○第109回(2011/10)

 10月1日、社会学者の大澤真幸氏をジュンク堂書店大阪本店にお招きし、トーク&サイン会を開催した。『〈世界史〉の哲学 古代篇』『〈世界史〉の哲学 中世篇』の刊行を記念し、大澤さん自ら大阪でのイベントを希望されたことを受けてのものである。大阪本店がある堂島アバンザ前の広場で待ち構えて大澤さんにお会いしたのは、2008年夏、『逆接の民主主義』(角川書店)刊行記念のトークイベントを、やはり大阪本店で開催して以来のことだった。

 トークは、『〈世界史〉の哲学』のモティーフについてで、“私たちはともすれば、「少なくとも文字があるところには〈歴史〉があるだろう」と考えるが、モンゴル史の世界的権威岡田英弘先生によれば、〈歴史〉という文化をつくったのは、2つの地域しか無い。中国と地中海である。”と始まり、ユダヤ=キリスト教抜きには西洋の歴史はもちろん、今や西洋が地球大に拡大した中で、〈世界史〉は論じられない、とまとめられた。

 ぼくは『〈世界史〉の哲学』を、雑誌『群像』連載開始時点で、現時点での大澤真幸の到達点と感じ、単行本化を待望していたので、大澤さんからのオファーは嬉しかった。と同時に、この機に一度大澤真幸の仕事をまとめて紹介してみたい、その魅力をより多くの人に知って欲しいと、ジュンク堂書店PR誌『書標』特集に「大澤真幸の世界」を書くことを申し出た。結果的にたいへんな苦労を負わせることになった(原稿が遅れたこともあるが、そもそも「大澤真幸の世界」はとても難解であり、術語も独特のもので、慣れていない人には校正作業もたいへんであったに違いない)が、編集部は快諾してくれ、『〈世界史〉の哲学』書評、10.1トークのまとめ、「大澤真幸の世界」と、ぼくの3本の原稿を載せてくれた。『書標』11月号は、まさに「大澤真幸特集」となる。

 改めて感じるのは、ぼくがそれだけ大澤真幸に思い入れを持って追いかけてきたこと、そして『書標』への思い入れの強さだ。入社した1982年以来、ぼくは足掛け30年間、のっぴきならない事情で休んだ2〜3回を除き、毎月休まず『書標』に書評を寄稿してきた。当初から書店のPR誌としては贅沢な作りで、書評を寄せた号を郵送することによって、ぼくは何人もの著者と知り合った。大澤真幸氏と親しくなったきっかけも、『書標』を送ることによってであった。

 書評だけでなく、巻末の「本屋うらばなし」も何度も書いている(最初の著書『書店人のしごと』にも収め、1章をなした)し、特集を「ジャック」したことも一度ならずある。原稿依頼が回ってくるのを厄介がっている同僚や後輩を見て、どうしてもっと『書標』を「利用」しないのだろうと、ずっと思っていた。この本を売りたい、こんな本の世界を紹介したいという、多くの書店人が持つ、或いは持つべき第一のモチベーションを表明し訴えていくのに、店を訪れてくださる読者が気軽に手に取ってくださる、こんなに便利なアイテムは無いのに、と。

 苦労して(そしてそれ以上に編集の人たちに苦労させて)特集原稿も校了した後、大澤真幸著『社会は絶えず夢を見ている』(2011.5刊)を読了、その「第三講 リスク社会の(二種類の)恐怖」に共鳴した。

 「リスク社会」とは、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズらが提唱する現代社会のありようで、「さまざまなリスクに取りつかれた社会」である。リスクはとりたてて現代的な特徴ではないのではないか、どんな社会にもリスクはつきものではないか、との反論が予想されるが、近代以前には、「危険」はあっても「リスク」は無い。「リスク」とは、単なる「危険」ではなく、「私たちが何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された―不確実な―損害のこと」だからである。「選択」が前提である以上、近代以降、社会秩序を律する規範やその環境が、人間の選択の産物であるとの自覚が確立した後でなければ、そもそも、このように定義された「リスク」は現れようがないのである。例えば、産業化(の選択)による自然環境破壊、原子力発電(の採用)による(遂に実現してしまった)「リスク」を考えれば、分かりやすい。あるいは、遺伝子工学などの「進歩」によって、「自然」が今や、あらかじめ存在していて、人間があとから消極的に介入する対象ではなく、「自然」そのものが人間の自覚的な構築の産物となりつつある状況や、徹底的な「工学」化によって世界大の破綻を迎えた金融の世界を考えてみればよい。

 主に数学的世界観に裏打ちされた科学技術の進展に伴って出現してきた「リスク社会」であるにも拘らず―実は、であるが故に―、「リスク」そのものは計算不可能である。バブルのピークは、その時点では全く認知不可能であるし、地球温暖化がいつ人類や地球に壊滅的な打撃を与えるかは、誰にもわからないのだ。

 そうした「リスク社会」を、大澤は、「第三者の審級が、本質においてのみならず、実存に関しても空虚化した時にやってくる社会」と捉える。あらゆる問題群を「第三者の審級」に引きつける大澤らしい議論だが、説得力はあり、何よりも、「リスク社会」特有のえもいわれぬ「不安」をうまく説明できる。自らの自由な「選択」がその結果に責任を負わなければならないという状況は、まさに「他者」としての規範を追放した(=が失われた)状況であるからだ。人間の選択に、もはや礎石はない。これこそ、リスク社会と重ねあわされる「ポストモダン」の到来にあたって、宣言されたことであった。

 この流れを、人間の組織行動に当てはめると、次のようになる。

 人は生きるために行動する。行動するための集団=組織をつくり、それに属する。組織には、目的・理念や規範がある。組織もまた生命体といえるから、自己保存と自己拡張が目的・理念のための手段である。規範は自己保存・自己拡張のための手段であると同時に、保存の対象でもある。
組織の拡張に伴って、自己保存と自己拡張が大仕事となり、知らず知らずのうちに目的化することが多い。そうして、当初の目的・理念、規範がだんだんとぼやけてくる。また、組織の拡張には、他者との融合・再編も含まれる。再編・改編が複雑化していくと、当初の規範はどんどん影が薄くなり、場合によっては、消え去ったも同然となる。これもまた、大澤のいう「第三者の審級が空虚化した」状態である。「第三者の審級」の定義は「規範の選択性が帰属せしめられる抽象的な身体の座」であるからだ。規範そのものが存在しないならば、それが「帰属せしめられる座」もまた、「空虚化」するのは、当然である。

 大澤にしたがえば、「第三者の審級」が「空虚化」したときに、「リスク社会」が到来する。その時必ず随伴するのは、「不安」である。逆に言うと、組織に「不安」が蔓延し始めたとき、「第三者の審級」が空虚化し、その組織が「リスク社会」と化していることを、想定しなくてはならない。
そして、企業は、典型的な、「組織」である。


 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)