものとして、糸満で捕獲され、皮付きの干物に加工する。時には薩摩へも献上するという。明治6年『琉球藩雑記』には、海馬肉1斤が琉球蔵方から鹿児島県に送られたことが判明する。

 

糸満は首里からさほど距離を置かない地域で、この沿岸でも捕獲されていたのである。盛本 勲さんは、ジュゴン骨の出土地を分布図として作成し、那覇市から浦添市宜野湾市など首里城に近い沿岸部の貝塚などから、ジュゴン骨が濃密に出土している事実を明らかにした。さきの糸満でのジュゴンの捕獲といい、先島以外の地にも王府に近いところで、ジュゴン漁を目的とした漁場が設定されていた可能性を示唆する。

 

7.ジュゴン肉のゆくえ

6では沖縄本島沿岸や、先島で捕獲されたジュゴンが、生肉または干し肉に加工され、首里王府に運ばれたことを述べた。ではジュゴン肉はどのように食されたのか。

 

金城須美子さんは、冊封使を饗応した御冠船料理のメニューにジュゴンの肉を用いた料理があり、また冊封使が日常的に使用する食糧の中に、ジュゴンの塩漬け肉と干し肉があることを見出した。

 

冊封は中国と国交を結んでいた琉球国に対して、琉球国の国王が交代するたびに中国皇帝が使者を派遣して新王を承認する制度である。このことにより、中国皇帝の家臣としての地位が保証されたのである。この皇帝の勅使を冊封使と呼び、正使、副使および随員として護衛の兵士や医師などが総勢400~600名で構成されていた。

 

最初に冊封を受けたのは、中山王の武寧で1404年に明国皇帝の冊封を受け入れた。これ以降、琉球国最後の国王である尚泰まで(1866)23回の冊封使を迎えた。御冠船料理は冊封使が滞在している内に、国王が招待する宴をさしている。

 

金城さんによると、御冠船料理や、冊封使が滞在した天使館の料理は、中国側が帯同した料理人がすべて担当したという。副使であった徐葆光の『中山伝信録』では厨使4名が記録されている。

 

尚泰王のときの冊封使に支給した食糧は鳥獣類では豚が圧倒的に多い。ジュゴンも塩漬け30斤、干し肉186斤が記録されている。1斤について約600gとすると塩漬け肉は約18kg,干し肉約111kgになる。ちなみに1頭から取れる肉の量は100~150kgとされている。

 

この肉がどのように料理され、その味はいかほどであったか。副使が記録した李鼎元の『使琉球記』は「海馬肉(ジュゴンの中国表記名)のスライスがあった。くるくると巻き、かんなくずのような形で、茯苓のきざんだ物のような色をしている。」(原田禹雄の訳)

 

干し肉のスライスがスープ仕立の中に入れられた料理であったようだ。李鼎元はジュゴン肉を「常に得易からず。」とも言う。御冠船料理の材料には、中国料理の素材として、つばめの巣やフカヒレ、干なまこ、干あわびなど高価な食材が使われている。これらの珍味に混じって、ジュゴン肉スープとして味わった様子が窺える。

 

ここで憶測をたくましくすれば、料理人は本国ですでにジュゴン肉の扱いに習熟し、また使者たちも、ジュゴン料理を中国料理の一品として何のためらいもなく、むしろ極めて貴重な食材として認識していたのではないだろうか。このような理解が可能であれば、冊封使一行は琉球に使いした時、その物産の中にジュゴン肉の入手が可能であり、琉球側においても、中国の賓客に対しての最上のもてなしのために、先島にまでジュゴンを求めた動機の一端が推測できよう。

 

中国にジュゴンが生息していることは、近年海南島で確認された。このことは、過去において、中国でもジュゴンを珍味として料理してきた伝統があったことを窺わせる。

琉球国が中国との関係を結んだ近世において、王府は歴史的な産物としてのジュゴンを再発見した。

 


第2回

 

8.(うき)水走(んじゅはい)(んじゅ)

