第一章 脳を異化する

 

 

 

ニューロエシックスという目新しい言葉

 日本でも濫用が問題になったリタリンのような精神刺激剤の類似薬が「頭の良くなる薬(スマートドラッグ)」として開発され、もし副作用がほとんどないとすれば、どう対処すべきか。

 

 脳機能イメージングによるマインドリーディング(読心技術)が可能となった場合に、それはプライバシーの侵害となるのか、また、科学的な嘘発見器として司法のなかに利用すべきか。

 

 脳情報の解読とロボット技術による「サイボーグ技術」が発展したとき、私たちの身体はさまざまなマシンやコンピュータを組み込みながらどこまで変容していくのか。

 

 最先端のテクノロジーを用いた脳機能の解明と薬物や機器による脳への介入が実現する心のコントロールは、意識とは何かという哲学的な問題意識を根本的に変化させてしまうのか。

 

 いま、こうした脳科学の研究や応用技術に関わるバイオエシックス(生命倫理)は、脳科学者、生命倫理学者、哲学者などによって幅広く論じられ、「ニューロエシックス(Neuroethics)」という新語でよばれることもある[1]

 そうした研究者、すなわち新語に合わせて表現すれば「ニューロエシシスト(ニューロエシックス研究者)」であるジュディ・イレスによると、脳や神経をあらわすニューロという言葉とエシックス(倫理学)を組み合わせたこの用語そのものは、一九八九年に初めて使われたとのことだ[2]。ただし、当時は、神経内科領域での倫理的な問題を含む臨床的意志決定(たとえば、ターミナルケアでの治療など)に関する議論という意味で用いられており、こんにちのニューロエシックスとはかなり趣が異なる。

ニューロエシックスが、脳科学の発展によって生じつつある医療倫理やバイオエシックスに関わる新しい学問分野として、今日的な意味で広く認知されるようになったのは、二○○二年五月一三―四日にサンフランシスコで、「ニューロエシックス:領域をマップする」というシンポジウムが開かれたことをきっかけとしている[3]。そのスポンサーは、脳科学研究への資金援助を行っている民間基金のデイナ財団であり、その仕掛人は、脳科学者でも倫理学者でもなく、ニューヨークタイムズにコラムなどを執筆する政治ジャーナリストのウィリアム・サファイアだった。著名な脳科学者や倫理学者など一五○人以上を招いて行われたシンポジウムの開幕において、彼は次のように参加者に語りかけている[4]

 

 

「私の考えるニューロエシックスとは、医療実践と生物学的研究の結果として生じる良いことと悪いことを考察するバイオエシックスのなかの独特の一部門である。しかし、脳科学に関する特別なエシックスは、ほかの臓器に関する研究に比べてきわめて重要だ。扱われているのは、私たちの意識(自分という感覚)であり、それは私たちの存在の中心であるといえる。」

 

 

 そのシンポジウムでの主たるセッションは、最終まとめを除けば、四つの論点を取り上げている。第一の「脳科学と自己」では、意識や道徳の脳科学研究、第二の「脳科学と社会政策」では、科学研究規制や被験者保護など、バイオエシックスでいう倫理的・法的・社会的問題(Ethical, Legal and Social Issues: ELSI)が扱われている。第三の「倫理と脳科学の実践」では、薬物や機器による人間の能力増強(エンハンスメント)のはらむ問題点が扱われている。最後の「脳科学と公的言説」は、社会やマスメディアと脳科学者の関係、いわゆる科学コミュニケーションに関する議論である。第一と第三の論点(意識の脳科学や脳介入による能力増強について)は、確かに新しい議論のように感じられる。

 

 一方で、少しでも新しい現象や問題が現れるたびに、エシックスという言葉に接頭語をつけて新しい学問分野を立ち上げようとする姿勢に対する批判も多い。伝統ある学問分野としての倫理学からみれば、接頭語付きの倫理学は、道徳や倫理の根本問題を考察するわけではない実用本位の応用倫理学に過ぎないとも考えられるだろう。なぜ、「ニューロ」なのか。この点に関する違和感を、生理学者コリン・ブレイクモアは、男性の性的機能を理解し変化させることに関わる倫理的諸問題を検討する学問として「ファロエシックス(男性生殖器をファルスと呼ぶことからの派生語)」!も今後必要になるかもしれないなどとユーモアたっぷりに表現している[5]

 

