第9回

1.フーフダ(沖縄の呪符)
 沖縄のフーフダは山里純一さんが研究を尽くしている。ここにその現物を入手したので紹介する。フーフダは主に家庭の内・外で使われ、神様が宿っていると考えるところに紙製、木製のものが貼付される。このうち、紙製の札はひろく日本でも使用されるが、木製の札は見られないようだ。ただ、考古資料では古代から近世まで出土することから、かつては奈良時代から続く習俗であった。

沖縄では本島や宮古、石垣島の寺社でフーフダが広く配布されている。ここの特色は紙製のものに加えて木製の札が使用されていることである。木製のフーフダは主として屋敷の門と四隅に立てられる。以下、神社では普天満宮のものと、寺院では首里観音が配布しているフーフダを紹介する。

 1.普天満宮(宜野湾市普天間)の木札 普天満宮
 6枚でセットで杉板を使用している。上端は圭頭形に加工して下端は尖らせる。全長は30cm,幅5.1cm,厚さ6mmである。表面は墨書と朱書である。現在配布されているものはすべて印刷によるものであるという。

 6枚のうち2枚は門用、4枚は屋敷の四隅用である。このため、門用と屋敷の四隅用はそれぞれ同じ文面である。
 門用
       豊磐牕神   八衢比女神
   < 奉祝辞 (朱印) 吐普加身依美多女 普天満宮守護 >
       久那戸神  櫛磐牕神
(朱印部は普天満宮印)

 屋敷の四隅用
       祓比給布   
   < 奉祝辞 (朱印) 寒言神尊利根陀見 普天満宮守護 >
       清米玉布
(朱印部は子、卯、午、酉印)

 門用の主文は盗難除けで、その下は「とふかみえみため」と音読される。主文右は道饗祭の神、左は門戸の神・盗難の神であるという。

 屋敷の四隅用の主文は「かんごしんそんりこんだけん」と読まれる。3種祓のひとつであるという。左右はそれぞれ「祓い賜う」「清め賜う」である。

 2.首里観音院(臨済宗 慈眼院 那覇市首里寒川町)

 写真に示した資料でフーフダと称している。ここも門用2枚と屋敷四隅用4枚でセットである。木札の形態は上端を台形状にして、下端は尖らせている。杉板を使用している。長さは25cm,幅3.5cm,厚みは5mmである。主文のみで墨書の上に寺院の朱印を押印している。これも印刷物である。

 


首里観音院のフーフダ


 門用
   < 門釘桃符急急如律令 >       (始めの急は口偏である)
   < 魁勺 行畢甫票尊帝 >       (尊帝以外すべて鬼偏の漢字を当てる)

 読みは1枚は「もんていとうふきゅうきゅうにょりつりょう」と「かいしゃくかんこうひつほひょうそんてい」と音読する。
 前者の出典は明らかでないとするが、門に桃符を打ちつければすぐかなうという呪句である。後者は道教経典から引用される北斗七星の末文であるという。

 屋敷四隅用
 <東方持国天王 >  <西方廣目天王>  <南方増長天王>  <北方多聞天王>

 屋敷の四隅に用いられる札には、東西南北の四天王の名が記されている。

 このフーフダが沖縄で使われ始めたのは、山里氏によると明治20年代にはなく大正期に入ってから普及し始めたと考えている。そこには寺院の布教活動の手段として、また経済的な収入も当て込んだものであるとされた。また、普天満宮などは戦後のこととされている。そして、現在では神社では2社、寺院では22ヶ所で発行している。

 沖縄での信仰は依然として祖先崇拝が強い。もちろん家の中には仏壇もあり、床の間には神がいると観念されている。お葬式では仏式が普及し始めている。しかし、これらはまだ形式的であって、神社や寺院の教えが日常生活まで律し始めたとはいえないだろう。ところがフーフダだけが異常な普及ぶりである。フーフダを受容する根底には、伝統的に屋敷や家を外からの侵入してくる魔物から守ろうとする観念に裏打ちされて、その一つの手段が加わっただけに過ぎないという側面があろう。

