第二章 脳ドーピングの時代
ノーベル賞とオリンピック オリンピックでは、ドーピング、つまり競技能力を高めるために薬物などの手段を用いることが、フェアプレーの精神に反する行為として、しばしば問題となる。だが、同じように激しい競争が行われている分野であっても、学問において、たとえば、ノーベル賞選考会議が、候補となった研究者たちの血液や尿を抜き打ち検査することは、いまのところは行われていない。 だが、「いまのところ」は、「これからもずっと」であるとは限らない。人間の認知や記憶に関する脳機能や脳内物質の仕組みの理解が発展するにつれて、身体的能力だけではなく、知的能力についても人為的な増強・強化ができる可能性が見え始めている。現代社会のテクノロジーという人為的(どこまでが自然でどこからが人為かは問題含みだとはいえ)な手段を用いた人間の能力の増強・強化は、しばしば、エンハンスメント(enhancement)とカタカナ書きで記され[1]、バイオエシックス(生命倫理)でのさまざまな議論の主題となっている。 そのなかでも、脳科学によるテクノロジーを利用した知的能力増強の場合は、とくに神経認知的エンハンスメント[2]と名付けられている。そこには、脳活動をチェックしながらの特殊で集中的なトレーニング(ニューロフィードバックなどと呼ばれる)や電磁気刺激による脳機能の増強も含まれているが、一般的な方法は脳や精神に影響する薬物を用いるものである。 知的能力を何らかのかたちで増強する薬物は、「精神疾患」などに対して用いられる向精神薬に含まれるものが多く、米国などでは、人間を賢くする薬の意味でスマートドラッグとも俗に呼ばれる[3]。じっさい、試験を控えた学生などが、日中に異常な眠気を生じる病気であるナルコレプシー治療などに使われている薬物である塩酸メチルフェニデート(商品名リタリン)をインターネット経由で入手して、それを利用して成績を上げようとするケースがあるらしい。リタリンを病気治療目的ではなく、健常人が服用した場合でも、眠気をとったり、集中力を高めたりする働きがあるからだ。 このリタリンも含めて、脳ドーピングに使われることが多いのは、向精神薬のなかでも中枢神経刺激薬である。コーヒーや日本茶に含まれるカフェインもその一種で、眠気覚ましと集中力アップという効果はよく知られているとおりだ。もちろん、飲食物に含まれる程度の量のカフェインで、頭をはっきりさせることは違法でもドーピングでもないし、倫理的問題を生じることはない。そのいっぽう、中枢神経刺激薬のなかには、現代の日本では法的な取り締まりの対象になる覚せい剤のように、依存性や毒性が強いものもある。通常では医薬品として使われている薬剤を別の目的で利用することの倫理性という問題は、ある意味では食品と違法薬物のボーダーラインといってもいい。 二○○八年一月には、非公式ではあるが、六○カ国の約一四○○人の読者を対象としたインターネット調査[4]を科学雑誌「ネイチャー」が実施し、リタリン、モダフィニル(ナルコレプシーの治療薬)、ベータ・ブロッカー(不整脈や高血圧の治療に使われるが抗不安作用がある)の病気治療目的ではない(つまりエンハンスメント目的での)使用をした経験を尋ねた。その結果、これらの薬物(それ以外の同様の薬物を含む)の使用経験ありは五人に一人で、うち六二%が用いた薬物はリタリンだったという。社会科学的には厳密な調査とはいえないため、データの信頼性という面では問題はあるものの、すでに神経認知的エンハンスメントが現実味を帯びた問題となっていることをうかがわせる結果である。 また、今後、より効果的で有害作用の少ない睡眠異常症治療薬が開発されれば、医療ではないエンハンスメント目的での使用が拡大する可能性もあるだろう。近代医学の視点から見れば、より効果が強力で、目的とする作用以外の有害作用が少なく,長時間作用する薬物を開発することを目指すのは当然のことであり、これは患者にとっては好ましいことは言うまでもない。だが、安全で有効で便利な薬物が開発されれば、病気と診断されていない人々がエンハンスメント目的で、つまりサプリメントのような感覚で服用することへの抵抗は少なくなっていくのではないか。