 沖縄学事始の初回で、久高島には五穀の起源にまつわる民俗遺跡と伝承話が色濃く残っていることをみた。しかし、稲作の始まりはもちろん久高島の五穀伝承からは除かれていた。いうまでもなくここでは豊富な水が確保できないからである。

 

 そして、久高島の対岸である知念半島の百名(ひゃくな)において稲作の起源伝承が伝えられた。

 

「知念には(うきん)水走(じゅはいん)(じゅ)と言って、今もきれいな水が湧いて流れているところがあるよ。そこの下には今は埋まっているが、昔は(みー)(ふー)()という田を作っていた。飛ぶ鳥がこの稲の穂をくわえて来て向こうに落としてから、稲が生えて実を結んだから稲作りはこれから始まっていると聞いたよ。()(明治40年生まれ 城間清秀の話)

 

 沖縄に稲作が始まったとされるこの地は、百名ビーチの近くで海蝕崖が迫る地点である。浜辺までは200mと離れていない。ここに2ヶ所の地下水が地上に出るポイントがあり、絶え間なく鮮烈な水が流れ出ている。

 

(ほとばしり出る湧水。沖縄は表土をサンゴ砂が覆うため、雨水は地下に浸透する。100m前後に不透水層があるため、この面を通って外に出てくる。このポイントのひとつが受水走水となって、かつては水田が発達したのである。)

 

(現在では儀礼的に田植え行事を行っているだけである。しかし、本島北部の名護周辺では水田の二期作も行われている。)

 

 この水を受けた小さな2枚の水田が神田として耕作されている。上段にある百名安里の水田は30uほどであろうか。この田の水を受けて、一段下に仲村渠(なかんだかり)(うぇー)()と呼ばれる90uほどの大きさの水田で構成されている。現在、田植えの儀式は旧暦初午の日に行われているが、この地域では水田は姿を消して豊作祈願とはいかないであろう。

 

 琉球王府の史料には、久高島に漂いついた壷の中に稲種がなかったので、アマミチュは天の神に祈願したあとで、ニライ・カナイから稲種を取って来るよう鷲に命じた。そして、鷲は三百日かかって三穂の稲をもたらし、それは始めてウキミズ・ハリミズに播かれた。その場所は()(ふー)()とも呼ばれる、受水走水の神田をさしている。

 

 

 『写真集 懐かしき沖縄』には、聖地の受水走水から受けた水田が、防潮林まで耕作されている風景が記録されている。70年前の風景である。

 

 沖縄本島の北部に位置する、名護市汀間にも三穂田と呼ばれる水田があり、ここでは海の彼方の国から鳥が稲穂を運んできたと伝えられている。

 

 

 では、考古学の分野では沖縄の稲作の始まりはどのように考えているのであろう。

高宮広土は最近、フローテーションという方法を用いて、遺跡を発掘した土から植物の種や炭化物などを回収し、分析して多くの成果を収めている。

 

 沖縄ではこの技術を用いることにより、農耕の始まりが8~10世紀のいわゆるグスク時代であろうとした。そして、本島中・南部では主として麦類、粟などの雑穀を栽培する農耕であり、本島北部から奄美地方は稲作農耕が卓越していたと推定した。

 

 地理学的には、北部は山が卓越する地形で河川も発達しているところから、水田を営む自然的条件は整っているといえる。これに対して中・南部は山がなく、したがって、際立って河川が少ない状況にある。考古学の成果や地理的な条件を勘案すると、本島南部のかっての水田風景は、案外特殊な景観を見ていたのである。

 

9.もう一つの王陵―天山陵

 首里城から綾門(あやじょう)大道(うふみち)を降ってくると、ほどなく左手に石垣と深い樹木に囲まれた一画がある。(たま)(うどぅん)はいつも、首里城の喧騒はなく静謐に包まれている。琉球第二尚王朝時代の1501年に造営された王陵である。南に開いた第一門を入ると、そこはサンゴ砂が一面に敷かれ聖域に入ったことを暗示している。ここには、玉陵の石碑((たま)御殿(おとん)碑文(ひもん))がひっそりと立つだけで、あとは広大な空間となっている。中門をくぐるとそこはウルとよばれる広大なサンゴ礫を敷いた庭となる。そして、琉球石灰岩の崖面を穿って墓室とした、巨大な建築物が深く澄んだ空間いっぱいにひろがっている。