 沖縄の屋敷は、石垣や垣根で囲うことが原則である。つまり閉ざされた空間づくりが基本となる。南に面した門のみが外に向かって開口するが、そこにはヒンプンという障壁が立てられる。屋根の上にはシーサーがおかれ侵入者を見張っているのである。

 また、大正14年に刊行された佐喜真興英『シマの話』には、大正4年ごろから収集された呪符、呪言が掲載されている。その中には「急々如律令」の文言が末尾につく呪符もいくつか掲載され、これは家の門戸に張るように指示されている。これらは江戸時代の木版本として流布していた『呪詛重宝記』の内容に類似する。

 フーフダが流行する以前には、佐喜真が報告したような呪符、呪言が広くおこなわれていたこともフーフダを容易に受容した背景として考えられよう。


2.ミャークヅツ見学記(池間島)
 池間島に通いだして5回目、ようやくオハルズ御嶽へ参拝する日がやってきた。この沖縄学事始では「聖地ナナムイをめぐる」という報告で、野口武徳さんが描かれた御嶽内の図面を転載した。このウタキ内には145個の香炉を載せた船形がある。これを実際に見たかったのである。しかし普段の日は入域を禁止している聖域である。ただ唯一、ミヤークヅツの3日間に限って参拝ができる。今年は10月21日から23日に祭りが行われたのである。10月22日の午後に池間島の離島総合センターで伊良波盛男さんと待ち合わせた。池間集落とは反対側−漁港に面したところにある。そして、今年のミヤークヅツの開催に合せて、センターでは野口武徳さんが1961年にこの島で調査したときの写真展が開催されていた。たかだか半世紀にもならない前の池間島の風景と島人の日常が映し出されていた。そして50年の時を過ぎれば、こんなにも変化するのかということも教えてくれる写真展であった。そのころはまだカツオ節が産業として成り立ち、ツカサンマたちによって祭祀が連綿として行われていたのである。

 離島総合センターを離れて、伊良波さんと徒歩で集落の中心である水浜に向かった。公民館前の広場は、この3日間は祭りの場として特別なエリアーになっているはずである。バリナウダキの切り通しを過ぎて集落に入っていくと、いつもにもまして人の通りが多い。当日は蒸し暑くて夏のような日差しがあったにもかかわらず、会う人は正装して華やいだ雰囲気に包まれていた。道行く人たちは互いにあいさつを交わしながらオハルズ御嶽へと行くのである。この3日間は島外で暮らしている人たちも多数帰ってきてこの祭りに参加するという。私たちもオハルズ御嶽をめざした。

 オハルズ御嶽への沿道には「航海安全・豊漁」などの上り旗が立てられている。大主神社の扁額がかかるコンクリートの大鳥居の前にきた。ここからが御嶽への参道である。参拝の人は皆ここで靴を脱ぎ裸足で参道を進むことになる。大鳥居からはウタキの森が深く、クバ、アコーの木、黒木、ヤラブ、ガジュマル、アダン、マーニなど鬱蒼と繁っている。参道深く進むと少し気温が下がっているのかヒンヤリとしている。すでに20人ほどが拝殿から並んでいた。

 正面にはこじんまりとしたコンクリート製の拝殿があり、その右手にはかつて神女たちがお籠もりをした建物がある。拝殿の左手には注目していた、白い砂を盛り上げて船形に作ったミヤーナカがある。そしてこの台の上には所狭しと香炉が置かれていた。ただこの時のミヤークヅツには神女が参加していないとのことで、所々に草が生え崩れているところもみられた。恐らくこの台には神女以外は上ることはできないのであろう。荒れたままであった。しかし、このような祭場をウタキの中に設けているのは、このオハルズ御嶽だけのようである。ここもいずれは遺跡と化してしまう。


1.オハルズ御嶽の香炉群

 ミヤークヅツとは、楽しむ月という意味らしく豊年祭であるという。男性が祭りの中心になり、しかも島を四分するムトゥという組織がその核となって信仰していくところに特徴がある。ムトゥの定義はここでは省くが、それぞれのムトゥには皆が集う建物があり、ここに55歳以上の男性が3日間詰めることになる。そして、年齢階梯により祭りの期間中の役割が決まっていて、またこの3日間すべての仕事は休止されるという。

