○第114回(2012/3)

 3月はじめ、自宅マンションの階段で転んで、右手首を骨折した。翌日、接骨医で骨の位置を戻してもらってギブスを巻いた。痛みはほとんど感じなかったが、もちろん仕事には支障をきたした。PCがなければ、ほとんど何もできなかっただろう。ラヴェルのピアノ協奏曲を想いながら、左手だけでキーボードを叩いていた。

 思いもよらなかったのは、ここまで本を読むのが大変になるのか、ということだ。利き手が使えないからハードカバーは持てない。文庫、新書も開いた状態にしておくのが大変だ。ぼくたちは眼や脳だけでなく、手でも本を読んでいたのだと、改めて思い知った。

 骨折後に読み始めた本で、偶然次のような一節に遭遇した。


 「人間には、ほかの動物にはない「手」という「器官のなかの器官」があるために、ほかの動物たちよりも知性の活動がいっそう展開され、「人々の交際」、「家族や結びつき」、さらには「教説の伝授」、「学問の考案」、「市民の集会」、「建物の構築」までもが生じることになる。人間の文化は、知性や才知でなく、身体にもとづいて形成されるというわけである。」(『ジョルダーノ・ブルーノの哲学 生の多様性へ』 岡本源太 月曜社 2012 P31)

 まさに身に沁みて感じるところがあった。

 読み進めると、次のような件に行き着いた。

 「たしかに感情は、人間をものごとに繋ぎ止め、その意味で受動的な状況に置く。けれども受動性とは、ブルーノによるなら、「されることができる」という一つの「力能」である。はたらきを受け入れる力能をもっていなければ、受動はありえない。それどころか、なにかが能動的だと言えるのは、そのはたらきを受け入れる受動的なものがあるとき、そのときのみである。能動は、受動がなければ成立しえない。「なし、産出し、創造する力能があるところ、なされ、産出され、創造される力能がつねにある」」(同P36)

 読書という行為が、まさにそうだ。書店の仕事も然り。否、すべての仕事に言えるのだろう、と思う。はたらきを受け入れる力能をもっていなければ、受動はありえない。そして能動的であり得るのは、そのはたらきを受け入れる受動的なものがあるときのみである。

 哀れな右手の様子を見て、そしてこの状態でいかに本を読むのが大変かというボヤキを聞いて、「いよいよ電子書籍に宗旨替えですね?」という人もいる。画面に指を滑らせてページをめくることのできる電子書籍の方が楽だろう、というわけだ。

 だが、ぼくはそうは思わなかった。本は「身体で読む」のだということを痛感し、むしろそのことを大切にしたいと思った。

 そうして、若き書き手の刺激的な新著に導かれてジョルダーノ・ブルーノの哲学に魅せられながら、何よりも本を読むために、身体を大事にしようと思ったのである。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)