 

 眼前に焼きつくのは圧倒的な力強さの建築物であり、これが王陵であることを明示させるものは皆無である。玉陵は板葺きであった時代の宮殿の外観を写し取っているからである。三ヶ所の墓室入口もかっては漆喰で一面に塗り込められいたという。

 

(石棺の台座で中国福建省産の石を使用している。背後が墓室部分で破壊が進んでいる。)

 

(彫刻の細部。ハスの花が深い彫りで表現されている。浦添ようどれの石棺文様に共通するが、天山墓が古式であろう。)

 

 玉御殿の碑文は、尚真王とその家族が葬られていることを示す人物名を記し、下段には「この御すゑハ千年万年にいたるまて このところにおさまるへし もしのちにあらそふ人あらはこのすミ見るへし このかきつけそむく人あらハ てんにあをき ちにふしてたたるへし 大明弘治十四年九月大吉日」と刻み、平易なひらがな文体の碑文であるが、もし尚真王家の家系に重大な異議が起こり、碑文の趣旨にそむくようなことになれば、呪詛がかれられ天罰が下るであろうと警告するのである。

 

 県立博物館の横から降って、玉陵のある丘陵の谷を隔てたところには、玉陵より古い王陵がある。民家の一画にあるため尋ねる人はほとんどいない。最近立てられた石碑には「天山御墓」とあり、東恩納寛惇『南島風土記』は、第一尚氏王朝を樹立した尚巴志を葬る墓であろうという。尚巴志は1439年に死去している。

 

 最近この墓に対して緊急の発掘調査が行われたが、石室は半洞窟の内部を切石により積み上げて墓室としていたようで、玉陵の内部構造に共通する。

 

 いつのころからか、墓室の外側には見事な彫刻が施された石棺の台座のみが残っている。

石棺台座は縦約166cm,横約86cm,幅約50cmの大きさで、通称青石と呼ばれる中国福建省産の輝緑岩製である。側面は蓮、椿、牡丹などの植物と獅子、馬、鹿などの動物、鶴、亀が力強いタッチで浮き彫刻が施され、第一級の文化財としての価値が認められる。

 

 なお写真2で示した蓮の花は、浦添ようどれ石棺Dの台座にも、共通するモチーフのものが見受けられるが、天山墓のものは彫が深く古形を示している。

 

 尚巴志は中国への進貢を活発に行い、国内的には琉球の三山統一により政治権力としてもまた、首里城の築城など国力が最も充実した王であった。このことからすると、中国舶来の石棺に眠っていたことは故なきことなのである。

 

 現在この墓を守る家は、琉球王家の王子に繋がる家系であり、ここは遠く過ぎ去った歴史ではないのである。

 

10.浦添ようどれの擯榔樹(びんろうじゅ)

 浦添グスクの入口を東の断崖に向かって降ると浦添ようどれの道となる。琉球がいまだ三山鼎立の状況にあったとき、中山王として統一に向かう渦中にあった英祖王が造営した王陵である。英祖は崇元寺の神主(位牌)によると宋紹定2(1229)に生まれ元徳3(1299)8月5日に死去している。

 

 ようどれは「夕凪」を意味し、この断崖からは久高島が遠望され昇る太陽を一望することができる。しかし、ただ昇る太陽と言うことではなく、古琉球の思想は東方にニライカナイの楽土があり、そこにはてだが穴という太陽が生まれる場所があると信じていた。この王陵は復活するための休息の場でもあった。

 

(浦添ようどれを描いた絵図。墓室の背後に擯榔樹が中央にひと際強調して描かれている。ここを聖域とする象徴であるとする観念が読み取れる。)

 