 「ニューロエシックス」とは何か、あるいはそもそもそうした新語が必要なのか、という問いを考える上で、もう一点忘れてはならないことがある。それは、脳科学における生物医学研究あるいは脳外科・神経内科・精神科などの医療に関わる倫理的諸問題は、バイオエシックスのなかでしばしば論じられてきており、実際には新しい論点ではないことだ。たとえば、米国でのバイオエシックス政策の基本となった「全米研究法」のできた一九七四年(原著)に出版の『生物医学の悪夢』[6](コッホとケスラー)をみてみよう(そもそも、バイオエシックスという言葉が登場したのは、一九七一年頃とされる[7])。そこで生物医学の進歩がもたらす危険性としてあげられている事例は、遺伝子操作と胎児の操作を除けば、脳科学研究に関わるものがほとんどを占める。それらは、精神疾患を「治療」するための脳外科手術(精神外科)、脳機能の電気的コントロール、化学物質による記憶の操作、脳(頭部)の分離手術と移植、脳への介入による新人類の作成などであって、発想としてみる限りでは、現在のニューロエシックスでの議論と大きく重なっている。

 もう一冊、比較的新しいものとして、医療に関わる具体的な事例を取り上げて倫理的に分析するスタイルでの医療倫理の代表的な教科書であるペンスの『医療倫理1・2』(原著二○○二年)も、その目次を眺めてみよう[8]。全一八章であって、医療倫理の一般的な原理を論じる序章をのぞいて、米国を中心に一七の重要な事例が紹介されている。そのうちでニューロエシックス的な領域と関わるのは、慢性意識障害状態での治療停止の是非と「脳死」の定義、サルでの実験による脳科学研究(高等生物を用いた動物実験の是非)、精神病院への強制収容、ハンチントン病(認知症を引き起こす遺伝性疾患の一種)の発症前診断、の四つにおよぶ。

 だが、ニューロエシシストやニューロエシックスに関心をもつ哲学者たちの多くが考えていることはもう少し野心的といってもよく、医療倫理やバイオエシックスとは異なった独自で新しい何ものかへと向けられている。

 

「脳科学のエシックス」と「エシックスの脳科学」

 従来のかたちでのバイオエシックスとは大きく異なる語り口でニューロエシックス(脳倫理学と訳されている)を論じる書物の一つとして、脳科学者マイケル・ガザニガの『脳のなかの倫理 脳倫理学序説』[9]がある。そこでは、ニューロエシックスという学問分野は、次のように言挙げされている。

 

 

 これまでのところ、脳神経倫理学における議論もやはり科学者ではない人々が中心になってきた。そろそろ脳神経科学者がこの喧々諤々のなかに飛び込むときだろう。私は脳神経倫理学をこう定義したい――病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福にかかわる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野であると。

 

 

 この主張によれば、ニューロエシックスはバイオエシックスのなかの脳科学を対象とする一分野という意味ではないということは明らかだろう。エシックスの脳科学への応用ではなく接頭語「ニューロ」の方に重心がある新学問で脳科学の一分野として定義されている。つまり、これまでは哲学や倫理学で扱われてきた文系の諸問題について、脳科学という理系の立場からアプローチするという趣旨となる。実際のところ、ガザニガは、制度的に倫理学との関わりは薄く、分離脳(脳外科手術によって左右脳の間の情報コミュニケーションが断ち切られた状態)の患者を対象とした言語や意識の研究で知られる脳科学の重鎮である。

 こうした立場の多様性を整理するために、哲学者アディナ・ロスキースは論文「新たな千年紀にむけたニューロエシックス」(二○○二年)のなかで、ニューロエシックスを「脳科学のエシックス」と「エシックスの脳科学」の二つに分類している[10]。図式的な単純化ではあるが、非常にわかりやすい分類であるので、紹介しよう。

 まず、「脳科学のエシックス」は、脳科学の領域を対象とする医療倫理やバイオエシックスを指している。ただし、彼女のいう「脳科学のエシックス」はさらに二つに分かれる。

その一つは、「実践のエシックス」であって、脳科学の研究にかかわる(従来どおりの)医療倫理やバイオエシックスに相当している。これは、インフォームドコンセントや実験的研究の被験者の人権をどういう仕組みで保護するかということを論じるものである。たとえば、脳科学研究にとくに関連した点としては、認知症のように判断力に障碍が起きる疾患に対する実験的治療の場合、本人の自己決定権を完全に行使することは難しくなるため、被験者となる患者の意志を尊重するにはどういう社会的手続きが必要か、などの問題があるだろう。

