第六章 「植物状態」とミニマルな意識

 

ベッドサイドのニューロエシックス

 ニューロエシックスが論じられるときには、しばしばエンハンスメントすなわち、病気の治療のために開発されてきた技術や医薬品が、健康人の種々の能力を増強させるために用いられる事態が注目される。しかし、もちろん、そうしたことだけが問題なわけではない。脳科学の進展と共に登場した新しい技術が、医療現場に変容をもたらし、その変容にともなって医療倫理が問い直されるという状況もまた、ニューロエシックスという問いの大きな一分野である。

 

 「尊厳死」の問題としばしば結びつけられてきた慢性的な意識障害(いわゆる「植物状態」)をめぐる医療とエシックスは大きな転換点を迎えつつある。そのきっかけとなった医療技術が、非侵襲的脳機能イメージングと総称される技術である。古くからある手法としては脳波なども含まれるが、とくに1990年代以降の発展が著しいのは磁気共鳴画像法(MRI)を利用して、脳機能を測定する機能的MRI(fMRI)の手法である。こうした方法で脳内の情報を解読し、測定対象となった人の心理的状態に関連したさまざまな脳活動の変化を推定することで、その人の思っていることをある程度は読み取ることができる場合もある(マインドリーディング)。たとえば、すでに紹介したとおり、視覚情報を処理する脳の後頭葉のfMRIを詳細に調べることで、その人が何を見ているかを推定することが可能と成りつつある。

 

 さて、こうしたマインドリーディングの手法は、脳科学の研究においては、研究者が、被験者の脳情報を解読することで、被験者の心の状態を読み取るという一方向的な関係性にとどまる。つまり、そこに存在するのは、観察する主体と観察される客体でしかない。しかし、この手法がベッドサイドに持ち込まれたときには、コミュニケーション技術の一部として使われる可能性を秘めている。すなわち、ある種の病に苦しむ患者や障碍者という被験者は、たんなる観察される客体として脳科学に対するのではなく、能動的にマインドリーディングの技術を通じて自己主張し、自分自身のニーズを他者に伝えることが可能となるのではないだろうか。

 

ロックトインと植物状態と昏睡

 交通事故や卒中のような脳障害によって、ある人間が外界の刺激に対して無反応状態に陥った場合にどんな病状の可能性があり得るかに関して、医学の教科書には次のような三つの分類が列挙される[1]

 

 一つはロックトイン(閉じこめ)症候群であって、意識もそれなりにしっかりしていて、覚醒しているけれども、全身麻痺によって自由意志で動かせる体の部分がほとんどないために、外界からは本人の思考が確認しづらい状態である。これは、脳卒中のようにある日突然に発病することもあるが、神経難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)のように、だいたい数年かけて、徐々に全身が動かなくなっていく病気の場合もある。とりわけ、重度のALSの場合には、呼吸のための筋肉や喉の筋肉の麻痺が生じると、自力での呼吸ができなくなり、人工呼吸器の助けが必要になるまで麻痺が進行することもある。

 

 もし、そうした病気や障碍に襲われ、何の援助も受けられないとすれば、ゴシック小説での「早すぎた埋葬」のテーマと同様、自分の意志を外界に伝達できないままに放置されることは、恐怖や絶望と結びつくことは確かだろう。意識があっても全身がまったく動かない状態は、このピタゴラス由来とされる古代ギリシャの厭世的な言い回しである「身体(ソーマ)は、魂(プシュケー)の墓(セーマ)である」を極限的に具現化しているようにも思える。

 

 ただし、眼球の動きや瞬きを自力で行うことができる場合には、文字盤を目で追う方法などによって、自分の意志を他者に伝えることができる。もちろん、想像するまでもないことだが、こうしたコミュニケーションは、本人にとっての非常な困難を伴い、周囲の人々の協力を必要とし、もし可能であったとしても時間もかかるものである。雑誌ELLEの編集長で、脳幹梗塞によって、1995128日に突然、ロックトイン症候群となったジャン=ドミニック・ボービーは、手記『潜水服は蝶の夢を見る』[2](シュナーベルによって映画化もされた)のなかで、全身麻痺になった自分の体を、「重たい潜水服を一式、着込んでしまったよう」と表現している。驚くべきことに、彼は、その手記を、家族や友人や介護をする人々の援助を受けつつも、文字盤と左目の瞬きだけで書き上げたという。

