はじめに
ポピュラー音楽といわれる音楽は、今日、私たちの生活の一部としてとけ込んでいる。自宅で、外出先で、ステレオコンポやPC、カーステレオやケータイやiPodを通して、ラジオやテレビ、そしてショッピングモールやカフェの店内で、ライブハウスやクラブやフェスで、私たちは意識・無意識に様々な楽曲を聴いている。なかには心を揺さぶる唄があるだろう。気持ちが落ち着く曲もあるし、勇気が湧いてくる音楽も、身体が勝手に動いてしまうリズムも、涙が流れてしまうメロディーもある。もう一度聴き直そうと思わせる力強い音楽があり、嫌いなはずなのに耳にまとわりついてしまう曲がある。昔良く口ずさんだ曲であれば、その当時の自分の気持ちだけではなく、風景やにおいなどの細部をたちどころに思い出させるだろう。自分らしさとか仲間意識を確認するのにも音楽(や、それに関連する服や身ごなしや言葉遣いなど)は大切なはずだ。
でも、毎日何気なく聴いている音楽が、それを作る人からそれを聴く人の耳(や身体《ボディ》や魂《ソウル》)に至る経路について改めて考えてみると、だんだん不思議な感じがしてくるはずだ。
目の前にミュージシャンがいるわけでもないのに、どうして私たちは、デジタルデータとしての「音楽」にリアリティを感じ、またこれほどまで心動かされるのだろうか?
今から一五〇年前、人間は録音することが出来なかった。日本でいえばちょうど明治維新によって、近代国家への助走が始まった時代だ。フランスでは、オスマン・セーヌ県知事がパリ市街改造に邁進している時期である。その当時、音楽は、目の前で誰かが演奏しない限り、聴くことの出来ないものであった(もちろん自動ピアノや自動演奏機(オルゴール)の類いは存在したが)。今の私たちにとって、録音が出来ない世界というのを想像すること自体、難しいのではないか。
録音は、一八七七年にトーマス・エジソンが蓄音機(「フォノグラフ」という商品名だった)を発明したことで可能になった。しかしエジソン蓄音機は円盤ではなく円筒に音溝を刻む方式であったため、複製が難しかったうえ、音質も悪く音楽への利用に耐えるものではなかった(一八八八年にエジソン蓄音機で録音したヘンデルの『エジプトのイスラエル人』が残っているが、原音がほとんど判別出来ないような代物である)。簡単に大量複製が可能で、音楽利用に適した技術は、エミール・ベルリナーが一八八七年に発明した円盤式の蓄音機(「グラモフォン」)によりもたらされた。蓄音機メーカーは富裕層の応接間の調度品として蓄音機を売り出し、その販売を促進するための目玉として、人気オペラ歌手の唄を録音した。
蓄音機の普及が進み、今のようにレコード会社が音楽の流行をリードするようになるのは、一九二〇年代以降のことである。一九二〇年といえば九〇年前のことだ。平成二一年(西暦二〇〇九年)の日本人の平均寿命が女性八六・四歳、男性七九・六歳だから、それほど大昔のことではない。マイクロフォンが発明されたのも、ラジオ放送が開始されたのも、映画がサイレントからトーキーに変わったのも、この頃のことである(マイクロフォンが発明されるまでの録音は、機械式といって、高校野球の応援に使うメガホンを逆にしたようなラッパに向かって(大声で)吹き込んでいた)。
録音された音楽が、ラジオで流れ、あるいはトーキー映画の主題歌として流れるようになると(実際、初期のトーキー映画はミュージカルものが多かった)、そこからスターを生み出すことが出来るようになった。それまで、流行をつくるのはオペラ劇場やコンサートホールでの生演奏であり、レコード会社はすでに流行っている歌手の唄を録音して、いわばおこぼれを頂戴していたのである。録音された音楽は、演奏された音楽を後追いする二次的なものでしかなかったのであり、音楽の「リアル」はミュージシャンを目の前にした生演奏のほうにしかなかったのである。これが、次第に反転し、一九五〇〜六〇年代頃には当たり前のことになる。私たちにとって、レコードやCDに録音された音楽のほうが圧倒的に「リアル」であり、ライヴでお目当てのミュージシャンが録音と違う歌詞を歌ったり、違うアレンジで演奏したり、違うフレージングでソロを演奏したりすると、「あ、間違ってる」と素直に反応してしまうのである。
当時の音楽感と、今日の私たちの音楽感のあいだにはどのような違いがあるのか? その違いはなにに由来するのだろうか? 当時と今で、音楽のリアリティのあり方は、どのように違っているのだろうか? 私たちは、当時に比べ「良い」方向に向かっているのだろうか? 歴史がつねに過去から未来に向けて直線的に進むとは限らないし、全ての未来が過去の反省にもとづいて築かれているとは限らない。「昔は良かった」的な単純な話ではなく、ポピュラー音楽というもののあり方が捉えにくくなっている今こそ、歴史の見直しが重要になっていると思うのだ。