 今回は伊良波さんの所属する前里ムトゥにおじゃました。そして「平成20年前里ムト名簿」という刷り物をいただいた。名簿には前里ムトゥに所属するすべての(55歳以上の男性)氏名と年齢などが書かれている。最高齢の方は93歳が2人である。以下293名と欄を別にして新会員(ウィイデウヤ)が12名の合計305名が前里ムトゥに所属していることになる。それにしてもすごい数ではないか。前里に在住している人は123名であるから2/3は島外の人ということになる。55歳で新入会員になった新人は、この祭りの準備から長老たちの接待まで含めて全てにわたって裏方を勤めていた。

 午後4時ごろになると、ムトゥ屋でくつろいでいた人たちは、水浜の広場へと繰り出した。広場の中心には旗が高く立ち、その頂きから四方に万国旗が張られていた。旗の根元には酒が入った甕が置かれている。これからクイチャー踊りが始まるという。ミヤークヅツのクライマックスである。広場は華やいだ雰囲気に包まれ、島の人々は円を描いて踊りの輪をつくっていた。
以上がミヤークヅツの概要である。この祭りの期間にはまた、色々な儀礼的な事が行われるがその一つに注目したい。それは55歳以上の男性が、島の内・外を問わず完璧に把握されているということと関係する。これがいわゆる沖縄のシマとよばれる社会関係の一端を表すものであるかもしれない。

2.クイチャーの踊り

ヤラビマス儀礼・・ヤラビは満1歳以下の幼児をさす。ここでは性別は問われない。去年のミヤークヅツから、今年のミヤークヅツまでに生まれた子どもをムトゥの神に報告するという事が行われる。実際にはムトゥで管理している帳簿に生年月日が登録されるのである。かつては2日目の未明に家族の者が、ムトゥドゥマイカー(元泊井)と呼ばれる特定の井戸から水を汲んでくる。この水はスディ水と呼ばれて、ヤラビマスに該当する幼児の体につけることもした。もしこの該当者が島外にいたなら、この井戸の水を送って同じようなことをやったという。スディ水とは、この水によって永遠の生命を与えられ健康に育つようにとの願いである。ヤラビマスによってムトゥの帳簿に登録されることにより、これが神への報告となってその守護すべきひとりとして認定するのであろう。また幼児にとってはこの儀礼を通過することにより、はじめて人間とされたことを意味するようである。

この帳簿は戸籍のようなものであり、したがって池間島に在住していようが島外で住んでいようが関係なく、この帳簿から毎年55歳の男性がピックアップされることになる。
さて、幼児期の帳簿付けが、池間島ではミヤークヅツが起点になっているが、このようなことは本島でも事例があるのでここに紹介したい。

東村は名護市と接する山原(やんばる)の地域の集落である。ここでは旧暦4月のアブシバレーという害虫を海に流す行事の日に合せてシマに入籍することが行われた。平良では「この日はハチウリー(初下り)と称して、前年のアブシバレー以降当日までに生まれた新生児を抱いて浜に降り、ニレーの神(ニライカナイの神)と初の対面をさせた。浜でニレーの神に対して、この子が生まれたのでよろしくお願いいたします。と今後の神の加護を祈り、神に誕生報告をして村落の一員として籍に入れるのである。」という。

現在は行政によって新生児を戸籍に入れることがきめられている。私たちの人生は一元的に国家が管理しているが、沖縄においてかつては集落ごとに新しく生まれた子どもを管理するシステムがあったのである。このことを池間島のミヤークヅツが教えてくれた。
 

3.東シナ海に浮かぶ島の正月−塩売りとお年玉−
 沖縄本島の西、東シナ海には北から粟国島、渡名喜島、久米島と慶良間諸島がありいずれも、本島那覇市の泊港からフェリーで2時間ほどの距離にある。