 

 周囲からの刺激に反応しない状態の第二のタイプは、「植物状態」かそれに類似した状態である。覚醒はしている(目覚めているので、目を開けていることもあるという意味)が、「意識(外部の環境や自分自身のことを意識するという意味)」のない状態である。一般的には、3ヶ月程度以上にわたって回復が見られない慢性的ないし遷延性の「植物状態」のことを指すことが多い。なお、植物状態で使われているvegetativeという語は、人間を野菜(vegetable)呼ばわりして貶める意図ではなく、命名者であるB・ジェネットとF・プラムによれば、18世紀から「知的活動や社会的活動なしに、たんに身体的に生きていること」、「感覚や思考はないが、成長し発展する有機体」を意味する用語として使われていたという[3]。また、「植物状態」という診断そのものは、その後にどういう経過をたどるか(予後)を決定するものではなく、適切なリハビリテーションによって、程度の差はあれ、回復することも多い(奇跡的というほどまれではない)[4]。事故などによる頭部外傷によって発症1ヶ月目に遷延性植物状態と診断された患者434人を対象とした調査では、1年後には、33%が死亡しているものの、程度の差はあっても62%が意識を回復しているという。また、MRIを用いたある研究では、植物状態に近い状態から6年後と19年後に意識をある程度回復した二人の患者では、脳細胞の軸索が再生して、脳可塑性が生じたために、病状の改善がみられたという可能性が指摘されている。

 

 三つ目が、昏睡であって、意識がないだけでなく、覚醒もしていない状態を指している(全身麻酔なども含まれる)。健常人の睡眠と似た状態であるが、いくら刺激しても起きない、というのがもっとも正確な表現だろう。このなかでもっとも重症である状態が「脳死」である。

 

 つまり、単純に分ければ、ロックトイン症候群は、意識は正常で重度の運動麻痺によるコミュニケーション障害だが、「植物状態」や昏睡は、意識障害であってコミュニケーションすべき心的内容が欠けていることになる。しかし、最初に指摘したとおり、脳という身体(ソーマ)の一器官から非侵襲的に魂(プシュケー)の状態を読み取ることができるかもしれない技術の出現によって、「植物状態」の考え方が、いま大きく変化しようとしている。

 

植物状態に見いだされた「意識」

 植物状態を覚醒してはいるが意識のない状態とみなす伝統的な考え方に一石を投じたのが、2006年に発表されたケンブリッジ大学のオーウェンらによる研究である[5]

 

 彼らは、20057月に交通事故によって「植物状態」となった25歳の女性を被験者として、家族の書面による同意を得た上で、翌年1月に、fMRIによる実験を行った。「テニスをしていると想像してください」、「家の自分の部屋を歩き回っていると想像してください」という二つの運動想像課題を別々に口答で指示したところ、健常人が同じ運動想像課題を行っているのとよく似た脳活動パターン(テニスと部屋を歩き回るのでは全く異なる)が観察できたという。つまり、fMRIでの実験結果を信じるならば、意識がない「植物状態」のはずのこの女性は、実際には動けなかったとしても、外部からの指示に従って、二種類の異なった運動を心の中で想像していたことになるのだ。

 

 言い換えれば、「植物状態」とされている状態のなかには、まるで究極のロックトイン症候群のような病状が含まれていて、ボービーが使っていた文字盤よりもハイテクな脳科学を応用したコミュニケーションのツールを利用すれば、意思疎通ができるかもしれないという可能性が示されたのである。こうした事実が、従来の「尊厳死」をめぐる議論に大きな影響を与えることはいうまでもないだろう[6]

 

 

 「植物状態」とされる人々であっても、部分的には意識を保ち、なんらかの内的経験をすることが可能ではないかと示唆する脳科学研究は、1990年代の半ばから存在した。だが、それらは、「植物状態」であっても、言語の音刺激や視覚刺激や触覚・痛覚の刺激に対して脳活動が観察できるという現象を報告したものであり、意識の存在の証拠ではなく、まったく逆に、心のモジュール説を支持するデータとして解釈されてきた。つまり、知覚や運動や言語に関わる脳内システムは、意識内容とは独立した一つのモジュールとして(意識無しに)活動することが可能である例と見なされたのだ。たとえば、数日に1回、脈絡のない単語を口にする「植物状態」の患者の詳細なケースレポートのタイトルは『精神なき単語』となっている[7]。このモジュール説を徹底させる立場からすれば、テニスや散歩を想像しているのと同じ脳活動が生じていても、その「植物状態」の患者が、それらのことを意識内容として意識しているかどうかはわからないとも解釈できるだろう。