 英祖は琉球の正史では、母親は日輪が懐中に飛び込む夢を見て妊娠し、生れる時は瑞光が満ち、良い香りが産室に漂ったという。こうして生まれたのが英祖である。英祖が太陽子(てだこ)と称される所以である。

 

 戦前のようどれは(くら)しん御門(うじょう)という、断崖にできた大きな亀裂を第1門として王墓がある一番庭(いちばんなー)への導入とした。安里 進は、斎場(せーふぁー)御嶽(うたき)三庫(さんぐー)()にある大岩がもたれかかってできた自然の洞門に擬しているという。

 

 浦添グスク・ようどれ館に展示されている写真が興味深い。これは琉球時代(江戸時代相当)とされるようどれ絵図であり、ようどれと背後の景観を見事に伝えている。

 

 まず、戦前まであった暗しん御門が右手に描かれ、二番庭と一番庭にはいるアーチ門(なーか御門)があいている。一番庭は高い石垣がめぐり、断崖を背にして東西2室の墓の入口が描かれている。東は尚寧王、西は英祖王の墓室でいかにも王陵のたたずまいらしく静寂な空間を構成している。背後は切り立った岩の重畳としている様子が窺えるが、その中にあって擯榔樹がひときわ葉を繁らせて描かれている。沖縄ではクバであり神の依代として知られる樹である。柳田國男は「山北今帰仁(なきじん)のコバウの嶽は、ことに神山でありました。昔君真物の出現せんとする時には謝名のアフリノハナ(天降神)に赤日傘が立てば、この御嶽には黄なる日傘が、かなたに黄色なるものが立てば、この御嶽には赤いのがたったと伝えております。その日傘というものは、紙のない時代には、必ずまたコバの葉であったろうと思われます。」

 

 ここに描かれている擯榔樹は聖域のシンボルとして植えられていたのである。

 最近開館をみた浦添グスク・ようどれ館には、英祖王の西室の内部が復元され、中国泉州産の石厨子など3つの石棺が展示されている。石厨子にはみごとな仏像や仏花、獅子などのレリーフが施され、沖縄に現存する最古の仏像彫刻の一つといわれている。

   

 11.王陵を守る獅子

 沖縄の風景の一つは、澄み切った青空をバックに赤瓦の上に鎮座するシーサーであろう。シーサーは獅子で門柱にもよく飾られている。屋根に上ったのは明治以降といわれ、それ以前は集落の入口などに置かれた。現在でも集落のシンボルとして、あるいは守り神として親しまれている石獅子は多い。八重瀬町富盛の石の大獅子は300年ほど前の最も古いひとつであるが、これより以前、富盛村はたびたび火災に見舞われていた。風水師に占わせたところ「八重瀬岳に向けて獅子像を置けば火災はなくなる。」と教えられた。火の山と恐れられていた八重瀬岳を向いて立てたところそれ以来、火事は起こらなくなったという。

 

 家の屋根に置かれたシーサーも火災除けとしての効用に期待されたことから発しているのであろう。

 

 ところで、もっと古くから王陵を守る霊獣として石獅子は珍重されたのである。

 

(玉陵に立つ石獅子で墓域を守護する。この獅子は左端にあり自然の岩盤上にある。)

 

 浦添ようどれ東室(尚寧王)の入口左右には、袖石積みとよばれる高さ3mほどの方形台が漆喰壁にくっつくようにある。向かって左側の袖石積みの上には一つの石獅子が置かれている。本来は右側も含めて一対の形であるが、沖縄戦により失われた。

 

 石獅子を観察するには少し遠いが、蹲踞姿勢を保ち、身体はやや左側に傾けるポーズをとり、首には大きな鈴をつけて、口にくわえた紐を左足で踏みつけている。得意なポーズであるのか、大きく開かれた鼻口が印象的である。足元にはボールを転がしまさに遊んでいる真最中といったところである。

 

 この獅子にもまして特異なポーズをとるのが、(たま)(うどぅん)にある石獅子である。

 

(右端にあり紐をくわえて、足元には玉が転がる。)

 