 このなかで、粟国島と渡名喜島、慶良間列島の阿嘉島の正月行事は興味ぶかい。いずれも旧暦の正月行事である。

 1.マースウヤー(塩売り)
粟国島と渡名喜島(現在は途絶えている)に伝わる塩売りとよばれる行事がある。粟国島を例にとれば、大晦日の夕方から夜にかけて各字の青年たちが数名塩を袋に入れて持ち歩き、屋敷の門前で「私たちは、谷茶、仲泊、次良、三良ですが、今夜はこの粟国に火ぬ神加那志が塩を上げますよ」というと、家の人は「谷茶、仲泊、次良、三良よ私だよ。こっちにきなさい」といって門に招き入れる。


1.マースウヤー

 座敷の前の戸はすべて開け放たれて、主婦が縁側のところで盆を手にして塩売りを待ち受けている。塩売りは縁側で「御塩売やびら。火ぬ神加那志に差し上げなさいよ」といって盆の上に塩を3か所に盛るのである。

 家の前では青年たちが塩売りの唱えごとを歌い、三味線を弾いて踊るのである。塩売りの唱えごとは、渡名喜島では(意訳)「御免ください、どうぞ家の戸を開けてくださいませんか。北の海から波の揺れている上を踊りながら富を持ってきたウフジヤーですよ」(沖民11号p.29)、また粟国島では、「(前略)これはここの子や孫たちを若返らせるお塩でございます。これはここのお爺さんおばあさんを若返らせるお塩でございます。これはここの火の神加那志を若返らせるお塩でございます」(『粟国島の民話』p.316)

2.玄関先での門付けの踊り

 これらの唱えごとには、塩は富をもたらし農作物が豊作になることを予祝するものとして認識されているようである。粟国島では原文では「若ますしでます御塩だやびる」とあり、しでは巣出で脱皮することである。つまり塩によってすべてが若返る、あるいは新しい生命を付与する呪力を持つ塩であると観念されているのであろう。

 しかし、マースウヤーとはどのような人なのか、あるいは神さまなのか説明されない。赤嶺政信さんは「粟国島の正月」『シマの見る夢』p.85では、塩売りのことを「世持大者、嘉例吉大者」と呼ばれていることに注目して、これは世持の神であり来訪神を象徴している表現であろうと考えている。

 塩を売り歩くという儀礼は、粟国島と渡名喜島での風景であるが、遠く西表島祖納(『沖縄民俗16号』p.41 1969)には、元旦の供え物のひとつに塩がある。塩はナンザマス、クガニマスといわれて、膳の上にお椀状に盛ったものという。それを年頭のあいさつに来る人に一箸ずつ与えた。それは「身を清めるという意味から生じたものである。」と報告されている。ナンザマスとは銀の塩、クガニマスは黄金の塩であり、これを来訪者に分け与える。言い換えれば世(ゆー)(豊穣)を配分するというめでたい行為であり、ここには前記した塩売りに通底する観念が窺える。塩によって身を清めるというのは誤解であろう。

 2.神のくる道-慶留(げる)間島(まじま)
 座間味村は人が住む座間味島、阿嘉島、慶留間島とそのほか大小の島々からなる。村史349項には慶留間島のこととして、正月の門前に点々とまかれた白い砂の風景写真を掲載し、ている。しかし、本文にはその説明はなく、どのような正月の行事が行われているのかわからない。というわけで、2008年の1月3日に慶留間島まで出かけた。

 慶留間島へはフェリーが発着する阿嘉島から徒歩か自転車ということになる。正月とは思えないような春の陽光を浴びながら20分ほどで慶留間島にはいった。東シナ海にある島は高くはないが山が嶺をつくって海岸まで山裾がせまっている。宮古・八重山の低平な島々を見慣れた目には感動的である。

 さて、集落に入っていくとさっそく道の両側に砂が点々とまかれ、その先は屋敷の中に入っていく風景を見ることができた。それほど大きな集落ではなく、大通りから路地が幾本も延びているが、その路地の両側にも見られた。港まで出ると数人の大人の方が釣りをしているのでこの砂の正体を聴くことにした。

3.道に点々と撒かれた砂

 @この砂のことはどのように言われているかは聞いていないが、31日に青年たちによって浜から砂を取ってきて道の両側にまいていくという。昔は道の中央にもまいていた。A1月元旦の早朝(5時ごろ)から、子どもたちが(昔は男子に限られていた)お年玉をもらいに各家を回って歩く。その時間帯であればまだ外は暗いため、道を歩くための目印しであるという。沖縄の民俗では、確かに正月の一番客は男であることがめでたいこととして尊ばれた。しかし、ここで少し疑問に思うのは、早朝5時というまだ暗いうちに家を回って歩くという行為である。