この本は、一般にポピュラー音楽と呼ばれているものについて、単純な好き嫌いに留まらず、もう少し踏み込んで理解してみたいという人に、ポピュラー音楽をより深く聴き込むためのいくつかの理論的視座を提供し、現在も進行している論争を紹介する目的で書かれた。音楽の歴史といっても、クラシック音楽の歴史のように、過去の名曲や偉大な作曲家の時代背景を紹介するわけではない。録音・再生技術に注目し、ポピュラー音楽といわれるものが、ミュージシャンとリスナーのあいだにどのようなコミュニケーションの経路を生成させ、また、そうしたコミュニケーションが、現在に至るまでに変形するプロセスを観察することで歴史を記述しようとする試みである。
この本で展開される議論は、もともと私が二〇〇九年から京都精華大学人文学部で担当しているポピュラー音楽に関する講義の準備ノートを下敷きにしている。ただし、書籍化にあたって大幅な見直しをした。半期一五回という大学の講義の制約を取り払ってゆったりとした章立てとしたほか、理論的な記述を具体例と組み合わせることで平易に理解出来るよう工夫した。文体も読みやすさを第一として、大学生、大学院生のみならず、アカデミックなポピュラー音楽研究に関心のある教育関係者や音楽産業関係者、そしてミュージシャンやリスナーにもわかりやすくなるよう工夫した。各章は、それだけでも独立して読めるように工夫したが、音楽史という性質上、時間軸にそった全体の流れがあることにも留意いただきたい。
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この本は七つの章で構成される。
序章では、ポピュラー音楽史という言葉を構成する、「歴史」、「音楽」、「ポピュラー」という三つの概念について既存の議論を俯瞰し、この本が果たすべき役割を明らかにする。そこでは、ポピュラー音楽の歴史が、名曲や名ミュージシャンを線で結ぶようなやり方ではなく、ミュージシャンとリスナーのあいだを結ぶ媒介ネットワークの変遷を記述する作業を通じて描かれるべきものであることが確認されるだろう。
第一章では、マリー・シェーファーの「音分裂症(スキゾフォニア)」という概念を手がかりに、一九世紀末に登場した音楽の録音・再生技術が私たちの生活に及ぼした影響について考える。また、パリ及び東京における蓄音機技術の導入及び普及の様子を追跡し、初期の録音・再生技術がどのような社会的意味を獲得し、どのような音楽の生産・消費をどのように媒介したのかを明らかにする。
第二章では、一九二〇年代に発明されたマイクロフォン技術と、それによって可能になった様々な新しいメディア(ラジオ放送・トーキー映画)の普及と、そうした新しいメディア技術に相反して出てきたジャンルであるジャズについて、これも日仏の動向に注目しつつ記述する。この頃はっきりとした輪郭を持ち始めた「大衆」という社会集団と、文化の大量複製技術の相関について、テオドール・アドルノとヴァルター・ベンヤミンの論考を対比させて考察する。
第三章では、マイクログルーブ技術やテレビ放送を始めとする一九五〇年代以降の技術に注目するとともに、この頃から顕著になった音楽産業の多国籍化とその帰結について、英米を中心とするロックのグローバル化と、日仏におけるそのローカル化の進展について注目する。グローバルとローカルの関係については、アンソニー・ギデンズの議論を使って説明する。また、ロックの真正性についての議論を進めるうえで、ピエール・ブルデューの《場》の理論を参照することになるだろう。
第四章では、一九七〇年代以降のポピュラー音楽の展開について、特にカセットテープや廉価な電子楽器の世界的な普及という点に注目して記述してゆく。これらの技術は、パンクやインディー、DIYなどのムーブメントにつながってゆくものだが、ここでは特に、ワールドミュージック及びヒップホップというジャンルについて、ローカル性とナショナリズムという観点から光を当ててみたい。
第五章が扱うのは、デジタル技術とインターネットが普及した一九九〇年代以降のポピュラー音楽である。七〇年代に萌芽したDIY的な方法論は、デジタル技術の普及とインターネット回線の高速化により、飛躍的な発展を遂げる。飛躍的に発展したのはデジタル技術を利用した楽曲の制作方法や音質だけではなく、作品を発表・流通させる数々のプラットフォームであり、新しい音楽消費のあり方である。音楽産業は再編を余儀なくされているが、それにはどのような可能性があるのか。
最後の第六章では、これまでの議論をまとめつつ、ポピュラー音楽の今後について考察する。次章でも触れるが、ポピュラー音楽の楽曲そのものに「ポピュラー」な力があるという思い込みをきちんと整理しつつ、これからのポピュラー音楽研究にとって重要となるであろう、いくつかの議論を紹介する。
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