 玉陵は外観を切妻屋根形として、東室、中室、西室の三棟が連なっている。石獅子はそれぞれ、東室の端、自然の岩が盛りあがった頂上と、中央の円塔の上、西室の端の三ヶ所に配置されている。

 

 左右の獅子はいずれも立ったポーズをとり、中央の獅子は蹲踞の姿勢である。東の獅子は舌を出して、胸に抱いた子獅子を愛撫しているとされ、西端の獅子は玉紐を口にくわえて、足元のおおきな玉で遊ぶ姿である。玉にはなにやら彫刻が施されている。獅子といった異形ではなく、穏やかな容貌をかもし出している。

 

 これらの王陵に立つ獅子は、外から侵入する悪霊から王やその家族たちを守護し、安寧のうちに黄泉の国で暮らせることを保障しようとした。

 

 しかし、庶民の墓にこのような思想が取り入れられることはなかった。村に残る石獅子やシーサーにみる庶民信仰との間には断絶があるようだ。

 

 

 多良間島

 1.ポーグ(フクギ林)で守られる島

 多良間島の島建ての話に「ブナゼーの神様が鎮座されたのはごく昔。()ブナゼーの神様、ビキイとはウイネー丘まで来る途中に、津波が上がって来て流し込んだらしいので、このブナゼーの兄妹二人は、「あれ、あれ」と慌てながらからづかみをして、手に当るをつかんでおられるうちには、津波はもう干いて、やっと二人生き残って、()ついに夫婦になって兄妹二人で多良間島を建てられて、血が近いので始めはシャコ貝、次は苧糸を産んで、後から蛇とか、トカゲとかいうような動物などを産んで、その後から人間をお産みになったそうです。」(話者:饒平名泰仁)

 

 ブナゼー兄妹は集落北西の丘陵地にブナジェーウガム゜に祀られている。ちなみに多良間方言で文字に置き換えるとよく「ム゜」のように「゜」印がつけられる。巻き舌のように発音される独特のものである。

 

 宮古・八重山には津波により、ようやく生き残った兄妹が島を再建した話はたくさんある。この話もその類話のひとつで、多良間島の創生神話として語り継がれている。

 

 ところで、多良間島を飛行機で上空から眺めると島の平坦なことに驚く。前泊港がある北から西側にかけて丘陵が広がるのみで山はない。

 

集落は北に偏して方形区画の屋敷が規則正しく並んでいる。集落内の道は民俗方位で東西南北に通り、南、東と西の一部には集落を限るポーグ(抱護林)がまさに、ムラを守るように息づいている。

 

(ポーグ(抱護林)を東に向かって見ている。10m以上の高木の照葉樹で構成している。外から侵入する外敵や大風から村を守る大切な樹林である。かっては沖縄各地の村でポーグが植えられていたという。)

 

ポーグは琉球王府の政策により植樹され、本来は集落全体を包囲していたようであるが、現在は総延長約1.8kmが残っている。ポーグ沿いの道を自転車で行くと半時間ほどの距離であろうか。主としてフクギを横2列に仕立て、このほかテリハボク、モクタチバナ、イヌマキ、アカテツ、タブノキ、リュウキュウコクタンなど常緑の高木が一列をなすさまは圧巻である。

 

 ポーグの中はムラウチ、あるいはヤスクと呼び、ポーグの外はムラフカと呼んで村人は厳然たる区別をつける。島の人々の世界観はポーグをもって境としているのである。ポーグの外は人家はなく畑と牧場が広がるのみである。夜ともなると妖怪あるいは恐ろしい魔物の世界となることを認識していると言う。

 

 墓地は北西の丘陵地帯にあるが、ここも恐ろしいところであり滅多には近づいてはならないとされる。また、墓地に通ずる前泊道の一画に大きな自然石があり、ガジュマルの根が絡みついている。この石をトンバラ石、またはフダイシ石と呼んで、死者が後生に飛び込むときの踏み石であるといい、死者が黄泉国への入国手続きをとる場所であるという。

 

 いずれにしても、この自然石のある地点は、集落と他界との境界地点として強く観念されていることを確認できた調査旅行であった。

 

