○第106回(2011/7)

 『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』(2011年4月 講談社)というタイトルに魅かれて、日垣隆の新著を読んでみた。

 日垣のような、歯に衣着せぬ率直な物言いを、ぼくは嫌いではない。そして、“「自分の頭で考える」には、改めて紙の本が最も適切だと思い知らされた。……紙から電子書籍へは、交代してゆくのではない。「考える読書」と「検索」は違うのだ。”(P8)と「まえがき」から、やっぱりいい事言うじゃないか、と安心してしまったのがいけなかった。

 “今のところ個人で電子書籍をオリジナルで売っている書き手は、私のほかにあまりいません。いたとしても、実質の売り上げは私がトップだと思います。”(P18)というのはその通りかもしれず、“有料メルマガにクレジットカードを使って課金するという例は、こうして私が日本で第1号になった”(P24)のも本当なのだろうし、“物書きの表現手段として、動画など使ってたまるか、と思うのです。動画や写真は使わず、読者にイメージを広げてもらう文章力で勝負しなければ、物書きになった意味がない。”(P39)という心映えも立派だと思う。しかし、1着数十万円のオーダーメードのスーツを90着持っていることや、箱根駅伝のコースを一人で駆け抜けることができることを自慢されても、読んでいる方は白けるばかりだし、挙句の果てに、“私はあいにく、バイアグラを服用したことがない。必要ないからである(笑)。”と威張られるに至っては、「この人は一体何を伝えたいのだろう?」と、首を傾げざるをえない。

 せっかくの、“「電子書籍に紙の本が今にもすぐ取って代わられる」だの、「2011年にはテレビや新聞が消滅する」だの、「2011年は新端末元年」だのと、大騒ぎしている狼少年ライターがあちこちに出没しています。そういう方たちこそ、いずれ5年もせずに「消えてゆく」でしょう。(P54)”という痛烈なメッセージが、陰に霞んでしまう。

 一方、そんな日垣に、“‘11年にテレビや新聞が残っていたら、責任をとって筆を折るのだろうな?佐々木さん”と問い詰められる佐々木俊尚が、およそ筆を折るつもりなど感じさせずに刊行したのが、『キュレーションの時代』(2011年2月 ちくま新書)である。

 まず佐々木は、今や“情報が共有される圏域がインターネットによってどんどん細分化され、そうした圏域を俯瞰して特定するのが非常に難しくなってきている”、そして “ビオトープという言葉がもっとも的確に、そうした小さな情報圏域をイメージできる”と言う(P43)。「ビオトープ」とは、「小さな水たまりに細い水流が流れ込み、小エビやザリガニやトンボやアメンボが集まってきてつくられる小さな生態系」である。

 そうした時代には、“目を皿にして、その情報を求めている人たちの特質をつかみ、そうしてその人たちがどのようにして情報を得ているのかということを調べ上げ、その小さな支流のような情報の流れを特定していく”ことがコンテンツの売り手にとって大切であり、「新聞やテレビ、雑誌を介して情報をただ流す」という方法は、ほとんど無力になりつつある。ゆえに、マスメディアやマスメディアが先導した「記号消費」の時代は去ったのだ、というのが佐々木の主張の眼目である。

 一方、コンテンツを消費する側にとっては、インターネットの情報の大海は、ますます巨大化し、ますます混沌としたものになっていく。それを有意義に利用するためには、即ち自分にとって本当に必要な情報に出会うためには、あるいは前段の表現を使えば、自分が棲むべきビオトープを発見するためには、強力な助けを必要とするようになっている。そのための手段として、他人の視座に「チェックイン」することが、有効であり必要であると佐々木は力説する。

 「チェックイン」とは、「フォースクエア」の「位置通知サービス」における用語だ。このサービスは、「自分の居場所を友人たちに発信し、その場所に関するさまざまな情報をみんなで共有する」もので、ある場所に「チェックイン」したことを発信することによって、その場所に関する多くの情報やサービスを提供されるのである。いわば、自らの位置を明確にすることによって、必要な情報を拾い上げるパースペクティヴを持つということだ。