 前記した大晦日の夜の塩売りということと、お年玉をいたたきに歩くということは正反対のことであるが、行事としては大晦日から元旦の早朝にかけて行われることから、あるいは阿嘉島の行事は、本来は子どもと共に神様がくっついてきていたのではないかと想像できる。つまり集落の家々を回ることによって、正月を寿ぎその年の豊穣を祈願するということがあったのではないか。現在はただ子どもたちがお年玉をもらいに歩くだけということに変質してしまったのだろう。

 そして、この屋敷の入口までまかれた白砂は、神を招き入れるための目印とされていたのではないかと想像される。村史の写真のキャプションには、「新月の夜には神秘的に白く浮かび上がり道標ともなる。」と説明するだけである。誰のための道標なのかさらに追及が必要である。


4.石切りの海岸 ビーチロックに残された遺跡
 沖縄の島を形成している岩相は単純極まりない。サンゴ礁を起源とする石灰岩がほぼ独占している。輝く太陽の下にまぶしく光る浜は、サンゴ礁が死に絶えた粒でできている。そんな浜辺にビーチロックと呼ばれる岩がある。この岩は不思議なもので現在も生き物のように生成し成長しているといわれている。現にビーチロックの中にはコーラのビンが入っていることもある。この岩のもとになっている物質は、炭酸カルシウムであり海水中に溶け込んでいる成分である。どのような原因で岩となって行くのか、そのメカニズムは未知の部分が多いといわれる。しかし、岩の多くは波がくる汀線にありその厚さもせいぜい20センチぐらいだろう。

 岩石的な特徴は、岩の形成が大変若いこと。古くても4000〜6000前であり縄文時代の土器などが含んでいたりする。もちろん現在も海岸線で自然の営みとして作られている。また、現生サンゴの生息域に一致してビーチロックも分布しているという。このため、奄美大島以南の海岸で見られる岩石ということになる。

 さて、前置きはこれぐらいにするが、例えば本島読谷村の海岸や波照間島、粟国島(ここの石は凝灰岩である)では、大規模にこの岩を採取して生活の資源として活用していたのである。その跡が石切り場として残っていて見ることができる。考古学的には生産遺跡、あるいは産業遺跡と位置づけすることができよう。

 波照間島の石切り場 波照間港の東方、サコダ浜のイナマ崎からパナバリウダキの間

1.波照間島の石切り場

約300メートルが主たる石切り場になっていた。この浜の陸地側には墓地が広がり、かつてはこの墓の用材として使用されたという。写真1はビーチロックが波打ち際にあることがわかる。引き潮が大きい時はもっと海側に出て採取した跡が見られた。そしてこの写真のように、その採取の方法は、岩に溝を切って一枚板を連続的に剥がそうとした跡である。メモによると5枚分が連続して左右幅約1.3メートル、奥行き2.5メートル、厚さは32センチである。溝幅は約20センチ、深さは約17センチであった。写真の右側はこの連続する板石の下の岩である。この岩からも切断した跡がある。

 また、写真2は海岸線を少しはなれた岩からの採取跡の石切状況である。石きり跡が階段状に残っていて効率的に採取されたことがわかる。

さて、このビーチロックの石切り場がいつから操業していたのか。島の人たちに聞いたものの明確な答えは返ってこなかった。ただ、墓の石積みなどに使用していたが、戦前ごろまで続いていたのではないかという。石切を専業としてする人はいなかったという。

 読谷村の石切り場 観察できたのは主として残波岬の宇座集落の海岸から南へ2`の範囲である。『読谷村史』によるとビーチロックを切り出していたのは、大正時代から昭和19年ごろまで行われていたという。波照間島の石材が主として墓地に利用されたのに対して、読谷村では建築資材、石垣、畜舎、墓石など広範囲におよんでいた。このために石切を専業とする組合組織まであったことが記されている。