もう一つは、「脳科学のエシックス的な含意に関わる研究」である。こうした分野が求められる背景には、脳科学の飛躍的な進歩が人間の精神や行動に対する理解を深めていくとすれば、それは、再帰的に、社会的価値観やエシックスの考え方や法律制度に大きなインパクトをもつという展望がある。本書の冒頭でも、ニューロエシックス的な問題領域としていくつかの設問の例をあげたが、それらの共通点は、脳科学が脳を対象とする研究である限りにおいて、たんなる生物学的な生命としてのヒトではなく、思考する存在としての人間に切り込まざるを得ないところにあると言ってもよいだろう。この独自性に注目するならば、たしかに、脳科学がエシックスにもたらす影響という視点は、エシックスの諸原理を臨床や研究の現場に適用するという側面の強い従来のバイオエシックス(「実践のエシックス」)の枠をはみ出ている。

 この「脳科学のエシックス」のもつ二番目の側面は、ロスキースの強調する「エシックスの脳科学」と密接に絡んでいる。それは、従来は哲学の領域で考察されていた諸問題、つまり自由意志や自己統御や人格の自己同一性や意図あるいは道徳や倫理を、脳機能という面から科学的に研究することを指している。ガザニガのいうニューロエシックスは、人文諸科学の意義を否定して脳科学だけを「科学知識」として認める狭量で一面的なものではあるが、ロスキースのいう「エシックスの脳科学」に近い考え方とも言い得るであろう。

 「エシックスの脳科学」の例として、しばしば取り上げられるのが、二○○一年にハーバード大学の心理学者ジョシュア・グリーンらによって行われた道徳的ジレンマの脳科学研究である[11]

 

 

暴走トロリーとファットマン

 ここでいう道徳的ジレンマとは、ある状況下で行動の選択肢がいくつかあって、そのどれもが道徳的に望ましいとはいえないにもかかわらず、強制的に、そのなかから一つを選ばなければならないという状態を意味している。こうしたジレンマに直面した人間は、どちらを選んだにせよ、自分の判断に対して、罪悪感や羞恥心などの道徳的感情を経験する(いわゆる良心の呵責)。

 グリーンが機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で行った実験は、古典的な道徳的ジレンマである「暴走トロリー」という問題を考えているときの脳活動を観察するものだった。

 磁気共鳴画像(MRI)は、被爆というリスクのあるX線ではなく、磁気を使って外部から人体の内部を可視化する装置であり、その撮影方法を調節することで、脳血流に関連した人体信号の変動を計測することが可能となる。fMRIとは、その原理を応用して、人間が何かを考えているときや何かの行動をしているときの脳の活動を(安静に何もしていないときと比較して)調べる手法である(この手法の現状と歴史については、すでに別稿[12]で論じた)。

 グリーンが行った実験は、次のような設定で被験者に質問をして、それを考えて判断している間の脳の活動を、fMRIの手法によって調べるものだった。

 トロリー列車が暴走しており、その進路上には五人の人間がいる、と仮定する。そのままでは五人がはねられて死んでしまうが、線路の切り替えのレバーを操作すれば、トロリーは別の軌道に入って五人は助かる。しかし、もし切り替えたとすると、切り替えた先には別の一人がいて、今度はその人が犠牲となる、というものだ(「暴走トロリー問題」)。このジレンマでは、レバーを切り替えるかどうかをたずねられた人々の多くは、進路を切り替えて、五人を助けるために一人を犠牲にする功利主義的な判断が適切だと考えたという。

 これを変形させた「ファットマン」問題が、次の問いである。こんどは、暴走トロリーと五人の間の線路の上に鉄橋があり、そこに自分と太った男(ファットマン)が立っているとする。そして、見知らぬ大きいファットマンを線路上に突き落として犠牲にすれば、トロリーは止まって五人が助かると仮定する(つまり、あなたがファットマンの代わりに飛び降りただけではトロリーを止めることはできない)。あなたは、そのファットマンを突き落としますか?