 

こう考えてみれば、2006年のオーウェンらの研究が、「植物状態」での意識の存在の可能性を示すものとして受け入れられたのは、単に新データの発見というだけではなく、「植物状態」での意識をめぐるもっと根本的な解釈枠組みの変化が背景としてあったと見る必要がある。

最小意識状態(MCS)の発見

そうした視点から重要と思われるのは、神経内科医だけでなく、リハビリテーション医学者や心理学者も含んだグループが、2002年に提唱した「最小意識状態(minimally conscious state)」という概念である[8]。慢性的な意識障害であって、意識が部分的であったり、ムラ(時間的変動)があったりする場合でも、少しでも意識の片鱗が認められれば、定義上意識のない状態である「植物状態」とは異なる「最小意識状態」と呼ぶべきだ、というのがその提案の骨子だ[9]

 

最小意識状態は、「自分自身または外界を意識しているという行動上の証拠が最小ではあるが確実にある」状態として定義され、具体的には次のなかの一項目以上が存在していることを診断基準としている。

 

●単純な命令に従う

●正誤に関わらず、身振りや言語でイエス・ノーが表示できる

●理解可能な発語

●合目的的な行動(意味のある状況での笑いや泣き、質問に対する身振りや発声、物をつかもうとする行為、物をさわったり握ったりする、何かを見つめたり、目で追ったりする、など)

 

ミニマル(最小)という語には、「どんなに小さくても」という漸近線的なニュアンスがあり、これまで(米国であればナーシングホームに)「植物状態」として放置されてきた人々に対して、たとえミニマルであっても、意識の痕跡やコミュニケーション可能性を探し出す努力を行い、適切なケアを提供しようとする意志と希望の現れを見いだし得るからだ。

 

臨床の現場という観点からみれば、ここで重要なのは、最小意識状態という考え方では、意識のレベルの時間的変動に注意を向けている点である。医療者のなかでも専門医師が、一人の患者と接する時間はそう長いわけではない。変動する意識レベルがベストになった状態を的確にとらえて判断するには、医師によるきめ細かい臨床観察だけではなく、日々に患者に接している家族や友人や介護者や看護師の協力関係、すなわち本当の意味でのチーム医療が必要となる。

 

さきに紹介したオーウェンらの論文の追補のウェブデータでは、患者の後日談として、事故からおよそ1年後に、2回だけではあるが、見せられた鏡の方へ顔を向けてじっと見つめたと記されている。このことは、研究被験者となった患者が「植物状態」から最小意識状態へとゆっくり回復する過程にいたことを示している。ハイテクな脳科学機器による研究の根っこには、「植物状態」を意識のない状態として切り捨てることなく、そこでのミニマルな意識を見逃さないための、丹念で注意深いケアや介護によって支えられた臨床の現場が存在している。

 

こうした具体的な現場との関わりを考えてみるならば、最小意識状態という概念の提唱に対して、意識のない「植物状態」と最小意識状態との選別と価値付けとしてのみとらえることは、あまりにも一方的で表層的な見方だろう。「植物状態」へのfMRIの臨床応用は、定義がそうなのだから「植物状態」には意識はないはず、という切り捨ての論理の呪縛から解放されて、種々の方法によってミニマルな意識を検知しようとするアプローチの一つに過ぎない。じっさいに重要なのは、脳科学技術そのものではなく、そうした技術を臨床の場で使いこなそうとする意志の問題だからだ。そして、そのことは、遷延性植物状態や最小意識状態の患者たちを、どのような存在として見るかという私たち自身のまなざしのあり方と密接に関連している。

 

医師で医療倫理学者のJ・フィンは、こうした患者たちを、生と死の境目という国境線によって曖昧な場所に置かれて苦しんでいる「不法移民」に例えている。つまり、生きている人間としての十分な権利や保護を与えられることなく、うち捨てられ、見捨てられた状態にあるというのだ。彼は、意識ある人格としての人間にだけ尊厳があるという考え方(バイオエシックスではパーソン論とよばれる)を批判して次のように述べる[10]

 