抗うつ剤「プロザック」の盛衰 この意味でのエンハンスメントが社会問題として実際に登場したのは、抗うつ薬フルオキセチン(商品名プロザック)をめぐる米国での議論だった。一九八○年代後半から、うつ病の治療薬として米国で使用され始めたプロザック(日本では未発売)は、一九九○年代には、あたかも副作用もなく人間の気分を幸福にする夢の医薬品であるかのように論じられた。たんに気分が落ち込んだうつ状態を正常に治すだけではなく、内気や引っ込み思案な性格を積極的で活動的な性格に変化させることで人生に成功をもたらす働きがあるかのようにマスメディアで取り上げられたのだ。その結果、米国を中心に、一時期は、仕事で成功したいビジネスマンなども含めて、延べ二○○○万人以上の人々が服用していたとも言われる。 プロザックが実際にこうした「奇跡の薬(wonder drug)」だったかを考える前に、うつ病とその治療法について簡単にまとめておこう[5]。 うつとは、抑うつ的な気分、つまり、気持ちが滅入ったり、落ち込んだり、ときには罪責感をもったり、という状態を指している。こうした情動という面以外にも行動面では、だるくて何をやる気も起きなかったり、仕事に行かなくなって引きこもりのようになったりする。食べ物の味が分からなくなって食欲が落ちたり、眠りが浅く(とくに朝早く目が覚める)なったりすることも多く、頭痛やめまいのようにさまざまな身体の不調を起こすこともある。 うつになる率は調査によってばらつきがあるが、日本の厚生労働省による患者調査(二○○五年)では、うつ病や躁うつ病を含む気分障害の患者数は九二万人となっている。ただし、うつ状態の重症度の違いや、同じ状態でも受診するかどうかという問題もあり、正確な推定は難しい。欧米の先進国の調査では、人口のだいたい三―五%とされる。また、一生のうちに、一度でもうつ病となる確率は一割程度とされるが、ごく軽度のうつ病の症状を経験する確率では五割という報告もある。 うつ病に対しての薬物治療は、一九五○年代後半から行われはじめ、一九八○年代までは三環系抗うつ薬とよばれるタイプの薬物が主流だった。ただ、このタイプはうつ治療に効果があったものの、心臓などの循環器への副作用が強く、しかも(自殺目的や事故で)大量に服用すると死亡することまであった。これに対して、一九八○年代後半から一九九○年代前半に使われ始めた「セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)」と総称されるフルボキサミン、フルオキセチン、パロキセチンなどの抗うつ薬は、副作用も少なくて安全性が高いという特質を生かして、広く使われるようになった、とされる。うつ病の治療だけでなく、性格を変えるためのエンハンスメントを目的として、プロザックが米国で広く使われたことは、こうした安全な薬品というイメージに由来している(実際には、副作用のない医薬品はあり得ず、重大な副作用の問題が後に明らかになる)。 医薬品の年間売上高からみると、二○○七年で、抗うつ薬および気分変調の治療薬の世界全体での売上高は一九七億ドルで、医薬品の種類別でみれば七位である。一位の抗ガン剤で四一四億ドル、二位の血中のコレステロールを下げる薬剤が三三七億ドル、三位は呼吸器系の薬剤で二八六億ドルである。なお、六位は抗精神病薬であり、抗うつ剤をあわせての向精神薬全体をみれば抗ガン薬の総売上に匹敵することになる。現代社会において、医療のなかで向精神薬が大きな役割を果たしていることが分かるだろう。ちなみに、日本国内でのすべての医薬品の総売上でも年間六○○億ドル程度とされる[6]。 プロザックの使用拡大の火付け役となったのは、一九九三年に精神科医ピーター・クレイマーによって書かれた『プロザックに耳を傾ける』(邦訳『驚異の脳内薬品』)である[7]。その冒頭には、テスという女性の例が印象的に描かれている。「マゾ」的で内気な性格で、男性関係でも仕事でも失敗続きの人生だったテスは、プロザックを服用し始めたとたんに、活発で活動的な魅力ある女性に別人のように生まれ変わり、恋人もできて、昇進して責任ある地位についたというのだ。このテスの変化に関して、クレイマーは、美容整形外科をもじって、「美容精神薬理学(cosmetic psychopharmacology)」という表現で、次のように語っている[8]。
こうした一九九○年代半ばの風潮を反映して、マスメディアでは繰り返して「プロザック服用は数百万人、合法的なドラッグカルチャーの登場」(ニューヨークタイムズ[9])、「プロザックの文化 うつ病の治療薬はなぜクリネックスのように見慣れたものとなり、ミネラルウォーターのように社会に受け入れられたのか」(ニューズウィーク[10])といったタイトルのプロザック特集が組まれた。 ただし、プロザックに代表されるSSRIは、医薬品である以上は、ミネラルウォーターのように安全というわけではなかった。発売からまもなくの一九九○年にはすでに、マーティン・タイチャー博士らによって、「死んだ方がましなぐらいに、いてもたってもいられなくなる」という自殺傾向の副作用があることが報告されていた[11]。また、同様の報告が続いたことはもちろん、服用することで自殺だけではなく暴力傾向も現れるのではないかとの疑いも生じてきた。その結果、米国では、抗うつ薬を服用中の患者による殺人事件や心中事件で製薬企業などが訴えられるという裁判が次々と起こされたのだ[12]。そのしばらく後の二○○二年には、英国BBCの報道番組「パノラマ」で、SSRIの一種であるパロキセチン(英国での商品名はセロキサット)の副作用や中毒性を描いた『セロキサットの秘密』が放映され、大きな反響を呼んだ[13]。 