2.ピィディリとウスビラ、ヒーラ

ピィディリは発火具であり、ウスビラは穂摘み具、ヒーラは除草具である。これらは多良間村ふるさと民俗学習館に展示されている。

 

ピィディリ 展示品は火切杵の部分で臼はセットにはなっていない。杵とおもりには個人名が書かれている。全体に黒ずんで手に馴染んでいたことが窺われる。下端近くに石製の紡垂車状のおもりがついている。紐はこれについていたものかは判らない。

 

(木製の火切杵である。錐に所有者の名前が書き込まれている。)

 

 山田仁史によると、発火錐のシンボルは、最初の火は女の体内にあったといい、イザナミは自分の体内にいた火の神カグツチを産んだ時、女陰を焼かれて死んでしまう。高木敏雄のいう、火きり臼が焼けてしまうさまを表現していると言う。

 

 回転摩擦による発火法は、@単に手のひらで火きり杵を動かす揉錐、A紐で動かす紐錐、B弓を使う弓錐、C舞錐ではずみ車付きの錐などがある。多良間の展示品はAの方法による発火具である。

 

 昭和初期ごろまで使用されていたという説明であり、考古遺物の中でしか扱わなかった者にしてみれば、このような現実に少しの違和感を覚えた。

 

 ウスビラ ウスは牛のことであり、肩甲骨でつくった脱穀具である。主にキビの穂をそぎ落とすのに用いたという。乳白色で上端部にはU字形の窪みがつき、ここに穂を入れてしごくと籾が取れるのである。同館には4点保管されているとのことで、これも火切杵と同様に昭和初期ごろまで日常用具の一つとして活躍していた。

 

(上部U字形に窪む部分キビの穂を入れてしごくのであろう。窪みの周辺には擦過した痕跡がみられた。)

 

ヒーラ(フィーラ、フィラ、ピラ) 私の生家は農家であり、沖縄に来て民俗展示にみる農具は予想外のものばかりであった。そのひとつがヒーラである。これは沖縄全土で今でも手軽に使われている、土起こし具であり、除草具にもなるいはば沖縄の農家にとっては手に馴染んだものだ。片手で使うからせいぜい30~40cmであり、V字形の木製の握りと、土掘り部分は鉄板が木部に取り付けられている。

 

ヒーラを使う男の人。今夏は雨が少なく草が固いといっていた。)

 

 この農具の最大の特徴はその使用方法にあり、自分の体の手前から向こうへ押して使うことにある。このような体の動きの農作業はほとんど見かけない。本土では土起こしは鍬、草刈は鎌を使うが、使用には向こうから手前にかけて寄せてくる。これは土であろうが、草であろうが同じである。

 

 上江州 均はヒーラの分布について、北はトカラ列島口之島から沖縄与那国島まであり、九州島にはないとする。下野敏見も同様の見解であり、この農具は南西諸島特有の農具であるといえよう。ところが、下野は福岡県東町遺跡の弥生時代中期ごろの石斧柄頭という石製品と木製握り部を見て、沖縄にある押出式のヘラであると指摘した。握り部の形状は確かに押し出しを想定した形状である。

 

 上記の3点は生活の場の周辺にある素材を利用するという点では、このほかにも幾つか見ることができるが、発掘品としてみていたものに共通するところがあり、しかもこれらがつい最近まで使用されていた民俗資料であるというところが殊に興味深い。

 

 3.家の中を通る神様、畑の神様―ミーマタブー

 垣花昇一さんは、多良間村には屋敷の中に神様が通る道をもつ家があり、そこの家では神道に邪魔をする塀などは間を空けていると話してくれた。この興味深い話は赤嶺政信が報告していたが、多良間村のことではなかったように記憶していた。

 

 一つの家に案内を乞い観察を試みた。この家(A)では屋敷内に神様を祀るほこらはなく、神様は畑一枚をはさんだ次の屋敷の外にほこらがあった。沖縄でよく見るようなコンクリート製の小さな家形である。そして、祀られているほこらの方向が直接、道路を向いておれば何ら問題は起こらなかったのであろうが、たまたまA家を向いていたために、道路へ出るところに当る部分を、コンクリート塀の2ヶ所に1mほどの幅に開けられていた。つまりこれが神道ということになる。

