○第107回(2011/8)

 この8月に翻訳・刊行されたランシエールの『無知な教師 知性の解放について』(法政大学出版局)はとても示唆的、刺激的な本である。朝、新刊を仕分けする時に目に留まり、以後ぼくに向かって磁力線を発し続けるようなこの本を購入して読んでみると、「読むべし」との直観に狂いは無かった。書店現場で仕事をしていると、このようなことが時々ある。

 王政復古によりオランダへの亡命を余儀なくされたジョセフ・ジャコトは、フランス語の教師としてルーベン大学の教壇に立った一八一八年、たった一冊の対訳本を配布するだけでオランダの学生たちがフランス語を着実に習得していくのを、目の当たりにする。この出来事はジャコトに決定的な啓示を与えた。「人は、教師の知識を学ぶのではない、そして学ぶために必要な知性は、すべての人に平等に与えられている」と。

 実際、子供は、のちにもっともよく使うことになる言葉を、教師=説明家が現れるよりも前に、我がものとする。人は意志さえあれば、説明する教師なしに独力で学ぶことができるのである。
むしろ、教師=説明者こそが、無能な者を必要とし、無能な者を作り上げるのだ。「旧式の教育」は、劣った知性と優れた知性があると主張し、知性をもう一つの知性に従わせることで、「愚鈍化」するのである。

 ただし、ルーベンの生徒たちは説明する教師なしに習得したが、だからといって教師なしにというわけではない。彼らは以前は知らずにいて、今では知っている。ということは、ジャコトは何かを教えたのだ。 

 こうして、二つ目の啓示が与えられる。即ち、「人には、自分が知らないことを教えることができる」。フランス語で法学の授業をする代わりに、ジャコトはオランダ語で弁論することを学生たちに教えた。ジャコト自身まったくオランダ語を解さなかったままに。

 「知性の平等」は、出発点であり、決してゴールではない。このことを理解しない「博識な教師」は「その学識のせい」で、学習を台無しにしてしまう。「そういう教師は答えを知っていて、彼がする質問は生徒を自然にそこへと導いてしまう」からだ。そうではなく、学習者には、「自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが必要であり、またそれで十分」なのである。「教師とは、探求者をその人自身の道、その人がたった一 人で弛まず探求しつづける道に引きとどめておく者」なのだ。

 「教育学の神話は、劣った知性と優れた知性があると主張する」が、「二つの知性があるのではなく、人間の技による営みとその産物はすべて同一の知的潜在能力によって実践されているのだと認めることが重要なのである。」「常軌を逸しているのは、不平等と支配とに執着する者、すなわち、自分が正しさを有していることを欲する者だけである。」

 ルーベンの学生たちがフランス語を理解したのは、対訳本の左の頁と右の頁を比べる訓練によってではない。大切なのは左右の頁をまたぐ能力ではなく、「考えるところを他人の言葉を使って言う能力」なのだ。このことこそ、本書でランシエールがジャコトの「言葉を使って」、まさに上手くやってのけていることだと言える。

 そうして、「知性の平等」を前提とし、知性を「観念の結合である以前に注意であり探求である」と見定めることによって、本書の議論は、ランシエール自身の「分け前なき者による政治」、ネグリやヴィルノらの「マルチチュード」についての議論、そしてホロウェイの「アイデンティティ」批判へと架橋され、かつ、それらに不可欠な礎石であると言える。

 ランシエールと同様、ぼくもまた、上司、先輩が、新人や若手の「知性」を「劣ったもの」と定位し、自らの知識を埋め込もうとする「社内教育」には、早くから疑問を持っていた。1991年に上梓した『書店人のしごと』(三一書房)で、次のように書いている。(P28「教育とは……」)

 「実をいうと、最近ぼくは、社内教育というものの有効性、可能性そのものに、疑問をもっている。
教育には、本性上、個々人の学習が先行する。学習が自由意思による行為であるほかない以上、何を教えるか、などという方向付けは、そもそも無意味、あるいは障害にさえなるのではなかろうか。
幸い、我々の職場(書店)は、学習の材料には事欠かない。扱っている商品自体が、まさにそれである。内容は多種多様、時の流れとともに大きく変わる。これだけ覚えれば、これだけ知れば一人前という里程標は存在せず、一方、いかなる知識も、結果的に仕事の質を上昇させる。だから、教えるべき最も重要なものは、さらに言えば、教えうる唯一のものは、いろいろなことを知っていこうとする姿勢であり、それは我々先輩自身が身をもって示すほかないのである。学習者の立場で言えば、先輩からその姿勢を盗む以外にないのである。それが、教育の第一歩である。」

 その数行後に、ぼくは、「教育の第二歩」は、学習を邪魔する状況から学習者を解放すること、と言い、「教育に第三歩はない」と言い切っている。

 書店という職場では、とりわけこのように言い得ると思う。扱っている商材自体が、そのまま学習の対象であり材料である上、その内容(コンテンツ)は、時と共に移りゆく。売れる商品もその時々で違ったものになるから、過去の知識がそのまま役に立つ訳ではない。むしろ、時代の潮目を、若い人たちに教わることも多い。

 ぼくらの商材を、そして時代の要求・欲求を知るには、商材である本を読むしかない。後輩たちの懐具合も気になるぼくは、図書館を利用することを勧めた。そして、姿勢を「身をもって示すほかない」のだから、ぼくもまた、大いに図書館を利用して、本を読んだ(もちろん、買いもした(笑))。

 再び『無知な教師』に戻ると、次の一節が、我々の商材である本の力を、大いに支持してくれていて心強い。

 「二つの知性の間に置かれた共通のモノはこの平等のあかしであり、二重の意味でそうなのだ。まず、物質的なモノは「二つの精神の間を連絡する唯一の橋である。」橋は通路でもあるが、保たれた距離でもある。説明は一方の精神によるもう一方の精神の消滅だが、書物の物質性は二つの精神の間に平等な距離を保つ。」

 「書物は知性の平等である」というランシエールの宣言に、大いに納得し、勇気を与えられ、心から賛同する所以である。


 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)