現在では、SSRIの一部が、とくに一八歳以下の小児や若年成人での自殺行動のリスクを高めるということは大規模研究で確認された事実として認められており、医薬品の注意書きにもはっきりと記されている。自殺による死亡の可能性は、たとえわずかなリスクだったとしても、病気でない人びとが安易にサプリメント的に用いるにはあまりに重大な副作用であろう。 また、重大な副作用の有無という点だけでなく、人間は薬物によって幸福になることができるという考え方そのものが、あまりにも単純であることも確かだ。プロザックを服用していたうつ病患者エリザベス・ワーツェルの自伝『プロザック・ネーション』(邦訳『私は「うつ依存症」の女』)[14]では、うつ病を治療する上でのプロザックの有効性を認めながらも、プロザックに代表される抗うつ剤によって物事を解決することへの違和感が次のように語られている[15]。
アルジャーノンを読む エンハンスメントなどがもたらしうる諸問題をわかりやすく検討するために、架空の物語ではあるが、ダニエル・キイスによる世界的ベストセラーである『アルジャーノンに花束を』[16](原著一九六六年、オリジナルの中編は一九五九年)を例にして整理してみよう。 SFの古典的作品で、映画化もされ、日本でもテレビドラマ化されたので、ご存じの方も多いだろうが、おおまかな作品のあらすじは、次のようなものだ。 精神発達障碍の青年チャーリイ・ゴードンは、家族に見捨てられ、周囲の人びとの無理解やイジメにあっていたが、そのことを十分には理解できず、パン工場の住み込みで働きながら、それなりに幸せな日々を送っていた。そんなある日、脳科学研究をしている大学教授ハロルド・ニーマーから、新しい脳手術の実験台となる被験者になることを勧められる。その手術は、記憶力や思考力を改善させるもので、その手術をすでに受けたネズミのアルジャーノンは、迷路問題を解決する上での驚くべき能力を発揮していた。 手術と薬物療法を受けたチャーリイの知能は、どんどん向上する。しかし、そのことによって、チャーリイは、今までの自分の人生が幸福とは言えなかったことを理解するようになり、また天才的になった記憶力や思考力に比べて未発達な感情から生じるトラブルのため、孤立して苦悩する。住み慣れたパン工場を追い出され、ニーマー教授の研究室からも飛び出して乱れた生活を送るなかで、唯一の友人となったのはアルジャーノンであった。だが、そのアルジャーノンの知能や行動に異変が生じつつあることに、チャーリイは気づく。 アルジャーノンの病状を詳細に検討したチャーリイは、自分たちの受けた脳手術は未完成なもので、一時的に知能は向上しても、感情や人格の発達とバランスがとれず、しかも知能はやがて急速に低下していくことを突き止める。チャーリイは、徐々に知能低下していく自分の経過記録を日記の形で報告書にまとめ、文字を正確にはつづれなくなりながら、「アルジャーノンのお墓に花を捧げてください」と書き付ける。 これはもちろん小説ではあるが、神経認知的エンハンスメントが生み出す可能性のある諸問題を多様な側面から描き出している。じっさい、作者のキイスは、短編集の序文のなかで、アイディアを書きためたノートのなかの次のようなメモがもとになって、小説を書き上げたのだと回想している[17]。
チャーリイの知能が増大したことによって生じた問題を、ニューロエシックス的な視点から、大きく三つの問題群、すなわち、生物医学的なリスクの問題(介入の副作用など)、個人の人格や主観性に関わる問題、社会的な価値観に関わる問題にまとめて考えてみよう。ただし、厳密にいえば、チャーリイは精神発達障碍[18]で、その治療のために手術を受けたのであって、天才になることを目的にしたエンハンスメントのために手術を受けたわけではない。しかし、小説で描かれるエピソードのほとんどは、(作者の最初のアイディアどおりに)チャーリイの知能が健常人を凌駕するまでに増大したために発生した諸問題を扱っている。 第一にあげられるのは、医学研究やバイオエシックスに一般的に共通する問題として、医学的研究に伴う副作用やリスクの把握と評価という側面がある。『アルジャーノンに花束を』の例で言えば、知能向上を目的としていた脳手術は、実験的で不完全なものであったために、後日に知能低下を引き起こす有害作用をもっていた。こうしたできごとを防止するには、被験者を対象とした臨床実験の前段階として、動物実験などでのリスク評価が厳密に行われなければならないことは当然のことだろう。 こうしたリスクの問題と関連して、ニューロエシックスに特有とはいえないが、医学研究の一般とくに実験的治療で問題になることとして、その介入を受ける被験者のインフォームドコンセント(説明を受けて納得した上での同意)がある。この点は、ニーマー教授らのチームは、(小説ではあるが)当時として考えればきっちりした手続きを守っており、家族(妹)の同意を文書で得ているとともに、精神発達障碍のある本人にも十分に説明している(チャーリイの日記でそれは確認できる)[19]。