 

(サトウキビ畑の中央に挿されたミータマブーである。周囲はまだ植えられたばかりであることが判る。)

 

 翌日もう一軒あるというので、この家(B)も見せてもらった。ここでは屋敷内の北東隅を樹木で囲う一画があり、ここにほこらが祀られていた。この神様はB家の先祖ではなく、村に漂着した人を気の毒に思った家人がここに祀ったとのことである。ほこらから隣家との壁づたいに、幅1mほどがきれいにされ、その先の道に出る部分でコンクリート製の塀が開けられていた。

 

 以上の2軒が神道にかかわる屋敷のあり方である。赤嶺政信が報告している久米島では、屋敷の中に3ヶ所の出入り口があり、日常は南西側を使い、南、東側は神行事と正月、盆に使用されるという。6月神行事に神女が外に出るところを写真に載せている。また、波照間島の事例は、日常の南門とは別に、東と西に各々石垣が途切れて門が開いている。東は道路に面し、西側の門は隣の屋敷に繋がっているという。ここでもウタキの神が通る神道と認識されているという。

 

 神様の姿を直接見ることはないが、こうして屋敷の一部を割いて神様の役に立てることが日常的に行われている島でもある。

 

 ミーマタブー これを目撃したのは、普天間港からの帰り道のことである。植えられたばかりのサトウキビ畑を見ると、畑の真中に枯れたススキのようなものが立てられていた。近寄ってみると三本の脚()で立てられ、頭は丸く輪をつくるように結ばれていた。近くにいた男性に聞くと、植え付けのときに害虫を防いでよく実ってくれるように祈って畑に挿すのだという。これの名前は聞き出せなかったが、多良間では普通にやっているとのこと。その気になって植えつけられたばかりの畑を見ると幾つか残っていた。

 

 ミーマタブーのミーマタは、三又である。ブーは不明。今回目撃したミーマタブーはススキではなくサトウキビの葉を使っていた。

 ススキの葉を魔除けに使うのは、沖縄のみならず日本各地に広範囲に見られる。沖縄での名称もゲーン、サンなどあり多様な使われ方をしている。家の門や四隅、屋根の軒端に挿したり、畑の隅に挿すこともある。また、食物をと戸外へ運ぶ時や、神酒を入れたふたにもススキが置かれた。これらは魔除けであったりするが、時には自己の所有物にもススキを挿した。ススキをめぐる民俗は奥が深いのである。

 

 4.N・ネフスキー 月と不死

 あるCMに月の明かりもいいが、都会のネオンの明かりも輝いていいものだ。というのがあった。都会の明かりにどんな物語があったのだろう。

 

 ロシアから来た民俗学者で言語学者のニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキー(N・ネフスキー)は、大正12年に多良間島と宮古島で月の物語を採話していた。

 

N・ネフスキーの石碑。ネフスキーは柳田國男に師事して民俗学研究を志し沖縄にやってきた。宮古・多良間旅行では、月にまつわる伝承話を採集して学史にその名を刻むこととなった。)

 

多良間島 徳山清定さんの話

「太古、妻―月の光は、夫―日の光よりはるかに強く明るいものであった。ところが夫が羨望のあまり、夜歩むものにはこのような目をくらます光は不必要だという口実で、少し光を自分に譲るよう、たびたび月に願ってみた。しかし妻は夫の願いを聞き入れなかった。そこで夫は妻が外出する機会をつかんで、急に後ろから忍び寄り、地上に突き落とした。

 月は盛装を凝らしていたが、ちょうど、泥の中に落ちたので、全身汚れてしまった。この時、水の入った二つの桶を天秤棒につけて、一人の農夫が通りかかった。泥の中でしきりにもがいている月の姿を見て、農夫はそうそう手を貸してどろから出してやり、桶の水できれいに洗った。それから、月は再び蒼穹へ上がって、世界を照らそうとしたが、この時から明るい輝ける月の光を失ってしまった。月は謝礼として農夫を招き、この招かれた農夫はいままで留まっていて、満月の夜、この農夫が二つの桶を天秤棒につけて運ぶ姿がはっきり見とれる。」

