○第113回(2012/2)

(承前)

 コンピュータ導入が書店現場にとって両刃の剣であるとは、どういうことか?とんでもない結果を生む、コンピュータの誤った使い方とは何か?

 それは、一言でいえば、書店員がデータしか見なくなってしまうことである。そのことによる弊害は書店の主体性を破壊し、書店を倉庫化する最大の原因となっている。書店の主体性とは、「何を置くか?」「どのように置くか?」である。

 その最も象徴的な場面は、書店員が新刊を並べようとする際に展開する。

 書店員が数点の本―その日に到着した新刊と、その新刊を置こうと考えた書棚に既に並んでいた本を、PCの前に持って来る。書店員は各々の本のISBNを入力して、それぞれの書誌画面を呼び出す。

 新刊書と既に並んでいた本とでは、調査対象が違う。既に並んでいた本について書店員が書誌画面で調べるのは、その本のそれまでの売れ数である。他の支店の売れ数も調べてみる。よく売れていれば、そのまま棚に残す。時には追加発注をする。全く売れていないか、売れ数が少ない本は、在庫冊数を減らすか、場合によってはすべて返品してしまって、新刊書のために場所を開ける。おそらく多くの書店員は、そのように決断し行動する。それは、非常に合理的な「何を置くか?」の判断基準であるかに見える。
だが…。


20年前に、ぼくは次のように書いた。


 “「データの上で売れ行き良好と出た」即「その商品を平積みする」、あるいは「売れ行きが芳しくないというデータが出た」即「その商品を棚から外す」という行き方が常に正解と言い切れるか?「売れ行きがよい」→「これだけの冊数を打ったのだからもう要らない(読者に行き渡った)」、「売れ行きが悪い」→「まだこの本に出合うべき潜在読者がいるはずだ」と、それとはまったく逆の対応をすることも可能なのである。売れなかった商品をどうやって売るか、展示方法を工夫したり、ブックフェアを企画したり、むしろそちらの方に仕事の醍醐味というのはあるのではないか。ぼくの経験からいっても、あまり本の動かないジャンルの占有率を落とすのではなく、めげずに品揃えを充実させていけば、ある時期からその棚の売れ行きが急によくなるということもままある。そうやって巡り合った読者=顧客は、簡単には離れない。”(『書店人のしごと』三一書房 1991年 P156)


 本当は、売上データが「推奨」する行動は決して一律ではなく、むしろ常に真逆の結論を同時に指し示しているのだ。それゆえ、売上げデータは決定的な指針にはなり得ない筈だ。


 “そもそも売上げデータなるものが、書店人の行動(仕入・展示)を左右する唯一の拠りどころであるという見方には、甚だ疑問を感じる。売上データはあくまで過去のものであり、「ある商品がある期間に〇冊売れた」といっているに過ぎないのであって、「その商品がこれから〇冊売れる」と予想しているわけではまったくない。

 ……売上データを見て一喜一憂するのは「今」や「未来」の大変なロスであると言えはしまいか。つまるところ売上データは、「データ」といっても「思い出―タ」であり、それは往々にして書店人の自由な発想、行動を縛る「重いデータ」となってしまうのである。“(『書店人のしごと』P157)


 「思い出―タ」はいかに書店員が「過去」にとらわれがちであるかを、「重いデータ」はその「とらわれ」がいかに書店員が「未来」へと前進していくことを阻んでしまうかを、イメージしている。

同じことは、前段階である新刊仕入れ(=事前注文)においても言える。書店員は、著者の前著の売れ行きを、何よりも先ず調べる。勢い、かつて売れた本を書いた著者の新刊の仕入れ数が多くなる。
時代の要請は常に新しくなっていっているのに対して、「売れた」というデータに引き摺られる書店員の仕事が、そしてその結果である書店の風景が、なかなか変化していかない所以である。

 一方、新刊書について、書店員は書誌画面で何を見ているのか。店頭に到着したばかりだから、売上げデータは無い。多くの場合、他の支店の担当者がその本をどこに置いたか、特にそのジャンルの指導的な書店員がどの棚のコードが振ってあるかを確認するのである。

 書棚のどこに置いたらよいか、書名や著者からすぐに判断できない新刊書も多い。他の店でどこに置いてあるかを参考にしたくなるのも無理はない。だが、余りにそれに依存すると、自分で考える習慣がいつになっても身につかない。どこの店に行っても同じような本の並びとなり、変化もない。そもそも、多くが参照する指導的な書店員の分類が常に正しいという保証は、どこにも無い。

15年前に、ぼくは次のように書いた。


 “「棚」を容易にコピーできるようになった現在、一人の担当者が作り上げた「棚」が、そのまま他の支店に伝播し、見も知らない担当者に管理されるようになる。

 「個体発生」が「系統発生」を模倣している生命連鎖においては、ダーウィンのいう「適者生存」の淘汰原理が成り立ち常に全体のバランスのとれた世界が存続していくのかもしれない。しかし、その順序が逆になった世界においては(「系統発生」が「個体発生」を模倣する世界では)、模倣されるべき「個体」をつくり上げる個人の責任は、限りなく重くなる。その人の無知は、その人の知識とまったく同じように伝播してしまうし、恐ろしい「勘違い」も同様である。

 一度伝播してしまった後では、取り返しがつかない。人間は自らの誤りを悟り、そのことによって成長していくものであり、一分一秒が勉強の機会なのだ。自らがいる書店現場では、そうした勉強・成長を反映させることも可能だろう。しかしながら、そうした成長は、「過去」の「コピー」にまでは及んでいかない。“(『書店人のこころ』三一書房 1997年   P199)


 真に新しい本が書棚に収まった時、その本が既刊本との新たな関係を折りなし、既刊本の意味を変えてしまい、書棚全体がまったく新しい見え方をする、それが本来あるべき姿であると思う。その時、区切られ方自体が変化していくこともあろう。他の人が行なった、あるいはかつての自分が行なった分類の中に収めるだけであれば、書棚は成長も進化もしない。そして、分類コードは共通した内容やテーマを持つ本を一括りにし、その集合を名指すだけであるから、書店員の意識がある本をどのコードの棚に収めるかだけに終始してしまえば、その分類内部の並びはカオス状態になりがちである。ここにも「倉庫化」の大きな要因がある。言わば、書店員に「絵を描く」ことができず、遂には自分なりの「絵を描く」意欲も持てなくなってしまうのである。

 成長も進化もしない書棚は、「生きている」棚ではない。そうした書棚を見ても、何の感動も生まれないし、触発されることもない。インターネット書店のランキングやレコメンドの方がまだしも分かりやすいし、わざわざ書店に行かなくても自宅に居ながら本を手に入れることができる。そのように思う読者がどんどん増えてきたのがこの十年だとしたら、はっきりと、こう言うべきであろう。

「決して、アマゾンが出てきたから書店が衰退したのではない。書店が衰退したから、アマゾンが出てきたのである。」


 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)