効果とリスクの比較考量については、脳科学の臨床応用としてとくに重視しなければならないことがある。それは、脳科学が、人間の精神や心の本質と関連している特殊な臓器である「脳」に介入や改変を加えるために、その高価やリスクを客観的に測定することがしばしば難しいという点である。もちろん、脳と心の密接な関係性といっても、脳だけが排他的に心を生み出す、あるいは脳以外の身体は心に関係していないという意味ではない。社会や文化のあり方、経済状況、他者との人間関係など、心に影響することがらは数多いが、脳への介入は、心や精神にきわめて深い影響を与える場合があることも事実である。 こうした脳への介入に伴う副作用は、ときに「微妙な(subtle)副作用」とよばれる。それは、バイオエシックスで扱われる通常の副作用である機能障害や生命に関わる有害作用ではなく、客観的な評価が困難な人格や個人性に関わる心的変化を生じさせるリスクを意味している。こうした問題点は、生物学的な意味での生命という点では、「些細な(subtle)」問題と言えるだろうが、人間の精神やアイデンティティという側面からみれば、きわめて重大で「微妙な(subtle)」問題である。 たとえば、当初は神経難病であるパーキンソン病の治療法として開発された脳深部刺激法(deep brain stimulation: DBS)が、運動障害や不随意運動の治療に役立つものの、ときには精神症状や情動の変化を引き起こす可能性が指摘されていることは、その例の一つである。『アルジャーノンに花束を』の例に戻れば、脳手術が、知能の増大だけに特化した手技であったために、結果として、人格や感情にゆがみをもたらしていることも「微妙な副作用」の一つであって、人間の社会的側面に関わるため、動物実験での事前評価がきわめて困難である。 脳科学の臨床応用や技術の社会的展開に関わる倫理としては、こうした個人の主観性やアイデンティティに関わる側面を注意しなければならないことは、第二の問題点である。 歴史的に見て、その極限的な失敗例と言えるのが、精神疾患を対象として一九三○―五○年代に行われていた「精神外科」である[20][21]。これは、「重度で他に治療手段のない精神疾患の症状の軽減のために、脳の一部を外科的に破壊すること」であり、代表的な手術法は、ロボトミーやロイコトミーと呼ばれる。死亡の危険性や性格変化(とくに自発性の低下など)の後遺症が生じることが明らかになったため、また一九六○年代以降は薬物療法が標準的治療法となったためという理由もあり、現在では、医学的意義を否定されている。しかし、当時の精神外科の手術を受けた人びとは、その後遺症にいまも苦しんでいる場合がある[22]。 もう一点、個人の主観性に関わる器官としての脳に関わる研究で、最近に問題となっている領域に、マインドリーディング(読心技術)の進展がある。たとえば、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などの非侵襲的脳機能イメージング法の発展によって、被験者となった個人に写真や文字を見せて、実験者が、コンピュータを使って脳画像を分析することで、その人の見ている心の中のイメージをかなりの正確さで再構成することが可能となりつつある[23]。こうして、個人が心の中でだけ考えていることを、外部から読み取ることが可能になってしまうと、個人のプライバシーが侵されるともいわれる。 ただし、現段階では、視覚イメージを脳から読み取ることができても、複雑な思考の内容までもがわかるわけではない。また、脳活動を計測するには、被験者となった個人が安静にして頭を動かさないようにする必要性があるため、強制的に尋問に応用するなどということは不可能である。 視覚だけではなく、運動能力に関しても、サルの脳内に電極を埋め込むブレインマシンインターフェース(Brain-machine interface: BMI)[24]を用いることによって、ロボットを使ってサルと同じ動きを再現することが可能となっている。すなわち、脳(ブレイン)とコンピュータのような機械(マシン)を接続することによって、電極などによって脳から、手足の筋肉に命令を出している脳情報を読み取り、その情報を解読して義肢やロボットなどを操作するという技術である。いいかえれば、心のなかでの何かの行動を起こそうとするときの意図までも読み取るということになるだろう。ただし、現時点では、意図といっても、複雑な行為の目的や心理的動機という意味ではなく、手を握る、腕を上げる、足を踏み出す、などの個別の運動に関わる脳活動を解読することを超えるものではない。だが、こうした研究が、いわゆるサイボーグ技術にまでつながり、心のなかで考えるだけで、自分自身の身体と同じくらいに違和感なく機器や義肢を操作することが可能となれば、「わたしの身体」とは何か、という問題を生み出すだろう。 第三の問題となるのは、生物学的リスクの評価や個人のプライバシーや主観性に関わる論点を超えて、社会的価値観と脳科学との間に生じ得る葛藤である。それは、『アルジャーノンに花束を』の例であれば、周囲の人々が、手術後に天才となったチャーリイを賞賛するというよりも、むしろ反発したことと関わっている[25]。