 「他人の視座にチェックイン」する、とはそのサービスを更に拡張したもので、ある特定の場所をある特定の人物の目から見た世界を共有するのである。その場所についてその人物が持っている情報、その場所に関してその人物が分析した内容に、素早くそして遺漏なくアクセスするというわけだ。「フォースクエア」では、「ロケーションレイヤー」というサービスで、これを実現している。すぐれた観察者、分析者の視座に「チェックイン」すれば、おそらく同一の場所が、まったく違った風貌で、まったく違った光を浴びて浮かび上がってくる、というわけだ。

 佐々木によれば、そうした「視座」を提供する人を、英語圏のウェブの世界では「キュレーター」と呼んでいる。そしてキュレーターが行う「視座の提供」が「キュレーション」なのである。

 キュレーターは、日本語に訳せば博物館や美術館の「学芸員」、その仕事は世界中の芸術作品の情報を収集し、それらを集め、一貫した意味を与え、企画展として成り立たせることである。それは“情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、ソーシャルメディア上で流通させる行いと、非常に通底している。だからキュレーションということばは美術展の枠からはみ出て、いまや情報を司る存在という意味にも使われようになってきている”と、佐々木は言う。

 黒人とネイティブアメリカンの血を引くジョゼフ・ヨアキムの絵画を、たまたま家の前を通りかかった時に見いだしたシカゴ大学のカフェ経営者ジョン・ホップグッド、ブラジルのミュージシャン、エグベルド・ジスモンチを16年ぶりに来日させた音楽プロモーターの田村直子、ヘンリー・ダーガーの『非現実の国で』の小説原稿と画集をダーガーの死後に発見した大宅のネイサン・ラーナーなど、つくる人とそれを見いだす人の対が紹介される。芸術作品が多くの人の前に現れるプロセスでキュレーターの存在は欠かせないものであり、確かに佐々木のいうように、今や「情報」にとってもそれは同じであろう。
 だが……。

 情報を求める人が、影響力を持つ特定の人物に共感・共鳴し、その人物の視座から世界を眺めることによって、「自己の世界の意味的な境界」を組み替えていく、その「特定の人物」とは、多くの場合、「つくる人」とともに新しい芸術世界を共同製作する、「見いだす人」である、こうした構造は、これまでもずっとそうなのであって、今になって出現したものではない。「ITの伝道師」佐々木俊尚が言うように、社会のIT化の進展によってはじめてそうなった訳ではないのだ。(ジスモンチ公演の観客を探すに当たって、田村直子もまた、『現代ギター』という老舗音楽雑誌を大きな拠り所にしている。)

 『論語』、『仏典』、『聖書』を読む人は、その都度、孔子やブッダ、イエスとその弟子たちの「視座にチェックイン」して、世界を読み解こうとした、書物はそのようにして読み継がれてきたのである。

 むしろ、アマゾン、アップル、グーグルといった独占的IT企業が、自らの「プラットフォーム」の優位の確立のために自らの配下に収めるコンテンツの量のみを争う今、一つひとつのコンテンツの質はもはや省みられることもなく、一冊の本をじっくりと読み込み、真に著者の「視座にチェックイン」するという作業が、どんどん薄まってきたと言えるのではないだろうか。

 「アウトサイダー・アート」とキュレーションの話題に絡んで、佐々木はカミュの『異邦人』に言及する。

 “『異邦人』はむかし、実存主義ブームのころに一世を風靡した小説で、ごく平凡な生活を送っていた男が「太陽がまぶしかったから」というわけのわからない理由で人を殺してしまう話です。「きょう、ママンが死んだ」という鮮やかな書き出しの文章でも有名ですね。
この小説のコンセプトというのは要するに、平凡な人間であっても社会や他人との小さなきしみが生じてしまうと、いつでもすぐにアウトサイダーになってしまう。そういう「ゆらぎ」の可能性がつねにあるということを描いています。“(244)

 わが愛する『異邦人』を、こんなにも薄っぺらに紹介してしまう人の視座には、やはり「チェックイン」しかねるのである。


 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)