2.読谷村の石切り場

 石材として切り出す場所はイシアナ(石穴)と呼ばれ、海の潮が引き始めるとバンジョーガニ(番匠金)と呼ばれるかね尺をあてて、墨つぼで規格に合った幅や長さを印す。そしてユーチ(石切斧)で切り出したという。このほかに使用する道具は、イヤ−石に打ち込むクサビ。シチ−石に穴を開ける道具。チーシー−大ハンマー。チンチョー−きりだした石を挟むハサミなどがある。石材の流通は村内だけでなく、那覇、宜野湾、具志川、北谷あたりからも需要があって馬車で運搬したという。沖縄本島では最も大規模にビーチロックを利用し、一時期ではあったが産業として成り立っていた石切り場である。

 粟国島の石切り場 島の南西端は火成岩に起源をもつ白色の凝灰岩が厚く堆積して崖になっている。その高さは90mといわれて景勝地になっている。この凝灰岩を地元ではコーシチャーまたはコーヒチャーとよばれて、加工するには柔らかいためにビーチロックに代わる石材-トゥージ−として利用されたのである。現場はヤガシ海岸、あるいはヤヒジャ海岸といわれる、長さ600mほど続く海岸の石切り場である。ただ、ここの場合切り出した窪地というものがなく、真っ平な石の平面が続いているだけである。そのところどころに、クサビ跡やテーブル状の切り出しを途中で止めたものなどが散見できる。また、崖面から落ちた転石もある。このため海岸に露頭する石や転石が石材として利用されたことがわかる。また、600mも続く海岸線には、確認できただけでも5か所に岩を幅10mほど開削した水路が海に向かっている。これなどは当然、トゥージを船で運ぶ水路としても利用されたであろう。

3.粟国島の石切り場(白色は凝灰岩の崖)

 この凝灰岩の断崖は、また集落の墓地として利用されている。南海岸を集落から筆ん崎への道から上部の断崖には、この崖に横穴に掘られた墓が階段状に群集している。このため、すべての墓は南の海方向を眺めていることになり終の棲家としては理想的であろう。


5.マータンコー(津堅島)
 津堅島には毎年、決まった日に海からやってくる魔物−マータンコーが島の作物を食い荒らし、娘を生贄にするという伝承がある。そして伝承にまつわる年中行事が現在も行われている。行事の内容は今ではほとんど省略されているが、沖縄でもほかに事例をみない特異なものである。まず伝承を紹介する。

 「昔、津堅島では毎年10月になると、海からあがってくる、体がひとつに頭が7つもある蛇の魔物にご馳走を食べさせていた。しかし魔物はお腹がすくとすぐにやってきて、美しい娘までさらっていた。10月13日が近づくと、島のじいさんたちはトゥマイ浜に集まって話し合い、その年の生け贄にする娘を選んでいた。

 ある日、村じゅうの人が集まって、「このままでは食べ物も娘たちもいなくなって、村がつぶれてしまう。なんとかして魔物を退治しよう」と相談をした。「この島は芋が良くできるから芋酒を作って、魔物の頭の数とおなじ7つの樽に酒を入れておこう。樽の酒を飲ませて、酔っ払ったところを退治することにしよう」と皆で決めた。それから、たくさんの芋で酒を作り、7つの樽を作って浜に並べておいた。

 浜には大きな高い木があり、その枝は互いに交わり重なりあっていた。その木の上に娘を立たせて、7つの樽に娘の姿が映るようにした。やがて海から魔物があらわれ、樽の中の美しい娘の姿を見て、喜び勇んで頭を突っ込み、中の酒を全部飲み干してしまった。村人は酔っ払って倒れてしまった魔物を、包丁で頭からずたずたに切って退治した。それから、毎年11月14日にはマータンコーという行事を東の浜でやるようになった」

 この話は『かつれんの民話』離島篇に掲載されているが、いくつか類話が聴取されて津堅島では知れた話である。上記の話には異伝のある部分も少なくない。マータンコーと呼ばれた魔物の正体は、蛇のほかにうなぎという話しもある。そして生け贄を選んだ場所は、トゥマイ浜以外にもニンギ浜で籤を引いたともいう。また、マータンコーが退治されるのは、村人たちの知恵によっているが、このほかに御蔵里之子(うくらさとぅぬし)という島外者の教えによって退治したとも伝承している。