この反感は、普通の人々を遙かに超える優れた記憶力や思考力そのものに対して生み出された嫉妬というよりも、その知的能力が本人の努力だけによってではなく、主には手術によって得られたという事実に由来していると思われる。ここで重要なことは、達成とエンハンスメント(英語では、achievement v.s. enhancementなので韻を踏んでいる)という対立軸、すなわち、ある目的を達成する上での手段として人工的なバイパスを利用することとのはらむ道徳的な価値をどう考えるかという問題である。天才となったチャーリイに対して、人びとが共感的でなかった理由の一つは、努力なしで得られた成果(gain without pain)の社会的価値付けが低いことであろう。 『アルジャーノンに花束を』のチャーリイが精神発達障碍ではなく、たんに「平均より賢くなる」ことを目的に手術を受けようとしたのなら、それは社会的に容認されただろうか(少なくとも、こうした設定では、人びとが涙するベストセラーにはならなかっただろう)。あるいは、脳手術ではなく、薬品を服用するだけで「平均より賢くなる」ことを可能とする「脳ドーピング」であれば、どう扱うべきだろうか。
一見するだけでは、脳ドーピングそのものは、個人の自由な選択で行われ、その個人の脳だけに影響するに過ぎないかのように思える。しかし、そうではない。脳ドーピングの使用というできごとに含まれている社会的メッセージが示しているのは、知的能力としての「脳力」が優れていることを善とみなす価値観であり、それは容易に「脳力」の劣った人々に対する社会的価値の剥奪へとつながる。 ここに存在しているのは、脳科学のテクノロジーとしての応用と社会的価値観のあいだの複雑な絡み合いであり、個人の自己責任や選択の自由だけにとどまるものではない。それは、現代社会に生きる私たち全員に関わる社会問題であって、脳科学者や倫理学者の議論に任せておくことはできない。
[1] たとえば、生命環境倫理ドイツ情報センター編、松田純・小椋宗一郎訳、『エンハンスメント:バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』、知泉書館、二○○七年(原著二○○二年)、上田昌文・渡部麻衣子編、『エンハンスメント論争 身体・精神の増強と先端科学技術』、社会評論社、二○○八年など。 [2] Farah M. et al, Neurocognitice enhancement: what can we do and what should we do? Nature Reviews Neuroscience 5:421-5, 2004. [3] スマート・ドラッグに関する関する議論を紹介したものとして、植原亮、「薬で頭をよくする社会 スマートドラッグにみる自由と公平性、そして人間性」、信原幸弘・原塑編、『脳神経倫理学の展望』、勁草書房、二○○八年、一七三―二○○。 [4] Maher B, Poll results: look who’s doping. Nature 452:674-5, 2008. Carey B. Brain enhancement is wrong, right? New York Times. 9 March 2008. [5] うつ病の解説としては、うつ病者自身による優れたものとして、アンドリュー・ソロモン著、堤理華訳、『真昼の悪魔 うつの解剖学』、原書房、二○○三年(原著二○○一年)がある。 [6] 以上は、IMS(http://www.imshealth.com/portal/site/imshealth)の調査による。 [7]ピーター・クレイマー著、堀たほ子訳、『驚異の脳内薬品』、同朋社、一九九七年(原著一九九三年)。 [8] 同書、三六頁。 [9] 一九九三年一二月一三日号 [10] 一九九四年二月七日号 [11] Teicher et al., Emergence of intense suicidal preoccupation during fluoxetine treatment, Am J Psychiatr 147:207-10, 1990 [12] この経過は、デヴィッド・ヒーリー著、田島修監修、谷垣暁美訳、『抗うつ薬の功罪 SSRI論争と訴訟』、みすず書房、二○○五年(原著二○○三年)に詳しく描かれている。