 一人を犠牲にして五人を助けるほぼ同じ設定であるにもかかわらず、後者のような思考実験では、ファットマンを突き落とすことが適切であると考える人はほとんどいなかったという。それだけではなく、fMRIで脳活動を計測してみると、「暴走トロリー」問題と比べて「ファットマン」問題を考えている人々の脳では、前頭葉の感情に関わる部分(前頭前野)が強く活動したという。この脳活動パターンは、自分の行動が原因となって人間が直接的に傷つくことに対しては強い道徳的感情がわくことに対応すると考えられている。いいかえれば、倫理や道徳に関わる判断においては、合理的で理性的な計算(五人対一人)だけではなく、感情が大きな役割を果たしているということになる。

その点から、グリーンは、論文「神経における『である』から、道徳における『べきだ』へ」[13]のなかで、道徳や倫理の基礎にあるのは、「客観的な道徳的真理」ではなく、感情的な反応を含めた個々人の価値観や道徳的態度ではないかと示唆している。こうした解釈が妥当なのだとすれば、いまや、特定の原理を絶対視することを否定して、他者の価値観にも寛容であることを目指す多元主義的なリベラリズムの正しさは、脳科学によって客観的に証明されたということになるのだろうか[14]

 肯定するにせよ否定するにせよ、ここで示されたようなエシックスを脳科学に還元するという企て(「エシックスの脳科学」)をどう位置づけるかという問いは、ニューロエシックスをめぐる根本問題だといってもよい。

 

ファットマン/イエスマン/ノーマン

 もし、道徳的感情が脳という場所に限局された情動という脳活動であるという仮定を認めるならば、「エシックスの脳科学」の実験は、バイオエシックスとその基礎となる道徳や倫理を問い直す新しい営みとなるだろう。だが、そうではないとすればどうだろう。道徳感情が、個人の内面だけに見いだされるものではなく、他者との関係性において構築されるプロセスであるとすれば、エシックスを問題化する際に個人の脳のなかの機能だけをみるというアプローチそのものが、そもそも的外れとなる。

 劇作家ベルトルト・ブレヒトの初期の戯曲『イエスマンとノーマン』[15]は、いわばファットマンの場所に置かれた主体における道徳的ジレンマを扱うことによって、他者との関係性としてのエシックスを再考させてくれるものだ。この戯曲は、社会全体での大義と個人の自己犠牲をテーマとしたもので、前半の『イエスマン』と後半の『ノーマン』のストーリーとしては独立しているが、設定は似通った二つの対照的な部分から成っている。

 能の『谷行』を自由翻案したとされる前半部分『イエスマン』は次のような内容だ。ある村で疫病が流行し、その薬を遠くの町まで取りに行くために、困難な山越えをする一行が組織される。疫病に冒された母をもつ少年は望んでその一行に加わるが、山越えの途中で病気となる。こうした場合に少年を連れて引き返す(その場合は村に治療薬を持ち帰るのが遅れる)ことを避けるために、その村のしきたりでは、一行が病人に「引き返さずに置き去りにして進んでもよいかどうか」とたずねて、病人が「イエス」と答えることになっていた。しきたり通りに、少年は「イエス」と答え、置き去りにされるよりも、即座に谷に投げ込まれることを希望する。その希望にしたがって、一行は少年を犠牲にして先へ進む。

 対になる戯曲『ノーマン』の背景設定はほぼ似通っているが、病気になった少年は、この場合は「ノー」と答える。彼はしきたりを残酷すぎる慣習として批判し、引き返すことを主張する。その論旨に納得した一行は村へと引き返し、村人に笑われながらも村のしきたりを変えることを提案する。

 正反対の結果を提示する二つの戯曲であるが、ブレヒトはこの二つを同時に上演することを指示している。そのねらいの一つは、観客(および俳優)が、演劇を鑑賞することによって受動的に満足するのではなく、その前半と後半の食い違いの奇妙さに触発されて、集団と個人の価値観の相克について能動的に批判的に考え始めるように仕向けることにあった。ブレヒトは、そうしたプロセスを異化効果(日常的でしきたりとなった事柄を、非日常的なものとしてみせること)と呼んでいる。このことを人間の歴史性と結びつけながら、ブレヒトは演劇論のなかで次のように述べる[16]

 

 

「異化するというのは、だから、歴史化することであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである」

 

 

 

 道徳的感情そのものは脳科学的に解明できるだろうが、それは、あらゆる時代で、あらゆる人間にとって、同じように現れるわけではない。歴史的な一回限りの経験としての特定の原因と結びついた道徳感情の特定の現れ方は、時代や社会と結びついている。

 