 この伝承話に接して、記紀神話のヤマタノオロチ神話を彷彿とさせるストーリーであるが、仲真次ハルさんが語ったマータンコーは、包丁で尾を切ったら包丁の刃が欠けて、そこから剣が出てきたと話している。しかし、丸山顕徳さんの見解では、この伝承話は八俣大蛇退治神話にはないモチーフを含み、直接記紀神話の影響を受けているとは考えられないといい、かえって日本神話の原風景として貴重な説話であり民俗であるという。

 この行事は2007、2008年の2回にわたって見ることができた。祭りは年中行事であっても神女がウタキで祈ることはなく、集落のほぼ中心と思われる交差点がひとつの祭りの場となっている。2007年にはここから東に向かって酒、花米、線香が供えられて、参加者全員(男性のみ)が祈った。その後、銅鑼を鳴らす人が先頭になって、旗2本を振りかざす人、酒甕2個を担ぐ人がそのあとに続いて、左回りに7回踊りながらにぎやかにその場を旋回した。そののち二手に分れた。一方はシナファンリー(西の浜−津堅港に続く浜)、他方はアギンリー(東の浜)の祭場に行くのであるが、この浜の名称はマータンコーでしか使わない名称であるという。シナファンリーは後ほど確認したが、その祭場はコンクリートが敷かれていて、酒をこぼす所作のみであったという。

1.集落内の祭祀場

 アギンリーはちょうど、西の墓地を通過して浜に通じる道の砂提にその祭場があった。この広場をアギンリーマータンコーマー(アギンリーのマータンコーの庭)という。小道の一画が広く草が刈られている。そして半径8〜10ほどが掘り窪められ、円弧に沿うように7か所さらに50センチほど窪められている。以前はここに7つの酒甕が据えられたというが、最近は1個の甕だけだという。これは、伝承で7個の酒甕を埋めた故事に倣っていることは容易に想像がつく。集落から到着した一行は、まず酒甕を中心に据えて7か所の窪地に酒少量と線香を供えて回り、その後にここでも左回りに7回甕を担いで、旗を振り踊りまわって終了した。浜まで道は続いているが、降りていくことはなく一行は公民館に帰った。

2.アギンリー・マータンコー・マーでの祭り

また、マータンコーマーには伝承話の中で生け贄の娘が木に登ったという、ヤナブの大木が枝を横に伸ばして繁っているのが印象的であった。

 マータンコーの伝承話と実際の行事をみると、幾つかの興味あることが隠されていることに気がつく。@海からやってくる魔物といえども、津堅島の周囲はイノーが取り囲んでいる。そこにクチ、あるいはアキミヨとよばれるサンゴ礁が切れて、浜に船を着けることができる地点がある。そこがまさに、マータンコーが海からやってくという浜のクチに一致している。つまりクチが開口している浜が魔物も上陸してくるという観念である。

A以前のマータンコーの祭りは、10月13日から11月14日にかけて1か月という長期にわたる祭りの期間であった。その期間中は毎日浜にご馳走を持って出かけて海に投げたのである。丸山さんによると、「食べなさい。こっちにくるなよ。津堅島にくるなよ。お前みたいなヤナムンはくるなよ」と言って投げたことを記している。ヤナムンとは悪魔、悪霊であって浮かばれない死霊でもあるという。それが大蛇やうなぎに化身して島に現れたのである。

 また、祭りの初日の10月13日には、島の南端近くのシヌグ堂で神女が祈願し、男たちは島に外から人が入らないように厳重に警戒をしたという。つまりこの祭りは、一月に及ぶ島ぐるみの物忌みの期間を意味しているということであり、この時期は何人からも島を閉ざすこと。物忌みの最後の日には、魔物に身を変えた死霊を退治して海に帰すことにより、ようやく島が開放されてその後の一年間の繁栄が祈願された祭りであった。