「そうした人々(引用者註:最小意識状態の患者たち)が、生の領域に帰国することを妨げているのは私たちなのだ。彼らは、不自然な存在として、私たちの目から遠ざけられ、研究の対象としても無視されている。彼らが排除されているのは、まさに私たちが精神が生きているということを重視しているからだ。彼らは新しいタイプの差別、たいていの差別と同様に『善意』から生まれた差別の犠牲者なのだ。」

 

魂(プシュケー)が個的なものを指し示す限りにおいて、確かに病気や障害によって不自由になった身体(ソーマ)は、魂を閉じ込める墓となるだろう。しかし、魂がつねに「共」として在るのだとすれば事情は異なる。魂が「共」である限りにおいて、生きている身体は、たんに生きているという事実によってつねに複数の諸身体とともに在ることになるからだ。つまり、諸身体の間には、どんなにミニマルのものであっても、「共」としてのコミュニケーションがつねに存在している。身体が孤立することなく、二つ、三つ、そしてもっとたくさんの身体として共在する限り、それは墓(セーマ)ではない。

 

確認しておくが、ここで言いたいのは、別に神秘的な共感やテレパシーといったもののことではない。言語的でないとしても、私たちがいま持っている科学技術によって数量化できないとしても、ある種の社会的関係性が、臨床の現場に実在している。それは、ハイテクを用いるかどうかと無関係に、身体からミニマルな徴を読み取ろうとする意志に支えられている。たとえば、ALSによってほぼロックトイン状態となった母親を看取ったある患者家族は、ごく当たり前のこととして、こう語っている[11]

 

 

そして、このような関係性においては、介護者が読み取った内容が患者の本意から大幅には外れていないことは、患者が穏やかに長く生き続けることから証明できるだろう。それが大幅に間違っていたり、患者の要望をわざとキャッチしない環境であったりすれば、大方の者は体調を崩してしまうので、そう長くは生きられない。

 

 

たしかに、脳科学技術は、重度意識障害と見なされてきた人々が閉じこめられている潜水服を開ける鍵の一つなのかもしれない。鍵もなく途方に暮れているより、鍵があると知っている方がすばらしいに違いないだろうが、鍵の存在だけでは十分ではない。研究者であれ、医療者であれ、介護者であれ、家族や友人であれ、共にいる誰かの手が鍵を回すのでなければ。


 

[1] Laureys S, Owen AM, Schiff ND, Brain function in coma, vegetative state, and related disorders. Lancet Neurol 2004; 3:537-46.

[2] ジャン=ドミニック・ボービー著、河野万里子訳、『潜水服は蝶の夢を見る』、講談社、1998年(原著1993年)

[3] Jannet B, Plum F, Persistent vegetative state after brain damage: A syndrome in search of a name. Lancet 1972; 1:734-7.

[4] The multi-society task force on PVS, Medical aspects of the persistent vegetative state: Second of two parts. NEJM 1994; 330:1572-9.

[5] Owen AM, Coleman MR, Boly M, Davis MH, Laureys S, Pickard JD, Detecting awareness in the vegetative state. Science 2006; 313:1402.

[6] Fins JJ, Shapiro ZE, Neuroimaging and neuroethics: clinical and policy considerations. Curr Opin Neurol 2007; 20:650-4.

[7] Schiff N, Ribary U, Plum F, Llinas R, Words without mind. J Cogn Neurosci 1999; 11:650-6.

[8] Giacino JT, Ashwal S, Childs N, Cranford R, Jennett B, Katz DI, Kelly JP, Rosenberg JH, Whyte J, Zafonte RD, Zasler ND, The minimally conscious state: Definition and diagnostic criteria. Neurol 2002; 58:349-53.

[9] 日本での「植物状態」の定義(日本脳神経外科学会植物状態患者研究協議会、1972年)は、簡単な命令に従ったり、物を追視する状態を含んでおり、こんにちの最小意識状態をも含んでいる。

[10] Fins, JJ, Border zones of consciousness: Another immigration debate?, AJOB 2007:7:51-54.

[11] 川口有美子「ブレインマシンの人間的な利用」現代思想2008; 36(7):98-111, p. 103.

 

 


 

 

 

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美馬達哉(みま・たつや)/1966年、大阪生れ。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学医学研究科准教授(高次脳機能総合研究センター)。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。著書に、『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(人文書院、2007年)。

 

 


© Tatsuya Mima 2009/01
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