 私の心のなかに想像された受動的な他者としてのファットマンではなく、突き落とす/突き落とさないという決断を下した私の前に立ちはだかり、自らの存在を賭けて、その決断に抵抗/同意する他者であるイエスマン/ノーマン。そんな現実の他者とのせめぎ合いにおいてのみ、エシックスの可能性が開かれる。その歴史性を前にしたとき、ニューロエシックスは、ニューロサイエンスでもバイオエシックスでもない何ものかへと生成変化し、脳内ではなく、脳の外あるいは脳と脳の間という場所で生じるできごとの周囲を旋回しつつ、脳を異化する身振りになるだろう。本書が目指すのは、その意味でのニューロエシックス、すなわち未だ見知らぬと同時に今後に来るべき何ものかとしてのニューロエシックスである。

 

 

〈私〉と言うのは脳である、が、〈私〉とは一個の他なるものである。     (ドゥルーズ=ガタリ)[17]

 


 

 


 

[1] その歴史的由来については、香川知晶、「ニューロエシックスの新しさ」、現代思想三四巻一一号、二○○六年、一八八―一九六頁、福士珠美・佐倉統、「脳をめぐる倫理 脳神経倫理学を構成する事象」、科学七六巻八号、二○○六年、七七八―七八二頁、など。

[2] J. Illes, Neuroethics in a New Era of Neuroimaging, AJNR, 24:1739-40, 2003., R.E. Cranford, The neurologist as ethics consultant and as a member of institutional ethics committee: the neuroethicist. Neurol Clin 7:697-713, 1989.

[3] S.Marcus (ed), Neuroethics: Mapping the field: conference proceedings. The DANA foundation, 2002. www.dana.orgからpdfでの閲覧も可能である)。

[4] W. Saffire, Visions for a new field of “neuroethics”, in Marcus (2002), p.6.

[5] ジュディ・イレス著、高橋隆雄・粂和彦訳、『脳神経倫理学 理論・実践・政策上の諸問題』、篠原出版新社、二○○八年(原著二○○六年)、コリン・ブレイクモアによるまえがき、vii頁。訳語は文脈に合わせて改訳。

[6] E・R・コッホ、W・ケスラー著、宇野昌人・堀映訳、『生物医学の悪夢』、朝日出版社、一九八○年(原著一九七四年)

[7] 土屋貴志、「『bioethics』から『生命倫理学』へ──米国におけるbioethicsの成立と日本への導入」加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社、一九九八年、一四―二七頁。

[8] グレゴリー・E・ペンス著、宮坂道夫・長岡成夫訳、『医療倫理 よりよい決定のための事例分析1・2』、みすず書房、二○○○―二○○一年(原著二○○○年)

[9] マイケル・S・ガザニガ著、梶山あゆみ訳、『脳のなかの倫理 脳倫理学序説』、紀伊國屋書店、二○○六年(原著二○○五年)、一五―一六頁。

[10] Adina Roskies, Neuroethics for the new millennium. Neuron 35:21-3, 2002. W. Glannon (ed.) Defining right and wrong in brain science: Essential readings in neuroethics. Dana Press, 2007. に再録。

[11] Joshua Greene et al., An fMRI investigation of emotional engagement in moral judgment. Science 293: 2105-8, 2001.

[12] 美馬達哉著、『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』、人文書院、二○○七年、の第六章。

[13] Joshua Greene, From neural ‘is’ to moral ‘ought’: what are the moral implications of neuroscientific moral psychology? Nature Reviews Neuroscience 4:846-50, 2003. W. Glannon (ed.) Defining right and wrong in brain science: Essential readings in neuroethics. Dana Press, 2007. に再録。

[14] うがった見方をすれば、アメリカ合州国とその同盟諸国が、自国の政策に反する人びとを一方的に原理主義者のテロリストと名付けて攻撃し、多元的で自由な国としての自国を文化的に優位に置こうとするイデオロギーを喧伝していることの粗雑な反映、あるいは脳科学による正当化なのかもしれない。

[15] ベルトルト・ブレヒト著、千田是也・岩淵達治訳、『ブレヒト教育劇集 改訳版』、一九八八年(この戯曲は一九三○年)。

[16] ベルトルト・ブレヒト著、千田是也訳、「実験的演劇について」(原著一九四○年)、『今日の世界は演劇によって再現できるか』、白水社、一九九六年、一二四頁。

[17] ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、財津理訳、『哲学とは何か』、河出書房新社、一九九七年(原著一九九一年)、三○○頁。

 

 

 

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美馬達哉(みま・たつや)/1966年、大阪生れ。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学医学研究科准教授(高次脳機能総合研究センター)。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。著書に、『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(人文書院、2007年)。

 

 


© Tatsuya Mima 2009/01
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