○第108回(2011/9)
ハンス=ゲオルク・ガダマーの『真理と方法』(初版1960年)は、20世紀哲学を代表する著作でありながら、日本での翻訳作業は遅れた。1986年に、漸く第一部の翻訳が法政大学出版局の叢書ウニベルシタスの一冊として出たとき、ぼくはすぐに買い求めて読み、「待望久しい翻訳」と書評した記憶がある。程なく第二部以降の翻訳が刊行されることと信じて待っていたが、翻訳・刊行には想像以上の困難が伴ったようで、それこそ「待望久しい」第二部の翻訳が刊行されたのは、22年を隔てた2008年のことであった。
ぼくはといえば、刊行にさらに遅れること三年、今年になって改めて書棚の隅から第一部を取り出して、読み始めた。昨年あるブックフェアに並べた時に買っておいた第二部までを続けて読んだが、やはり面白い。「20世紀を代表する哲学書の一つ」と讃えられるだけのことはある。第三部の翻訳刊行=完結を待ち望む気持ちがさらに高まった。それまでに同じだけの年数がかかるとなると、ぼくは生きてその本を眼にすることができるどうか、甚だ心もとないのであるが…。
ガダマー解釈学の大きなテーマである「解釈」「伝承」「作用史」などは、もちろん書物の役割と直結するテーマであり、じっくりと読み込みたいと思っているが、今回は第二部第3節「作用史的意識の分析」から、前回のコラムと通底する箇所を拾ってみたい。それは、ガダマーがヘーゲルの「経験(Erfahrung)」概念を、比較的好意的に論じ、批判的に継承しようとしている箇所である。ガダマーは、歴史と現在の全面的媒介を主張するヘーゲルとの対決は、解釈学的問題にとって決定的な意義をもつと見る。
「ヘーゲルにおいて経験がもつ歴史性の契機が承認される、彼は経験を、自らを成就する懐疑主義と考えた。」「ヘーゲルによると、経験は意識の反転(Umkehrung)という構造をもち」、それゆえ「経験はそのひとつの知の全体を変え」、「厳密に言えば、同じ経験に二度と〈遭う〉ことはできない。」(この辺りは、マトゥラーナ、ヴァレラの「オートポイエーシス」理論を彷彿させる。)
ヘーゲルは「経験」の真の本質を「反転」だと主張する。言い換えれば、「経験はまずもってつねに無効性(Nichtigkeit)の経験である。無効性というのは、考えていたのとは違うということである。」
「経験豊かなと呼ばれるひとは、単に多くの経験によって(durch)そうなったというだけでなく、新しい経験に向かって(für)開かれてもいる。経験豊かなひとにとっての経験の完成、経験あるひとの完成したあり方は、そのひとがすべてのことをすでに、ほかのひとよりよく知っているということにはない。経験豊かなひとは、むしろ反対に、徹底的に非独断論的であることがわかる。そのひとは多くの経験を積み、経験から学んでいるがゆえに、新たに経験し経験から学ぶ能力が特に大きい。」それに対して、「一方が他方を保護するという関係の弁証法は、このような仕方で、つまり、支配意志の反省的形態としてあらゆる人間関係に浸透することにより、幅を利かすようになる。相手を先んじて理解しているという主張は、実際には、相手の主張を遠ざけるという仕方で働く。そのような主張は、たとえば、教育的な関係(これは相手を権威主義的に保護する場合のひとつである)において、よく知られている。」この辺りは、前回このコラムで取り上げた『無知な教師』において、ランシエールが所謂〈教育〉を批判する仕方と通底する。
このような「経験」概念の吟味の結果、ガダマーは言う。
「この意味での経験は、むしろ、必然的にさまざまな幻滅を前提とし、ただ幻滅によってのみ獲得される。経験はまずもって苦く不快な経験であるということは、たとえば、経験をわざと否定的なものと見せようということではなく、その本質から直接洞察されることなのである。」
「痛い目に遭わんと、なかなか気がつかへんし、覚えられるもんではない。」とぼくは言い続けてきた。だから、ぼくが部下や後輩にすることができる唯一の〈教育〉とは、「過度なダメージを受けることのないように、上手に失敗させてあげること」なのであった。
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