なお、同じ研究報告や事件を、クレイマー前掲書では逆の視点から扱い、プロザックを全面的に擁護している。 [13] イギリスでの論争の経過については、チャールズ・メダワー、アニタ・ハートン著、吉田篤夫、浜六郎、別府宏圀訳、『暴走するクスリ 抗うつ剤と善意の陰謀』、医薬ビジランスセンター、二○○五年(原著二○○四年)に詳しい。 [14] エリザベス・ワーツェル著、滝沢千陽訳、『私は「うつ依存症」の女 プロザック・コンプレックス』、講談社、二○○一年(原著一九九六年) [15] 同書、二七○―二七一頁。 [16] ダニエル・キイス著、小尾芙佐訳、『アルジャーノンに花束を』、早川書房、一九九九年(原著一九六六年)。この長編のもとになったオリジナルの中編は、「アルジャーノンに花束を」(稲葉明雄・小尾芙佐訳、『心の鏡』、早川書房、一九九三年、所収。原著一九五九年)である。 [17]『心の鏡』、九頁。 [18] オリジナルの中編では、チャーリイの病名は明らかでないが、長編小説の方では、フェニルケトン尿症とされている(二四一頁)。フェニルケトン尿症は遺伝性疾患で、食物に含まれるアミノ酸の一種であるフェニルアラニンをチロシンに転換する酵素の欠損によって、フェニルアラニンが体内に蓄積して精神発達障碍を引き起こす。新生児の段階からフェニルアラニンを除去した食餌療法を行うことで、発症予防することが可能であり、一九六○年代には、新生児の健診によるマススクリーニング法が開発され、広く普及した。この経過とその意義についての論争は、ダイアン・ポール著、中島理暁訳、「遺伝病スクリーニングのパラドクス フェニルケトン尿症のスクリーニング」(現代思想二八巻一○号一一八―一三一頁、二○○○年)に詳しい。長編への改作当時の最先端テクノロジーを参照しつつ、治療可能な精神発達障碍として、物語設定に取り入れたのであろう。 [19] 『アルジャーノンに花束を』、三三頁。 [20] Mashour GA, Walker EE, Martuza RL. Psychosurgery: past, present and future. Brain Res Rev 48:409-19, 2005. [21] Heller AC, Amar AP, Liu CY, Apuzzo MLJ. Surgery of the mind and mood: mosaic of issues in time and evolution. Neurosurgery 59:720-39, 2006. [22] たとえば、ロボトミーを受けた患者の手記に、Howard Dully and Charles Fleming, My lobotomy: a memoir. Crown Pub., 2007.がある。 [23] Kay KN, Naselaris T, Pregner RJ, Gallant JL. Identifying natural images from human brain activity. Nat 452:352-5, 2008., Miyawaki Y, Uchida H, Yamashita O, Sato MA, Morito Y, Tanabe HC, Sadato N, Kamitani Y. Visual image reconstruction from human brain activity using a combination of multiscale local image decoders. Neuron 60:915-29, 2008. [24] Levedev MA, Nicolelis MAL. Brain-machine interfaces: past, present and future. Trends in Neroscience 29:536-46, 2006. [25] 『アルジャーノンに花束を』、一八二頁。
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美馬達哉(みま・たつや)/1966年、大阪生れ。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学医学研究科准教授(高次脳機能総合研究センター)。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。著書に、『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(人文書院、2007年)。 |
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Tatsuya Mima 2009/01