 

多良間村史』に掲載された話

 

「昔、天の神様が、若返りの水をもって行って、人間に浴びせるようにしなさいと、ゲーントゥを使いに出された。ゲーントゥはその水をもって人間のいるところへ行く途中、畑のあぜにタギスを見つけた。ゲーントゥはそのタギスが食べたくなって、地上に降りてしまった。あぜに大切な水を置いて、タギスを食べている間に、ポウやバカギサがやってきて、水を浴びてしまった。そのため、水は少なくなって、人間は手足の指先しかつけることができなかった。そして、ポウやバカギサは何度も脱皮することができるようになり、人間は爪ばかりが生え変わるだけになった。

 

 しかし、天の神様は人間を気の毒に思い、永久の生命でなくとも、多少若返るようにさせたいと考えた。そこで、節祭の前後、大空から若水を送るようになった。これをスツ水として浴びるのだという。

 

 タキス・・野イチゴ、ポウ・・蛇、バカギサ・・とかげである。これらはこの島では神聖な意味を持つという。

 

 再びネフスキーが採話した平良町(現宮古島市)慶世村恆任さんのアカリヤザガマの話(大正15年採話)

「これは昔々この大宮古、美しい宮古に始めて人間が住むようになったときのことだそうです。

 

 お月様、お天道様が真上に輝いていて、美しい心の持ち主であったら、幾世変わらず人間の生まれつきの美しさを守り、長命の薬を与えようと思いになって節祭の新夜に、この大地へ下の島へアカリヤザガマを御使いとしてお遣わしになったそうです。アカリヤザガマが何を持って降りてきたかというと、二つの桶を重そうに担いできたそうです。

 

 そして、その一つには変若水、今一つには死水を入れてきました。

お月様お天道様の言いつけは「人間に変若水を浴びせて世が幾度変わってもいつも、生き替わる事と長命をもたせよ。蛇には死水を浴びせよ」という事であったそうです。けれども天から長い旅をして降りてきたアカリヤザガマが非常に疲れ、草臥れて脚脛を休ませようと思って担いで来たその桶を、道に下ろし路端で小便をしていたところ、その隙にどこからともなく一匹の大蛇が現れて来て、まあなんということでしょう、見れば人間に浴びせる変若水をジャブジャブ浴びてしまっていたのであります。アカリヤザガマの驚きはたとえようもありませんでした。

 

「おやおやこれはまあ、どうしよう、まさか蛇の浴び残りの水を人間に浴びせるというわけには行かないし、どうしたらいいんだろう、こうなったらしかたがないから、死水でも人間に浴びせることにしようか」と思って泣き泣き死水を人間に浴びせたそうです。

 

 アカリヤガザマが非常に心配しながら、天へのぼり、上へのぼって行って委細のことを申し上げると、お天道様は大変お怒りになって「長命や生まれ替わりの美しさを守ろうと思っていたが、お前のために破られ、みんな私の心づくしが無駄になってしまった。お前の人間に対する罪はいくら払っても払い切れないほどのものであるから、人間のある限り、宮古の青々としている限り、その桶を担いで永久に立っておれ」ていって体刑をお加えになりました。それがためアカリヤザガマが今もなおお月様の中にいて桶を担いで立ちはだかって罰せられているとさ。」(N・ネフスキー『月と不死』より)

 

 多良間島は海上に浮かぶクレープのようにどこまでも平たく、集落はポーグとよばれるフクギ林に包まれている。夜空を輝かすネオンの光もなく、ネフスキーがこの島を訪れた時のように静寂の中、月の光に全身が包まれるようである。しかし、大正時代に島民が語った、ゲーントゥやアカリヤザガマの話を聞くことはなかった。 


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©Takeshi Izumi
 2006/12
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