 しかし今は祭場で酒が注がれるだけで、海からきたマータンコーを殺す所作は失われていた。


6.沖縄水事情−タンク・トゥジ・キミズ
 沖縄の大地は本島、宮古・八重山を問わず、天から降った雨はスポンジに水が吸い込まれてしまうように地中に流れてしまう。このためサンゴ礁が隆起した島々の暮らしは、水を得ることからすべて始まり、一旦干ばつが長く続くとたちまち飲み水にさえ事欠いてしまうことになる。

沖縄の集落の風景に慣れてくると、家の屋根には必ず水を貯蔵するタンクが設置されているのに気づく。標準的な大きさで2トンの水を溜める能力があるというが、大家族であることが多い沖縄の家庭で、何日間このタンクの水で生活できるのであろうか。

 タンク・・写真1は久高島の屋敷内にあった、一時代前のセメント製の天水を溜めるタンクである。直径約1メートル、高さ2メートルほどの大きさで、水道が普及する以前のものである。2本がセットとして置かれていた。この形のタンクは本島、離島を問わずよく似たものが使われているが、現在ではほとんど使われていないという。屋根からの雨水を溜めるようになっているが、タンクの内部はがらんどうで、砂利や墨を層状に敷きつめて水を濾過するような装置はないようである。色々聞いていくうちに水道水よりも天水のほうが甘い水でおいしかったという。

1.久高島の水タンク

 トゥージ・・写真2は粟国島で発達した石製の貯水槽-トゥージである。粟国島は沖縄本島から西の東シナ海にある孤島(那覇から北西におよそ60キロメートル)であり、その大部分は琉球石灰岩を基盤とする島である。しかし、この島の西海岸には凝灰岩が露頭しているところがあり、トゥージはこの凝灰岩を切り出して加工した水槽である。トゥージに使う石切り場のことは前述した。

2.粟国島のトゥージ

 トゥージは使われなくなって久しい。すべての家に据えられている風景はない。上江洲さんは1980年の報告で102個を確認している。今回は半日足らずであったが10個以上を見ることができたので、まだまだ全滅しているというわけではない。
 トゥージは各家庭で1個というわけではなく、複数でセットになっていたようで4個あったということも聞くことができた。最大のものは浜にある、いり組同志会会館前の空屋敷におかれたもので、ここにはまだ3個セットという組み合わせである。大は直径1.35m、高さ85cmである。中は直径90cm、高さ70cm、深さ40cmである。小では直径80cm、高さ60cm、深さ35cmである。なおこの屋敷にはイケとよばれる長楕円で深さのない、扁平なものも据えられていた。これは一般的なものではなく裕福な家に置かれたものであるという。

 キミズ・・昭和33年に刊行された『日本民俗学大系』生活と民俗p.170には、沖縄宮古島の事例として写真3に示すような方法で甕に天水を受けるキミズと紹介している。同本の写真には、背景に茅葺きの屋根で網代壁の一時代前の民家があり、キミズは日常生活で使用されていたのである。ところで写真3は同じく宮古島砂川(うるか)にあるウイピャームトウと呼ばれる祭祀場の建物にあったものである。

3.宮古島のキミズ

 この建物は3棟が近くに点在しているが、ほぼ同じ構造で『平良市史』によると側壁は琉球石灰岩の石を積み、軒の高さが1,2〜1.3メートルと極端に低いつくりで、屋根は茅が葺かれている。小屋組みは2本柱構造で床面中央には簡単な地炉がある。北壁際にはイビを祀る石組みの祭壇を設けている。まことにシンプルなつくりの神屋といえる。

 キミズの装置はこの建物の正面左側にあった。一本の木にオオタニワタリの葉を巻きつけて、葉の茎を壷の口に垂らしているのである。このように祭祀場に設置されたキミズは、恐らく祭祀において使用される特別な水を採取するものとして残っているのであろう。

 沖縄の水事情にまつわって水の利用の形を見たが、現在の離島では本島から海底導水を受けているところ、深井戸を掘って水を得ている島、また海水淡水化装置を設置している島など多様である。しかし豊富な水資源の確保には程遠く、水不足の現実はいまだに解消されていない。




 


 

 

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©Takeshi Izumi
 2009/01
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